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桑 内 神 社
祭神--建麻利尼命
比定--大神神社
奈良県桜井市粟殿

                                                                   2014.07.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 桑内神社二座 鍬靱』とある式内だが、今、桜井市粟殿にある大神神社(オオミワ)を式内・桑内神社とする説がある。社名は“クハウチ”と読む。

 大神神社は、JR桜井線・近鉄大阪線の桜井駅の北約1.5km、駅北から北へ向かう道路を北進した、突き当たりの右手に鎮座する。

※由緒
 当社の創建由緒・年次・沿革等不明で、延喜式にその名があるものの神階綬叙記録等はない。

 近世以降の古資料に
 ・大和志(1734・江戸中期)--在所未詳
 ・神社覈録(1870)--祭神在所等詳ならず
 ・大和志料(1914・大正3)--在所祭神詳かならず
とあるように、長らく所在地不明となっていたが、
 ・磯城郡誌(1915)が、その大神神社の項に、
  「式内桑内神社は本社(大神神社)ならんと云ふものあり。蓋し桑内はオドと訓するに因る、後考を待つ」
として以来、式内・桑内神社を桜井市粟殿(オオドノ)所在の大神神社(オオミワ)に充てる説が有力になったといわれ、
 ・桜井市史(1979)には
  「大神神社を式内・桑内神社にあてる説(最初は磯城郡役所編「磯城郡誌」)があるが、今後の調査をまたねばならない」
として、磯城郡誌が最初であることを注記している。

 これは、日本地名伝承論(1977・池田末則)
 ・桑内は“オド”と訓む
 ・桑内(オド)の桑は粟、内は田で、字形の類似によって(粟田を桑内と)誤写したものであろう
 ・オドの音はオウドノの略で
 ・(現在の地名)粟殿(オウドノ)は粟田(オウデン)の転じたものではなかろうか
とあるのによるもので(式内社調査報告・1982)
 磯城郡誌・粟殿の項には、  
  「三輪・桜井の中間にあり。或は云ふ此の地古くは桑内と称せしと。今に桑内又は梓と字せる地あり。
  蓋し桑は“ヲ”と訓みしより終に之を“オド”と呼び、後粟殿の字を充用したるものなるべし、後考を俟つ」
とある。

 この説は、当社の所在地・粟殿と社名・桑内を、表示の変転・訓みの変化などを根拠に、粟殿にある大神神社と結びつけたと思われるが、牽強付会の感が強く(特に桑内をオドと訓み、桑内は粟田とするなど理解できない)、これを以て大神神社を式内・桑内神社とするのは疑問で、大和志などがいうように「在地未詳」とするのが妥当かもしれない。


※祭神
  建麻利尼命(タケマリネ)

 建麻利尼命とは、尾張氏系図に「火明命6世の孫」と見える神で、火明命(ホアカリ)とは古事記にいうアマテラスの孫・天火明命(アメノホアカリ)を指す(書紀・一書に、天火明命はアマテラスの孫で、その子・天香山-アメノカグヤマは尾張氏らの遠祖とある)
 また、先代旧事本紀(9世記前半・物部氏系史書)・天孫本紀には
  「饒速日命(ニギハヤヒ)6世の孫・建麻利尼命 石作連(イシツクリ)・桑内連・山辺県主等の祖」
とあ、桑内連一族の祖神という(ニギハヤヒ6世孫とするのは、ニギハヤヒをアメノホアカリと同神とする旧事本紀独自の説によるもので、この説を採る資料も散見されるが、本居宣長以下の先学によって否定されている)

 ただ、新撰姓氏録に桑内連の名は見えず、その事績を記した史料もないことから、その実態は不明(書紀・天武9年9月条に「27日、桑内王が自宅で卒した」とあるが、この桑内王が桑内連氏の一族かどうかは不明)
 ただ、旧事本紀が同祖という石作連について、
  「左京神別(天神) 石作連 火明命六世孫建麻利尼命之後也
               垂仁天皇御世、皇后日葉酢媛命の為に石棺を作り之を献ず。仍って姓石作大連公を賜る」
とあることから、桑内連も建麻利尼命の後裔氏族とみられていたのであろう。

 建麻利尼命を当社の祭神とする資料として
 ・神祇志料(1873)--蓋し桑内連の祖神・建麻利尼命を祀る
 ・大和志料--祭神不詳。旧事記に拠るに、桑内氏は物部建麻利尼命より出。豈其の祖神を祭れるものか
などがあり、他の祭神を掲げる資料はない。


【大神神社】
 祭神--大物主命・天児屋根命・金山彦命

※由緒
 鳥居脇に大神神社と刻した標柱が立つ以外に、境内に由緒等を記した案内なく、創建由緒・年代・祭神名ともに不明。
 また、境内に式内・桑内神社を窺わせる痕跡は一切ない。

 当社に関する資料として、磯城郡誌に
  「大神神社  村社にして三輪明神を祀る。初め春日神社と称せしを、明治36年今の社号に改む」
とあるのみだが、
 式内社調査報告(1982)は、
 ・粟殿の地区は江戸時代を通じ、東粟殿(津藤堂藩領)と西粟殿(天領)に分かれ、東桑殿には春日社(天児屋根命)、西桑殿には大物主神社が祀られていたが
 ・春日神社は明治42年(1909)に大神神社境内に合祀された
 ・東西両粟殿に大神神社・春日神社の2社があったのは確かだが、そこに桑内神社があった証拠はみられない。
 ・大神神社は古来から大神神社(三輪)の御分霊を祀るというが(明治7年の郷村社取調帳には祭神・大物主命とある)、もともとから現在地に鎮座していたかどうかは疑わしい。
 その理由として、
 ・三輪流神道深秘鈔(近世初期の大神神社史料所収)
  「二ツ神(フタツカミ)・松ノ本の神・忍坂宮イクネ大明神、いずれも三輪の大明神の御子の神といへり」
とあり、
 ・この二ツ神(フタツカミ)は粟殿と西側の上之庄にまたがる処(下紀)に存在し、明治の初めまで12坪ほどの土壇があって、そこに祀られていた小祠・稲荷社は上之庄の殖栗神社に合祀された
として、
 ・大神神社は、元はこの字二ツ神の地で御分霊を祀っていたのではないか
 ・神社境内にある石灯籠の内、「延暦六年(1678)十二月上旬 大神神社石灯籠 城上郡粟殿」とあるのが最古であることから、同社が現在地に祀られたのが新しいことがわかる
という(概略)

 なお調査報告は、二ツ神が桑山神社本来の鎮座地で、深秘鈔の記録は「そこに祀られていた桑内神社が三輪明神の御子神に取って変わられ、三輪明神の分霊を祀ったのを示すものではないか」ともいうが、傍証となるものはない(大神神社史料は、近傍にある神々のほとんどを御子神としているが、その根拠は不明)

 なお当社には、終戦まで「キチガヒ祭り」という奇祭があり(10月1日から7日間、真夜中2時頃に大神神社に詣ったという)、その起源を記す古文書写(天文3年-1534・戦国時代)に、
  「天文3年、6月19日夜禰宜宅から出火25軒焼ける。7月21日より悪病流行、9月1日より7日間、村中三輪明神へ朝詣りして病おさまる」
とあり、これは三輪明神の分霊を祀る粟殿に興福寺春日社の勢力が伸びて春日神社と変えたための祟りで、三輪明神へ夜詣りすることで、やっとおさまったものとしている(祭礼の日を10月1日からというのは、旧暦9月を新暦10月に置き換えたものだろう)

 しかし式内社調査報告は、
 ・この古文書の真偽は疑わしく
 ・これは、字二ツ神二座を示すに祭られていた桑内神社が三輪明神の御子神にとって替わられ、三輪明神の分霊を祭ったことによる祟りであろう
として、字二ツ神の地名は桑内神社の祭神二座からくるもので、桑内神社が二ツ神にあったことを示唆するとして、古文書がいう祟りとは、桑内神社が三輪明神を祀る大神神社に替わったことによるものだろうという。

 二ツ神に坐す神の祟りを解くために夜詣りしたことを、粟殿にある大神神社に祭礼として引き継いだということは、二ツ神にあった社は大神神社であったことを示唆し、これを以て桑内神社が二ツ神にあったとするのは疑問がある。

※祭神
 境内に祭神名の案内なく不明だが、ネット資料によれば、今の祭神は、大物主神・天児屋根命・金山彦命という。
 ・大物主神--当社が三輪の大神神社からの分霊を祀ったのであれば主祭神として順当
 ・天児屋根命--東粟殿から合祀した末社・春日社の祭神
 ・金山彦命--末社・金比羅社の祭神だろうが、 勧請由来・時期等は不明

※社殿
 駅前からの直進道路が突き当たった右手にあるが(角に大神神社との看板あり)、境内左を回り込んだ北側に鳥居が立つ。
 境内へ入ってすぐ左に横長の割拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、白塀に囲まれた本殿域に、本殿(一間社流造・銅板葺)と末社が西面して鎮座する。
 ただ、本殿域を囲む白壁が高く、中の様子は実見できない。

 資料によれば、
  本殿右--愛宕社・金比羅社(春日造・銅板葺--下写真)-西面
  本殿左--春日社(春日造・銅板葺--旧東粟殿から合祀したもの)-南面
という。


大神神社・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿域(南側部分)

◎二ツ神

 二ツ神の地は、大神神社の西方約400m、桜井市役所の西北方、桜井郵便局の西側で、粟殿と上之庄との境界辺りというが(式内社調査報告)、今、その地の確定はできない。

 ただ、郵便局前から西へ延びる小道を進んだ先、田畑の一画に小さな疎林がある(右写真)。 正確ではないが、市役所の西北方、粟殿と上之庄の境界辺りにあたるが、林内には遺構を示唆する痕跡もなく、また周囲より高くなってもいない。

 これを大神神社(又は桑内神社)の旧社地とするのは根拠のない推測にすぎないが、田畑の中に疎林が残っていることは、そこに祭祀に係わる何かがあったことを示唆するともいえる 

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