トップページへ戻る

平群坐紀氏神社
奈良県生駒郡平群町上庄5丁目
祭神--都久宿祢・天児屋根命・天照大神・八幡大菩薩
                                                             2015.02.15参詣

 延喜式神名帳に、『大和国平群郡 平群坐紀氏神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。社名は“ヘグリニマスキノウジガミノヤシロ”または“ヘグニマスキノウジノジンジャ”と読む。

 近鉄生駒線・元山上口駅の南南東約600m、駅東を走る国道168号線(清瀧街道)を南下、次ぎの信号を左折(東へ)、最初の角を右(南)へ入り2ブロックほど進んだ東側に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内(案内1という)には
  「延喜式神名帳に平群坐紀氏神社と記載のある式内社で、近世には辻の宮・椿の宮とも呼ばれていた。
 祭神は平群木菟宿祢(ヘグリノツクノスクネ・都久宿祢とも記す)で、紀船守(キノフナモリ・731--92、紀氏もしくは平群氏の末裔)がその祖、平群木菟を祀っている。
 中世には春日神社にもなっていた。・・・
 社地が椿井にあったとの記録もあり、そこから現在地に移された可能性もある」
とあり、も一つの案内(案内2という)には
  「旧村社 延喜式神明帳平群郡の平群坐紀氏神社に治定。
 当社は平群に居住した紀氏の名をとって名づけられたことは天長元年(824)の奏上から明白で、創建はそれ以前と考えられる。
 紀角宿祢(キノツノスクネ)は平群都久宿祢の弟であるが、紀氏の平群の勢力については明白でない。しかし、大字三里古墳は紀州紀ノ川沿岸に分布する石棚を有した古墳と同型で、紀伊との関係がわかる。
 又当社は、俗に『辻の宮』『椿の宮』と称し、江戸前期の石灯に春日大明神と刻む」
とある。

 当社にかかわる古資料として
 ・大和志(1734)
   上荘村に在り、今辻宮と称す。椣村椿井西向共に祭祀に預かる
 ・神名帳考証(1813)
   紀武内宿祢命(キノタケウチスクネ)、[古事記]建内宿祢之子平群都久宿祢(ヘグリノツク)平群臣等祖也、木角宿祢(キノツノスクネ)(紀)臣之祖
 ・神社覈録(1870)
   祭神紀直(キノアタヒ)祖か、上荘村に在す、今辻宮と称す。式三臨時祭名神祭285座中に大和国平群坐紀氏神社一座あり
   姓氏録に河内国神別紀直、神魂命(カミムスヒ)五世孫天道根命(アメノミチネ)之後也、同和泉国神別紀直、神魂命子御食持命(ミケモチ)之後也とあり
   考証、姓氏録左右京神別紀朝臣(キノアソン)の祖とす、恐らくは然らじ、今、紀朝臣の祖は平群神社として其処に引けり
 ・神祇志料(1871)
   淳和天皇天長元年(824)8月に、右衛門督紀朝臣百継・越前加賀神記朝臣末成等が奏上に依りて、紀氏神を幣帛の例に預からしめ(類従国史)、6年4月山城愛宕郡の丘一処を百継等に賜ふて、神を祀る処たらしむ(日本紀略)とある
 ・大和志料(1914)
   明治村大字上荘にあり、俗に辻宮と称す。延喜式に平群坐紀氏神社と見ゆ。今村社たり。
   祭神詳ならず。姓氏録に紀朝臣は石川朝臣同祖、建内宿祢男紀(木)角宿祢(キノツノスクネ)之後也、又紀朝臣石川宿祢同氏、屋主忍雄建猪心命(ヤヌシオシオタテイココロ)之後也とあれば、紀氏の祖を祭れるものならん
などがあり、

 近年の資料・奈良県史(1989)には
  「大和志に上荘村に在り今辻宮と称すとある。古来辻宮とも椿宮とも称し、式内名神大社に比定されている。
 明治25年の神社明細帳や昭和の宗教法人法による登録には、祭神を都久朝臣・天児屋根命・天照大神・八幡大菩薩とあるが、本来は紀氏の祖神を祀る古社であった。中世以来、春日神外二神を合祀したといわれる。
 紀氏の神は、天長元年(814)8月21日、紀百継・末成らの奉聞によって幣帛の例に預かり、同6年4月16日に、山城国愛宕郡の丘一所が下賜されて神地となっている。
 紀氏については、姓氏録に『紀朝臣 石川朝臣同祖 建内宿祢男紀角宿祢之後也』とあり、古事記によると、紀角宿祢は平群木菟宿祢(都久宿祢)の弟である。
 平群地方での紀氏の事歴は明らかでないが、日本書紀の雄略・欽明・功德・天智紀に出る古代屈指の大氏族で、瀬戸内海や紀川下流方面でも活躍した。その一部族が、この地方に居を占めていたと考えられる。
 しかも自らの祖神を祀った平群坐紀氏神社が延喜の制で名神大社に列したことは、他氏にぬきんでた勢力を持っていたことを思わせる。
 因みに、この宮の東南約500mの字三里(ミサト)にある前方後円墳が紀川下流の岩橋古墳群や、中流の吉野郡下市町阿智賀の岡峯古墳並びに大淀町槙ケ峯古墳と同じく、石棚を持つ緑泥岩で造成された奈良盆地唯一の古墳で、これが当社近くの紀氏根拠にあることに注目したい」
とある。

 当社に対する神階綬除記録等なく創建時代等は不詳だが、「平群郡某郷長解(写)」(貞観12年・870)との古文書に、平群谷で売買された家屋(売主:石川朝臣貞子・買主:紀朝臣春世)の横に、石川朝臣眞主の名と共に「紀氏神地」とあり、当社がこの時点(9世記中葉)以前からの古社であることを示唆している。
 それは又、社頭の案内で祖神を祀ったとある紀船守が、8世記後半に活躍した人物であることと整合し、当社の創建が8世記頃ということを示唆している。
 なお、創建の地は当社の南南東約2kmほどの椿井にある光照寺の南付近・矢田丘陵の西麓辺りといわれ、案内1がいう、「社地が椿井にあったとの記録もあり」とは、この地を指すのであろう。

 当社にかかわる祭祀氏族と思われる紀氏とは、古代紀国(和歌山県)を本貫とする神別氏族で、先代旧事本紀(国造本記、9世記前半、物部氏系史書)
  紀伊国造  神武朝の御世、神皇産霊命五世孫・天道根命を国造に定めた
とある天道根命を遠祖とする。
 管見した系譜によれば、その6世孫・宇遅彦命(紀国造)の妹・宇遅媛(山下影姫ともいう)が屋主忍雄武雄心命に婚して武内宿祢を生み、その武内宿祢が宇遅彦の孫(子ともいう)・宇乃媛を娶って生んだのが紀臣(後の紀朝臣)の祖・木角宿祢で、母方の氏名を名乗り紀氏と称したという(皇別氏族)

 その紀氏が当地に居たとの確証はないが、案内2や奈良県史にいうように、当社の東南約500mにある三里古墳(ミサト、平群町三里、長さ約35mの前方後円墳、又は径約22mの円墳のいずれか、6世記後半)の玄室(墓室)の奥壁下にある石棚が、和歌山県紀ノ川中下流域の古墳に多々見られることから、紀伊国を本貫とする紀氏が当地に進出していたことを示唆し、案内2には
 「雄略天皇の時代から平群臣真鳥ら大臣の人物を出した古代豪族平群氏の本貫地であり、同族紀(木)氏も同じ平群谷に居住していたようである。
 地形的には隠口型の自然要塞で、しかも盆地中央を流れる竜田川(平野川)は水上の交通機関も持ちあわせていたという」
とある。

※祭神
   都久宿祢(ツクノスクネ)・天児屋根命(アメノコヤネ)・天照大神・八幡大菩薩

 今祭神は、都久宿祢以下の4神というが、延喜式には一座とあり、本来のそれは都久宿祢一座であって、天児屋根命(春日神)以下の3神は中世以降の合祀というが、その合祀由緒・時期等は不明。

 この3座合祀は、確証はないが、室町末期頃から広まった三社託宣信仰にかかわって勧請されたのかとも思われる。
 三社託宣信仰とは、正直・清浄・慈悲についての指針(標語的なもの)を伊勢大神(天照大神・正直)・八幡大神(慈悲)・春日大神(天児屋根命・清浄)から下されたものとして崇め、これを守って生きようとする信仰をいう。

 当社を紀氏関連の神社とするのがほとんどで、今の主祭神・都久宿祢とは、古事記(孝元紀)
 ・平群都久宿祢--平群臣・川辺臣・佐和良臣・馬御樴連等の祖なり
とあるように平群氏の祖であって、
 当社が紀氏関連の神社とすれば、当社本来の祭神は、古事記に
 ・木角宿祢(キノツノスクネ、都久宿祢の弟)--木臣(紀臣)・都奴臣・坂本臣等の祖なり
とある木角宿祢(紀角宿祢とも記す)であって、都久宿祢というのは何かの間違いであろう(ツノとツクで紛らわしい)

 木角宿祢は上記のように、武内宿祢が紀国造家出身の“宇乃媛”を娶って生んだ子で、母方の氏名・“紀氏”を名乗ったといわれ、中央政権で活躍した紀臣(後の紀朝臣)の祖という。
 なお、武内宿祢も紀国造家から妻(宇遅媛)を娶っており、親子2代に亘って紀氏との関係が深いといえる。

 ただ、紀氏には幾つかの系列があったようで、新撰姓氏録によれば、
 ・左京皇別  紀朝臣 石川朝臣同祖 建内宿祢男紀角宿祢之後也
 ・右京皇別  紀朝臣 石川朝臣同氏 屋主忍雄建猪心命之後也
 ・河内国神別(天神)  紀直  神魂命五世孫天道根命之後也
 ・和泉国神別(天神)  紀直  神魂命子御食持命之後也
の4氏を数える。

 このうち、紀直(キノアタヒ)を名乗る河内 ・和泉の2氏は出自を異にする神別氏族であり、当社との関係はない(あっても薄いと思われる。

 紀朝臣2氏のうち、右京皇別の紀朝臣の祖・屋主忍雄建猪心命とは、武内宿祢の父・屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオココロか・孝元天皇の孫という)のことで、石川朝臣(武内宿祢の子・蘇我石川宿祢の後裔)同氏とあることから左京の紀朝臣と同族であるのは確かだが、両者の関係ははっきりしない。

 これらからみて、当社に関係する紀氏とは、左京皇別(皇別氏族)の紀朝臣系と思われ、とすれば、主祭神は木角宿祢とみるのが順当であろう。

 なお、社頭の案内がいう“紀船守”とは、正史の称徳朝から桓武朝にかけて見える実在の人物で(731--92)、案内は「紀氏若しくは平群氏の後裔」というが、紀氏関連の系譜によれば(真偽不問)、木角宿祢10代の後裔に船守の名があり、紀氏(左京紀朝臣)系の人物と思われる。

※社殿等
 南北道路の東側に立つ鳥居を入り、樹木に覆われたやや長目の参道を進んだ先が境内で、その正面に拝殿(切妻造割拝殿・瓦葺)が、その奥、白壁に囲まれたなかに朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が、いずれも西面して建つ。
 名神大社だけあって境内は広いが、社殿等は小さい。

 
平群坐紀氏神社・鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿
◎境内社
 参道の左手(北側)、参道左の疎林の中に境内社2宇が離れて建つ。
 ・春日神社--鳥居寄りにある小祠で、朱塗春日造・亜鉛版葺
           本殿に合祀されている春日社との関係は不詳。
 ・境内寄りの手水舎裏にある小祠で、社名等不明
 いずれも、鎮座由緒・時期等は不明。





  
 

トップページへ戻る