トップページへ戻る

池坐朝霧黄幡比売神社
奈良県磯城郡田原本町法喜寺(ホウキジ)
祭神--天万栲幡千々比売命・菅原道真
                                                     2014.03.27参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 池坐朝霧黄幡比売神社 大 月次相嘗新嘗』とある式内社。社名は“イケニマス アサキリ キハタヒメ”と読むが、神名帳古写本の一部(九条家本・金剛寺本)には“横幡比売”とあり、“ヨコハタヒメ”と読ませている。社頭の鳥居神額には「池坐神社」とある。

 近鉄橿原線・田原本駅の北東約2km、駅東の国道24号線・鍵交差点から東へ約1km行った北側、初瀬川(大和川)左岸に鎮座する。

※由緒

 境内に立つ石碑(右写真)には、
  「池坐朝霧黄幡比売神社 旧郷社
 御祭神  天萬栲幢千々比売命
        菅原道真公
 例祭日  十月十九日
 延喜式神明帳に『池坐朝霧黄幡比売神社 大月次相嘗新嘗』と見える。
 社名祭神名の示す如く機織(幡)の神であって、推古帝24年(615)聖徳太子草創の法喜寺伽藍を賜った秦氏が、その祖神守り神として崇敬した古社である。
 また法貴寺記録によれば、天慶9年(946)9月19日に北野天満宮より菅原道真公を勧請した由がみえる。
 古来、法貴寺天神又は天満宮として遍く知られており、法喜寺(長谷川氏の氏寺)の鎮守神として信仰をあつめていた」
とある。 

 これによれば、当社は古代の豪族・秦氏が7世記初頭の頃、氏寺・法貴寺(法起寺ともいう)とともに創建したともとれるが、それを証する史料はない。

 当社にかかわる古史料上での記録として
 ・大倭国正税帳(730・正倉院文書)--池神戸 稲一六束 租六一束 合七七束・・・
 ・新抄格勅符抄引用の大同元年牒(806)--池神 三戸大和
があり(池社・池神は当社の略称)
 また神階綬叙記録として
 ・三代実録・清和天皇貞観元年(859)正月27日条--大和国従五位下・・・池坐朝霧黄幡比売神・・・従五位上に叙す
などが見え、これらによれば、当社が8世紀初頭に実在したのは確かといえる。

 ただ、その後の沿革は不詳で、磯城郡誌(1915・大正4)には
  「古は盛大なる社頭なりしも漸く衰微し、中古其の所在詳らかに知りがたきに至れり。志に、法貴寺村に在り今天神と称すと云へるに拠り、今其の社を以て式内池社と称し、現に郷社たり。池社と称する天神社は、川東村大字法貴寺にあり」
とある。

 ここで、“志”というのは、・江戸中期の地誌・大和志(1734)を指すが、そこには
  「池坐朝霧黄幡比売神社 法貴寺村に在り、今天神と称す。唐古小坂武蔵海知鎰村共に祭祀に預かる」
とあるのみで、その比定根拠は示されていない。
 憶測すれば、当社が法貴寺の鎮守とされていたこと、法貴寺記録に天慶9年(平安中期)に北野天満宮を勧請したとあることなどを根拠に、その天満宮(天神社)を以て式内・池社に比定したもので、当社が式内社とされたのはこれ以降という。

 これに関連して、大和志料(1914・大正3)が引用する旧法貴寺實相院所蔵の古図(伽藍配置略図・1635江戸前期、右略図)には、
 境内の東南方、横長の拝殿の背後(東側)に鳥居(華表)をもった神社2社が見えるが、

 左(北側)に天満宮、右に春日若宮社と記され、式内・池社(当社)の名は見えない。

 また、南北朝時代の古文書・春日若宮会目録(1384)にも『法貴寺天満宮』とあり、拝殿前の石灯籠にも正面に天満宮、側面に法貴寺とあり(奉納年代不明)、嘗ての当社が法貴寺天満宮と呼ばれていたことを示している。

 これらからみて、中世の頃には天満宮と呼ばれ、式内・池社の名は忘れられていたことを示唆している。 

  伽藍配置略図(部分)
 
    石灯籠

 法貴寺に関する資料少なく詳細は不詳だが、
 ・大和名所図会(1681・江戸前期)
  「法貴寺 実相院と号す、法貴寺村にあり。伝聞、聖徳太子の開創なり、古え伽藍魏々たり。年久しく頽廃して本堂一宇存せり。本尊薬師如来は百済国より来朝といへり。天王廟あり村民これを土神とす」
 ・磯城郡誌、
  「法貴寺は秦河勝の草創と称する旧刹にして、長谷川党の氏寺なり、故に長谷川党の一名を法貴寺氏人となす。当社は其の伽藍鎮守神として勧請せるものならん。古来同寺其の祭祀を管し、長谷川党これに預かるは蓋しここに起因するものか」
 ・当社案内
  「中世  長谷川党法貴寺氏の氏寺『法貴寺』と鎮守社」
などがある。

 長谷川党には幾つかの流れがあったようで、その一つ、当社に関係するものとして
  「大和国式上郡初瀬を発祥の地とする在原氏系の家系で、法貴寺荘を根拠地としたとみられ、大和国人である十市氏を盟主とする武士団・長谷川党を形成していた。
 世阿弥の女婿・金春禪竹の著・明宿集に『秦河勝の御子三人、一人には武を伝え、一人には伶人(雅楽)を伝え、一人には猿楽を伝ふ。武芸を伝え給ふ子孫、今の長谷川党これなり』」(Wikipedia)
とあり、長谷川党と秦氏との関係が深いことから、当社及び旧法貴寺を氏神社・氏寺としたのであろう。

 今、当社の北、小公園を挟んで隣接する法貴寺千萬院が当社の神宮寺・法貴寺の後継寺で、真言宗新儀派・本尊薬師如来という(奈良県史)

※祭神
 祭神--天萬栲幡千々比売命(アメノヨロズタクハタチヂヒメ)
       菅原道真

 当社の主祭神は、その社名からして黄幡比売命と思われるが(朝霧は黄幡にかかる枕詞という)、何故か、天万栲幡千々比売命(以下、栲幡千々比売という)とされている。
 栲幡千々比売とは、通常、高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘で皇孫・火瓊瓊杵尊(ホノニニギ)の母とされるが、異伝が多く、
 ・古事記--高木神(高皇産霊尊の別名)の娘・万幡豊秋津師比売(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)
 ・書紀本文--高皇産霊尊の娘・栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)
 ・同・一書1--思兼神の妹・万幡豊秋津姫(ヨロヅハタトヨアキツヒメ)
 ・同・一書2--高皇産霊尊の娘・万幡姫(ヨロヅハタヒメ)
 ・同・一書6--高皇産霊尊の娘・栲幡千々姫万幡姫、又は高皇産霊尊の娘・火之戸幡姫の子・千々姫(チヂヒメ)
 ・同・一書7--高皇産霊尊の子・万幡姫の子・玉依姫(タマヨリヒメ)
 ・同・一書8--高皇産霊尊の娘・天万栲幡千幡姫(アメノヨロヅタクハタチハタヒメ)
などが見え、いずれも天照大神の子・天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)に嫁いで皇孫・火瓊瓊杵尊を生んだという(火瓊瓊杵と火明命を生んだとする一書もある)

 この皇統譜によれば、栲幡千々比売は天皇家母方の祖神であり、その神が当社に祀られる由緒は不明。
 神名帳考証(1733)は、上記の一書8を挙げ、「按ずるに、黄幡千幡音相通ず」として黄幡比売は栲幡千幡姫の別名と推考しているが、語呂合わせ的要素が強く、音相通を以て同一神とするのは疑問がある。
 栲幡千々比売を推考すれば、
 ・栲(タク)--楮(コウゾ)の白い繊維
 ・幡(ハタ)--機織(ハタオリ)の道具
 ・千々(チヂ)--数多い意
であることから(岩波版・日本書紀の注)、栲幡比売命は多くの織物を司る女神と解される。

 一方、当社の祭祀氏族・長谷川氏が連なるとされる秦氏が、古代の織物に関わっていたこと(雄略紀に秦酒君が沢山の絹織物を朝廷に献上したのでウズマサの姓を賜ったとある)、黄幡比売の幡が機織・織物を指すことから、当社本来の祭神は、秦氏一族が奉祀する織物の女神・黄幡比売だったものが(但し、黄の意は不詳、奇・クシの音読みで神妙を意味するか)、いつの時代かに、同じ幡をもつ栲幡千々比売へと変わったのではないかと愚考される。

 菅原道真は、天慶9年北野天満宮からの勧請によるもので、当社本来の祭神ではないが、中世以降は、こちらが主祭神として崇敬されていたという。

※社殿等

  道路に沿って東西に鎮守の森(右写真)が広がり、その西端に立つ鳥居を入り東に向かう参道を入った先が境内。

 境内正面に唐破風をもつ拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、石壇上にベンガラ塗り板柵塀(正面)とコンクリート塀に囲まれた本殿域に本殿(春日造・ベンガラ塗・銅板葺)が西面して鎮座する。


  鎮守の森(東・初瀬川より)
 
池坐朝霧黄幡比売神社・鳥居
   
同・拝殿
同・本殿域正面     
同・本殿

◎境内社
 本殿域内、本殿の左に小祠1宇、右に小祠3宇が並ぶ(中央社殿は大きい)
 また、本殿域の左外に小祠3宇が、右外に2宇が並ぶ。
 資料によれば、
 ・本殿左--皇子神社(祭神不詳・八王子ともいう)
 ・本殿右--右から春日神社(春日四神)・松尾神社(松尾明神)・梅尾神社(梅尾丸)
とあるが、各祠に社名の表示なく確実な社名、その勧請由緒等は不詳。
 また、事代主神社(事代主命)・市杵島神社(市杵島姫命)・須佐之男神社(素戔鳴命)・琴平神社(不明)とあり、本殿域の左右にある小祠と思われるが、詳細不明。

 
境内社(本殿の左)
 
境内社(本殿の右)

境内社(本殿域の左外) 

トップページへ戻る