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片 岡 神 社
奈良県北葛城郡王寺町本町2丁目
祭神--天照大神・表筒男命・中筒男命・底筒男命品陀別命・清瀧命
                                                                2014.05.06参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛下郡 片岡坐神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。

 JR関西線・王寺駅の南約800m。駅の東を南北に走る国道168号線を南下、葛下川から二つ目の信号の左側(東側)にある達磨寺を過ぎた右側(西側)・王寺小学校の隣に鎮座し、国道から運動場越しに赤い鳥居が見える。

※由緒
 鳥井脇に立つ案内板には、
  「古くは元町大峰の東北端に鎮座していたそうです。
 新抄格勅符抄に大同元年(806)のこととして片岡神の神戸(封戸、昔神領に付属して租・庸・調を神社に納めていた農民)のことが出ているそうで、その頃既にこの神社が成立していたことを示しています。
 また、三代実録には、貞観元年(859)正月、正五位下に昇叙されたことがでています。
 この社は、放光寺の鎮守ともいわれ、本殿向かって左方には大原神社・金計(カナケ)神社ほか計4社が祀られています。・・・
 社伝によると風雨の神として尊信され正暦5年(994)には、疫病や天変地異がつづいたため、中臣氏人が宣命使となって救済を祈願して奉幣したといわれています」
とあるが、当社の創建由緒・時期等についての記載はなく、また境内に社務所らしき建物はない。

 当社関連の資料は少なく、管見した式内社調査報告(1982)には、
  「書紀・推古天皇21年(613)12月1日条に記す、皇太子(聖徳太子)が片岡においでになったとき、道ばたに飢えた人が居たので食を与え自分の衣装を脱いでその者に掛けてやり、『しなてる片岡山に 飯に飢て臥せる その旅人あはれ、云々』と詠まれた片岡山はこの付近で、この説話に基づき建久年中(1190--98・平安末期)に建てられた張井の達磨寺(道路を挟んで東側にある臨済宗の古刹)の鎮守・住吉神社が、当社に合祀されていることから察せられるように、片岡一帯の鎮守神として尊崇されていたと言えよう」(大意)
とあるが、ここにも創建に関わる記述はない。

 当社の創建年代も不明だが、
 ・新抄格勅符抄にみえる大同元年牒(806・奈良時代以降の社寺へ与えられた封戸の記録)に、
  「片岡神卅戸、大和七戸・遠江八戸・近江十五戸」
とあることから、9世記初頭以前からの古社であるのは確かで、神格授叙他記録として、
 ・三代実録・貞観元年(859)正月27日条
  「大和国従五位下勲八等・・・片岡神・・・並に正五位下を授け奉る」
 ・同・同年9月8日条
  「大和国・・・片岡神・・・等に弊を奉りき、風雨の為に祈りしなり」
とあり、また
 ・延喜式・玄蕃寮式には
  「新羅客入朝者、神酒を給う。その醸酒料の稲として、・・・大和国片岡一社、摂津国広田・生田・長田三社各五十束、合二百束を生田社に送れ」(漢文意訳)
とあり、摂津の広田・生田・長田社と肩を並べて重視されている。

 社頭の案内によれば、当社本来の鎮座地は元町大峰の東北端とあり、奈良県史(1989)には、
  「伝承では、方岡山北端の大峰の高所から字張井へ、さらに門前へと3回遷座があったという。・・・旧社地と伝える大峰の北端にある通称トミヤ(モトミヤとする資料もある)には榊の巨木が茂る旧神域が残っている」
という(式内社調査報告にも3回の遷座があったとある)
 なお、社伝によれば、現在地へは天保14年(1843・江戸末)という。
 片岡山とは当社の北にある樹木に覆われた低い山と思われるが(ただし、案内がいう元町ではなく本町に属する)、字大峰の所在はわからず、旧社地は未見。

※祭神
 社頭の案内に祭神名が記載されておらず、現祭神名不明(冒頭に記す祭神名は式内社調査報告によるもの)

 当社祭神については、
 ・式内郷社 片岡神社明細帳(1892・明治25)
  「清瀧大神・八幡大神・豊受大神・天照大神・住吉四柱大神」
 ・大和志料(1914・大正3)
  「山城国葛野郡賀茂別雷神社の摂社に片岡社ありて、建角身命を祭ると云ふ。当社も亦これと同神ならん。見るべし、山城国風土記に賀茂建角見命(カモタケツミ)は神倭石余比古(カムヤマトイワレヒコ・神武天皇)の御前に立ち坐して、大倭葛木山の嶺に坐すの文字あり。・・・建角見命は賀茂県主葛野県主の遠祖なるに、本郡にも亦葛野氏ありて八咫烏の苗裔なりと云ふ。風土記に葛下郡葛野兵衛八咫烏の孫即ち此れ。・・・
  今は豊受姫・表筒男・中筒男・底筒男・息長帯姫・品陀別・清瀧・天照大神の五社八神を祭れり」
などがあり、また
 ・本殿宝前の懸鏡(原鏡は盗難に遭い、今のそれは明和年間-江戸後期-の複製)の裏面には
  「八幡大菩薩・住吉大神宮・豊受大神宮・清瀧大権現・天照大神」
との刻銘があり、神仏習合時の名残を留めているという。

 これらの諸説と今の祭神を比べれば、豊受大神と息長帯姫(住吉四神の一 ・神功皇后)とが抜けているが、基本とする神々に変わりはないといえる。
 ただ、天照・八幡・住吉あるいは豊受の神々が当社に祀られる由緒は不詳で、江戸時代の祭神名が不明のため確証はないが、明治になっての付会との感が強い。

 祭神末尾にいう清瀧命(セイリュウ)とは、神仏習合時に清瀧権現(セイリュウゴンゲン)と呼ばれた龍王(水神)で、空海が神泉苑で祈雨修法をおこなったとき(824)出現して雨を降らせたという善女(善如)龍王が是だという。
 この神は、他の祭神と比べて仏教的色彩の濃い神であり、それが明治の神仏分離の後も祭神として残ったということは、当社の始まりが、生活・農耕などに必要な水を司る水神(龍王)信仰であったことを窺わせ、そこからみて、末尾に祀られている清瀧神(清瀧権現)が当社本来の祭神ではないかと思われる(延喜式には祭神一座とある)

 なお、大和志料がいう「賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社・片岡社」とは延喜式に「山城国愛宕郡 片山御子神社 大」とある式内社の別名で、いま上賀茂神社の第一摂社として祀られている。
 しかし、この神社の祭神は玉依姫命(建角身命の娘)であり、諸説の中にも建角身命は見えず、社名に御子が含まれることから建角身命祭神説には疑問があり、従って当社祭神を建角身命とする根拠とはなり得ない。社名の一致から来る牽強付会であろう。
 また、風土記に八咫烏の孫・葛野兵衛の名があるというが、大和国風土記逸文(東洋文庫版)にそれらしき記事はみえず、当地に葛野県主一族が居住していたかどうかは不明。

※社殿等
 朱塗りの鳥居を入った境内正面に拝殿(唐破風向拝付き切妻造・瓦葺)が、その奥、高い変に囲まれた中、渡り廊下に続いて本殿が東面して鎮座する。
 塀が高いため外からの実見は困難。式内社調査報告によれば、
  「木造銅板葺五間社神明造、柱は朱塗、五間の各扉には右から松(八幡)・竹(住吉)・梅(豊受大神)・牡丹(清瀧)・菊(天照大神)の各植物が彩色してある」
とあるが、右手高所からの瞥見では、白い漆喰塗りの壁面が見えるだけで、詳細不詳。


片岡神社・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿
 
同・本殿側面

◎境内社
 本社拝殿の左に境内社拝殿(向拝付平屋造・瓦葺)があり、その奥に本殿域と区画を別にして境内社4社が東面して並ぶ。 向かって右より
 ・大原神社--門部王命(カドベノオオキミ・放光寺創建に関わった百済の大原博士の氏神という)--神明造・鉄板葺(旧中村鎮座)
 ・金計神社(カナケ)--天児屋根命--春日造・鉄板葺(旧大田口鎮座)
 ・住吉神社--中筒男命--神明造・鉄板葺(旧門前鎮座)
 ・弁天神社--市杵島姫命--春日造・鉄板葺(旧門前鎮座)
というが(式内社調査報告)、塀が高く内部の確認は不能。
  何れも近隣の神社を合祀したもので(明治末期の神社整理統合によるものらしい)、詳細不明。

 また、本殿域右外の奥まった処に朱塗りの小祠があるが、社名・祭神等不明。

 
境内社拝殿

境内4社(本殿の左)
 
境内社(本殿の右)

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