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伊射奈岐神社
天理市柳本町天神山
祭神−−伊奘諾命・伊奘冉命
                                                        2011.01.04参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 伊射奈岐神社』とある式内社。

 奈良盆地東部を南北に走る国道169号線、柳本交差点のすぐ南、道路脇の天神山古墳に接した西側に鎮座する。道路をはさんだ東に伝崇神天皇陵(行燈山古墳)がある。

 道路西側の鳥居を入ると、古墳前方部に沿う形で参道が西へ延び、その先に社殿が、天神山古墳後円部を背にして西面して建つ。社殿正面、西の参道先に大鳥居が立つ

 天神山古墳は、山辺古墳群に属する前方後円墳(全長113m・後円部径55m・高7m前方部幅50m)で、行燈山古墳(伝崇神天皇陵)の陪塚的古墳という。
 近年の国道改修工事により東側半分が削られ、今、道路沿いに西半分が残っている。埋葬施設は竪穴式石室で、長大なコウヤマキ製の割竹形木棺(片)かあり、4世紀後半頃の築造と推定されている。

天神山古墳/復元図

※創建由緒
 国道脇に掲げる由緒によれば、
 「大和平野の東部、天神山古墳を境内として鎮まるイザナギ・イザナミの由緒は、社記が天文年間(1532--55)に焼失したため創建年代・規模等は詳しくないが、崇神天皇の御代に崇祭されたものである。・・・
 伊勢神宮とほとんど同時期に創建された最も古い神社であり、日本武尊(ヤマトタケル)が東国征伐の出陣に際して当神社に戦勝祈願をして伊勢へ出立したことも、当初から大和朝廷の崇敬が厚かったことを物語っている」(大意)
とあるが、これは伝承と解すべきであろう。
 しかし、清和天皇・貞観元年(859)正月27日条に記す諸神への神階昇叙記録のなかに、“伊射奈岐神、従五位下から従五位上へ昇叙”とあり(三代実録)、9世紀以前から実在したことは確かといえる。

 当社は、創建当初から現在地にあったのではなく、由緒に
 「鎌倉から室町にかけての兵乱により衰退したが、寛永18年(1641・江戸前期)に2代目柳本藩主が3町ほど東(柳本町山田北側の台地)からこの地に移され本殿を造営・・・」(大意)
とあるように、古くは、現在地の東約500m、伝崇神陵後円部に接する櫛山古墳の北側にある地尊池の西側(大字山田小字ノゾキ)にあったという。柳本古墳群のまっただ中にあったことになる。
 現在地への遷座時期について、由緒は江戸前期というが、室町中期頃には現在地に移されていたともいわれ、はっきりしない。

 当社は、今、伊射奈岐神社と称しているが、大乗院寺社雑事記(室町後期の興福寺・春日大社関係の雑記録)・後奈良天皇綸旨(1555)などの古文書、あるいは境内の石燈籠などには、“天神”・“楊本(ヤナギモト)ノ天満”・“楊本天満宮”・“天満大自在天神”・“天満宮”などとあって、伊射奈岐神社の社名はない。
 現在地への遷座以前はいざ知らず、中・近世の頃には天満宮と称していたが、維新後の明治6年(1873)、村社に格付けされたとき伊射奈岐神社と称するようになったのではないか、という。(以上、日本の神々4所載・伊射奈岐神社・2000)

※祭神
 社頭由緒では、イザナギ・イザナミ(ギ・ミ双神)となっているが、別伝としてイザナギと菅原道真を祀るともいう(伊射奈岐神社・2000、ネット資料)。菅原道真とするのは、当社が近世まで天満宮と称していたからであって、本来の祭神ではない。

 記紀におけるギ・ミ双神は、国生み・神生みの神であり、皇祖神・アマテラスの親神という重要な神だが、
 ・古代の朝廷ではギ・ミ双神を崇敬したという形跡はなく(延喜式・宮中神36座の中には見えない)、天皇家との係わりも見えない。また、祝詞などでも直接的な奉斎対象にはなっていない。
 ・記紀・人皇時代の記述で、イザナギの名が現れるのは履中紀(淡路島で狩りをする天皇の従者の文身が臭いとして祟り、獲物を与えなかった)と允恭紀(深海の真珠を採って奉らないと獲物を与えないと祟った。ただ島の神とあってイザナギとは出ていない)だが、そこでのイザナギは、国生みの神でありアマテラスの親神というより、恐ろしい祟り神であって、淡路島に坐す島の神(地主神)という色彩が強い。
 ・延喜式内社の中でイザナギあるいはイザナミを祀る神社は、大和国(当社を含めて3社)・摂津国・伊勢国・若狭国・淡路国・阿波国の8社のみで(内、ギ・ミ双神を祀るのは2社)、その鎮座地も、ほとんどが瀬戸内海東部と若狭湾沿岸に集中している(伊勢の社は内宮の別宮で別格)
 ・その中で、淡路国津名郡の“淡路伊射奈伎神社”のみが神階・正一位の名神大社で、他は五位上・同下といった低い神階を授与された小社(大社もある)と社格が低い(当社もその一)
といった特徴がある。
 ギ・ミ双神、特にイザナギの原姿は、淡路を中心とした海人集団に崇敬された“島の神”であって、応神・仁徳以降、朝廷と海人集団との関係が密接になるにつれて、海人間に伝わる島造り伝承が記紀の国生み説話に転化するなど、皇統譜のなかに取り込まれたのではないかという(古代王権の祭祀と神話・1970)

 当社のギ・ミ双神が、どのような神として祀られたのかは不明だが、旧鎮座地が柳本古墳群の中にあることから、これらの古墳を築造した氏族(大王家も含む)がその祖神を祀ったのが原姿であって、始めからギ・ミ双神を祀っていたかどうかは不詳。
 また、中・近世のころ天満宮と呼ばれたのは、当時の流行によるものだろうが、天皇家の祖神という雲の上の神より、身近に慣れ親しんだ天神さんを求めた庶民信仰の表れであろう。

※社殿等
 境内西側の正面鳥居を入ると、正面に拝殿(入母屋造・向拝付)が、その裏、透塀に囲まれた中に春日造の本殿が建つ。

伊射奈岐神社/鳥居(西側)
伊射奈岐神社・鳥居(西側)
伊射奈岐神社/拝殿
同・拝殿
伊射奈岐神社/本殿
同・本殿

◎末社
 社殿の右側に、春日社・若宮社・秋葉社を合祀した小祠が、右手奥に稲荷社が建つ。
 社殿左側に、厳島社・大山咋社・八坂社を合祀した小祠が建ち、境内左手に建勲神社の拝殿・本殿(小祠)と琴平神社が並び建つ。いずれも社名のみで鎮座由緒など不明。
 なお建勲神社(タケイサオ)とは、明治3年(1870)、明治天皇の勅により山形県天童市に織田信長・信忠を祭神として創祀された神社(旧称・建織田社-タケシオリタ)で、京都・船岡山にも鎮座するという。

末社/厳島・大山咋・八坂合祀社
厳島・大山咋・八坂合祀社
末社/春日・若宮・秋葉合祀社
春日・若宮・秋葉合祀社
末社/建勲社
建勲社
末社/琴平社
琴平社

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