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岐多志太神社
奈良県磯城郡田原本町伊予戸
祭神--天香語山命・天児屋根命
                                                              2014.03.27参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 岐多志太神社二座 鍬靱』とある式内社。
 社名は“キタシタ”と読む。 

 近鉄橿原線・田原本駅の東約2.3km、駅東の国道24号線・阪手交差点から県道50号線を東へ、初瀬川・太平橋手前を川に沿って南へ、初瀬川西側に広がる田畑の中に残る疎林(右写真-東より)の中に鎮座する。
 境内へは疎林の西側から入り、入った先に鳥居が立つ。
 

※由緒
 境内に掲げる案内には、
  「岐多志太神社は、村屋坐弥都比売神社の北北西約400mの大字伊予戸(イヨド)と大字大木の間にあり、楠・欅 大樹の鎮守の森に西面して大正8年の石鳥居が建ち、境内に南面して拝殿と二柱の本殿がある。・・・

 この神社の祭神・天香語山命(アメノカゴヤマ)の名は石凝姥命(イシコリトメ)とも呼び、天児屋根命(アメノコヤネ)と共に鏡作坐天照御魂神社(カガミツクリニマスアマテルミタマ)と同じ、石凝姥命・天児屋根命を祀る。この地域の祖の物部大木連の一族に鏡作師連があり、『岐多志太』は『鍛冶師田』の万葉仮名文字の表記か。大木に“カヂヤカイト”“カンヂチョウ”の小字名があり、これらに関わる地名か。

 又、天香語山命は天ノ岩戸神話で天照大神を岩戸から出すのに歌舞音曲を用いたことから、芸能の神とされ、この大木に“フエフキ”・“ツツミウチ”・“ヒョシダ”の小字名があり、雅楽に関連する地であったのではないだろうか。
  大正10年 「岐多志太神社由緒」奈良女子高等師範学校教授 水木要太郎編

 この神社の旧社名は、大根命(読み不明)であったが、明治7年(1874)の神仏分離の時、式内社岐多志太神社となった。
 岐多志太神社は崇神天皇7年の鎮座と伝えられている「明治12年 大和国式下郡神社明細帳」
  平成20年 NO7 田扻3 田原本町観光協会(一部省略) 
とある。

 また、管見した当社に関する古資料として
*大和志(1734・江戸中期)
  「岐多志太神社二座 鍬靱 在所未詳」

*神社明細帳(1891)には
  「当神社は古来より岐多志太神社にして、通称社号は神地の字を以て大根神と云へり。
 天香語山命の天降りし後の名・手栗彦(タクリヒコ)、亦名高倉下命(タカクラジ)。是命は饒速日命(ニギハヤヒ)が天道日女(アメノミチヒメ)を妃として天上にて誕生せし御子なり。大祢命(オオネ)は天香語山命の弟・宇麻志遅命(ウマシマジ)の第三の孫なり。其弟・出雲醜大臣命(イズモシコオオオミ)の子に大木食命(オオキクイ)ありしは何れも物部氏の御祖なり。大祢命亦大木食命は天香語山命の御孫なり。
 崇神天皇の御宇、大神神社大物主神を祭る神主・大田々根命云々、物部の八十手の所作祭る神を物をして祭る八十万群神天社国社と云にあるに依りしは吾(是の誤記か)なり。 
 式内岐多志太神社の祭神は天香語山命・大祢命(「天香語山命・天児屋根命なり」との朱書訂正があるという)なり。或は大木食命か。・・・」(一部省略)

*大和志料(1914)には
  「岐多志太神社 川東村大木にあり。延喜式神名帳に、岐多志太神社二座 鍬靱と見ゆ。今村社たり、祭神詳ならず。
 案ずるに聞書覚書に、十市根(トイチネ)より四世布留久留命(フルクルノムラジノキミ)の一男大木連(オオキノムラジ)は大木氏の祖也とあり。物部大木連は当処の住民なるべく、而して旧事紀(先代旧事本紀)に、饒速日命十一世孫鍛冶師連公(キタシノムラジノキミ)は、鏡作連(カガミツクリノムラジ)小軽間連(コカルマノムラジ)等の祖也と。所謂鍛冶師氏亦物部氏にして大木氏と同族なれば、岐多志太は鍛冶師田(キタシタ)の假字(当て字)ならんか」(磯城郡誌-1915-にも同文あり、ただ所在地を「字タイコウジにあり」とする)
などがある。

 社名・キタシタについて、
 案内及び大和志料は、饒速日命十一世の孫・鍛冶師連公を“キタシノムラジ”と読み、鍛冶師田(鍛冶師の田か)・キタシタと読んでおり、岐多志太は鍛冶師田の当て字ではないかという。

 しかし、通常、鍛冶・カジは金打(カネウチ)→カヌチ→カンヂ→カジと転じたといわれ、また先代旧事本紀では鍛冶師連をカヌチノムラジと読んでおり、鍛冶をキタ、鍛冶師をキタシと読む根拠は不明。

 ただ、大木町にはカヂヤカイト(鍛冶屋垣内か)・カンヂチョウ(鍛冶町か)といった鍛冶に関わる小字名があったといわれ、当地付近は古く物部氏系の鍛冶師一族(鍛冶部)が居住していたことが窺われることから、鍛冶師田というのは、当地に居住していた鍛冶師一団に関係した地名であった蓋然性は高い。

 また別説として、当社付近は嘗ての“興田庄”(オキタノショウ)であったといわれ、その“オキタ”の“オ”が除かれて“キタ”となり、それに南を意味する“シタ”がついて“キタシタ(興田庄の南の意)”となったともいう(式内社調査報告・1982)
 しかし、地図上などで南方を下とするのは現代になってのことで、古く、一般に認識されていたかどうかは不明。

 別名・大根神について、式内社調査報告に、
  「鎮座地の古地名・字タイコウジは大字伊与戸領にあって、太鼓地とも大根神とも書くことがある」
とあり、大根神は神の字があるものの神名ではなく小字名からの呼称で、明細帳が「通称社号は神地の字(アザ)を以て大根神と云へり」というのは是による(案内後段に大根命とあるのは大根神の誤記であろう)。ただ、その読みは不詳。

 案内は当社の創祀を崇神7年とするが、これは書紀・崇神7年条に
  「(大物主神・大国魂神を祀ったとき)別に八十万の群神を祀った。よって天社(アマツヤシロ)・国社(クニツヤシロ)などを定めた」
とあるのをうけて、その時創祀された天社の一つに当社を充てたもので、当社の創祀を古く見せんがためのもので論外。
 また、当社に対する神階綬叙記録・封戸記録など見えず、当社の創建年代は不明。
 大和志に「在所未詳」とあり、案内に「明治の神仏分離以降、岐多志太神社となった」とあるのは、江戸時代までは式内・岐多志太神社とは認識されておらず、それを示唆する伝承等もなかったことを示している。

 なお、上記各資料には祭神に関わる記述が多いが、これらは先代旧事本紀(9世記前半、物部氏系史書)によるもので、記紀の記述とは異なる点もある。


※祭神
 今の祭神は、天香語山命・天児屋根命二座というが、
 ・神社明細帳--天香語山命・大祢命(但し、祭神元 天香語山命・天児屋根命との朱書訂正あり)
 ・大和志料・磯城郡誌--祭神未詳「天香語山命・大祢命あるいは大木食命か」
とある。

 当社祭神の一・天香語山命(アメノカグヤマ、天香山命とも記す)について、
 ・書紀・第9段一書6--天忍穂耳尊の御子・天火明命の子・天香山命は、尾張連らの遠祖(古事記には見えない)
 ・先代旧事本紀(以下、旧事記という)・天孫本紀--饒速日命は天道日女命を妃とし、天上に天香語山命を生む。
        御祖の饒速日命に従い紀伊国の熊野邑に天降った後の名は手栗彦命・高倉下命。尾張氏の祖。
とあり、出自が異なっている。

 ただ、饒速日命を天火明命と同一神とする説があり、とすれば、書記がいう天香山命と旧事紀の天香語山命とは同じ神となり、当社はこの説によって尾張氏の遠祖である天香語山命を祭神としたのであろう。
 しかし、この饒速日命=火明命説は、旧事記が饒速日命の本名を天照国照櫛玉火明饒速日命とし、中に“火明”の名をもつことから、これを尾張氏の祖・天火明命と同体視したことからのもので、本居宣長によって
  「尾張連と物部連を一つに饒速日命の後とするのは、いみじき偽説で、・・・物部氏が己の始祖を尊くせむ為に、饒速日命を天火明命なりと偽り作れるものなり」(大意、古事記伝・1798)
として否定され、大方の先学によって賛同されている。

 また、旧事記が天香語山命の別名という高倉下命について、記紀には、神武天皇東征時に熊野の地で難渋したとき、武甕槌神が降した神剣・フツノミタマを献上してその難を救った熊野の豪族として出てくるが、その出自についての記載なく、まして天香語山命を窺わせる痕跡もなく(旧事紀は、記紀にいう高倉下命の功績を別名・天香語山命の功績として記している)、本来は別神という。

 案内は、「天香語山命の名は石凝姥命とも呼び云々」というが、石凝姥命とは記紀・天岩戸の段で、天照大神を呼び戻すための祭具・八咫鏡を造り、天孫降臨に際しては五伴緒神(イツトモノオ)の一として火瓊瓊杵尊に従って天降った神で、鏡作部の遠祖という。
 一方、天香語山命は天岩戸神話・天孫降臨神話には登場せず、この両神は別神であって、同一視するには無理がある。

 また案内は、「天香語山命は天岩戸神話で天照大神を岩戸から出すのに歌舞音曲を用いたことから云々」というが、命は天岩戸神話には登場せず、これの根拠は不明。
 ただ、案内が大木付近にあったというフエノキ・ツツミウチ・ヒョシダ(ヒョウシダが詰まったものか)との小字名が、歌舞音曲にかかわると思われることからみると、当地付近に住んでいた芸能者たちが当社に芸の発展を祈願したことからの付会ではないかと思われる。

 上記案内・諸資料には天香語山命の他に、饒速日命が天降って鳥見の長髄彦の妹・御炊屋姫を娶って生んだ宇摩志麻治命(ウマシマジ)の子孫の名が出てくるが、これらは旧事紀にいう物部氏系の神々であり(旧事記に云う尾張氏系の神々の名は出ていない)、同じ饒速日命の後裔でも、尾張氏の遠祖・天香語山命とは系譜を別にする。
 案内・諸資料に出てくる神々について、旧事記により略記すれば、
 ・天香語山命--饒速日命の子(天上で生誕)で尾張氏の祖、事績の記述なし(別名・高倉下命としての事績はある)
 ・宇摩志麻治命--饒速日の子(大和で生誕)で物部氏の祖、神武天皇に仕えた
 ・大祢命(3世の孫)--宇摩志摩治命の弟・彦湯支命の子、安寧天皇に仕えた
 ・出雲醜大臣命(3世の孫)--大祢命の弟、懿徳天皇に仕えた
 ・大木食命(4世の孫)--出雲醜大臣命の子、三河国造等の祖
 ・十市根命(7世の孫)--垂仁天皇から物部連公の姓を賜り、大連として神宮に齊仕した
                書紀に、垂仁天皇の命により出雲国の神宝を調べ報告したとある
 ・布留久留命(11世の孫)--雄略天皇に大連として仕えた
 ・鍛冶師連公(11世の孫)--布留久留命の弟で、鏡作連・氷軽馬連等の祖
 ・大木連(12世の孫)--布留久留命の子(但し、一男とあるだけで名は出ていない)
となる。

 案内に、「この地域の祖の物部大木連一族に、鏡作連の祖・鍛冶師連があり云々」とあり、又、大和志料に「物部大木連は当処の住人なるべく・・・」とあることから、当社は物部氏に連なる大木連一族がその祖神を祀った社と推察される。
 ただ、大木連が祖神を祀ったのであれば、物部氏の遠祖である宇摩志麻治命とするのが順当と思われるのに、それが尾張氏の遠祖とされる天香語山命であるのは不可解。

 また、延喜式神名帳にいう祭神二座とは当初からのものと思われるが、物部氏系と思われる当社に中臣氏(藤原氏)の祖神とされる天児屋根命が祀られるのも不可解。
 本来は、神社明細帳・大和志料がいう大祢命(或いは大木食命)であったものが、物部氏没落後、当地に進出した中臣氏がその祖神へと変更したのかもしれない(天香語山命は尾張氏の祖ということで残ったか)

 いずれにしろ、当社の祭神二座を天香語山命・天児屋根命とするのは不可解で、大和志料がいうように「祭神未詳」とするのが妥当かもしれない。

※社殿
 鎮守の森の西南角からの参道を入ると西面して鳥居が立ち、鳥居脇に「式内 岐多志太神社」との石標が立つ。
 境内の左手(北側)に南面して拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、ブロック塀に囲まれた石壇上(正面板塀、小鳥居あり)に本殿(春日造)2宇が南面して鎮座する。
 塀が高く、社殿の様子は拝殿扉の格子から透かし見るだけで、詳細不詳。

 
岐多志太神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

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