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櫛玉命神社
奈良県高市郡明日香村真弓
祭神--櫛玉彦命・櫛玉姫命・天明玉命・豊玉命
                                                               2013.06.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 櫛玉命神社四座 並大 月次新嘗』とある式内社。

 近鉄吉野線・飛鳥駅の南南西約600m、
 駅の東を南北に走る国道169号線(中街道)を南へ約500m、緑が丘の信号を右(西)へ、橋を渡り、道なりに進んだ先に当社が鎮座する社叢が見える。

 社叢を南から西へ回りこみ、畑との境をなす細い地道を右に入ると(表示なし)、折り返す形で神社への石段があり、石段下に神社名を記した表示板、石段上右手に「式内 櫛玉神社」の社標柱が立つ。
 事前にネット地図等で調べていく要あり。                                              

櫛玉神社・社叢(南より)

 同・参道(右側道の先が一般道)

※由緒
 境内に案内などの掲示が泣く、創建由緒・時期など不明だが、室町初期には玉造神社と呼ばれていたようで、室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(通称:五郡神社記-1446)によれば
 「玉造神社  
  帳(延喜式神名帳)に云う高市郡櫛玉命神社四座 巨勢郷矢田羽田両村に在り
  社家玉造連説いて曰く、旧記に矢田間神社二座 櫛玉彦神亦天明玉神と云う・櫛玉姫神亦天太玉神と云う也。伊弉諾尊の子也。元社は当国曾布矢田郷に在り、此の地に遷座して矢田間神社と号す。
 羽田間神社二座、羽明玉命亦櫛明玉命と云う、高皇産霊命の子也。・・・ 豊玉命亦玉屋命と云う、即ち羽明玉命の子也、玉造連の遠祖也。
 仲哀天皇の御世に到り、玉造人等を召し、其の□人荒木命(□玉彦三世孫大目命也)に巨勢地三十代を賜う。是に於いて荒木命、新たに神殿を造り祖神等を奉斎、羽玉神社と号す。此の時に当り矢玉神社を遷し奉り、都合四座を奉祀す。・・・(荒木命は)玉祖連の遠祖也。
 古老口伝氏祖系譜を閲し、其の要を摘し注進す、・・・大同3年(808) 玉造人玉祖宿禰 花押在り(漢文意訳)
という。

 これによれば、当社は、荒木命が仲哀天皇から巨勢の地を賜り、そこに羽玉神社(羽田間神社)を創建して祖神を祀り、併せて矢田村の矢玉(矢田間)神社を勧請したとなり、式内社調査報告(1982)は、五郡神社記によるとして
 「大同年間玉造神社注進状によると、仲哀天皇の代に櫛玉彦命の後裔に当たる荒木命が、祖先の勲功によって巨勢の地三十代を贈られ、よつて祖神をまつる為にこの地に神殿を造った」
という。

 五郡神社記は仲哀天皇の御世の創建というが、仲哀天皇の治世は5世紀初め頃(古墳時代中期、応神の一代前)と推測され(実在を疑問視する説もある)、その頃は、必要の都度、神籬(ヒモロギ)を設けての神マツリはあったものの、常設の神社があったとは思えない(常設の神社の建造は6世紀以降で、寺院建築に影響されてという)

 当社に関する正史上の記録としては、三代実録(901)・清和天皇貞観元年(859)正月27日条に
  「大和国従五位下・・・櫛玉命神・・・従五位上を授く」
とあり、9世紀にあったのは確かといえる。

 当社を創建したとされる荒木命とは、新撰姓氏録に
 ・右京神別(天神) 玉祖宿禰  高牟須比乃命十三世孫大荒木命の後也
 ・河内国神別(天神) 玉祖宿禰  天高魂神十三世孫荒木命の後也
とあり、玉造連の祖というが、それ以上のことは不明。


 創建後の経緯は不明だが、江戸中期の地誌・大和志(1734)
  「櫛玉命神社四座 真弓に在り 今八幡と称す」
とあり、当時は幡宮と称していたが、これは当時の時流に乗った祭神の変更だろうという(境内に立つ燈籠には八幡宮と刻したものが多いという)
 その後、明治に入って故実に反するとして古に戻したという(式内社調査報告)

※祭神
 祭神は、櫛玉彦命(クシタマヒコ)・櫛玉姫命(クシタマヒメ)・天明玉命(アメノアカルタマ)・豊玉命(トヨタマ)の四座で、いずれも玉造部に関わる神々と解される。

 記紀によれば、玉造部の祖神として、
 古事記
  天岩屋戸条--玉祖命(タマノオヤ・玉造部の祖神)に科(オホ)せて八坂の勾瓊の五百津の御統の珠(ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマ・長く連ねた聖なる珠の緒)を作らしめて・・・
  天孫降臨条--・・・天祖命 併せて五伴緒(イツトモノオ)を支(ワカ)ち加へて天降したまひき
 日本書紀
  天岩屋条一書2--玉造部の遠祖の豊玉神に玉を造らせ・・・
    同   一書3--真榊の中の枝には玉造の遠祖の伊弉諾尊の子・天明玉命が造った八坂瓊(ヤサカニ)の曲玉をかけ・・・
  天孫降臨条一書1--・・・玉造の遠祖・玉屋命(タマヤ)、全部で五部(イツトモノオ)の神たちを配して・・・
    同    一書2--櫛明玉命(クシアカルタマ)を玉造りの役目とされた
と、天祖命以下5柱の神名がみえ、古語拾遺(802)にも
  日神の石窟幽居条--櫛明玉神をして八坂瓊五百個御統(ヤサカニノイホツノミスマル)の玉を造らしむ
とあり、文脈からみて、これらの神々は異名同神と解される。

 一方、神名帳考証(1733・室町初期)には
  「櫛明玉命 古語拾遺云 太玉命が率いる神、名は櫛明玉命天明玉命の後」
   (古語拾遺-岩波文庫版には、「太玉命が率いる神の名は、・・・櫛明玉命(出雲国玉造が祖なり)・・・と曰す」とあって、,天明玉命の名はない)
とあり、また、式内社調査報告は
  「荒木の祖神は高皇産霊命で、この後に櫛玉彦命があり、次いで天明玉命がある」
    (神名帳考証にいう「天明玉命後」を、櫛明玉命の後が天明玉命と読んだものだろうが、○○後とは○○の後-後裔-を意味するのが普通。
     別に櫛明玉命の御子が天明玉命という伝承があったのだろうか)

と、別神として記している。

 これらの神々の中に櫛玉命(櫛玉彦命)の名はみえないが、新撰姓氏録(815)
  左京神別(天神) 小山連 高御魂命(タカミムスヒ)の子・櫛玉命の後也
とあり、上記五郡神社記には
  羽明玉命亦の名櫛明玉命はタカミムスヒの子
とあり、いずれもクシタマ命とタカミムスヒの御子ということから、櫛玉命(櫛玉彦命)は書記がいう櫛明玉命と同じかもしれない。

 これら玉造部の祖神とされる神々については、資料ごとに差異・混乱があるため、異名同神なのか別神なのか、別神とすればその系譜はどうなっているのか、などはっきりせず、当社祭神四座についても、玉造部系譜のなかでの位置づけなど不詳。


 なお、櫛玉命は物部氏の祖神・饒速日命(ニギハヤヒ)と異名同神で、当社本来の祭神はニギハヤヒではないかともいう。
 これは、
 ・先代旧事本紀・天孫本紀(9世紀前半、物部氏系史書)に、ニギハヤヒの本名は天照国照彦天日明櫛玉饒速日命(アマテルクニテルヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)とあり、そこに櫛玉命と同じ櫛玉の名があること
 ・大和国添下郡にある式内・矢田坐久志玉比古神社(ヤタニマスクシタマヒコ、現大和郡山市矢田町鎮座)の祭神がクシタマニギハヤヒで、社名をクシタマヒコ社と称すこと(五郡神社記にいう、矢田村から勧請した矢玉神社とはこの神社かもしれない)
などからのものと思われる。

 天照国照彦云々という長々とした神名は、先代旧事本紀のみに登場するもので、その編者とされる物部氏が、自家を皇室と結びつけるために、その遠祖・ニギハヤヒを書紀・一書8にいう天照国照彦火明命(天孫・ニニギの兄、古事記・書紀一書6では天火明命)と同神(天孫)としたもので、いわば政治的な目的をもって作られた神名との感が強い(記紀にいうニギハヤヒは、天神ではあるが天孫ではない)
 ただ、ホアカリとニギハヤヒの間にクシタマが入っている理由は不明。
 また、クシタマヒコがニギハヤヒだとすれば、当社に関わる氏族(荒木命一族)は物部氏系となるが、当地に物部氏の影は見えず、また姓氏録などにいう系譜とは整合せず、クシタマヒコ=ニギハヤヒ説は採れない。

※社殿
 鳥居をくぐり境内に入ると、狭い境内の左側に本殿が、右側に拝殿が相対する形で建っている。

 本殿域は高約2m弱の石垣上にあり、正面中央に小鳥居(櫛玉神社との神額あり、扉があり立入不可)が立ち、左右に木製格子造・朱塗りの玉垣(屋根・銅板葺)が伸びている。

 本殿は春日造朱塗り・銅板葺だが、小鳥居前からの正面が見えるだけで、石垣が高く全体像は見えない。南面。

 相対する拝殿は、切妻造平入り・瓦葺の横に長い建物。北面

◎境内社
 本殿域の左側(西側)少し離れて、石垣上の木製格子造玉垣を切り込んだ中に小鳥居1基が立つ。社殿はなく遙拝所形式となっている。
 資料によれば若宮社というが(現地に社名表示なし)、祭神名は不明。江戸時代の当社が八幡宮と呼ばれていたことに関係すると思われ、嘗ての八幡宮を若宮社と変更して境内社としたのかもしれない。

 若宮社の左(西側)の石垣上に、ヒョロリとした細身の小鳥居が立つが、ここも社殿はなく2個の岩(磐座というには小さい)が重なって置かれているのみ。
 資料によれば八坂神社で(社名表示なし)、小字堂山にあったものを明治41年(1908)に遷したものという。社頭の燈籠には牛頭天王宮とあるというから、中近世に流行した防疫神・ゴズテンノウを祀ったものであろう。

 
櫛玉命神社・鳥居
 
同・本殿域正面
 
同・本殿

同・拝殿 

境内社・八坂神社 
 
境内社・若宮社

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