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春日大社
奈良市春日野町
祭神--武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比咩神
付--式内・春日神社(現榎本神社)式内・大和日向神社(現本宮神社)
                                                                 2015.06.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 春日祭神四座 並名神大 月次相嘗』とある式内社。
 古くは“春日大神社”或いは“春日神社”、明治に入って“官幣大社春日神社”、昭和21年“春日大社”と改称。
 神名帳の社名は“カスガニマツルカミ”又は“カスガサイジン”と読む。

 近鉄奈良線の終点・近鉄奈良駅の東約450m、駅前を東西に通る県道369号線を東へ、大仏殿交差点の東南に拡がる春日野原生林のなかに鎮座する。

※由緒
 春日大社・参詣の栞(第60次式年造替記念国宝御本殿特別公開)には、
  「春日大社は奈良に都が遷された今から千三百年程前、平城京鎮護のため、国譲りを達成された最強の武神である武甕槌命(タケミカツチ・鹿島神社)を神山御蓋山(ミカサヤマ、H=297m)の浮雲峰(ウキクモノミネ)に奉遷したのが始まりです。
 そして神護景雲2年(768)に御蓋山の中腹、現在御本殿が建つ場所に四棟の神殿が造営され、第一殿に武甕槌命(タケミカヅチ)・第二殿に経津主命(フツヌシ)・第三殿に天児屋根命(アメノコヤネ)・第四殿に比売神(ヒメガミ)がお鎮まりになり、春日大社が創建されました」
とある(一部省略)

 当社の創建は神護景雲2年とされるが、正史である続日本紀(797)の神護景雲2年条には見えない。これは、当社造営が藤原氏の私的行為であることから、正史には載らなかったものと思われる。
 ただ、三代実録(901)・天慶8年(945)8月26日条に、
  「新たに神琴二面を造りて春日神社に充て奉りき。神護景雲2年11月9日に充てし所破損せしを以てなり」
とあり、神護景雲2年創建は公的にも認められていたといえる。

 主祭神・タケミカヅチは元々常陸国・鹿島神社の祭神だが、常陸国から当地への遷座について、当社所蔵の古社記(1234・鎌倉前期、神道大系神社編・春日所収)には
  「常陸国より住処を三笠山(御蓋山)に移すため、鹿を御馬と為し、柿木の枝を以て鞭と為し御出立された。
 先ず神護景雲元年6月21日伊賀国名張郡一ノ瀬河で沐浴され、その験として鞭を件の河辺に立てられたところ、成樹となって根付いた。
 其より移られて同国の薦生山に数ヶ月滞在された。・・・
 同年12月7日、大和国城上郡安倍山に移られ、同2年正月9日、同国添上郡三笠山に垂迹、其の後、天児屋根・斎主命(イワイヌシノミコト)を奉幣された。日本国に三笠山より外に高名の霊地無しとして住所とされた」(漢文意訳)
とある。

 ここには、タケミカヅチは常陸国→伊賀国名張郡一ノ瀬河畔(名張市)→同国薦生山→大和国城上郡安倍山(桜井市阿倍・安倍文殊院付近)へと遷り、そこから三笠山(御蓋山)へ垂迹したとあり、その安倍山から御蓋山へ遷座経緯について、古社記には
  「或人云、大明神神護景雲2年正月9日大和国安倍山に渡られて数ヶ月留まられた。其時、榎本明神安倍山に詣でて御神に、『此の北方に殊勝の霊地有り、名を三笠山と号す。此山は己の年来の居所也。是山大乗相応の勝地で御社壇に相応しい。我、今三笠山を御神に奉って他所へ移ろうと思う、その替わりに此の安倍山を我に給うべし』と申し上げた」(漢文意訳)
とある。

 古社記の記述は一つの伝承だが、その傍証として、大同元年牒(806・奈良時代以降の社寺に対する封戸記録、新抄格勅府抄所収)に、
  「春日神 廿戸 常陸国鹿島社に充て奉る 天平神護元年」
とあって、天平神護元年(765)に鹿島社に春日祭祀料として神封20戸が寄せられていることから、この年、この神封を以て春日社造営が始まり、4年後の神護景雲2年に社殿造営が成り、タケミカヅチが勧請されたのだろうという。

 古社記は、当社創建前の当地には榎本明神と称する神が坐したというが、創建以前の状況について、その様子を描いた「東大寺山堺四志図」(天平勝宝8年・756)によれば、
  “東大寺大仏殿の東南方、御蓋山の西側の現春日大社鎮座地とおぼしき処に、三方を樹木に囲まれて『神地』との表示があり”
、他に社殿らしきものがないことから、この時点には当社はなかったことを示している。 

 ここにいう“神地”が何を指すか不詳だが、
 続日本紀・元正天皇養元年(717)2月1日条に、
  「遣唐使が蓋山(ミカサヤマ)の南(西の誤記という)で神祇を祭った」
とあることから、当社創建の51年前、御蓋山山麓の当地に神マツリの場・神地があり、遣唐使(第9回多治比縣守一行)が神籬(ヒモロギ・仮設祭場)を設けて天神地祇を祀り、航海の安全を祈ったことを示している。

東大寺山堺四志図・部分

 また万葉集に
 入唐大使藤原朝臣清河の歌一首
   春日野の 斎(イツ)く三諸(ミモロ)の 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで(4241番)
   (春日野に祭る社の梅の花よ ずっと咲いて待て 帰ってくるまで)
があるが、これは、天平勝宝2年(750)に遣唐使に任命された藤原清河が、渡唐するにあたって詠ったもので、当社創建18年程前の春日野の地に神社があったことを示し、また時期不明ながら、
 娘子 佐伯宿祢赤麻呂の贈る歌に報ふる一首
   ちはやぶる 神の社し なかりせば 春日の野辺に 粟蒔かましを(404番)
   (ちはやぶる神の社さえなかったら、春日の野辺に粟を蒔きましょうに)
 佐伯宿祢赤麻呂の更に贈る一首
   春日野に 粟蒔けりせば 鹿待ちて 継ぎて行かましを 社し恨めし(405番)
   (春日野に粟が蒔いてあったら、鹿を待ち伏せに 引きつづいて行くのだが 社が邪魔で恨めしい)
にいう神の社も、当社創建以前にあった神社を指すのではないかという。

 このように、春日野の地には、当社創建前から古い神社があったのは確かなことで、それは神名帳に
  「大和国添上郡 春日神社 鍬靱」
とある式内社ではないかという(この式内・春日神社の後継社が、今、当社回廊に祀られている榎本神社という--下記)

 万葉集にいう神の社について、上田正昭氏は
  「この社は、おそらく地主的な神の社と推察される。
  これを祀る主体は定かではないが、和爾氏系の春日臣が在地神を祭祀したという前史が、春日大社創建以前にあったことは、十分に想定できる」
と記し、大和岩雄氏は、より積極的に
  「御蓋山の祭祀氏族はワニ氏系で、社名にかかわる春日臣が中心であったと推測する」
という(神社と古代王権祭祀所収・春日大社・2009)

 春日臣とは、記紀に
 ・孝昭天皇記--(皇子二人のうち)兄・天押帯日子命(アメノオシタラシヒコ)は春日臣・・・らの祖なり
 ・孝昭天皇紀--天足彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト=天押帯日子)は和爾氏の祖なり
とあるように、古代豪族・和爾氏の一族で、それが和爾氏の本拠(天理市和爾町・櫟井町付近)から北上し、添上郡春日野に進出したのが春日臣(和爾氏嫡流と思われる)といわれ、新撰姓氏録(815)には
  「左京皇別 大春日朝臣 孝昭天皇皇子・天帯国押人命より出る也」
とある。

 その春日臣を傘下に治めて春日野の地に進出した藤原氏(藤原北家の祖・房前の次男・永手711--771の頃という)が、その絶大な勢力を背に春日臣一族が奉祀していた春日神社を他に追って、その跡に自家の氏神四座を祀ったのが春日大社という。


 当社祭神に対する神階綬叙記録としては、
 ・宝亀8年(777)7月16日--内大臣・従二位藤原朝臣良継病のため、其の氏神・鹿島社を正三位、香取神を正四位上に叙す(続日本紀)
 ・承和3年(836)4月丁未--下総国香取郡従三位伊波比主命、常陸国鹿嶋郡正三位勲一等建御賀豆智命に正二位を、河内国河内郡従三位勲三等天子屋根命に正三位を、従四位比売神に従四位上を奉授(続日本後記)
 ・嘉承3年(850)9月15日--建御賀豆智(タケミカヅチ)・伊波比主命(イハイヌシ)二柱の大神に正一位を、天児屋根命に従一位を、比売神に正四位上を奉授(文徳実録)
とあり、以降、典拠不明の未確認記録として
 ・天慶3年(940)--天児屋根命を正一位
 ・正治(1199--01)頃--比売神を正一位
があるという(式内社調査報告)

※祭神
 当社祭神について、参詣の栞には
  第一殿:武甕槌命(タケミカヅチ)--国譲りを達成された最強の武神(鹿島神宮)
  第二殿:経津主命(フツヌシ)--建国を支えた大功のある武神(香取神宮)
  第三殿:天児屋根命(アメノコヤネ)--天照大神が天岩戸にお隠れになった際、祝詞を奏してお出ましを願った司祭神で、最高の知恵を持つ神(枚岡神社)
  第四殿:比売神(ヒメガミ)--天児屋根命の后神、平安から江戸時代末までは天照大神としても信仰されていた
とあり、4座ともに藤原氏(中臣氏)の氏神という。

◎武甕槌命
 タケミカヅチといえば、古事記によれば
 ・出雲の大神・オオクニヌシとの国譲り交渉の主将として天鳥船神とともに出雲国に天降り、オオクニヌシに国譲りを承諾させ(書紀本文では、主役は経津主神)
 ・抵抗するオオクニヌシの子・建御名方神(タケミナカタ)と力比べをして屈服させ(書紀にはない)
 ・神武東征に際しては、自らの代わりに霊剣・布都御魂(フツノミタマ)を降して神武を助けた(書紀も同じ)
神で、常陸の鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)に祀られる神として知られるが、

 その出自については、
 ・古事記
   イザナギ命は十拳剣を抜いてカグツチの頸を切られた。その剣の本に付いた血から成り出た神の名は、甕速日神(ミカハヤヒ)、次に樋速日神(ヒハヤヒ)、次に建御雷之男神(タメミカツ゜チノオ)、亦の名・建布都神(タケフツ)、亦の名・豊布都神(トヨフツ)(神武記には建御雷神-タケミカヅチとある)
 ・書紀5段・一書6
   イザナギ命が長い剣を抜いてカグツチを三つに断たれた。その剣の鍔から滴る血がそそいで神となった。名づけて甕速日神という、次に熯速日神が生まれた。この神は武甕槌神の先祖である
   または甕速日神、次に熯速日神、次に武甕槌神が生まれたともいう
とあり、いずれもカグツチを切った剣から滴った血から成り出た神(天つ神)で、
 系譜としては
  迦具土神(カグツチ)--甕速日神--樋速日神--建御雷神(建御雷之男神・武甕槌神)
となる。

  これに対して、古事記で「意富多々泥古(オホタタネコ)をして吾を祀らせよ」との大物主神の神託により見いだされたオホタタネコが、
 「僕は大物主大神、陶津耳命の女・活玉依毘売を娶りて生みましし子、名は櫛御方命(クシミカタ)の子、飯肩巣見命(イヒカタスミ)の子、建甕槌命の子、オホタタネコぞ」
と名乗ったように、オオモノヌシの曾孫として登場し(書紀にはこの系図はない)、系譜としては
  大物主命--櫛御方命--飯肩巣見命--建甕槌命--意富多多泥古
となり、タケミカヅチには天つ神・国つ神という二つの系譜があることになるが、いずれも中臣氏(藤原氏)との血縁的な関係はない。

 当社のタケミカヅチは、栞にいうように武神としての天つ神だが、鹿島神宮に祀られる本来の祭神は国つ神としてのタケミカヅチであり、多氏らによって奉祀されていたという。
 それが、藤原氏の権威を背景とした中臣氏の常陸への進出に伴って、鹿島神社の祭祀権が多氏から中臣氏へと移ったことで中臣氏(藤原氏)の氏神へと変貌し、当社へ勧請されたと思われる。

◎経津主命
 フツヌシの出自については、
 ・書紀5段・一書6
  「(イザナギがイザナミ逝去の因となったカグツチを斬ったとき)剣の刃から滴る血が、天の安川のほとりにある沢山の岩群となった。これは経津主神の先祖である」
 ・同・一書7
  「カグツチを斬ったときの血が、天の八十河原にある沢山の岩を染めた。それによって磐裂神(イワサク)・根裂神(ネサク)、子の磐筒男神(イワツツノオ)・磐筒女神(イワツツノメ)、子の経津主神が生まれた」
とあり、いずれも、イザナギに切られたカグツチの血が滴った岩から生まれたという。
 その系譜としては
   カグツチ--磐裂神・根裂神--磐筒男神・磐筒女神--経津主神(一書7)
となるが、古事記には経津主の名はない。

 一般に、フツヌシはタケミカヅチとともに出雲に天降り、オオクニヌシに国譲りを承諾させた神というが、その使者派遣について、書紀(9段)には
 ・本文
   高皇産霊尊が命令--主将:経津主神、副将:武甕槌神
 ・一書1
   天照大神が命令--主将:武甕槌神、副将:経津主神
 ・一書2
   天神が命令--主将:経津主神、副将:武甕槌神
とあるが、古事記には
   天照大神が命令--主将:武甕槌神、副将:天鳥船神
とあって、フツヌシの名はない。

 当社では今、第二殿の祭神をフツヌシ命とするが、古社記(1234)には、「斎主命(イワイヌシ)を奉齊」とある。
 イワイヌシとは神マツリを主宰する人・神主を意味し、特にタケミカヅチ祭祀を主宰する神主を神格化したものという。

 香取の神について、
 ・書紀(9段)一書2
   (天神の命により、葦原中国で唯一服従しない神・天津甕星(アマツミカホシ)亦の名・天香々背男(アメノカカセオ)をフツヌシとタケミカヅチが討伐するとき)
   是の時に、斎主(イワイヌシ)の神を斎の大人(イワイノウシ)と号す。今東国の檝取(香取)の地に在す
 ・延喜式(927)所載の春日祭祝詞
   恐(カシコ)き鹿島に坐す建御賀豆智命、香取に坐す伊波比主命・・・の前に曰さく
とあるように、公的記録上では、香取に坐す神はイワイヌシ(斎主・伊波比主)であって、これを承けて、香取神に対する神階綬叙記録も
 ・続日本後紀・承和3年(836)4月条
   奉授 下総国香取郡従三位伊波比主命(イワイヌシ)正二位
 ・文徳実録・嘉永3年(850)9月条
   奉授 伊波比主命正一位
とイワイヌシとある。

 これに対して、私的史書である齊部(卜部)氏・物部氏系の史書には
 ・古語拾遺(807、齊部氏系史書)
   (天孫降臨に際して)仍りて、経津主神[是磐筒女の子、今下総国の香取神是也]、武甕槌神[甕速日命の子、今常陸国の鹿島神是也」を遣わして駆除(ハラ)ひ平定(シヅ)めしむ
 ・先代旧事本紀(9世紀前半・物部氏系史書)
   (イザナギがカグツチを斬ったとき)成りし神 名を磐裂根裂神と曰 子磐筒男・磐筒女二神が生みし子 経津主神 今下総国香取に坐す大神是也
とあり、香取の神はフツヌシであるとし、
 今、香取神宮では、イワイヌシ・フツヌシを異名同神として
  祭神--経津主大神〈又の御名・伊波比主命〉
という。

 フツヌシの“フツ”については、
 ・刀剣で物が断ち切られる様を表し、刀剣の威力を神格化したもの
 ・神武東征の時、熊野で難渋する神武を助けるべく、タケミカヅチがアマテラスの命で天から降した剣で、古事記には
  「この刀の名は佐土布津神(サジフツ)、亦の名は甕布津神(ミカフツ)、亦の名は布津御魂(フツノミタマ)と云う。石上神宮に坐す」
とある剣を神格化したもの
といわれ、いずれも刀剣を神格化したもので、タケミカヅチと同じく武神であるとして、フツヌシはタケミカヅチと異名同神ともいう。

 古事記でフツヌシの別名というフツノミタマを主祭神として祀る石上神社(奈良・天理市)が、物部氏か管理するヤマト朝廷の武器庫であったことから、フツノミタマ即ちフツヌシは物部氏と関係が深い神で、そこから物部氏の氏神ともとれ、それを藤原氏がタケミカヅチと同様に自家の氏神として取りこみ、当社祭神として勧請したものと思われる。

◎天児屋根命
 古史料に
 ・古事記(天孫降臨段)--天児屋命は中臣連等の祖
 ・書紀(7段)本文及び一書2--中臣連の遠い祖先の天児屋命(アメノコヤネ)
 ・ 同    一書3--中臣連の遠い先祖の興台産霊(コトドムスヒ)の子・天児屋命
   (コトドムスヒは天御中主神の子とする系譜もあるが、アメノミナカヌシに後裔氏族はないとするのが一般の理解で、中臣氏を神別氏族とするために無理に結びつけた系図であろう)
 ・古語拾遺(807)--神産霊神(カミムスヒ)の子(後裔)・天児屋命は中臣朝臣の祖なり
 ・新撰姓氏録(815)--左京神別 大中臣朝臣 藤原朝臣同祖 津速魂命(コトドムスヒの祖父という)三世の孫・天児屋命より出ず
とある神で、天岩屋の前でアマテラスを呼び戻すための祝詞を奏し、天孫降臨では降臨する天孫・ニニギに従った五部神の一とされ、その時、アマテラスから
  「神事(カムゴト)を掌る宗源者(モト)なり、故、太占(フトマニ)の卜事(ウラゴト)を以て仕へ奉れ」(9段一書2)
と命じられたことから、その後裔・中臣氏は宮中祭祀を職掌したとされる。

 なお、アメノコヤネとの神名の由来は不明だが、“児屋根”とは“屋根を葺いた建物(小屋)”を意味し、その建物に巫者が籠もって卜占をおこなったことから、その建物が神格化され天児屋根命となったのではないかともいう。

◎比売神
 参詣の栞では、“ヒメガミはアメノコヤネの后神”というが、
 ・古社伝に、「姫御神尊 伊勢大神宮也」とあるように、中・近世には伊勢大神則ちアマテラスとするものが多く
 ・社務日記(明治 2・1869)によれば、天照大神・天児屋根命后(天美豆玉照比売)・三女神(宗像三女神)・天児屋根命母(許登能麻遅比売)などの説があるという(式内社調査報告)

 祭神としてヒコ・ヒメ双神を祀る神社は多々みられ、そこでのヒメ神はヒコ神(主祭神)の配偶神(后神)とするのが多いが、ヒメ神の出自・神格には諸説があり、神道事典(1994)によれば
 ・比古神の配偶神 ・地主神の娘 ・御子神の母神 ・巫女信仰に基づく託宣神 ・系統不詳
などがあり、春日大社・枚岡神社のヒメ神は系統不詳のヒメ神という。
 愚考するに、当社のヒメ神をアメノコヤネの后神とするのは後世の付会で、あえて特定すれば、主祭神(アメノコヤネ)に仕える巫女(神の妻)を神格化したのではないかと思われる。

 今、当社では祭神四座は藤原氏の氏神というが、中臣氏本来の氏神(祖神)はアメノコヤネ・ヒメガミの二座であって、タケミカヅチ・フツヌシは他氏の氏神を取りこんだというのが実態かと思われるが、当社が創建された8世紀の頃には、この二座も又藤原氏の氏神として広く認知されていたのであろう。

※社殿等

 今回の参詣は、第60次式年造営記念の国宝御本殿特別公開にあわせたもので、常日頃は拝見できない本殿(国宝)等を実見できた(但し、撮影禁止)

 当社本殿域は右図のように、ほぼ正方形の朱塗りの回廊に囲まれ、廻廊には多くの春日灯籠が下がっている。

 南側回廊に開く南門(朱塗り)を入った目の前に横長の幣殿(重文)があり、これが拝殿となっている。

 幣殿の後、庭を挟んで一段高くなった東北隅の区画が内院で、その南側中央に堂々たる重層楼門が南面して聳え、ここにも左右に朱塗りの回廊が延びているが、通常、その内部には入れない。

 拝観した内院内には、回廊直近の瑞垣の後に本殿4宇が南面して並び、向かって右から第一殿・タケミカツチ、第二殿・フツヌシ、第三殿・アメノコヤネ、第四殿・ヒメ神が鎮座する(内院は案外狭い)

 本殿は一間社春日造・朱塗り・桧皮葺きで、第一殿がやや大きく(前面の庇高が第二・三殿と比べてやや高い)第四殿がやや小さい。

 また本殿背後(後殿・ウシロドノ)の第一殿と第二殿の間に、全体を白い漆喰で塗り込めた磐座があるが、数個の石を集めたもので磐座というより人の手が加わった磐境といった感じが強い。

 後殿の北側(後)、狭い通路を挟んで春日造朱塗りの小祠が4宇(西より佐軍社・杉本社・海本社・栗柄社)が横に並び、第一殿の東には春日造朱塗りの小祠3宇(北より八雷社・飛来天社・手力雄社)が南面して並ぶ。
 現地にはそれぞれの祭神名が掲げてあるが、栞には記載なく、勧請由緒等は不明。
 なお、神域内には春日造朱塗りの小祠8宇(岩本社・多賀社・風宮社・椿本社・青榊社・辛榊社・穴栗社・井栗社、うち青榊社以下4社は奈良市横井の穴栗神社からの勧請)が点在する。

 
春日大社・二の鳥居

同・南門 
 
同・回廊内の春日燈籠
 
同・拝殿

同・内院正面の楼門
 
同・本殿(栞より転写)
【御蓋山浮雲峰遙拝所】

 神殿域の東外側(神域の東北隅)、御蓋山山麓の簡単な覆屋の奥に朱塗りの鳥居が立ち、『御蓋山浮雲峰遙拝所』とあり、鳥居の奥には春日原生林が迫っている。

 遙拝所傍らの案内には、
 「奈良時代の初め平城京守護のため武甕槌命様が白鹿の背にお乗りになり天降られた神蹟、御蓋山の頂上浮雲峰の遙拝所。
 神護景雲2年(768)に御本殿が創建される以前に、鹿島・香取・枚岡の神々様が御鎮まりになる神奈備として崇められ、現在も禁足地として入山が制限されている」
とある。 

遙拝所鳥居

 参詣の栞登載の境内鳥瞰図によれば、本殿の左上、御蓋山の山頂に“本宮神社”とあり、主祭神・タケミカツチが降臨した神蹟(御蓋山浮雲峰)という。

※本宮神社由緒
 山頂にある本宮神社とは、延喜式神名帳に『大和国添上郡 大和日向神社(ヤマトノヒムカ) 鍬靱』とある式内社に比定される神社で、浮雲神社とも呼ばれ、春日大社創建以前から鎮座していたという。

 この神社に関して、
 ・百練抄・寛治7年(1093)条--神木、勧学院に動座の時、本宮御蓋山が光り輝いた
 ・玉英記抄・暦応4年(1341)条--御深草天皇(在位:1246--59)の勅願による『春日本宮』と銘うった鳥居があった
との記録があり、また
 ・昭和15年頃、現社殿のそばから経塚遺跡と見られるものが発掘された
 ・昭和54年頃、社殿の東約50m程降った所を中心に、南北の山麓に向かって人頭大の石を敷いた痕跡(列石)が発見された(春日大社古代祭祀遺跡調査報告)
といわれ、

 その列石について、森郁夫氏は
 ・神域の区画施設としては幅が広すぎる感もあるが、その状況からすれば、広い意味での磐境と解釈できるのではないか
 ・藤原氏がこの地を神地と定める以前、春日山山麓沿いに勢力を張っていた豪族が、この地を祀りの庭としていたと考えねばならず
 ・その豪族は、和爾氏およびその系列に連なる氏族ではないか(以上大意)
と記しているという。

 これらを承けて大和氏は 
 ・鹿島神が白鹿に乗って遷幸したとの伝承から、日向神社(本宮)は鹿島神宮遙拝のための社というが
 ・日向神社の神殿は西北西に面し、その前面の平地には、周囲を石積みで囲ったほぼ正方形(一辺8m弱という)の野外祭祀場がある
 ・この祭祀場から神殿を拝すれば、その方位は、ほぼ東南東の冬至の日の出の方向(伊勢の方向)を指し、鹿島神宮の方向(東北東)とは逆である
 ・この祭祀場が西向きであるように、山麓の神地も西を向いている
として、本来は、山頂の日向神社(本宮社)と山麓の春日神社(榎本社)は山宮と里宮という一対の社であって、三輪山頂の神坐日向神社(ミワニイマスヒムカ)と同じく、古代の日マツリ(太陽祭祀)の場ではなかったかという(神社と古代王権祭祀所収大和日向神社・2009)

*祭神
 今の祭神は、武甕槌命・経津主命・天児屋根命というが、これは春日大社由緒によるもので、当社本来の祭神は不詳。
 古資料にも
 ・神名帳考証(1733)--今奈良村に在り、軽天社と称する是か、八綱田命(ヤツナタ)、軽部八綱田命後也
 ・大和志(1734)--在所未詳。或は云う、春日山頂浮雲宮則ち是か。三輪山峰にも亦此の祠有り
 ・神社覈録(1830)--祭神八綱田命か、在所詳ならず。日本紀・垂仁天皇5年、上毛野君の祖・八綱田に命じて狭穂彦を撃たせらる。八綱田は火を放って城を灼く。天皇、八綱田の功を褒め、其の名を倭日向武日向彦八綱田と言う
 ・神祇志料(1871)--今奈良村に在り、軽天社といふ。蓋し豊城入彦の男・倭日向建日向八綱田命を祭る
などがあるが、考証および志料がいう奈良村の軽天社について、調査報告が「現在その社は詳ならず」というように、当社に該当するかどうかははっきりしない(今の天理市奈良坂付近に該当する社はない)

 また、祭神という八綱田命とは、新撰姓氏録に
 ・和泉国皇別 登美首 (崇神天皇皇子)豊城入彦命の男・倭日向建日向八綱田命の後也
 ・  同     軽部   倭日向建日向八綱田命の後也
とある八綱田命と思われるが(覈録がいう話と整合する)、それが何故当社の祭神とされるのかは不明。当社名・日向と倭日向建日向との神名が同じことからの付会とも思われ、八綱田命を祀る必然性はない。

 当社が、上記したように御蓋山山頂にあって東方からの日の出を拝する聖地と思われることから、そこで拝せられるのは日神・太陽神であって、あえて個別の神名を挙げるとすれば、春日臣一族が奉祀する日神・アマテル神とみるべきであろう。

*社殿

 今、御蓋山が禁足地となっているため実見不能だが、式内社調査報告(大和・1982)・大和日向神社には、
 「桁行58cm、梁行50cm、棟高110cmの見世棚式春日造で、高さ65cmの石組基壇上に建つ。周囲に5.4m四方の井垣を廻らし西中央に扉を付す。

 これら建造物の前面、やや西に傾斜する平地に、一辺約7.5m、ほぼ正方形の野外祭場があり、三方を石積みで土止めし、西辺中央に6段の石段を設ける」
とある。


 

大和日向神社社殿
(式内社調査報告より転写)

【榎本神社】(式内・春日神社論社)
 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 春日神社』とある式内社の論社の一つ(他にも論社3社あり)
 資料によれば、平安末期頃から江戸末期までは榎本神社と呼ばれ(榎本明神の初見は、12世紀前半頃の皇代記断簡というが、これが榎本神社と呼ばれた由緒は不明)、明治9年、式内・春日神社と改称、同10年春日大社摂社となったという。
 今、傍らの案内には「摂社 榎本神社」とあり、式内・春日神社との呼称は消えている。

 神域への正面入口である南門から左右に延びる回廊外側の西端に南面して鎮座するが、当社が式内社という由緒ある神社であることは殆ど知られていない。

*由緒
 傍らの案内には、
 「祭神  猿田彦命
  春日の地主の神として尊崇され、本社(春日大社)御鎮座後、一時安倍山(桜井市阿部)にお遷りになったが、承平5年(935・平安中期)、再びこの場所に御帰座になった」
とある。

 ここでいう安倍山への一時的鎮座とは、古社記にいう春日大社との土地交換伝承を承けたもので、その安倍山から現在地への帰座について、古社記には、
  「(この土地交換の後)然る間、安倍山に参詣者無く、祭祠の輩見えず。爰に榎本明神が春日宮に詣でて訴え申した時、大明神示して曰く、我が社壇の前水垣の外に処を卜して我が許に住み、往来人の法施財施を最前に納受すべしと。之に依り三笠山の榎本に還移し住む也」(漢文意訳)
とある。

 案内には、春日大社鎮座後の話のみが記されているが、大社創建前の春日野には大社の前身となる社があって、その地は、東大寺山堺四至図(天平勝宝8年・756作製、大社鎮座以前)に“神地”とある処であろうといわれ、神祇志料には
  「春日神社、今春日神垣森の東にあり、春日地主神といふ。所謂榎本社則ち是也。
 按ずるに、天平勝宝8歳東大寺図、御蓋山の下に神地と云る処あり。当時未だ(春日)四神祭らず。然らば所謂神地則ち本社なる事明けし」
とある。

 また大和氏は、神地の形状および性格について
  「東大寺山堺四至図には、御蓋山の西麓に樹林にで囲まれた神地が描かれ、この神地を囲む樹林はコの字形で、西が開いている。
 一方、御蓋山頂上の日向神社もまた西に開いている。
 したがって両社は一対のもので、前者(神地=春日神社)は後者(日向神社)を山麓から拝するように作ったものと考えられる」(大意)
とし、日向神社には山宮としての、春日神社には里宮としての性格があるという。
 ただ、今の榎本神社は南面しており、御蓋山を拝するようにはなっていない(別に、浮雲峰遙拝所が西面してある)。承平6年の帰座時に春日大社信仰へ取りこまれ、春日四神を拝する方向に変わったのであろう。

 なお、土地交換伝承にかかわって、
  「タケミカツチは春日野一帯を神地としようとして一計を案じ、地主・榎本神に『この土地を地下三尺まで譲って欲しい』と言った。榎本神は耳が遠かったので『地下』というのが聞き取れず、『三尺くらいなら』と承諾した。
 ところが、タケミカツチが広大な土地を囲い始めたので抗議すると、タケミカツチは『私は地下三尺までと言ったのに、貴方が聞き取れなかったのでしょう。約束通り、地下三尺より下は戴きません。
 ただ、貴方が住む所がなくては困るでしょうから、私の近くにお住みなさい』と言った。これが今の榎本神社である」
との伝承があるという。

*祭神
 今、当社では祭神はサルタヒコで、春日の地主神という。

 しかし資料によれば、
 ・春日地主神--神社覈録(1830・江戸後期)、神祇志料(1871・明治4年)
 ・巨勢姫明神(コセヒメミョウジン)--式内社調査報告、大和氏前掲書(日本の神々は巨勢明神とする)
とあり、古くは巨勢姫明神(巨勢明神)と呼ばれていたようで、これが猿田彦に代わったのは中世末期の頃といわれ、春日御社記録(1593)
 「榎本、巨勢姫明神、天上天下間八達神(ヤチマタノカミ)にて御座、鼻長く衢神(チマタノカミ)、塩土翁、猿田彦と云う説あり」
とあり、以降の春日社記録には全て猿田彦大神とあるという(式内社調査報告)

 この巨勢姫明神の出自・神格は不明だが、
 ①当社が御蓋山頂上の大和日向神社の里宮とすれば、祭神は、伊勢の天照大神がそうであったように、大和日向神社の日神(アマテル神)に仕える巫女(神の妻)を神格化したものとも解される。
 古く各地にあった日神信仰には、それに仕える神の妻があったと思われ、当社祭神もその一つとするものだが、そのヒメ神が何故“コセ姫”なのか、あるいは何故地主神なのかは説明できない。

 ②神名の“コセ”について大和氏は概略次ぎのようにいう。
 ・書紀・神武即位前記に、抵抗勢力の一つとして『和珥の坂下(サカモト)に居勢祝(コセノハフリ)といふ者あり』との記載がある
 ・ここでいう和珥坂とは、現天理市和爾町付近(式内・赤坂比古神社付近)にあった坂を指すが、この坂は大和国から他国へ至る境界にあって、此処から北あるいは東への道が発し、同時に北陸方面から大和へ入る入口ともなる重要な地点であった
 ・民俗学的にいえば、坂とは、こちら側と異国との境界をなす聖地であり、其処には異国からの邪霊・邪神の侵入を防ぎ、旅人の安全を守護する神(塞の神)が坐して、人々は、境界である坂を越えるときこの神に手向けし、旅の安全と異国での吉兆を祈ったという
 (崇神紀10年9月条に、「大彦命と和爾氏の祖・彦国葺(ヒコクニフク)が、反乱者・埴安彦(ハニヤスヒコ)討伐のため山城に向かうとき、和珥の武鐰坂(タケスキノサカ)の上に忌甕(イハヒベ・祭具)を据えて坂の神を祀った」とある)
 ・これらのことから、神武紀にいう居勢祝とは、境界である聖地・和珥坂に鎮座する坂の神(塞の神)に仕える祝(巫女)であったと思われる
 ・この和珥坂一帯は、春日臣の本家・和爾氏の本拠であったことから、この和珥坂で居勢祝(和邇氏系であろう)が祀った神が御蓋山の神の原形であったと思われ、和邇氏に連なる春日臣一族が御蓋山の山麓(春日野)で祀った神は塞の神的神格をもつ境の神で、その意味では、遣唐使が旅の安全を祈願するに相応しい神であったといえる
として、当社本来の祭神・巨勢姫命とは居勢祝が和珥の坂下で祀った神ではなかったかという。

 今の祭神・猿田彦大神について、古事記には
  「ここに日子番能瓊瓊芸命(ヒコホノニニギ)、天降りまさむとする時に、天の八衢(ヤチマタ)に居て、上は高天原を光(テラ)し、下は葦原中国を光す神ここにあり」
とある。
 ヤチマタとは天上・天下の境界であって、そこに顕れたサルタヒコは境の神であり、その点からみると、当社の旧祭神・コセ姫の神格を引き継ぐものといえる。
 ただ、当社祭神が同じ神格をもつとはいえ、コセ姫からサルタヒコへと代わった理由ははっきりせず、その時期が中世の頃ということからみると、神仏習合の観点から記紀神話の見直しが流行した中世という時代的な背景によるもので、余り知られていないコセ姫を著名な神・サルタヒコへと変更したのかもしれない。

 また、上記案内には「春日の地主神で・・・」という。
 地主神とは古来からの在地の神を意味し、中世以降の祭神・サルタヒコを以て地主神とするには疑問がある(春日の地主神は、日神あるいはコセ姫というのが本来であろう)
 ただ、各地の神社でサルタヒコを以て地主神とする事例が多く、境界にあって邪霊の侵入を遮る守護神ということから地主神とされたといえなくもないが判然としない。
 あるいは、サルタヒコが伊勢地方に古くから居た在地の神則ち地主神ということから、各地の地主神へと拡がったのかもしれない。

*社殿

 春日大社南回廊の西端に近い一画に、春日造朱塗りの社殿が鎮座する(桁・梁行共に95cm、向拝74cm、高さ2.85m-資料より)

 社殿の周囲は一辺5mの正方形に区画され、菱組瑞籬で画された南側正面には小型の春日鳥居(H=2.5m)が立つ。

 なお、社殿正面下部の胸板に、獅子と牡丹を描いた絵が見えるが、これと略同じ獅子と牡丹の絵が大社本殿の2殿3殿間の胸板に描かれている。




榎本神社・社殿
 
表参道からの入口石段
(石段上、回廊の一画に朱塗りの鳥居が立つ)

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