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久米御県神社
奈良県橿原市久米町宮の谷
祭神--高皇産霊神・大久米命・天槵根命
                                                         2013.05.09参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 久米御県神社三座』とある式内社。社名は“クメノミアガタ”と読む。

 近鉄・橿原神宮駅の西約250m、駅西口を出て西進、二つ目の信号(久米川原東)を右折(北へ)、突き当たりの小公園前を右(東へ)へ行った左手(東北角)に社叢が見え、その手前の辻を社叢に沿って北へ入った右側に鳥居が立つ(角に久米寺への案内表示あり)
 突き当たりが久米仙人説話が残る古刹・久米寺で、当社はその南に当たる。

※由緒
 社頭に掲げる案内によれば、
 「創建は明らかではないが、来目(久米・クメ)に関わる伝承は古事記・日本書紀の神代までさかのぼり、神武東征の伝説に、八咫烏(ヤタガラス)の導きで大和入りする時に活躍し、その功により、『大来目をして畝傍山の西の川辺に居らしめたまふ。今、来目邑(クメムラ)と号(ナヅ)く』との記載がある。
 書紀・垂仁27年紀に『是歳、屯倉(ミヤケ)を来目邑に興す』とみえ、久米村の地に王家の米倉がもうけられており、久米氏の祖神として奉斎されたこの神社は、かなり古い時期にまでたどることができる」
とある。

 当社は古代氏族・久米氏がその祖神を祀った神社で、記紀には、久米氏にかかわって次の記述がある(いずれも大意)
*天孫降臨の段
 ・古事記--そのとき天忍日命(アメノオシヒ)天津久米命(アマツクメ)の二人は、立派な靫(ユキ・矢を入れて背に負う武具)を負ひ、頭椎(クブツチ)の太刀を腰に着け、櫨弓(ハジユミ、強力な霊力が潜む弓)を手に取り、真鹿児矢(マカコヤ・同じく矢)を手鋏みに持って、天孫の先に立ってお仕え申し上げた。アメノオシヒ命は大伴連等の祖、アマツクメ命は久米直等の祖である。

 ・書紀(一書4)--大伴連の遠祖・天忍日命が、来目部の遠祖・津大来目(アメクシツノオオクメ)を率いて、・・・(記と同じ武装の様を列記)・・・天孫の前に立って降って行き・・・

*神武東征の段
 ・古事記--(宇陀の兄宇迦斯-エウカシ-が屋敷に罠を設けて神武を迎えようとしていると聞いて)大伴連の祖先・道臣命(ミチノオミ)と久米直の祖・大久米命の二人が、エウカシに向かって「おまえが造った御殿の中に、おまえがまず入って、仕えようとする有様をはっきり見せろ」とエウカシを屋敷の中に追い込んだところ、エウカシは自分が仕掛けた押罠(オシワナ)に打たれて死んでしまった(書紀ではミチノオミのみでオオクメの名はない)
 ・同--(神武即位後)天皇が皇后とする乙女を探し求められたとき、大久米命が「神の御子とされる乙女、オオクニヌシの娘・比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)がおられます」といった(書紀には“ある人が・・・”とある)

 ・書紀(神武即位前期)--(熊野で道に迷った神武を八咫烏が先導した時)大伴氏の先祖・日臣命(ヒノオミ=道臣命)は、大来目を率いて、大軍の統率者として、山を越え路を踏み分けて、烏の導きのままに仰ぎながら追いかけ、ついに宇陀の下道(ツモツコホリ)に着いた(古事記にはみえない)
 ・同(同)--(八十哮師の残党の勢いが強かったので、神武は)密かに道臣命を呼んで、「お前は大来目部を率いて、大室を忍坂邑(オサカノムラ、桜井市忍坂付近)に造って、盛んに酒宴を催し、敵をだまして討ち取れ」と命じられた。
 そこでミチノオミは忍坂に室を造り、敵を招いて盛大な酒宴を催し、敵が酒に酔ったところをみみはからって、道臣命の「忍坂の大室屋に 人多(サワ)に来入り居りとも みつみつし来目の子等が 頭椎(クブツツ)い石椎(イシツツ)い持ち 撃ちてし止まむ」との歌を合図に、料理人に化けていた米目の兵士たちが隠し持った武器をもって立ち敵兵を皆殺しにした(大意、古事記では、合図の歌の中に「勢い盛んな久米の子ら・・・」とある)

*神武即位後
 ・書紀(神武元年)--天皇が国政を始められる日に、大伴氏の先祖・道臣命が大来目部を率いて密命を受け、諷歌(ソエウタ、他のものになぞらえた諷刺歌)・倒語(サカシマゴト、味方だけに通じる隠語)をもって災いを払い除いた(古事記には見えない)
 ・同(神武2年2月)--天皇は論功行賞をおこなわれた。道臣命は宅地を賜り築坂邑(ツキサカムラ、橿原市鳥屋町付近)に居らしめて特に目をかけられた。また大久米を畝傍山以西の川辺の地に居らしめた。今、来目邑と呼ぶのはこの縁である(古事記にはみえない)

*垂仁天皇紀
 ・5年条--冬10月1日、天皇は来目にお越しになり、高宮におられた。
 ・27年条--この年、屯倉(ミヤケ・朝廷直轄の田畑および収穫物を収納する倉庫)を来目邑に興(タ)てた。
 (古事記は久米、書紀は来目と表記が異なるが、以下、久米と記す)

 記紀にみる久米氏のほとんどが、戦闘にかかわる場面で登場するように、久米氏は大伴氏とともに古代ヤマト朝廷において軍事に携わった氏族という(親衛隊的氏族)
 しかし、その記述内容は、古事記では大伴氏と久米氏は同格として並記されているが、書紀のそれは大伴氏に従うものとして記されており、格において違いがみえる。

 これに関して、古事記伝(1798、江戸後期初、本居宣長)
 「久米直(アタヒ)は、白橿原の御世(神武朝)、大久米命などまでは、大伴と並びたる氏なりしを、其の子孫の至りては、痛く衰えて、大伴氏のみ栄えたりしほどに、久米は其の下に仕える者になりしを、書紀は神代の巻も神武の巻をも、後に其の子孫の衰えたる時の趣を以て記されたるものと見えたり」(岩波文庫版)
として、久米氏と大伴氏は神武朝では同格だったが、その後、久米氏の勢いが衰えて、同じ軍事氏族である大伴氏に従属するようになったが、その衰時の状態を神武朝にまで遡及したのが書紀の記述という。

 これに対して、古事記注釈(1975、西郷信綱)
 ・大伴という名は、多くの伴(伴造-トモノミヤツコ、職能集団)を有しそれを率いているのにもとずく名で、久米氏もそれら伴のひとつであったらしい。
 ・大伴氏の姓(カバネ)は、古代氏姓制度での最高位である“臣”(オミ)とともに朝政に関与する“連”(ムラジ)であったが(雄略朝で大伴室屋が大連となって朝政を主導した)、久米氏のそれは格下の“直”(アタイ、国造級に与えられる姓)でしかなかった。
として、久米氏は古くから大伴氏に属する格下の氏族ではなかったかとして、その傍証として、万葉集にある大伴家持の
 陸奥国に金を出だす詔書を寿ぐ歌一首に
   大伴の遠つ神祖の その名をば 大久米主と負い持ちて(呼ばれて) 仕へし官(ツカサ、職柄) 海行かば水漬く屍(水びたしの屍) 山行かば草生す屍(草むした屍) 大君の辺(ヘ・お側)にこそ死なめ 顧みはせじ(後悔はしない) と言立て(誓って)・・・
との歌を挙げ、その中で、大伴氏の遠い祖先の名が大久米主と呼ばれていることから、
 「家持ちが自家の祖先の名を取り違えたとは思われず、かかる名が大伴の遠い神祖の名でありえたのは、そもそも最初から久米氏が大伴氏に属していた消息を物語ってはいないだろうか」という(大意)

 ただ、この西郷氏の論は、初期大和政権時代以降の史料によるもので(宣長がいう久米氏衰微以後の史料)、それ以前から久米氏が大伴氏に属していたことを証するものではないとも思われ、本居宣長説を全否定することには疑問があり、久米氏が、大伴氏の祖・道臣命が築坂邑を与えられると同時に、その近くの久米邑を与えられたのは、久米氏が大伴氏と並ぶ氏族であったことを証するともとれる。


 当社は、社名に“御県”(ミアガタ)を名乗るが、御県とは朝廷直轄地で、朝廷に蔬菜などを納める“吾が田(アガタ)”が転じて“ミアガタ”となったといわれ、後に行政区画の単位となり国県の県の字を充てたという(延喜式祝詞教本・1959)
 その久米御県に守護神として鎮座するのが当社だが、日本の神々4(2000)は、
 ・延喜式に載る祈年祭(トシゴヒノマツリ、旧暦2月におこなわれた五穀豊穣の祈願祭)祝詞には、御県神社として高市(タケチ)・葛木(カツラギ)・十市(トヲチ)・志貴(シキ)・山辺(ヤマノベ)・曾布(ソフ)の6社がみえるが、当社の名はみえないこと
 ・延喜式神名帳で、これら6社はすべて大社として遇せられ、祭神一座であるが、当社のみは小社であり、しかも三座であること
 ・当社について、正史に神階・奉幣の記録が全くないこと
 ・他の御県神社が、祝詞に“御県に坐す皇神等の前に申す・・・”というように、その祭神は朝廷に関係する神々であるのに対して、当社の祭神は久米氏の祖神・遠祖であって、質を異にすること
などから、当地(久米邑)が古くからの御県であることに疑問を呈したうえで、
 ・延喜式・金剛寺本(1127)に“貞”の頭注があることから、当社は貞観式(871)制定時に官社に列したと思われ
 ・他の御県神社が奈良時代以前からの官社であったのに対して、当社は御県の実体や機構が失われたと考えられる平安時代に官社・御県神社として公認されたもので
 ・それは、久米一族や久米郷有力者等による何らかの努力・画策が実った結果ではないか
と、久米御県は他の御県のように古くからのものではなく、貞観期以降(9世紀末)に設けられたのではないかという。


 創建後の当社については不詳だが、次第に衰微していったようで、上記案内には
 ・久米氏の退潮により神社も衰えたが(一旦は消滅したのかもしれない)
 ・のちに同地に建立された久米寺の寺域の一画に、鎮守として天神社または久米宮が創建された(神仏習合思想にもとずく鎮守社と思われ、式内・久米御県神社を引き継いだものかどうかは不詳
 ・以後、平安時代から江戸時代まで、宮座(神社の祭祀・管理をおこなうための特権的な住民集団)が中心となり奉斎されてきた。
 ・明治元年(1868)寺社の混同が厳禁となり(神仏分離)、神社は久米村の住民により奉斎され、創建当初の久米御県神社と改めた
とある。

◎久米寺
 縁起によれば、聖徳太子の弟・来目皇子による建立というが、これは寺格をあげんがための附会の説で、本来は、当地を本拠とする久米氏が氏寺(私寺)として建立したものという。
 当寺の建立時期は不詳だが、境内にある古い塔の址、出土した瓦の様式などから、奈良時代前期にはあったと推測されるという。

 のた、弘法大師・空海が若いとき当寺を訪れ密教教典である大日経を発見し、密教招来のための渡唐を決心し、また帰国後の空海が当寺に於いて弟子たちに密教教典を講義したともいう。
 これらが史実かどうかは不明だが、当寺が真言宗に属することからみて、空海と何らかの関係があったとみても良いだろう。

 なお、伝承では久米仙人が建立したともいう(今昔物語11巻24話)
 久米仙人説話とは、吉野の山中で修行し飛行の術を会得した久米仙人が、あるとき空を飛んでいて、吉野川の畔で洗濯をしていた(芋を洗っていたともいう),若い女性の白い脛(ハギ)をみて心乱れ(煩悩をおこして)、神通力を失い女性の前に落下した、というもの。

久米寺・山門

※祭神
 社頭の案内には
  祭神  高皇産霊神(タカミムスヒ)--天地開闢の時、高天原に出現した神
       大来目命(オオクメ)    --大和朝廷の軍事を掌った久米氏の祖神
       天槵根命(アメノクシネ)  --久米氏の祖神と関係の深い神
とある。

 当社が、その祭祀氏族・久米氏にかかわる神々を祀るのは異論はない。
 久米氏の出自・系譜などはも一つはっきりせず、ネット資料(久米氏考)によれば、久米氏発祥の地として、北九州糸島半島説・熊本県人吉地方説・鹿児島県薩摩半島説・大和国高市郡説(当地)などがあるという。
 また古事記・神武天皇段に
 「天皇の命により、オオクメ命が嬬恋の使者としてヒメタタライスケヨリヒメを訪れたとき、命が入れ墨をした鋭い目をしていたことを、姫が不思議に思って・・・」(大意)
とあることから、当時の久米氏には目の縁に入れ墨をする習慣があり、それが九州南部の隼人族などの風習に通じることから、久米氏の出自は九州ではないかともいう。

 新撰姓氏録(815)によれば、久米氏には
 ・左京神別(天神) 久米直 高御魂命八世孫味耳命之後也
 ・右京神別(天神) 久米直 神魂命八世孫味日命之後也
として2系列があったとする。
 この両者をみたとき、両氏とも始祖を味耳命(=味日、読み不明)とはいうものの、遠祖の名はタカミムスヒ・カミムスヒと異なっている。この二神は、天地開闢のときアメノミナカヌシとともに成り出た所謂・造化の三神で、この両神を遠祖とするのは、氏族の出自を神別とするための付加とみるべきだが、カミムスヒを遠祖とするのは出雲系氏族に多いことから、出雲との関係がみえない久米氏の遠祖はタカミムスヒとみるのが妥当であろう。

 このように、タカミムスヒは久米氏の遠祖と位置づけられ(姓氏録)、オオクメ命は久米直の祖(古事記)ということから、この二神を祭神とするのに問題はないが、アメノクシネについては異論がある。
 アメノクシネは、書紀(一書4)にいう来目部の祖・天槵津大来目(アメノクシツノオオクメ)と同一人物と思われ、式内社調査報告に
 「五郡神社記に天槵津大久米命と掲げたものを、近世期にこれを誤って二座の神名と分割して伝えられたものであろうから、これは当然天津久米命の名のみで良い」
とあるように、祭神名は天槵根大来目命(又は天津久米命)とし、その説明も“久米氏の祖神(あるいは大来目命の祖父)”とすべきであろう。
 因みに、久米氏の系図(古代豪族系図収覧・1993)では
  高皇産霊神--○--○--天津久米命--○--大久米命--○--○--味耳--
とあり、天津久米命(天槵津大来目命)は大久米命の祖父となっている。

※社殿
 西面する鳥居を入った先、境内正面に拝殿(切妻造平入、瓦葺き、千鳥破風の向拝あり)、その奥、ブロック塀に囲まれた中に本殿(春日造・朱塗、桧皮葺)が建つ。
 資料によれば、本殿の左右に境内社があり、本殿右は皇大神社(大日霊貴命・誉田別命・天児屋根命、三間社流造)、左は熊野神社(伊弉冉命、春日造)というが、塀が高く且つ上部に有刺鉄線があり近寄れず確認不能。また、この境内社が当社に祀られた由緒・時期等は不明。

 
久米御県神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

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