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久 度 神 社
奈良県北葛城郡王寺町久度4丁目
祭神--久度大神・八幡大神・住吉大神・春日大神
                                                                 2014.05.06参詣

 延喜式神名帳に、『大和国平群郡 久度神社』とある式内社。社名は“クド”と読む。

 JR関西線・王寺駅の西北西約550m。駅北を東西に走る道路を西へ、信号を越えて二つ目の角(信号から西への道路は道幅が狭い)を右(北)へ入った先に境内への入口がある(角から見える)。神社の背後は大和川左岸堤防に接している。

※由緒
 神社で頂いた由緒略記には
  「久度神社は昔よりその名京畿地方に隠れもなき古社で、その創祀の年代は古く奈良朝以前にかかり、歴代皇室の崇敬厚く、殊に第50代桓武天皇の延暦2年(783)には特に官社に列せられ、従五位下という神位を賜りましたことが、続日本紀という、当時朝廷で選ばれたわが国の正史に載っています。

 その後毎年朝廷より幣帛が捧げられ、ご祭祀に預かっていましたが、延暦13年(794)都を奈良から京都にお遷しになるについて、久度の神をはじめその外平素からご信仰の篤かった2・3の神々を皇居の近くに遷されて、新たに平野神社が建てられました。
 これが京都の元官幣大社平野神社であり、その第二座の祭神が久度の神であります。

 このようして京都に遷られた久度の神は皇居に近く、ますます上下の尊信を得て栄えましたが、一方、大和に残った当久度神社は、何分京都より離れた地のために朝廷直接のご崇敬は漸く遠ざかりましたが、なお厳然と名高い古社として民間遠近の尊信は絶えませんでした。

 その後約一千年、時により多少の興廃はありましたが、昭和17年橿原神宮の古殿をもって拝殿・瑞垣・齋館・中門等の造営により面目を一新し、また昭和43年4月10日には京都平野神社から久度の神をお迎えし、一年後の昭和44年4月10日には本殿造営完工奉祝の行事を盛大に執り行い基のみ座である久度神社の本殿にお祀りてきましたことは、この古い由緒とともに郷土の誇りであると申さねばなりません」(一部省略あり)
とあるものの、創建に至る由緒は記されていない。

 当社の創建年代について、由緒略記は奈良時代以前というが、続日本紀(797)・桓武天皇延暦2年条に、
  「12月15日、大和国平群郡の久度神に従五位下を叙し官社と為す」
とあり、奈良時代末期以前からの古社であることは確かだが、その創建が何時まで遡及できるかは不明。

 なお、久度神への神階昇叙として承和3年(836)以降6度の記録があり、貞観5年(863)には正三位にまで昇っているが、これは当社の久度神を勧請したとされる山城国葛上郡の平野神社に祀られる久度神(第二座)への昇叙記録であって、当社へのそれではない。
 また、式内社調査報告(1982)には「元慶8年(884)に従五位上を昇叙された久度神とは当社のことであろう」とあるが、三代実録(901)・元慶8年9月21日条には「淡路国従五位下湊口神・久度神に従五位上を授く」とあり、これは淡路国の久度神への昇叙記録であって当社へのそれではない(淡路国にも久度神を祀る式内社がある)

 当社の祭神・久度神は、由緒略記にいうように、延暦13年、京都の平野神社に遷ったとされるが、これは
 ・神名帳考証(度会延経・1733)
  「山城国平野神社四社の内久度神は、此社より遷し奉るか」
 ・延喜式祝詞講義(鈴木重胤・1853)
  「久度神は神名帳に大和国平群郡久度神社と有る此社より仕奉れるにて祭神は竈神なり」
 ・蕃神考(伴信友・江戸後期・19世記中頃か、渡来神を祭神とする式内社の考証)
  「久度神(平野神社第2殿)の本社は、続紀に桓武天皇の御代遷都より前なり延暦2年12月丁巳、大和国平群郡久度神叙従五位下為官社と見えたり。
 祝詞考(賀茂真淵・1800、延喜式祝詞の考証)に此神社、今も同郡龍田の立野の社近き所の大和川の川辺に、久度村といふ里ありて、其氏神と齋ふを、平野に坐すと同神なりと、国人の語りたるよし云はれたるそれなるべし。
 この神社より、平野にも移し祭り給へるなり」(括弧内は引用者注)
とあるように、古くからの定説となっている。

 久度神の平野への遷座理由は不詳だが、平野神社に関与する渡来系(百済)氏族・和氏(ヤマト)が関係したようで、日本の神々5(1986)・平野神社の項には
  「現在の奈良県王寺町一帯は百済系集団が居住していた所であり、そこには古く久度寺と俗称された西安寺があり(現舟戸神社)、近くには久度神を祀る式内久度神社がある。また高野新笠(桓武帝の母・和氏出身)の父・和乙継の牧野墓も近くにあり(延喜式諸陵式)、従って和氏も久度神を信仰していたものと推察される」
とある。
  なお、和乙継の墓とされる牧野墓は、延喜式に「牧野墓-大皇太后之先和氏、在大和国平群郡」とあることから、王寺町の南に位置する広陵町バクヤの牧野古墳に比定されているが(馬見古墳郡の一基)、牧野古墳は5世記後半の古墳で、乙継の時代(8世記)とは合わない

 当地一帯に渡来人が居住していたことの傍証となるものはないが、当社の久度神が平野神社へ勧請されたのは、久度神への神階綬叙及び官社への編入が、桓武天皇の母・高野新笠が奉じる今木神への神階綬叙の翌年と連動していることからみて、今木神の平野神社奉祀に合わせて、同じ百済系の神とされる久度神も勧請されたと思われる。

 久度神の平野への遷座以降の経緯は不明だが、由緒略記に「昭和43年、京都平野神社から久度神をお迎えし・・・」とあるのをみれば、その間の当社には久度神は祀られておらず、八幡・住吉・春日の3座を祀っていたらしい。
 祭神が他社へ勧請されたとしても、元の社にもそのまま祀られるのが通常なのに、主神不在となったのは不思議で、何らかの理由があったと思われるが詳細は不明。

※祭神
 由緒略記には
 「御祭神  久度大神--竈の神・火の元の神
         八幡大神--寿命・幸運の神
         住吉大神--水運・交通の神
         春日大神--子孫繁栄の神
 久度大神の「久度」は「窖」(クド)の意味であり、御厨(ミクリヤ・台所)の神の総称であります。いわゆる竈の神として人間の生命をつなぐに一日も欠くことのできない食べ物の神、火の元の神として人間生命の本源を宰の給うのであります。

 久度神に合わせ祀る八幡大神・住吉大神・春日大神は久度大神とともにそれぞれ広大な御神威をもってこの地の守護の神として鎮まり給うのであります」
とある。

 由緒略記は「久度は窖の意味で、久度神は竈の神」というが、カマドとクドとの関係について、和名抄(937)
  「竈和名加万炊爨処也・・・窖和名久度竈後穿也」(竈 和名・加万-カマ 炊飯の処なり・・・窖 和名・久度-クド 竈の後の穴なり)
とあるように、カマドとクドとは別のもので、クドはカマドの後に付いている煙出し口を指すという(ただ、後になると、カマドを俗に“おクドさん”というように、クドとカマドは一体化している)

 そこから、
  「久度神とは、この煙出し部分を神格化したもので、わが国在来の竈神とはやや別種の新来の朝鮮系のカマド神として信仰されたもの」(平野社の成立と変質・1986)
で、換言すれば、
  「中国北部から朝鮮半島にかけて信仰される竈王神の流れをくむとされる久度神は、今木神と同様に百済系集団によって信仰されていた蕃神の一つ」(日本の神々5)
ということになろう(今木神とは、桓武の母・高野新笠が祀っていた神で、平野神社の主祭神)

 ここでいう竈王神とは道教の神で、中国では、家の中にあって家人の行為の善悪を常に観察し、暮れになると、天上にかえって天帝に報告し、それをうけて天帝は賞罰を降すと信じられ、その時より良い報告をしてもらうために、暮れの23日(或いは24日)に供物を捧げて竈神を祀ったという(竈王節)
 百済系の人々が持ち込んだ竈神が是かどうかは不明だが、中国からの流れを引いて、人の運命を左右する神として信仰されていたのであろう。

 由緒略記に、右に示すような略図が載っている。
 説明なく詳細は不明だが、注連縄を張り供物がのった竈を拝礼する神官が描かれており、当社では、このような竈神祭祀がおこなわれている(いた)のかもしれない。


 

 なお、わが国神道では、竈神は素戔鳴命の子・大年神の子である奥津比古命(オキツヒコ)・奥津比売命とされ、時には火の神・迦具土(カグツチ)を加えた3神ともいうが(仏教では三宝荒神とされることが多い)
 民俗学では、竈は家屋のなかの公的な空間である表座敷に対する私的な空間である裏側の暗がりにあることが多く(今のキッチンは明るいところに位置するが、昔は違っていた)、そこは此の世と異界との境界であって様々な精霊的な神々が往来し、それらの中心的な神である竈神は、味方にすれば強力な守護神であるが、敵に回すと激しく祟るという両義性をもち、家人の生死や運命あるいは家の盛衰を司る神・家の神として崇敬・畏怖されたという(竈神と厨神・2007)

※社殿等
 道路脇に立つ 一対の石灯籠から参道を進んだ先に鳥居が立ち境内に入る。
 境内正面に朱塗りの拝殿(入母屋造・瓦葺)があり、その背後、正面のやや色あせた朱塗りの透塀(中央に中門あり)、3方を高いブロック塀に囲まれた本殿域に横長の本殿が南面(正確には南南東)して鎮座するが、高い塀や樹木に阻まれて実見は困難で、背後の堤防道路から、塀越しに千木・堅魚木をもつ本殿の屋根(銅板葺)が見えるのみ。

 資料によれば、本殿は間口一間半(約2.7m)・奥行一間の流造で、4間(マ)に分かれ、右(東)より春日神・久度神・八幡神・住吉神の順に祀られているという。
 なお、今の本殿は昭和43年、京都の平野神社から久度神を複座せしめたときに一間増やして改築されたもので、それまでは中央に八幡神、右に春日神、左に住吉神を祀っていたという。

 
久度神社・参道入口
 
同・鳥居
 
同・拝殿

同・本殿域正面の中門
(拝殿格子戸より) 

同・本殿域
(左の樹木に隠れて本殿がある) 

同・本殿屋根
(裏の堤防上から屋根のみが見える) 

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