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葛城の式内社/鴨都波八重事代主命神社
現社名--鴨都波神社
奈良県御所市宮前町
祭神--積羽八重事代主神・下照姫命
                                                        2013.01.19参詣

 延喜式神名帳(927)に、『大和国葛上郡 鴨都波八重事代主命神社二座 並名神大・月次相嘗新嘗』として、葛上郡の筆頭に記されている式内社。
 今は、延喜式神名帳にいう“鴨都波(カモツハ又はカモツワ・カモツバ)・・・”を称しているが、神名帳最古の写本・金剛寺本(1127・平安後期)の頭注に、「貞改号」とあることから、古くは“鴨都味波・・・”(カモツミワ)又は“鴨味都波・・・”(カモミツワ)であったものを、貞観年間(859--77・平安前期)に“鴨都波・・・”と改めたのではないかという(日本の神々・2000)

 当社にかかわる略称・俗称として、葛木鴨社・鴨神社(延喜式での略称)、鴨の宮・葛木鴨社・鴨明神・下鴨社(俗称)などがみえるが、 今、神社では“鴨都波神社”と称している。

 近鉄御所線・近鉄御所駅の南約400m、駅東側の国道24号線を南下、次の信号を過ぎた東側の一街区を占める鬱蒼たる森の中に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「本社の御祭神は、古く鴨都波八重事代主神(カモツワヤエコトシロヌシ)と申し奉り、それは鴨の水辺で折り目ごとに祀られる田の神という御神名で、弥生時代の中期初頭、この葛城川の岸辺に鎮め祀ったのに始まる。
 本社は高鴨社(御所市鴨神)に対して下鴨社ともいい、鴨族の発祥地としてこの地を治め、全国に分布する鴨社加茂の源である」
とあり、
 社務所に置かれている由緒には
 「第10代崇神天皇の御世、大国主命11世太田田根子(オオタタネコ)の孫、大賀茂津美命(オオカモツミ)に勅を奉りて葛城邑加茂の地に奉斎されたのが始めとされている。
 葛城加茂社・下津加茂社とも称され、全国の加茂(鴨)社の根源である。宮中八神の一社にして鎮魂の祭礼に預かり給う延喜式内名神大社である。
 ・・・
 また、神社を中心とする一帯は『鴨都波遺跡』という弥生中期の遺跡で、土器や農具・住居跡が多数出土しており、古代には鴨族がこの地に住み着いて農耕生活を営んでいたことがわかる。終戦までの旧社格は県社」
とある。

 当社は、古代の葛城地方に盤踞していた豪族・鴨氏(賀茂氏)が奉祀した古社だが、新撰姓氏禄(815)によれば、鴨氏には、
 ・山城国神別(天神) 賀茂県主(鴨県主) 神魂命(カミムスヒ)の孫・武津之身命(タケツノミ、鴨建津之身命)の後也→山城賀茂氏
 ・大和国神別(地祇) 賀茂朝臣 大神朝臣同祖 大国主神の後也
              大田田弥古命の孫・大賀茂都美命(オオカモツミ)賀茂神社を奉斎→葛城鴨氏
の2系統があり、当社にかかわる鴨氏は葛城鴨氏を指す。
 なお、この両賀茂氏を別系統とする説と、葛城鴨氏から別れて山城に進出したのが山城賀茂氏とする説とがあるが、山城国風土記の記述(賀茂社条)からみると、後者の方が史実に近いであろう。

 当社の創祀時期について、案内は弥生中期(紀元前後)とあるが、
 ・由緒にいうように、当社を中心とする広い地域(南北約500m東西約450mの範囲)に、弥生から古墳時代にかけて営まれた鴨都波遺跡があることから、弥生中期頃に人々が生活していたことは確かだが、その当時、これらの人々が鴨氏としてまとまっていた確証はない。
 ・各地の弥生遺跡から、何らかの小規模な神マツリがおこなわれていた痕跡が出土し、また、弥生中期頃とされる曾根池上遺跡(大阪府和泉市)からは、神殿址と推測される高床式大型建物(東西17m・南北7m)の柱跡および柱材が発見されているが、管見のかぎりでは、鴨都波遺跡からそのような祭祀痕跡あるいは大型建物があったとの報告はみえない(恒常的な神社建造は、仏教伽藍の影響をうけて6世紀頃に始まったという)
 ・当社西方の済生会病院敷地内から、古墳時代前期(4世紀頃)の築造と推定される方墳・鴨都波1号墳(20×16m・三角縁神獣鏡4面出土)があり、この辺りに、小規模ながら古墳を造営する力を持った権力者がいたことが推測される。その被葬者は不明ながら鴨氏の可能性もあり、とすれば、鴨氏の当地への進出は早くても弥生末~古墳前期頃と推測される
ことからみて、当社の創建を弥生中期にまで溯らせるのは無理であろう。

 また、由緒は崇神朝創建というが、同意のことが大三輪三社鎮座次第(1226・鎌倉時代)にもあり、そこには
 「別宮小社之事  葛城賀茂神社 八重事代主命也 大己貴命の子 母神楯姫という・・・
 瑞籬宮御宇天皇(崇神)御世、大田田根子命の孫大賀茂祇命、勅を承けて葛城邑賀茂の地に於いて社を立て、事代主命を齋き奉る。よりて賀茂君を賜る」
とある。(諸資料には、大和志料を受けて“異本大三輪三社鎮座次第”とあるが、群書類従には大三輪三社鎮座次第として収められ“異本”の文字はない。内容同一)
 これは、
 ・書紀・崇神4年11月13日条に、「大田田根子を大物主大神を祀る祭主とした(大神神社・オオミワジンジャの創建)。・・・別に八百万の群神を祀った。よって天社(アマツヤシロ)・国つ社・神地(カムトコロ)・神戸(カンベ)をきめた」とあること(当社は国つ社・地祇に属する)
 ・当社が、オオタタネコの孫・オオカモツミ(葛城鴨氏の祖神)の奉斎に始まるとすること
などから、大神神社とほぼ同じ頃に別宮として創建されたとするのだろうが、他に傍証となる史料はなく、根拠薄弱の伝承と受け取るべきであろう。
 各地の古社で崇神朝創建とするものが多いが、それは、その社を崇神朝に創祀されたという天神社・地祇社の一社とみることからのもので根拠はない。崇神朝に、八百万の群神を祀り天神社・地祇社を創祀したというのは、神を祀ることが国を治める根源であった古代にあって、崇神天皇を神マツリの創祀者とすることによって初肇国天皇(ハツクニシラススメラミコト)として位置づけようとする記紀編者の創作であろう。

 当社は、神名帳・葛上郡の筆頭に記されている名神大社であるにもかかわらず、神階叙授の記録はない(多分、脱落であろう)。ただ、新抄格勅符抄(平安時代の法制書)に記す大同元年牒(806・神社等に与えられる封戸の記録)
 「鴨神 八十四戸 大和卅八戸・伯耆十八戸・出雲廿八戸(下記・賀茂の神戸よりの施入)
とあり、このうち“大和卅八戸は天平2年(730)以前に施入されたものを引き継いでいると考えられる”というから(日本に神々4)、8世紀に実在していたのは確かであろう。

※祭神
 主祭神--積羽八重事代主命(ツワヤエコトシロヌシ)・下照比売命(シタテルヒメ)
 配祀神--建御名方命(タケミナカタ)・大物主櫛瓺玉命(オオモノヌシ クシミカタマ、大物主櫛甕魂命とも記す)

 主祭神のツワ ヤエコトシロヌシについて、由緒には
 「事代主神は元来鴨族が信仰していた神であり、当社が事代主信仰の本源である。大神神社に祀られている大国主命の子にあたることから、“大神神社の別宮”とも称される。
 当社の古い社名は“鴨都味波八重事代主神社”(カモ ツミワヤエコトシロヌシ)であり、“鴨の水端(ミヅハ)の神”と解され、当地が葛城川と栁田川の合流地点で水に恵まれていたことから、元々“水の神”を祀っていたとする説もある」
とある。

 記紀神話(国譲り条)によれば、オオクニヌシ(古事記、書紀ではオオナムチ)の子で、高天原から国譲り交渉の使者として派遣されたタケミカヅチへの回答を、父・オオクニヌシから任されたコトシロヌシが、天神への恭順を宣言して、自らは青柴垣の中に隠れたとあり、神意(神言)を代弁する“託宣の神”とされる。
 また、出雲国造神賀詞(イズモノクニノミヤツコカンヨゴト、新任の出雲国造が朝廷に参向して奏上する祝詞、続日本紀・霊亀2年-716-が初見)には、
 「オオナムチが、倭の国は皇孫命がお鎮まり遊ばされる国であると申されて、ご自分の和魂を八咫の鏡に依り憑かせて、倭の大物主櫛瓺玉命と御名を唱えて大三輪の社に鎮め坐させ、・・・事代主命の御魂を宇奈提(ウナテ)に坐させ、・・・これらを皇孫命の守護神として貢り(タテマツリ)おいて・・・」
とあり、出雲のオオナムチ(オオクニヌシ)が御子・コトシロヌシを天皇の守護神としてウナテ(橿原市雲梯町に比定、式内・高市御県坐鴨事代主神社-現河俣神社ーあり)に鎮まらせたという。

 記紀・神賀詞何れも、コトシロヌシはオオクニヌシ(オオナムチ)の御子すなわち出雲系の神というが、不思議なことに、記紀と同時代に編纂された出雲国風土記(733)にはコトシロヌシの名は一切見えず、これを祀る神社もない(今、島根県美保関にある美保神社はコトシロヌシを祀るが、国譲り神話にいうコトシロヌシの事蹟が当地でのこととされることからのもので、風土記には、当地に坐す神はミホススミ命とある)

 由緒がいうように、本来は大和葛城の土着神でであったコトシロヌシが、オオクニヌシの御子神とされる由縁について、
 「古く、コトシロヌシは出雲の人々に知られていない神だったが、出雲国に、コトシロヌシと同じ大和葛城の神である味耜高彦根命(アジスキタカヒコネ)を祀る賀茂の神社(髙鴨阿治須岐高彦根命神社)の神領として“賀茂の神戸”(カモノカンベ)が設けられていたことから、古事記の編者が、アジスキタカヒコネをオオクニヌシの御子神としたのに併せて、同じ鴨氏が奉斎する神であるコトシロヌシをも御子神として、国譲り神話の立役者として利用したのであろう」(大意、出雲神話の誕生・1966)
との解釈がある。
 古事記が、出雲の地方神であったオオナムチを国つ神(地祇)の総帥であるオオクニヌシ(偉大なる国の主)へと昇格させ、各地の国つ神々を御子神・眷属神として組み込んでいくなかで、鴨氏が奉斎していたコトシロヌシやアジスキタカヒコネも御子神とされ、併せて、鴨氏も又出雲系の氏族とされたのであろう。

 コトシロヌシとは、“神の言(意志)の代弁者”すなわち“託宣の神”というのが一般の理解だが、社頭の案内には「鴨の水辺で折目ごとに祀られる田の神」、由緒には「鴨の水端(ミズギワ)の神」とあり、いずれも水の神としている(田の神=水の神)
 当社祭神・コトシロヌシを水の神とする理由は不詳だが、
 ・古社名・鴨都味波の“鴨都”は“鴨の”で、“味波”は“水端”(ミズハ)すなわち“水辺”のこと
 ・八重事代主の“八重”は“しばしば”を意味する形容詞で、“事”は事始のように“折目・節目”のこと、“代主”(シロヌシ)は“田主”すなわち“田の神”を意味する
として、鴨都味波八重事代主とは、“水辺にあって、節目ごとに祀られる田の神”を意味し、弥生中期頃、人々(鴨氏の一部だった可能性は否定できない)がこの平坦部に移り稲作を始めるにあたり、川の畔に水の神すなわち田の神を祀った
との解釈があるが(神々と天皇の間・1970、大意)、これは、当社が葛城川と栁田川との合流点にあることからのもので、これでは、コトシロヌシを託宣の神とする通説との整合性はとれない。

 これに対して、鴨都味波の“鴨都”を“鴨の”と、“弥波”を“ミワ”すなわち“神”と解すれば(桜井の大神神社は大神と書いてオオミワと読む)、鴨都味波は“鴨の神”とも解され、“鴨の土着神”となる、との解釈もあるが(日本の神々4)、その土着神が水神であってもおかしくはない。

 これらは、当社祭神を鴨都波八重事代主命他一座とみることからのもので、神名帳にいう二座を、鴨都波神(古称:鴨都味波神)と八重事代主命の二座とみることもできる。
 その場合、鴨都波神を由緒がいう水の神ととれば、その具体の神名は、水神・罔象女(ミツハノメ、カグツチを産んでホトを灼かれたイザナミが、亡くなろうとされるときに生まれた水の女神)であったのかもしれず、それが、より著名な女神で出雲系とされるシタテルヒメに変わったともとれる。

 いずれにしても、元々の当社は、在地の人々が土地に密着した土着神(水神)を祀っていた社に、鴨氏の進出にともなって、その奉斎神であるコトシロヌシが加上されたのかもしれない。

 一方、当社祭神二座のうち一座は下照比売命(シタテルヒメ)というが、大神分身類社鈔(1265)には高照光姫命(タカテルヒメ)とあるという。
 シタテルヒメ--オオクニヌシの御子・アジスキタカヒコネの妹神で、当社祭神・コトシロヌシの異母兄妹。別名・高姫(タカヒメ)
 タカテルヒメ--当社祭神・コトシロヌシの同母妹(記紀には見えないが、先代旧事本紀に、コトシロヌシの妹神として高照光姫大神命がある)

 シタテルヒメはコトシロヌシの異母兄妹神であることから、一緒に祀られてもおかしくはないが、同じ妹神であるタカテルヒメを祀る方が違和感はない。シタテルヒメを別名・タカヒメとも呼ぶことから、本来はタカテルヒメであったのを、タカテルヒメ・タカヒメという同じような呼称から、オオクニヌシの子女のなかでより著名なシタテルヒメへと変わったのかもしれない。

◎相殿神について
 建御名方命(タケミナカタ)
   国譲りに際して、天神への帰順を表明したコトシロヌシと異なり、これに反対して使者・タケミカツチに力比べを挑み、敗れて諏訪の地に逃げたとされる神で、当社に祀られる由緒は不明。
 大物主櫛瓺玉命(オオクニヌシクシミカタマ)
   大神神社の祭神・大物主神(オオモノヌシ)の別名とされ、出雲国造神賀詞(イズモクニノミヤツコカンヨゴト)には、「オオナモチ(オオクニヌシ)が自分の和魂を八咫の鏡に依り憑かせて、倭の大物主なる櫛瓺玉命と御名を唱えて大三輪の社に鎮め坐させた」とある。
 当社の祭祀氏族・鴨氏がオオモノヌシの後裔(当社の創建者とされるオオカモツミは、オオモノヌシ8世の孫、一説では曾孫)ということから、自家の祖神を祀ったのであろう。

※社殿等
 西側道路沿いに立つ鳥居をくぐり、森の中の小路を少し進むと境内に入る。周りは鎮守の森。
 境内南手に、前殿を有する入母屋造妻入り・瓦葺きの拝殿が、その奥、中門を有する本殿域内に、唐破風を有する向拝に続いて、千鳥破風を有する流造・銅板葺きの本殿が建つ。本殿域の周りは菱形格子の塀で囲われ、本殿の全体像はよく見えない。

 式内社調査報告によれば、安永5年(1776)神殿焼失、宝永2年(1705)社務所焼失、元文5年(1740)洪水のため古文書等亡失とある。その後の再建だろうが、一見してそう古くは見えない。

鴨都波神社/鳥居
鴨都波神社・鳥居
鴨都波神社/拝殿
同・拝殿
鴨都波神社/神域正面
同・神域正面
鴨都波神社/本殿正面
同・本殿正面

◎境内社
 社殿域の右手(東側)に境内社3祠が並ぶ。
  左より、天神社(菅原道真)・猿田彦社(猿田彦命)・火産霊社(竈之前大神)
 境内左手(西側)・小路沿いの林の中に、神農社(少名毘古那命)と稲荷社(宇迦之御魂命、石祠)が、
 境内右手(東側)の東参道脇に、祓戸社(瀬織津比売・速開津比売・気吹戸神・速佐須良比売)がある。

 式内社調査報告によれば、これ以外に大己貴神社(大己貴命)・笹神社(市杵島姫)・八坂神社があり、また神社明細帳(1949)には、これら以外に大神神社(大物主櫛瓺玉命)・出雲神社(大国主命)・金山神社(金山彦命)・孝昭神社(香殖稲命)と記しているというが、今は見えない。

鴨都波神社/境内社群
境内社
(左から天神社・猿田彦社・火産霊社)
鴨都波字じゃ/境内・神農社
神農社
鴨都波神社/境内・稲荷社
稲荷社
鴨都波神社/境内・祓戸社
祓戸社

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