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天香山坐櫛眞命神社
奈良県橿原市南浦町
A:天香山神社
祭神--櫛眞命
B:国常立神社
祭神--国常立命
                                                                  2013.07.22参詣

 延喜式神名帳に、『大和国十市郡 天香山坐櫛眞命神社(元名大麻等乃知神) 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“アメノカグヤマニマス クシマノミコト(又はクシマチノミコト)”と読む。

 天香久山の北側山麓に鎮座する天香山神社(アメノカグヤマ・上記A)を以て式内社とする説が有力だが、山頂に鎮座する国常立神社(クニノトコタチ・上記B)とする説もあり、論社となっている。
 また、天香山神社を式内・畝尾坐健土安神社(ウネオニマスタケハニヤス)に比定する説もあり(別稿・畝尾坐健土安神社参照)、天香久山周辺にある神社の式内社比定には混乱がある。

 近鉄橿原線・畝傍御陵前駅の東約2kmにある天香久山(H=152m)の北側山麓に天香山神社(上記A)が、同山頂に国常立神社(上記B)が鎮座する。

※由緒
 境内に創建由緒・時代などに関する案内はないが、当社が鎮座する天香久山にかかわって、記紀には次の説話(神話)がある。
 ・古事記(天岩屋戸段)
   (アマテラスが天岩屋戸に籠もったとき)天香山の雄鹿の肩骨を抜き取り、天香山の波波迦(ハハカ)の樹皮を以て鹿の骨を灼いて占い、神意を伺わせ、また、天香山の枝葉の繁った榊を根ごと掘り起こして来て、云々(大意)
 ・書紀(天岩屋段)
   アメノコヤネ命とフトタマ命が、天香山の榊を掘りとり、枝に珠や鏡・幣帛などを掛けて、皆で祈祷した。・・・またアメノウズメ命が、天香山の榊を髪飾りとして・・・神懸かりとなったように喋り踊った(大意)
 ・書紀(神武即位前紀)
   多くの敵に大和への道を阻まれた神武が、天神(アマツカミ)の夢告によって、ひそかに椎根津彦(シイネツヒコ)・弟猾(オトウカシ)を遣わして天香山の社の土(埴土)を取ってこさせ、その土で多くの平瓮(ヒラカ・祭祀用土器)を作り天神地祇を祀ることで、賊を平定することができた(大意)
 ・書紀(崇神紀10年条)
   反乱を企てた武埴安彦の妻・吾田媛(アタヒメ)がこっそりやってきて、天香山の土をとって「是は倭国の物実(モノシロ)なり」と助言して帰った(大意)

 これらからみると、天香山とは天下の大事に際して登場する聖山で、その霊力をもつ物実(モノシロ)としての土を以て祭祀をおこない、あるいは卜占することによって、事の成就を占い且つ祈った山ということができる。

 そのような天香山がもつ霊力を神格化して祀ったのが当社であって、大和志料(1944・昭和初期)
  「古代人は、天変地妖から人事の吉凶禍福に至るまで、人智の及ばないものに遭遇したとき、それは全て鬼神のなす態(ワザ)として畏れ、卜占によってその神意及び対処法を知ろうとした。
 即ち、国家の大事より民間の瑣事に至るまで卜占によって判定することが古くからおこなわれ、是を司る卜部(ウラベ)はアメノコヤネ命の苗裔と称し、壱岐・対馬・大和・伊豆に分居し、時に神祇官に出仕して之に従事した。所謂四国卜部(ヨクニノウラベ)是也。
 要するに当社は、彼の卜部等が国家の為に斎祀する所にして・・・」(大意)
として、当社は、国家の大事に際して、その吉凶禍福を判断するための卜占をおこなう聖地だったという。

 当社の創建年代は不明だが、古史料上での当社として
 ・大倭国正税帳(730)--久志麻知神田一町 種稲廿束
 ・大同元年牒(806)--櫛麻知乃命神 一戸
 ・三代実録・貞観元年(859)正月27日--大和国従五位下・・・天香山大麻等野知神・・・従五位上を授く
 ・延喜式神名帳(927)--大社に列す
などがあり、8世紀にあったことは確かといえる。

◎天香山 
 天香山(天香久山・アメノカグヤマ、右写真-東からの遠望)は、大和三山(畝傍山・耳成山・当山)の一として、古来から神聖な山、霊力・呪力をある山として畏れ敬われてきた。

 大和三山のうち、この山のみに“天”を冠して呼ぶのは、伊予国風土記(逸文)
  「天山  天山と名付けるわけは、倭(ヤマト)に天加具山がある。天から天降ったとき、二つに分かれて、片端は倭の国に天降り、片端はこの土地に天降った。故に天山という」
とあるように、天上にあった山が天降ってきたとの伝承によるという。

◎論社
 今、式内・天香山坐櫛眞神社は天香久山北麓にある天香山神社とするのが一般だが、山頂にある国常立神社との説もある。

 式内社を国常立神社に比定のは五郡神社記で、そこでは
  「神戸郷香山村山頂に在り、但東向
として、山頂に在る国常立神社を式内社とし、これを承けて、大和志料も
  「当社の所在は、大和志に“香山北麓に在り、南浦村に属す”とあれども、社名に天香山坐を冠するのみならず、五郡神社記に“神戸郷香山村山頂に在り但東向”とあれば、無論山頂にありしなり。今山頂に一小祠存するは此れ当社の名残なり」
として、国常立神社に比定している。

 これに対して式内社調査報告は
 ・当社は天香山を御神体として祀ったものと考えられ、山頂になければならぬ根拠はない
 ・天香山神社の背後には三つの巨石があり、本来はこの巨石が磐座として祀られていたとみられ、天香山の神霊を奉斎するにふさわしい場所であったと考えられる
 また、国常立神社は、
 ・現在南向きに社殿が建てられており、五郡神社記に“但東向”とあるのに合わない
 ・江戸時代(寛政10年-1798)の石燈籠に天香山竜王社とあることから(未確認)、この社は雨乞いの為の社であったと考えられる
などとして、「式内社とは考えられない」という。

 ただ、天香山神社にある湧泉・天真名井(下記)が香久山南山麓の天岩戸神社の洞穴に通じ、更に国常立神社の高龗社前の壺にも通じているといわれ、加えて、天真名井から龍が出て天に昇ったとの伝承があることから、この3社には雨乞いという共通点があると考えられるという。

 今、天香山神社と国常立神社のいずれが式内社かを判断できる史料はないが、当式内社が天香山を御神体とする神社だとすれば、麓から山を拝するのが本来の姿かと思われ、その意味では現在の天香山神社を以て式内社とするのが妥当であろう。
 ただ、この両者は本来は同じ神を祀る神社で、上社(山宮)・下社(里宮)の関係にあったとも考えられるが、それを証する史料・伝承はない。

※祭神
【天香山神社】
  祭神--櫛眞命(クシマ)

 クシマ命との神名は記紀等には登場しないが、
 ・延喜式神名帳の“宮中坐神三座 並大”として
   『右京二条坐神社二座 並月次相嘗新嘗 太詔戸命神(フトノリト) 久慈眞智命神(クシマチノミコト)
があり、九条家本(鎌倉初頭か)
   「本社 坐大和国十市郡天香山坐櫛真命神」
との傍注があり、クシマ命を宮中に祀るクシマチ命と同じとしていること
 ・大倭国正税帳(730)
   「久志麻知(クシマチ)神田一町 種稲廿束」
 ・新抄格勅符抄に引く大同元年牒(806・奈良時代以降の神社寺院に対する封戸の記録)
   「櫛麻知乃命神 一戸」
とあることから、櫛眞命(クシマ)は誤記で、“櫛眞知命”(櫛眞智命、クシマチ)が本来の神名だろうという。

 櫛眞知(櫛眞智・クシマチ)の櫛は“奇”(クシ)で、“霊妙な”・“奇妙な”との意とされ、眞知(マチ)について、大和志料(1944)
  「櫛眞智(クシマチ)の眞智は兆(キザシ)の古語、即ち鹿骨・亀甲に形どられたる縦横の文(アヤ)を謂い、櫛は奇の假字にして、兆(マチ)は未然を知り得べき霊妙を有することを以て殊に奇(クシ)の字を加え、奇兆(クシマチ)と称し、之を神霊とし櫛眞智命と号せるものなり」
として、卜占(占い)の神としている。

 また、延喜式に引く「中臣の寿詞(ナカトミノヨゴト・践祚大嘗祭で神祇官の中臣氏によって奏された天神之祝詞と同じ)」の注記には、
  「麻知(マチ)--鹿卜や亀卜で、鹿の肩胛骨や亀甲の裏に縦横の線を彫っておくのを麻知形(マチガタ)といい、これを火で灼いて現れた兆を麻知(マチ)という。即ち前兆・予兆」
とあり(延喜式祝詞教本・1959)
 永留久恵氏(対馬在住の歴史学者)
  「亀卜に用いる亀の甲の裏面に方形の穴を浅く彫り、火を指して、表面に亀裂を生じるように細工したところを“マチ”という」
として、クシマチ命は亀卜の神と解しているという(日本の神々4・2000)

 いずれにしても、“マチ”とは卜占にかかわる語で、クシマチ命とは“霊妙なる卜占(鹿卜・亀卜)を司る神”であって、記紀にいう上記説話との整合性も高く、当社祭神として似つかわしいといえる

 なお、延喜式に“元の名”として記す「大麻等乃知神」(オオマラノチ)とは、太占(フトマニ、卜占)を掌る神といわれ、三代実録(901)・貞観元年(859)正月条に、
  「大和国従五位下・・・天香山大麻等野知神・・・並(ミナ)に従五位上を授く」
とあることから、櫛眞知命(櫛眞命)の別名(又は元名)とみて支障はない。

*異説
 当社祭神はクシマチではなくクシマが正しく、それは中臣氏が奉じた鹿島神(タケミカヅチ神)であって、それをクシマチ命とするのは後世の賢しら(サカシラ・賢ぶること)である、との説(真弓常忠氏)があるという(大意、式内社調査報告・1982)
 上記説話からみて、当社に祭祀氏族である中臣氏が関与していた可能性は否定できないが、だから中臣氏が奉斎するカシマ神が当社祭神とするのは短絡すぎる。
 またカシマ神は、元は物部氏の奉斎神であって、その没落後、東国へ進出した中臣氏が自家の氏神として取りこんだとするのが一般の理解で、そこからみても疑問がある。

【国常立神社】
  祭神--主祭神--国常立命(クニノトコタチ)
        摂 社--高龗神(タカオカミ)

 クニノトコタチ命とは、記紀の天地開闢神話に顕れる始原の神々の一で、
 ・古事記--最初に顕れた別天神(コトアマツカミ)五柱につづく、“神世七代”(カミヨナナヨ)の神々の最初に顕れた神という
         因みに、神世七代の最後がイザナギ・イザナミ。
 ・書紀(本文)--天地開闢段に
   「天地が開けたとき、天地のなかにある物が生じた。間もなくこれが神となった。国常立尊と申し上げる」
とあり、混沌のなかから最初に生まれた神で、別名・国底立尊(クニノソコタチ)ともいう(順番の違いはあるが全ての一書に出てくる)

 その神格について、書紀(岩波文庫版)の補注に、「トコタチとは、土台(大地)が出現し、大地が姿を現す意」で、「クニとは後で加上された語」とあるように、クニノトコタチとは国土の土台が出現したことを表す観念的な神で、クニの根元をなす神といえる。

 当社社頭に掲げる案内には、
  「祭神は国常立命(天地開闢とともに現れた神で国土形成の神)
 俗に天の竜王と称され、境内社として高龗神(タカオカミ、竜王神)を祀る。右側神殿の前に壺が埋められており、古来旱天の時この神に雨乞いして壺の水を替えたが、まだ降雨のない節は、この社の灯明の火で松明をつくり、村中を火降りして歩いたという。
 末社に伊弉諾神社(祭神イザナギ命)、伊弉冊神社(祭神イザナミ命)があり、天香久山の東山麓に鎮座する」
とあり、水神を祀る神社という。

 当社が、大和国の国魂が坐す天香山に鎮座することから、それをクニの根元の神であるクニノトコタチに求めたのであろうが、クニノトコタチを単独で祀るのは珍しい。

 摂社の祭神・タカオカミ神とは、書紀(一書7)によれば、
  「(イザナミが火の神・カグツチを産んで亡くなったのを悲しんだ)イザナギが剣を抜いてカグツチを三段に斬ったとき、その一つは雷神に、ひとつは大山祇神に、一つはタカオカミとなった」
とあり、水神とされる。タカは美称で、オカミとは“水を司る龍”を意味する古語(古事記にタカオカミの名はないが、同意の水神としてクラオカミがある)
 案内に“水神を祀る神社”ということ、江戸時代に天の竜王と称したのは、タカオカミが水神であって雨乞いの神であることからで、日常生活に縁遠いクニノトコタチより、また聞きなれない難しい名・タカオカミより、単に、より身近な水の神として親しまれたのであろう。


※社殿等
【天香山神社】
 道路脇に立つ一の鳥居を入ると、参道の先数段の石段上に二の鳥居が立ち、その奥が境内。
 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺)、その奥
 玉垣で囲まれた本殿域中央に本殿(春日造・銅板葺)、その左右に小祠2宇が鎮座する。各社殿に社名・祭神名の表示はないが、小祠2宇は左が春日社・右が八幡社という。

 
天香山神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿域正面
 
同・社殿
 
同・左末社(春日社)
 
同・本殿
 
同・右末社(八幡社)


◎磐座

 本殿の後ろに近接して巨石3個(高:1.80~1.20m、幅:1.1~2.0m)が屏風のように並立している。
 これを古代の祭祀対象である磐座(イワクラ)とみるか、単なる土留めの巨石とみるか、見方は分かれそうだが、諸資料に従って、この巨石は天香久山の神霊が降臨する磐座で、古代祭祀の面影を残すものとみておきたい。
 ただ、天香久山の頂上は当社の南に当たるのに、現在の姿だと、東を向いて祭祀をおこなったことになり(社殿も西面している)、磐座とするには一抹の疑問がある。

磐座(左の2石)

 磐座(右の1石)

◎天真名井

  境内・二の鳥居の右手、土手下の窪み状に「天真名泉」(アメノマナイ、天真名井とするのが普通)と称する湧泉がある。
 一見して泉とはみえず(土手下の窪みとみえる)、小さな案内板が倒れかかっていることから、見つけるのに少々時間がかかった。今、湧水があるのかどうかは不明。
 伝承によれば、この泉の水は香久山南麓の天岩屋神社の洞穴に通じ、更に山頂の国常立神社前の甕にも通じており、昔、この泉から龍が出て天に昇ったという。

 傍らの案内板には
  「天真名泉  皇孫天神十拳の剱を振滌(フリススギ)し給いし聖地」
とある。
 十拳劔(トツカノツルギ)とはイザナギ以下の神々が所持する劔を指す普通名詞的な呼称で、幾つかの場面で登場するが、上記説明が、どの場面を指すのか不明。

 天真名井

◎赤埴聖地の碑
 参道右手、叢林の中に「天香山 赤埴聖地(アカハニノセイチ)」と刻した石碑が立っている。
 神武天皇が祭祀用の平瓮を造るために採らせた、との神話に因んで、その土の採取場として、記紀神話を史実と信じていた頃、それを信じた人によって立てられた石碑であろう。

 香久山の土は、殆どが赤土であるが(神武紀に、香山の赤土を採って云々とある)、山の西側には白色の土があるといわれ、それに因んでか、山の西側山麓にある国見台跡には「天香山 白埴聖地」と刻した石柱が立っている。


天香山神社・参道
(左:ハハカの木、右:赤埴聖地の碑) 
 
赤埴聖地の碑
 
白埴聖地の碑
 
国見台跡
(中央:万葉歌碑、
左に白埴聖地跡の碑がみえる)

◎波波迦(ハハカ)の木

  参道右側の木立の中に“波々迦の木”と称する木があり、傍らの案内には
  「イバラ科の木で、朱桜(ニハザクラ)・ウハミザクラ・コンゴウザクラ・カバザクラの別名があります。
  古事記によれば、この木の皮で香久山の雄鹿の骨を焼いて、吉兆を占ったそうです。
  平成2年の大嘗祭関連の諸儀で、“斎田点定の儀”(大嘗祭で供される神饌を耕作する悠紀国・主基国を定める儀式)での亀占に用いるため、ハハカを宮内庁のご下命により奉納しました」
とある。

 古事記・天岩屋戸の条に、
  「次にアメノコヤネ命とフトダマ命を召して、天香山の雄鹿の肩骨を抜き取り、天香山のハハカ(朱桜)を取りて、鹿の骨を灼いて神意を占わしめて、・・・」
とあるように、古代の占い・太占(フトマニ)において鹿の肩胛骨(後には亀の甲羅)を灼く材料として使用されたという。
 平成2年11月におこなわれた今上天皇の大嘗祭において、古儀に則り亀占がおこなわれたというのは興味深い。

波々迦の木 

◎万葉歌碑
 天香久山を詠った万葉歌を刻した歌碑が、鳥居を入ってすぐの参道右手、及び天香久山西麓国見台跡に立っている。
 ・境内参道脇
    春すぎて 夏来(キタ)るらし 白たへの 衣(コロモ)干したり 天の香具山 (持統天皇御製 1巻-28)
     (春が過ぎて 夏が来たらしい 真っ白な 衣が干してある 天の香久山に)
    ひさかたの 天の香具山 この夕へ 霞たなびく 春立つらしも (春の雑歌-読み人知らず 3巻-1812)
     (天の香久山に この夕べ 霞がたなびいている 春になったらしい  “ひさかたの”は香久山にかかる枕詞
 ・国見台跡(天香久山西麓)
    大和には 群山(ムラヤマ)あれど とりよろふ 天の香久山 登り立ち 国見をすれば 
     国原は煙立ち立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国ぞ あきづ島(大和にかかる枕詞) 大和の国は(舒明天皇御製 1巻-2)
     (大和には多くの山々があるが、 とちりわけて良い天の香久山に登って国見をすると 
       広々とした平野には カマドの煙があちこちから立ちのぼり  広々とした水面には カモメが盛んに飛び立っている ほんとうに素晴らしい国だ 大和の国は)

 天皇(あるいは首長)が春の初めに山に登っておこなう国見(クニミ・望国とも記す)とは、その年の繁栄・豊穣を予祝する呪術的儀礼で、この歌は、国土の生命力(カマドノ煙・カモメ)が活発であることを詠うことによって、その年の繁栄・豊穣を促進する呪的な歌であるという。
 その国見の歌が、天香山で詠われたことは、この山が単なる高山というより、霊力・呪力をもつ聖なる山であったことによるといえる。


    万葉歌碑-1(春すぎて・・・)
 
万葉歌碑-2(ひさかたの・・・)
 
万葉歌碑-3(大和には・・・)

【国常立神社】
 天香山神社参道脇の手水槽左にある天香久山登頂路入口(表示なし)から、山道(殆どが丸太で土止めした階段)を登った頂上に鎮座する(約10分ほど)(西および南からの登頂路もある)

 頂上広場北寄りの玉垣に囲まれた簡単な覆屋のなかに、小祠2宇(春日造・板葺)が南面して鎮座する。
 向かって左が国常立社、右が高龗社(境内社)
 高龗社の前に、深さ1m程の壺が埋まっているというが、金網とブルーシートで覆われていて確認できない(ネット資料の写真では、金網の下に埋まっている壺の縁が丸く見える)
 伝承では、天香山神社の天真名井(アメノマナイ)に通じており、古来、旱天にこの水を替えると雨が降るといわれたという。

 
国常立神社・全景

同・社殿(左:国常立社、右:高龗社)
 
高龗社前のブルーシート
の下に壺があるという
 ◎伊弉冊神社(末社)
 天香久山山頂から南の天岩戸神社方面に降る山道の途中(麓に近い)、雑木林の中にある小祠(右写真)

 傍らの案内には、
  「伊弉冊神社(下の御前)
  祭神はイザナミ命。イザナギ命とともに国生み・神生みをおこなったとされる。
  国常立神社の末社であり、下の御前神社とも呼ばれる。
  同じ末社のイザナギ神社は上の御前神社とも呼ばれ、ここより更に東の天香久山山腹に鎮座する」
とあるが、末社としてイザナギ社・イザナミを祀る理由・時期等は不明。
 

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