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櫛玉比女命神社
奈良県北葛城郡広陵町南
祭神--櫛玉比女命
                                                    2015.03.17参詣

 延喜式神名帳に、『大和国広瀬郡 櫛玉比女命神社』とある式内社。社名は“クシタマヒメノミコト”と読む。

 近鉄田原本線箸尾駅の南約800m、駅東(約400m)を流れる葛城川西岸沿いを南下、二つ目の橋・鳥居大橋の手前に朱塗りの大鳥居が立ち、参道を西へ進み〆鳥居を入った先に鎮座する。
 また、鳥居大橋西詰めから県道14号線を西へ、当社鎮守の森の東端(表示あり)を北へ入ると〆鳥居前に至る。

※由緒
 境内に掲げる案内には、
  「延喜式にいう広瀬郡五座のひとつで、いわゆる式内社の格を誇る。
 その位置は前方後円墳の後円部にあたり、埴輪片が出土する。古墳と神社が結びつく例として注目される。
 祭神櫛玉比女命は櫛玉彦命に配されるが、大日本史では、饒速日命の妃である御炊屋姫(ミカシキヒメ)を当社祭神としている」
とある。

 当社にかかわる古資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)--弁財天村に在り、即ち弁財天と称す、箸尾荘五村共に祭祀に預かる。
                   石灯籠有り、天正10年建と曰ふ
 ・神祇志料(1871・江戸後期)--弁財天村にあり、櫛玉比女命を祀る、此は蓋し饒速日命の妃御炊屋媛也
 ・大和志料(1914・大正3)--延喜式神名帳に見ゆ、志に在弁財天村・・・と、今箸尾の弁財天の村社を以て之れを称す、
                   但し広瀬社旧記には相殿櫛玉姫を以て式内櫛玉比女命のこととなせり
があり、
 ・奈良県史(1989)には
  「弁財天集落の東南、字長泉寺畑に鎮座、前方後円墳の後円部に本殿があり、古墳全体が当社の境内となっている。古墳信仰にもとづく古代の祭祀遺跡である。
 一応式内社をこの神社に比定されているが、他に広瀬神社の相殿に祀る同名神社をあてる説もある。 
 祭神は、櫛玉比女命であるが、古墳との関連は明らかでない。
 大和志に弁財天と称し、箸尾荘五村共に奉祀に預かるとあり、・・・
 本殿右に弁財天の小祠があり、市杵島姫を祀るが、当本社の北方的場の大福寺所蔵の縁起現記(文安元年1444写)に、『神社鎮座の古墳は聖徳太子の築造で、弘安7年(1284)に、当地氏人僧侶等が天河弁財天(吉野郡天川村坪内)を勧請して、墳上に社殿を造立した』とある。
 近世には大福寺の鎮守であったが、明治初年神仏分離令で、弁財天・南・的場・菅野の氏神となった」(一部省略)
とある。

 当社の創建時期は不明。
 縁起現記は当社が立地する古墳は聖徳太子の築造というが、その形態・築造時期・被葬者など不明。
 この伝承は、多分に太子に仮託した創作であろうが、これによれば、当社の創建は早くても7世記以降となる。
 ただ、神階綬叙記録など創建時期を推測できる資料はない。

 ただ、当社への神階綬叙に関して式内社調査報告は、大和志料に
  「文徳実録 嘉祥4年(851)辛未正月27日 大和国無位玉櫛姫命を新たに従六位上と記されているが、云々」
というが、管見した大和志料(近代デジタルライブラリー)にそのような記録はみえない。
 また、この神階綬叙記録は、文徳実録の
  「仁寿元年正月庚子 詔して、天下諸神 有位無位を論ぜず 正六位上に叙す」
との記録によるもので(嘉祥4年4月に仁寿元年と改元している)、当時あった無位の神社全てに従六位上の神階を綬除したもので、そこに当社が含まれる確証はない。


※祭神
 今の祭神は、櫛玉比女命となっているが、記紀等にその名は見えず、その出自は不明。
 ただ、櫛玉の櫛とは奇(クシ、霊妙な・神妙なこと)であることから、奇玉(クシタマ)とは“霊妙な力をもつ玉(魂)”を神格化した一般的名称となり、“玉”を名乗ることから古代の玉造りに関係する神と推測される。

 この櫛玉比女の対偶神(男女一対の神)として櫛玉比古があり、これを祀る神社として矢田坐久志玉比古神社(大和郡山市)・櫛玉命神社(明日香村)がある。

 ただ、この櫛玉比古もまた出自のはっきりしない神で、大まかにいって①高皇産霊神(タカミムスヒ)の後裔説 ②饒速日命(ニギハヤヒ)同体説がある。

①タカミムスヒ後裔説
 櫛玉比古の名は記紀等にみえないが、類似の名として、玉祖命(古事記・天岩屋段)・豊玉彦(書紀・天孫降臨段)、櫛明玉命(同前)、天明玉命(古語拾遺)・櫛玉命(新撰姓氏録)などがあり
 新撰姓氏録に
 ・右京神別(天神) 玉祖宿祢 タカミムスヒの孫・天明玉命の後也(河内国にも同じ氏族あり)
 ・右京神別(天神) 忌玉作 タカミムスヒの孫・天明玉命の後也
             天津彦瓊瓊杵命葦原中国に降臨のとき、五氏氏神部 皇孫に陪従して降る 
             是時 玉・璧を作り以て神弊と為す 故に玉祖連亦玉作連と号す
 ・左京神別(天神) 小山連 タカミムスヒの子・櫛玉命の後也(摂津国にも同じ氏族あり)
などがあるように、これらの氏族は玉造を職掌とする伴造(玉造部と総称する)という。

 これから、櫛玉比古命もこれら玉造に関連する氏族の祖かとも思われ、櫛玉比女命・櫛玉比古命は一対の神と思われる。

②ニギハヤヒ同体説
 先代旧事本紀(9世記前半頃、物部氏系史書)に、ニギハヤヒの本名として天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコホアカリクシタマニギハヤヒ)とあり、この櫛玉饒速日と櫛玉比古とを同じ神と見、
 そこから対偶神である櫛玉比女をニギハヤヒの妃・御炊屋姫(ミカシキヤヒメ・長髄彦の妹)に充てるものが多く、上記古資料のうち神祇志料が「(櫛玉比女命は)蓋し饒速日命の妃・御炊屋姫也」というのも、その一つ。

 ただ、天照国照・・・という長々しい神名は、旧事本紀のみにみえる神名で、これは物部氏が自家の遠祖・ニギハヤヒを皇室と結びつけるために創作した神名と思われ(アマテラスの御子・天火明命-アメノホアカリの別名に天照国照彦火明命とあり、ニギハヤヒとこのアメノホアカリ命とは同じとするものだが、本居宣長以下の先学はこれを否定している)、櫛玉比女を御炊屋姫とするのも同じことといえる。

 これからみて、当社祭神は玉造に関係する氏族が、その祖・櫛玉比古の対偶神としての櫛玉比女を祀ったとも思われるが、何故櫛玉比売命のみを祀るのかは不詳。

 なお、当社は古くから“弁財天”(厳島神社)として信仰されていたというが、これは上記・縁起現記に、弘安7年天河弁財天社(祭神:市杵島姫命)から勧請したとある神社で、式内社調査報告は、
 「弁財天にあたる厳島神社は、現在、社務所兼神職宅の廷内社として鎮座し、本社とは別個である。
 祭神・櫛玉比売が古くから弁財天として信仰を集め、やがて地名にも名づけられるようになったのか、廷内社としてあった厳島神社の信仰が、いつしか櫛玉比売の信仰に移り変わったかは明らかでなく、今後の研究に待たなければならない」
という。

※社殿等

 葛城川西岸に立つ朱塗りの大鳥居を入り、民地間の参道を西へ進んだ先、細い道を挟んで〆鳥居が立つ境内に入る。

 一ブロックを占める広い叢林の中、境内中央に拝殿(千鳥破風付き入母屋造・瓦葺、その奥、玉垣で区切られ小高くなった上に本殿(春日造・銅板葺)が 東面して鎮座する。




:県道北側に拡がる鎮守の森
 
櫛玉比売命神社・一の鳥居
   同・〆鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿
 
同 左

 当社境内は古墳条に位置するというが、拝殿奥の小高い処に鎮座する本殿(写真左)を横から見ると、確かに後円部頂上に位置し(写真中)、その裾には環濠跡とおぼしい低湿地が残っている(写真右)
 ただ、古墳の規模・築造年次等は不明。

 
本殿は古墳後円部頂上に鎮座する 

古墳環濠跡 

◎末社
 拝殿の右手に末社4宇が並ぶ。左から
  ・八幡社(品陀和気命)春日社(天津児屋根命)合祀社
  ・皇大宮(天照皇大神)
  ・稲荷社(豊宇気大神)
  ・熊野社(熊野権現)白山社(白山比咩大神)合祀社

 その右、民家に接した白壁の中に朱塗りの弁財天社が鎮座するが、これが当社の末社かどうかは不詳。

 
同・末社群
 
末社・弁財天社 

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