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漢 国 神 社
奈良県奈良市漢国町
祭神−−園神:大物主命・
            韓神:大己貴命・少彦名命

                                                         2010.12.28参詣

 近鉄奈良駅の西、奈良市中心部を東西に走る国道369号線から“やすらぎの道”を100mほど南下した西側、道脇に朱塗りの鳥居が立ち、右に“県社 漢国神社”、左に“饅頭の祖神 林神社”との石標が立つ。民家に挟まれた参道を少し入った先、白壁に囲まれた中に鎮座する。
 下記の由緒略記を史実とすれば、延喜式編纂時にはあったと思われるが、神名帳には記されていない式外社で、官社としての奉斎には預かっていなかったらしい。
 社名は“カンゴウ”あるいは“カンコウ”と読む。祭神・園神の“園”が“国”に、韓神の“韓”が“漢”に転じたともいう。

※創建由緒
 当社由緒略記によれば、
 「推古天皇の元年(592)2月3日、大神君白堤(オオミワノキミ シラツツミ)と申す方が、勅を賜いて園神(ソノカミ)の神霊をお祀りせられ、その後元正天皇・養老元年(717)11月28日、藤原不比等公が更に韓神(カラカミ)の二座を相殿として祀られたのが漢国神社である。
 古くは春日率川坂岡社と称した」
とあるが、大三輪三座鎮座次第(群書類従・1819所載)によると、
 「推古元年、大神君白堤が勅を奉じて春日率川・坂岡の両所を奉遷した」
とある(日本の神々4所載・漢国神社2000、以下同じ)。両書とも、勅によって大神君白堤が祀ったとはするものの、細部は異なる。

 当社は、明治7年の神社明細帳には“率川坂岡神社”と記されているという。この社名は、鎮座次第にいう“春日率川・坂岡の両所を奉遷した”との記述によるものと思われるが、その由緒は不明。
 鎮座次第にいう率川社とは、当社の南約300mに鎮座する式内・率川坐大神御子神社(略称・率川神社)を指すとも思われる。率川神社は大神神社(オオミワ)の摂社というように大神氏との関係が深く、その意味では当社と無関係とはいえないが、祀られている祭神は異なっている(率川社の祭神は媛蹈鞴五十鈴姫他2座)
 また、当社は本来「狭加岡神社」(サカオカ)の名で神名帳に搭載されていたが、狭加岡の“加”が抜けて狭岡神社(坂岡)となったといわれ、当社とともに式内・狭岡神社の論社となっている奈良市法蓮佐保田町に鎮座する狭岡神社が坂岡神社と思われる。ただ、この神社の祭神は若山咋之神他8座で、当社祭神との関係はみえない。

 当社創建後の経緯は不明だが、資料によれば、治承4年(1176)の兵火により社殿炎上、文治4年(1188・院政末期)興福寺覚昭大僧正の奏聞によって再建、慶長年間(1596--1615)には徳川氏が法蓮村からの知行田を寄付して修理したという。

※祭神
 当社祭神の園神(ソノカミ)・韓神(カラカミ)とは、延喜式神名帳に
 「宮内省坐神三座 並名神大 月次新嘗   園神社・韓神社二座」
とある神で、平安時代には陰暦2月と11月の丑の日に、園韓神祭が盛大におこなわれていたが、中世以降衰微し廃絶されたという。
 律令制における太政官八省のひとつ・宮内省(宮中の衣食住などの実務を担当)内にあって、皇室の守護神として祀られていた神々で、その鎮座由緒として、
 「園韓神の口伝に云く、件の神は延暦以前よりここに坐せり。遷都の時、造営使、他所に遷し奉らんとするに、神託して云く、猶ここに座して帝王を護り奉らん、と。よりて宮内省に鎮座す」(江家次第、1111・平安末期、他にも同種資料あり)
との伝承がある。
 つまり、この神は古くからの在地神で、平安遷都にあたって天皇の守護神となることによって、同じ場所に留まったということだが、当社由緒略記には
 「清和天皇・貞観元年(859)正月27日、平安城宮内省に当社の御祭神を勧請して、皇室の守護神とせられた」
とあり、異なっている。
 しかし、三代実録(901)・貞観元年正月27日条には、「宮内省従三位園神・韓神並正三位」とあるだけで、当社からの遷座に関する記事はみえず、この昇叙記事からみると、貞観以前から宮内省内に祀られていたと思われる。

 園神・韓神の出自・神格は不詳だが、宮中で園韓神祭のとき歌われる神楽歌に、
 「三島木綿(ユウ) 肩に取り掛け われ韓神の 韓招(オ)ぎせむや 韓招ぎ 韓招ぎせむや」
がある。“韓招ぎ”とは“韓風のお招きをしよう”という意(上田正昭)で、朝鮮系の巫覡が祭具・木綿を持って、韓風の降神の儀をおこなう姿であるともいえよう(松前健・大意)、という。
 また、平安京の大内裏は、もと“秦河勝の邸宅があった所”との伝承があり(拾芥抄−シュウガイショウ・14世紀初頭)、平安遷都以前の園神・韓神は、秦氏がその邸宅内に祀っていた渡来系の屋敷神で、それが宮中の地主神へ、更に宮城鎮護と王権保護の神へと昇格したのではないかという(謎の渡来人秦氏・2009)

今、当社では
 ・園神−−大物主命 
 ・韓神−−大己貴命・少彦名命
とする。これは大倭神社注進状(1162・平安末期−偽書説もある)に依ったものらしいが、何故、園神がオオモノヌシで韓神がオオナムチ・スクナヒコナなのかは不詳。
 ただ古事記神代記には、
 「(素盞鳴命の御子である)大年神が伊怒比売を娶って生みし子は、大国魂神、次に韓神、次に曾富理神(ソホリ)云々」
とあり、このソホリ神を園神とする説と韓神二座の内の一座とする説とがある。しかし、韓神・ソホリ神と区別されていることから、この二神は別々の神と解すべきで、ソホリ神は園神にゆかりの深い神ではないかという(上田正昭)

 書紀第4の一書によれば、高天原を追われたスサノヲは新羅国の曽尸茂梨(ソシモリ)に降ったが、「この国には居たくない」として土で船を造り、出雲国の簸川の上流にある鳥上山に帰られた、とあり、スサノヲと朝鮮半島(新羅)との関係を示唆している。また、ソホリとソシモリとの関連を説く説もある。
 これらのことから、スサノヲの孫に当たる園神(ソホリ神)・韓神に出雲系の神々を充てたとも考えられる。

 今の京都に園神社・韓神社はない。両社の旧鎮座地は不明というが、現二条城の北(西寄り)にある二条公園の東半分に相当するともいわれ、明治の東京遷都の際に東京に遷座し、今も宮中に祀られているともいうが詳細不明。

※社殿等
 やすらぎ通りに立つ朱塗り鳥居をくぐり、民家に挟まれた参道の突きあたりに鎮座する。神社正門とは思えない四脚門を入った正面、朱塗り鳥居の先に拝殿、その奥に三間社流造・檜皮葺・一間向拝が付いた本殿が建つ。
 本殿は桃山様式をもつ江戸初期(慶長15年-1610-の造立文書あり)の建造物というが、塀が高くよくわからない。奈良県の指定文化財。

漢国神社/鳥居
漢国神社・鳥居
漢国神社/境内入口
同・境内入口
漢国神社/拝殿
同・拝殿
漢国神社/本殿
同・本殿

◎末社
 庭園風に造られた境内左手に、八王子社・不明社(合祀社らしい)の小祠2社が、右手に葵社・林社が建つ。林社以外は祭神不明。

 林神社(リン)とは、別名・“饅頭の社”と呼ばれる社で、わが国で最初に饅頭を作ったとされる林淨因(リンジョウイン)を祀るという。
和漢三才図会(1712)には、
 「建仁寺の竜山禅師が入宋した時、林淨因と交流があり、暦応4年(1341)、彼を伴って帰朝した。林氏は奈良の二条に住み、饅頭を作るのを業とし、林を改め塩瀬を名乗った。これがわが国での饅頭の始まりである」(大意)
とあるという。

 また境内右手の片隅に、白雉塚(ハクチツカ)と称する小石碑が建つ。由緒略記によれば、
 「元正天皇・養老5年(721)百済王から献上された白雉を当社に納めた。その後神亀元年(724)、この雉を埋め塚を築いた」
とある。
 なお、四脚門を入った左隅に源九郎稲荷社あり。

漢国神社・末社/葵社
末社・葵社
漢国神社・末社/林神社
末社・林神社
漢国神社/白雉塚
白雉塚

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