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平群石床神社
付:石床神社旧社地
奈良県生駒郡平群町越木塚
祭神--剣刃石床別命
配祀--太玉命・素戔鳴命

                                                              2015.02.15参詣

 延喜式神名帳に、『大和国平群郡 平群石床神社 大 月次新嘗』とあめ式内社。社名は“ヘグリ(ノ)イワトコ”と読む。

 当社は、元々現在地の南約300mにあって、鳥居のみで社殿を有しない古代祭祀形態(磐座信仰)をそのまま残す神社だったが、大正末期に現在地に社殿等を設けて遷座した神社で、旧社地は旧態のまま残されている。

※由緒

【石床神社旧社地】
   平群町越木塚字石床783--右絵地図、下の赤丸(上赤丸-現石床神社)

 現石床神社の南約300m。
 神社への石段下の道を南に進み、越木塚集落を過ぎた辺りのV字屈曲点をすぎた少し先にある細い道を右折して南へ進んだ右手(西側)、低い石垣の上に赤い鳥居が立つのがみえる。


 

 旧社地社頭にに立つ案内板には、
  「越木塚集落の南東部、伊文字川流域を見おろす位置にあり、本殿や拝殿は当初からなく、鳥居と社務所があっただけで、崖面に露出した高さ約6m、幅10数mの巨大な『陰石』を御神体としている。
 延喜式に記載のある式内社で、祭神は剣刃石床別命(ケンジンイワトコワケノミコト)、貞観元年(859)には従五位上を授けられている。
 地域での磐座(陰石)信仰が窺え、古い信仰形態を伝える貴重な神社である。
 大正13年(1924)に集落内の素戔鳴神社[現石床神社]に合祀されている。
 この付近には花崗岩の巨石が多数露頭し、鳥土塚や西宮古墳に運ばれており、古墳~飛鳥時代の石材産地である」

 また、現平群石床神社社頭の案内には、
 「平群石床神社は醍醐天皇の御世紀元1587年(AD927)延喜式神名帳に記された式内社にして、諸祭には畏くも朝廷より奉幣の御事あり。
 御創立、舒明天皇の3年即ち紀元1291(AD631)の歳、肇国創業の御功神饒速日命を祀らせ給いしに創る。
 高さ九米巾十八米の巨石を御神体とする古代の神社形式を保ち、この巌下より湧出する清水は万病の薬となると和名抄に載せられたり」
とある。

 また、当社に関する古資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)
   越木塚村に在り、巌上祠(イワガミノホコラ)と称す、傍に巨石有り、石床(イワトコ)と名付く
 ・神名帳考証(1813・江戸後期)
   越木塚村に在り、巌上祠と云ふ。傍に巨石有り、石床と名付く。
   按ずるに天武紀5年に三宅連石床(ミヤケノムラジイシトコ)有り(天武紀元年6月25日条に「伊勢の鈴鹿に着かれた天武一行を、伊勢国司・三宅連石床等が出迎えた」とあるが、この人物と当社との関係は不明)
 ・神社覈録(1870・明治3)
   祭神饒速日尊、越木塚村に在す、今巌上社と称す。傍に巨石あり、石床と名づく、
   惣国風土記に云、石床神社、圭田(ケイデン・神戸か)八十二束三字田、祭る所饒速日尊也、
   舒明天皇3年辛卯3月始て圭田を奉り神礼歳祭を行ふ(舒明紀には記載なし)
   本草和名に云、石牀、一名乳床、一名逆石、鍾乳中より出。按るに、往昔は此ち石床の出たる所にて、其霊を祭れる社なるべし。備中国に鍾乳穴神社あるをも考へ合すべし
 ・神祇志料(1871・明治4)
   今越木塚村に巌上祠あり、傍の一大石を石床と云ふ、蓋し是也。
 ・大和志料(1914・大正3)
   明治村大字甑塚にあり、祭神は日本総国風土記に平群石床神社圭田八十二束三毛田、所祭饒速日命也、舒明天皇3年辛卯3月始て圭田を奉り神礼歳祭を行ふというも信じ難し。
   志に在越木塚村曰巌上祠々傍有巨石曰石床とあり、石床は一に乳床と称し鍾乳中より出づるものなりと云ふ。然らば古へ此巨石に乳床を産出するありて、当時其の処を祭り、直ちに社名となせるものなるべし。
などがある。

 これらは、いずれも現鎮座地へ遷座する以前の旧社地についての記述で、これらを勘案すれば、当社は古来から社殿のない神社(巖上祠)で、旧社地境内にある巨石を神が降臨する御神体(磐座)として崇拝していたとなる。

 当社の創建時期は不詳。
 日本国総国風土記(刊行時期不明)には
  「舒明天皇3年辛卯(631)3月始めて圭田を奉りて、神礼歳祭を行う」
とあるが(上記神社覈録も同じ)、書紀・舒明3年条にそれらしき記述はなく、大和志料が
  「総国風土記に云う舒明3年云々は信じ難し」
というように、地元に残る口承とみるべきであろう。

 ただ、三代実録・貞観元年(859)条に、
  「正月27日、大和国従五位下平群石床神、従五位上を授け奉る」
とあることから、9世紀中葉にあったのは確かで、その祭祀形態は磐座前に神籬を設けてのそれであったかと思われるが、詳細は不明。

【平群石床神社】
   平群町越木塚字井ノ上734--上掲絵地図・上赤丸

 社頭に掲げる案内は旧社地にかかわるもので、現神社への言及はないが、奈良県史には、
  ・明治44年(1911)9月27日境外摂社として越木塚小字井戸上の素戔鳴神社と七社神社を当社に合併、
  ・大正9年(1920)2月23日付許可により、境外摂社所在の現在地に本殿と拝殿を設け、
  ・大正13年(1924)10月24日に旧鎮座地から遷座したと届け出ている。
  ・今の社地は越木塚集落の上手の小丘陵上で、中央本殿に主神を、左右2社に太玉命と素戔鳴命を祀る。
とあり、また当社参道に掲げる案内(上記案内とは別)には、
  ・石床神社は、大正13年(1924)に旧社地より消渇神社境内奥の現在地に合祀された
とある。

 これによれば、現在の石床神社は明治末頃に社殿造営・遷座の動きがはじまり、大正に入って境外摂社の所在地に社殿等を造営して、大正13年に遷座したことになる。

※祭神
 当社祭神については
  剣刃石床別命(ケンジンイワトコワケ)--旧社地社頭の案内・奈良県史
  饒速日命(ニギハヤヒ)--現当社社頭の案内
の2説がある。

 剣刃石床別命の出自は不明。多分に、旧社地にある磐座に顕現する神霊を人格化したものであろう。ただ、剣刃(ケンジン)を冠する意味は不明。

 現当社社頭の案内および古資料の一部には
  「肇国創業の御功神・饒速日命を祀らせたまひ・・・」
とあるが、当社にニギハヤヒを祀る由緒は不明。
 多分に、ニギハヤヒが天磐船に乗って降臨したという伝承から、旧社地の磐座を天磐船に充ててニギハヤヒとしたのだろうが、これは採れない。

 なお、当社祭神を俗に「甑明神」と称し、旧社地の磐座が米を蒸す蒸籠(セイロ・甑)に似ているからというが、これはこじつけで、鎮座地・越木村の地名からコシキ明神と称し“甑”の字を充てたものであろう。

※社殿等
【石床神社旧社地】
 旧社地の状態について、奈良県史(1979)には
 「式内大社の当社の旧鎮座地は越木塚字石床783で、越木塚集落下方の断崖に高さ6m横巾10数mの巨石があり、古来この宮の御神体とされてきた。
 元々神殿も拝殿もなかった神社で、今も雑草の茂みの中に数段の石段と一基の石灯籠と木製鳥居の台石のみ残るに過ぎない」
とある。

 今、ほぼ南北に走る道の西側、田圃を隔てた先の樹木に覆われた小丘の裾部に横長の石垣と朱塗りの鳥居が見え、道から旧社地までは南から迂回する小路がある。

 石垣中央右よりの石段を登った正面に鳥居が立ち、その背後の低い石垣に上に、鬱蒼たる樹木に覆われて花崗岩の巨岩が横たわり、これが古代祭祀の場としての磐座である。

 磐座は左右二つの巨岩からなり、右の岩が大きく左のそれは小さい。
 この二つの巨岩が接する処が当磐座の中心のようで、その真ん前に立つ朱塗りの鳥居(近年になっての建立らしい)をくぐると石垣上への石段があり、その左右に小さな石灯籠が立っている(右の一基が古く、資料には「萬冶2年-1659奉献」とあるが判読不能)

 また、この二つの巨岩が相接する面の下部の隙間は小さな洞窟状となり、その上には細長い岩が垂れるように挟まっている(下写真参照)
 これは陰陽を表すものであって、その交わりによって万物が生成することを象徴するとすれば、古代の人々は、これに向かって子孫多産・五穀豊穣を祈ったのかもしれない。


旧社地・全景 
 
同・鳥居

磐座全景 

磐座・左部分 

接続部下部

磐座・右部分 


【石床神社】
 近鉄生駒線・竜田川駅の西北西約1km。駅から線路西側の道を北上、川を渡ってすぐの角(右側に地蔵堂あり)を左(西)へ、道なりに進み、池の南から西へ回り込み、山裾の道とのT字路を左(案内表示あり)に曲がってすぐ右手に境内への石段がある(石段下の反対側に案内表示あり)
 ただ現地の道路は輻輳しているため、地図持参が必要。

 石段を登った上が境内で、鳥居を入って参道を進んで先に拝殿(入母屋造・瓦葺)が建ち、その奥、覆屋中の中央に本殿(一間社流造・桧皮葺)が、その左右に末社2宇(春日造・桧皮葺)がいずれも南面して建つが、拝殿横の壁越しに覗けるだけでよく見えない。

 
石床神社・入口
(右上--越木塚集会所)

同・鳥居 

同・拝殿 
 
同・覆屋と社殿3宇
 
同・本殿 
 ◎末社
 本殿の左右にある末社の社名等は不明だが、右のそれが大きく、左はやや小さい。
 奈良県史には
 「中央本殿に主神を、左右2社に太玉命と素戔鳴命を祀る」
とあり、資料(式内社調査報告・1982)には
 「向かって右(東)に太玉命、左(西)に素戔鳴命を祀っている」
とある。

 一見、左右逆とみえるが、奈良県史の左右が本殿側からのそれとすれば同じとなる。
 ただ、石床神社の境外摂社として当地にあった素戔鳴社が、新来とおぼしき太玉社より小さいというのが気にかかる。左右逆かもしれない。

左末社

右末社 

 ・素戔鳴社
   曾て当地にあったという境外摂社・素戔鳴神社の後身と思われるが、何故素戔鳴が当地に祀られていたのかは不明。
   奈良県史によれば、素戔鳴社が所蔵する御湯窯に「牛頭天王宮元文三戊午年(1738)八月吉日」との刻銘があるというから、江戸時代の流行神であった防疫神・牛頭天王を祀る神社であったものが、明治初頭の神仏分離政策によって素戔鳴社と改称したのかもしれない。
 ・太玉社
   祭神・太玉命とは忌部氏の遠祖だが、当地と忌部氏との関係はみえず、それが当社に祀られた由緒・時期等は不明。


※境内社
【消渇神社】(ショウカチ・ショウカツ、渇とも記す)
 現石床神社参道に掲げる案内には、
 「消渇神社は、本来は地域の産土神である正勝(マサカツ)の神として祀られていた。
 室町時代に、旅の僧信海(シンカイ)が腰の病を治してもらってから下半身の病気にご利益があるとして村人に信仰されるようになる。
 江戸時代には社名から女性の病気や性病に効果があるとして京都祇園からの参拝者もあり、参道に茶店が出るほど賑わったという」
とあり、
 式内社調査報告は
 「合祀前の現在地にあった素戔鳴神社の末社であって、陽石陰石の土団子を作ってお供えする。婦人の守護神として信仰をあつめている」
とある。

 消渇とは、喉が渇き尿が出なくなる病気で、古くは淋病を指すという(広辞苑)
 社頭の案内に、「石床神社の分霊を祀る」とあることから、旧社地の磐座の割れ目を女陰と見、これに詣れば下の病が治るとの信仰が生まれたのであろう。

 また、室町時代、信海という旅の僧が修行中に病気になり、川岸の土で団子を作り一心に祈ると、観音様が現れ病気を治してくれたとも、観音様から神社でお祀りするようにとの託宣があり、土の団子を12箇作ってお祈りすれば、下の病気に効果があるともいう。

 当社前の石段を登ったすぐを左に入った処に朱塗りの一の鳥居が立ち、すぐ先の石段(途中で90度右に折れ、二の鳥居が立つ)を登った上が境内で、石床神社より高い場所にある。
 なお、石床神社拝殿左にも当社へ至る苔むした石段がある。

 境内の奥に、東面して拝殿(切妻造平入・割拝殿・瓦葺)が、その裏、板塀に囲まれた中に朱塗りの本殿(一間社流造・瓦葺)が建つ。
 拝殿はやや古びているが、本殿の朱塗りが綺麗なことからみると、今も信仰は続いているとみえる。

 
消渇神社・一の鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿

 当社には、上記のように土の団子を奉納して祈願する風習があり、一の鳥居脇の小屋(土団子製作場所)脇の案内には、
 「消渇神社へ祈願のときは、土の団子12個を供え、満願のときは、米の団子12個を供えてください」
とある。
 拝殿内には、土の団子12個を盛った小さな三方12個と、米の団子12個を盛った三宝6個が供えられていたが、土団子が干上がってみえることから近頃のものではないらしい。
 


【七社神社】
 消渇神社境内の左手、一段と高くなった平場に鎮座するが、当社にかかわる資料はなく、管見した唯一の資料・式内社調査報告にも、
 「曾て七社山の祭神であったのを、現在の土塀に囲まれた広場に遷した」
とあるのみで、その由緒・祭神等の詳細は不明。

 石段上の広場の右奥、竹藪の端にひっそりと春日造の社殿が建つのみで、周囲の土塀は半壊状態となっている。


七社神社への石段 
 
七社神社社殿
 
同 左

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