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石村山口神社
A:石寸山口神社--奈良県桜井市谷
B:山口神社--奈良県桜井市高田
祭神--大山祇神
                                                                    2014.07.28参詣

延喜式神名帳に、『大和国城上郡 石村山口神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、今、上記2社が論社となっている。
 社名を“石寸山口”とする史料も多く、“石村”・“石寸”ともに“イハレ”と読む。
 なお、延喜式では城上郡に属しているが、平安末期頃に十市郡に編入されたため、諸資料には十市郡所属とある。

※由緒
 石寸山口神社の鳥居左に掲げる案内には、
  「御祭神 大山祇神
  大山祇神は伊弉冉尊の生み給うた山の神にて、磐余の大地を守護せらる山の神・水の神として御祭祀になり、上古より朝野の崇敬厚く、中にも大和六山口神社の一社に数えられ、延喜式内の大社に列せられた
 近世以降、木材業界繁栄の守護神として、その崇敬を集めている」
とあるが、創建由緒・年代等の記載はない。

 ここでいう大和六山口神社とは、延喜式・祈念祭祝詞(トシゴヒノマツリノノリト)にみえる6社で、
  「山口に鎮まります皇神等の前に申すことは、飛鳥・石寸(磐余)・忍坂・長谷・畝火・耳成と御名は申してお祭り申し上げます所以は、遠近の山々に生育している大小の木材を、本と末とを切って中程を持ち来しまして、それを材として皇御孫命の瑞々しい宮殿を造営し参らせて、云々」
とあるように、皇居舎殿造営のための用材を伐り出す山に坐す神を祀る神社をいい、当社は皇室ご用材が生育する石寸山の山霊を祀る神社で、加えて、山の神は水の神でもあることから、大和国在の水分神社(ミクマリ)の一に数えられ、石寸水分神社(イハレミクマリ)とも称せられた。
 
 当社に係わる古記録として
 ・天平2年(730)大倭国正税帳--石村山口 神戸稲捌伯壹束 租壹拾田場云々
 ・大同元年牒(806、新抄格勅府抄所載)--石村神二戸
 ・清和天皇貞観元年(859)--大和国従五位下・・・石寸山口神・・・正五位下に叙す
などがあることから、8世記にあったことは確かといえる。

 他にも、延喜式(927)では大社に列せられ、同四時祭では案上官弊を奉られ、祈年祭では他の山口神と共に馬一匹が加えられ、祈雨祭にも預かったとあるが、その後の沿革は不詳で、明治の制ではA社のみが村社に列し、B社は神社として扱われずに現在に至るという(式内社調査報告・1982)

◎論社について
 当社には論社として上記2社があり、今、A社を以て式内社としているが、どちらが式内社なのかははっきりしない。

 当社本来の鎮座地について、管見した資料で最古の「和州五郡神社神名帳大略註解」(1446・室町後期、略称:和州五郡神社記)には
 「石寸水分神社  
 帳(神名帳)に云、十市郡石寸山口坐神社一座、 池上郷石寸山裂谷に在り、石寸川の上と為す。
 愚僕考案するに、石寸山坐神は水分御子守神にして大和国八部水分社の内なり。
 又案ずるに、大和国山川名所記に曰く、石寸山亦石村山と云う。此に拠りて之を見るに、石寸山は多武峯西に並び中香山の南東に存す。
 斉明天皇紀に載せる所の、天皇水工(ミズタクミ)をして渠(溝)を穿ち、香久山の西より石上山伊波加美と云うに至らしむとは是也。此の石上山は山辺郡石上山伊曽乃加美と云うと同字異訓也。
 又案ずるに、石寸山の谷水川は倉橋山多武峯に続く西山の流水川と落ち合い、城下郡を歴て大和河に入る也。件の大川を名づけて石寸川と云ひ亦八釣川と云う、或は多武峯川と云う」(漢文意訳)
とある。

 これによると、当社は石寸川(現米川)の上流部にあって、多武峯の西方にあたるらしいが、その位置は特定できない。
(斉明天皇紀云々とは、書紀・斉明2年条に「天皇は工事を好まれ、水工に溝を掘らせ、香久山の西から石上山にまで至った」とあるのを指す。ここでいう石上山は一般に天理の石上-イソノカミ-とされるが、そうではなく当地・石寸だと主張したもの)

 なお、当社に係わりが強い石寸山(イハレヤマ)について、磯城郡誌(1915・大正4)
  「石根又は東光山の名あり。今専ら桜井の南、谷・河西の間にある小丘を石寸山と称する(A社の南にある桜井公園付近か)
   元、石寸山は多武峯の西に並び、桜井・安倍二町村の間に連互せる一帯の名称なるべし」
と、多武峯の西から北にかけての一帯を指すとはいうものの位置は特定していない。

 江戸時代になると、大和志(1734・江戸中期)
  「長門邑に在り、邑は桜井・安倍の二村に属す。今雙槻神社(ナミツキ)と称す」
として、A社(石寸山口坐神社)を以て式内社としている(但し、その比定根拠不明)
 これによると、江戸時代、既にA社があったことは確かといえるが(長門邑は現谷町と安倍町との境界辺りにあったらしい)、その創建が何時頃かは不明。
 なお、雙槻神社とは、用明天皇の池邊雙槻宮(イケベナミツキノミヤ)が当地にあったとする説によるものだが、平成23年、橿原市東部の池尻町(桜井市西部の池之内に接する)で磐余池の堰堤とおぼしき遺構が発見され、池邊雙槻宮が当地(桜井市谷付近)にあったとする説に疑問が生じている。

 これに対して、大正初期の大和志料(1914・大正3)・磯城郡誌(1915)は、上記和州五郡神社記の記述に続けて、
  「当社は本と石寸山の咽口に於て山霊を祀りたるものなるも、其の社は正に石寸川の水上にありて水利に関係を有するを以て、一に之を石寸水分社と称せられ、祈年の班弊には他の水神の例に準じ、殊に馬一匹を加えられたるものなり。
 然るに大和志に長門邑に在り云々と云ひ、桜井町大字谷の村社を以て式内山口社と称するも、志の云う所果たして何に拠りしかを知らず」
として、A社を式内社とすることに疑問を呈している。

 これらを承けて、式内社調査報告は、大略
 ・和州五郡神社記の記述によると、当社は多武峯山塊の西側で石寸川・現米川上流に沿った所にあったとみられる
 ・しかし、今、式内社として論社となっている2社共に、この記述にあう所には位置していない
 ・ただ、石寸山が多武峯山塊一帯を指すと考えることが可能ならば、B社は多武峯山塊の入口に位置し、山口神社として相応しいことから、B社を指しているのではないかとも考えられる
 ・しかし、B社の位置が米川の東約1kmほどと離れているため、和州五郡神社記がB社を指しているとは断言できない
との記述に続けて
 ・論社2社共に、その位置は古代のイハレの中に考えることは可能であり
 ・ことにA社は用明天皇の磐余雙槻宮の地と考えられており、その南の山はコモ山というが、また磐余山とも称されており、
 ・A社を式内社と考えても良いように思われるが、断定はできない
 ・イハレの地は桜井市中部から橿原市東部にわたる地域で、多武峯山塊も含むと考えられることから
 ・B社を式内社と考える余地もあり、
 ・今日では、いづれかを式内社と断ずることは困難と云わざるを得ない
という。

 今、桜井市谷に存するA社は神社として認められているが(旧社格は村社)、同高田にあるB社は神社としては取り扱われておらず、市販地図・ネット地図にも神社の表示はない。

※祭神
  大山祇神(オオヤマツミ)

 大山祇命とは山の神で、古事記のイザナギ・イザナミによる神生み段に
  「次に山の神、名は大山津見神(オオヤマツミ)を生み・・・」
とあり、書紀・5段一書7では、イザナギが妻・イザナミ逝去の原因となった火の神・カグツチを三段に斬ったとき
  「その一つは大山祇神となった」
とあり山の神とは記していないが、同段一書6に
  「イザナギ・イザナミが生んだ山の神たちを山祇という」
とあり、大山祇神も山の神たちの中の一柱ととれる。

【石寸山口坐神社】(桜井市谷、A社)
 JR桜井線・桜井駅(北側に近鉄大阪線・桜井駅併設)の南約600m、駅南から県道154号線を南下、国道165号線・若桜神社前を過ぎた所を右折(西へ、住宅の間で目印となるものはないが、角の東側にバックミラー2基あり)、道なりに(次第に狭くなり、神社付近は一車線の山道)進んで菰池(小さな溜まり水といった池)に至り、池を右に回り込んだ北側の森の中に鎮座する。

※社殿等
 狭い道路脇に鳥居が立ち、急な石段を登った上に拝殿(切妻造・丹塗銅板葺・壁なし)が、その奥、低い石壇上に縦格子付きの中門があり、左右に伸びる白壁の中に本殿(春日造・銅板葺)が南面して鎮座する。
 境内に末社等はない。

 当社付近全域が薄暗い森となっているため全景は定かでないが、道路から見た感じでは、前方後円墳(あるいは後方墳)の前方部に石段と拝殿が、後円部のかかりに本殿があるように見える。ただ、当社を古墳上にあるとする資料はない。

 
菰 池
 
石寸山口坐神社・鳥居
 
同・社殿側面
(道路脇に鳥居、石段上に拝殿、その後が本殿)
 
同・拝殿
 
同・中門
 
同・本殿


【山口神社】(桜井市高田、B社)
 JR桜井駅の南約2km前後、駅南を東西に通る国道165号線を東へ、薬師町交差点を右(南)へ折れて県道37号線を南下、浅古交差点を過ぎて緩く右へカーブする屈曲部の終り近くの右手に見える桜井簡易郵便局の角を右折(西へ)、道なりに進み池(池名不明)の角を左折(南へ、北側に愛宕山との石碑あり)して高田の集落内を進み、舗装道路の突き当たり(道路は左に折れている)右側の山道を登り、山と畑の間の地道を進むと、すぐに左に折れる細い山道があり、すぐ先に鉄製の手摺りが上まで伸びている(地図の記載・案内表示等なく、たまたまお会いした老婦人に教わったが、婦人は山口神社と呼んでいた)

※社殿等
 手摺りに沿って山道を登った左に石造の鳥居が立つが、社殿はなく、台座の上に金比羅大権現と刻した自然石が立ち、傍らに石灯籠1基が立っている。

 当社本来の祭神は山の神・大山祇命のはずで、山の神は水の神でもあることから、水神でもある金比羅神を勧請したのであろうが、詳細不明。


山口社へ至る山道
(手前の舗装道路は、
突き当たって左へ折れている)
 
 
同左
(右に手摺りあり、
上に鳥居が見える)
 
山口神社・鳥居
 
同・神マツリの場か
 
同・金比羅大権現石碑

 鳥居の反対側、高くなった奥に石灯籠一基が立ち、その右に平石をきれいに積み上げた一画がある。

   

 これが何なのか不明だが、左に立つ「亥の子祭り」(イノコマツリ)の案内板には
  「山口神社の山の神に捧げたものを奪いあい暴れまわる子供の祭り。毎年12月の第一日曜に行われる。 
 集落中の15歳までの男の子のある家が輪番で頭屋を営む。大頭屋とよばれる当屋で配膳について、すぐ膳をひっくりかえしたり、神棚の燈明を消したりした後に、真夜中に山口神社へ行き、引きつぎを行う。
 イノコアラシとの別称で各地にみられる行事であるが、大和では珍しがられる子供神事である。
 今は、集落の集荷場で行事を行っている」
とある。

 亥の子(又は亥の子祭)とは、旧暦10月の亥の日に行われた一種の収穫感謝祭で、豊穣を見守った田の神が、この日に田からあがって山に帰って山の神になるともいう(関東では十日夜-トオカンヤ-ともいう)
 一般には、田の神へ、その年の収穫を感謝するとともに来年の豊穣を祈願して、子供達が、縄紐を巻いた石で家々の玄関先や庭あるいは田畑を突いて回り、家々では亥の子餅やお菓子などを用意して子供達にふるまったという。
 当地の亥の子祭は暴れ祭で、一般の亥の子とは異なっているようだが、その根底は同じであろう。

 ネット資料によれば、今も亥の子祭りは行われているようで、その案内記のなかに、積まれた平石の周りに4本の棒を立て注連縄を張った写真がある(今、平石の前に棒2本が立っていた)
 これをみれば、本来は、この地が山の神を祀る神マツリの場であって、憶測すれば、平石を積んだ区画は神マツリの都度設けられる神籬(ヒモロギ)の跡で、鳥居だけあって社殿のない古い祭祀形態を残しているのかもしれない

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