[トップページへ戻る

川 俣 神 社
現社名-木葉神社
奈良県橿原市雲梯町初穂寺
祭神--木花開耶姫命
                                                               2013.07.07参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 川俣神社三座 並大 月次新嘗』とある式内社に比定される古社で、今は木葉神社と称している。

 近鉄橿原線・八木西口駅の西南西約2km、駅南を東西に走る国道24号線(大和高田バイパス)の高架道路下を西行、曾我川との交差地点で北に橋を渡り、すぐを右折、曾我川西岸添い道路の二つ目の角を左折したすぐ左手の疎林の中に鎮座する。
 なお、当社の北東約250mにある式内・高市御県坐鴨事代主神社を俗称・河俣神社(何れもカワマタ)と称することから紛らわしく、木葉神社と呼ぶ方が区別しやすい。

※由緒
 境内に由緒等の案内はなく詳細不明だが、三代実録(901)・清和天皇貞観元年(859)正月27日条に、
  「大和国従五位下・・・川俣神・・・従五位上を授く」
とあることから、9世紀には実在していたのは確かといえる。

 今、木葉神社と呼ばれている当社を、式内・川俣神社に比定したのは江戸中期の地誌・大和志(1734)といわれ、そこには
  「川俣神社 雲梯村に在り 今川股八王子と称す」
とあり、この八王子が初王寺となり、それが小字名・初穂寺に転じた、とみてのことという(式内社調査報告・1982)

 これに対して、室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(略称・五郡神社記、1446)には
  「帳に云 川俣神社三座 加美郷川俣村石川俣合に在り」
とあり、高市郡加美郷(現明日香村一帯)としている。

 この加美郷川俣村石川俣合の地が何処なのかは不詳だが、
 ・川俣(股)とは川の合流点(分流点)を意味すること(式内社調査報告、1982)
 ・五郡神社記に、「石川俣 飛鳥川と細谷川との落合」と注記していること
 ・飛鳥川と細谷川(細川)の合流点付近を、“石川俣と呼んだ”との古伝承があること(飛鳥の神々・和田萃,古代を考える・飛鳥1987諸裁)
 ・今、飛鳥川の支流に細谷川との川はないが、細川とも呼ぶことから、現明日香村細川の地を西流して飛鳥川に合流する冬野川と愚考されること
などから、飛鳥川と冬野川の合流点である明日香村祝戸(イワイド)の辺り(史跡・石舞台古墳のすぐ南)ではないかと思われる(近くに飛鳥歴史公園祝戸地区がある)。ただ、この付近に式内社に相当するような神社はない。

 しかし、式内社調査報告は
 ・高市郡内に川俣の字名をもつ所は、雲梯村以外にないこと(高市郡神社誌-1922)
 ・大和志にいう八王子が初王寺となり、更に現在の字名・初穂寺へと変わったとされること
 ・昔、雲梯集落の南方で、曾我川から古川という細流が分かれ(曾我川は集落の東を北流している)、集落の西を北流して忌部村(現忌部町)の田を潤していたが、この古川は古代からのものであること
から、同じ川俣でも、曾我川と旧古川の川俣(分流点)近くにある当社が式内・川俣神社であろうという。

 今、当社は木葉神社と称しているが、式内社調査報告に
  「当社は中世以降、荒廃に帰し、古伝を逸し、神仏混淆の世に僧房が建設され、一隅の小祠を鎮守とし、本来の祭神に代わって木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を勧請し、両部に祭って富士権現と称したらしく、その故証を燈籠に存している」
とあり、祭神・コノハナサクヤヒメの“コノハナ”から“コノハ”に転じたのかもしれない。

※祭神
 今、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)を祭神とするが、これは、上記のように、当社が、中世以降の神仏混淆の流れをうけて当地に建立された寺院(寺名不明)の鎮守社へと堕し、富士権現(現浅間神社・神仏混淆時の呼称)の祭神・コノハナサクヤヒメを勧請したことによるもので、当社本来の祭神ではない。

 当社本来の祭神について、式内社調査報告は
  「新撰姓氏録(815)・大和国皇別の項に、『川俣公(カワマタノキミ) 開化天皇皇子・彦坐命(ヒコニイマス)の後也』とある点よりして、川俣公の祖・彦坐命を主として、その族類神を斎ったものと思われるが、他に徴すべきものはない」
という。

 また、五郡神社記は
  「社家(川俣公)説いて曰、崇神天皇が八十万群神を祀らせた時、彦坐命に勅し、卜定に依り神殿を石川俣(飛鳥川と細川川の落合)に造り、天之穂日命(アメノホヒ)・天津彦根命(アマツヒコネ)・活都彦根命(イクツヒコネ)・熯之速日命(ヒノハヤヒ)・熊野忍蹈命(クマノオシホミ)を斎き奉り、大社と定め神田を封じ、天川俣神社と号し、彦坐命を祝部(ハフリベ・神官)と為して川俣公の氏姓を負わしめ、任氏(不明、川俣公か)の子孫を以て世々之に奉仕す。
 雄略天皇の御世、天皇霊夢に依りて少子部蜾(チイサコベ スガル)に詔して五神を分け、兄アメノホヒ命・アマツヒコネを子部村[当国十市郡]に斎祀し、然る後、弟イクツヒコネ命・ヒノハヤヒ命・クマノオシホミ命三神を当村に留めて尊敬す。三座は川俣神社也」(漢文意訳)
との伝承を記し、当社の創建にかかわる古伝承と解される。

 これによれば、その鎮座地には疑義があるものの、当社は、彦坐命が崇神天皇の命によりアメノホヒ命以下の5柱の神々を祀ったのが始まりで、雄略天皇の御世に2柱を他社へ遷し(遷座先は不明)、残った3柱の神が今の祭神ということになる。

 この5柱の神々は、書紀のアマテラスとスサノヲによるウケヒの段一書3(天岩屋段一書3も同じ)にいう、アマテラスの持ち物を物実としてスサノヲから生まれた男神・ホノニニギ以下の6柱のなかのホノニニギを除く5柱で、今の祭神は第4子以下の3柱となる。
 ただ、ウケヒで生まれた男神は、一書3以外は古事記・書紀(本文・一書1・2)ともに5柱であって、ヒノハヤヒ命は入っておらず、後段の国譲りの段に、「天石屋に住む稜威雄走神(イツノオハシリ)の子の、甕速日神(ミカハヤヒ)、その子のヒノハヤヒ神」として登場する(鹿島神宮の神・武甕槌神-タケミカヅチ-の父神とある)

 五郡神社記がいうヒノハヤヒがどちらの神かは不明だが、他の神々の並びから見ると、ウケヒによって生まれた神々のなかの一柱とみるのが順当であろう。

 これらによると、当社本来の祭神としては
  ①活津彦根命・熯之速日命・熊野忍蹈命--五社神社記
  ②川俣公の祖神・彦坐命とその裔神--式内社調査報告
との2説があることになる。

 伝承によれば、当社にイクツヒコネ命以下の3柱を祀るのは崇神天皇の命によるというが、これは、崇神紀に
  「(天皇が三輪の大物主大神と倭の大国魂神を祀ったとき)別に八十万の群神を祀った。よって天っ社・国っ社・神地・神戸を決めた」
とあるのを承けて、「崇神天皇が八十万群神を祀らせた時、彦坐命に命じて云々」というのであって、当社の創建を古い時期とするために創作された伝承で、崇神朝とする根拠はない
 (古社の創建を崇神朝に求めた事例は多いが、古墳時代前期-4世紀初頭とされる崇神朝での神マツリは、必要の都度、仮設の祭場-神籬-を設けてのそれであって、常設の神社があったとは思えない)

 時期不明ながら、当地に川俣公一族が居住していたとすれば、そこに祖神を祀る社を設けるのは通常のことで、その意味では、式内社調査報告がいう祖神・彦坐命及びその裔神というのが、妥当なところであろう。

 川俣公の遠祖とされる彦坐命とは、記紀によれば、9代・開化天皇の第3皇子で10代・崇神天皇の異母弟に当たる。
 その事績としては、古事記・崇神天皇条に「また日子坐王(彦坐命)をば丹波国に遣わして、玖駕耳之御笠(クガミミノミカサ)を殺させた」とあるのみで、古事記(講談社学術文庫版)の注によれば、垂仁天皇の御世に反乱をくわだて誅殺された沙本毘古王(サホビコ)・沙本毘売(サホビメ・垂仁の后)など15人の子供があったという。

 当社の祭祀氏族とされる川俣公氏とは、新撰姓氏録(815)
  「大和国皇別 川俣公 日下部宿禰同祖 (開化天皇皇子)彦坐命之後也」
とある氏族だろうが、どの御子から出た氏族かは不明。

 ただ、9代開化天皇はその実在が疑問視されている天皇であり、そこから彦坐命の存否にも疑問符が付く。川俣公が、自家を皇室に結びつけるために、その遠祖を、確たる事績がなく且つ子沢山の彦坐命に求めたとみるのが順当かもしれない。

※社殿
 道路脇の鳥居を入って,石畳の参道を進んだ先が境内。鳥居脇に「木葉神社」との社標柱が立つ。
 境内正面に拝殿(切妻造割拝殿・瓦葺)、その奥、高い塀に囲まれた中、低い石壇の上に本殿(春日造・銅板葺)が鎮座する。
 周囲の塀が高く且つ樹木繁茂のため、本殿域の詳細は実見不能。

 
川俣神社(木葉神社)・鳥居
 
同・本殿
 
同・本殿(拝殿格子の間から)
   
同・本殿

トップページへ戻る