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目原坐高御魂神社
A:天満神社
奈良県橿原市太田市町
祭神--高御魂命・神産日命・菅原道真
B:耳成山口神社
奈良県橿原市木原町
祭神--大山祇神・高御産霊神
C:山之坊山口神社
奈良県橿原市山之坊町
祭神--大山祇神
                                                                  2013.08.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国十市郡 目原坐高御魂神社二座 並大 月次新嘗』とある式内社。
 江戸時代には所在不明となっていたが、今、上記3社が論社となっている。社名は“メハラニマス タカミムスヒ”と読む。

※由緒
 日本書紀・顕宗天皇3年条に、
  「夏4月5日、日の神が人に憑かれて、阿閉臣事代(アヘノオミコトシロ)に『倭の磐余(イワレ)の田を、わが祖・高皇産霊(タカミムスヒ)に奉れ』と告げられた。事代は奏上し、神の求めのままに四十四町を献った。対馬の下県直(シモツアガタノアタイ)が、これをお祀りしてお仕えした」
とあり、このタカミムスヒを祀った磐余田の神社が、式内・目原坐高御魂神社(以下、式内・目原社という)だという(日本書紀通報・1897完成の日本書紀通釈の誤りか、大日本地名辞書・1907)

 この記事は、朝鮮南部の任那に使いした阿閉臣事代が、対馬の日神の託宣をうけて、日神の祖・タカミムスヒを祀ったというものだが(この記事の直前、春2月1日条に「任那に使いした事代に壱岐の月神が憑いて『吾を祀れ』といった」とある)、それは大和朝廷に卜部(ウラベ)として出仕した対馬県主一族が、その祖神を祀る神社として勧請したものとみることができる。


 式内・目原神社の創建年次は不明だが、書紀によれば、式内・目原社は顕宗天皇の御世(5世紀後期)の創建となる。
 しかし、多神社注進状・草案(1149・平安後期)は、
  「別宮(外宮)
    目原神社  天神高御産巣日尊(アマツカミ タカミムスヒ)  神像円鏡に坐す
            皇妃栲幡千々媛命(コウヒ タクハタチヂヒメ)  神像□□に坐す
             已上神社川辺郷に在り 肥直を禰宜と為す
 (多神社の創建由緒記載の後)
 その後、稚足彦天皇(成務)御世5年初秋、武恵賀前命の孫・仲津臣武弥依米命の子を多の神を祭る主と為す。・・・
 是同天皇が神託に依り、仲津命に詔して、外戚天神皇妃両神を目原の地に斎祀し奉るもので、今の目原神社是也」(漢文意訳)
と、目原神社は多神社の外宮で、成務天皇(4世紀末)が神託をうけ仲津臣に命じて創建したとあり、これを創建由緒とする資料は多い。

 ここにいう仲津臣とは、新撰姓氏録に
  「右京皇別 島田臣 多朝臣同祖 神八井耳命之後也
             五世孫武恵賀前命の孫・仲臣子上、成務天皇の御世、尾張国島田上下二県に悪神有り、
             子上を遣わし之を平服(コトムケ)す。復命の日(トキ)、島田臣の号(ナ)を賜る」
とある“仲臣子上”(ナカツオミ ネカミ)のことで、この仲臣(島田臣)と多氏とが同族(多朝臣--神武皇子神八井耳命の後)であることから、仲臣が祀った目原神社を多神社の外宮として取りこんだという(神社と古代王権祭祀・2009、以下同じ)

 このどちらが史実に近いかは不明。4世紀末(古墳時代前期末)といわれる成務天皇の御世に常設の神社があったとは思われず、あえていえば、書紀にいう顕宗天皇の御代とするのが史実に近いかと思われるが、確証はない。

 式内・目原社の史料上での初見は、大和国正税帳(730)で、そこには
  「目原神戸稲265束 租6束 合271束 4束祭祀に用う 残267束」
とあることから、8世紀にあったことは確かといえる。

◎論社
【天満神社説】
 式内・目原社には上記論社3社があるが、橿原市太田市町(オダイチチョウ)にある天満神社(上記A)に比定するのは江戸中期の地誌・大和志(1734)で、そこには
  「在所未詳  或は、太田市村天神社即ち此かと曰ふ」
とある。

 これを承けて、この天満神社を式内・目原神社とする資料は多く(古社寺沿革概略-1891・神祇志料-1871・式内社の研究-1977など)、そのひとつ磯城郡誌(1915・大正初期)
  「当社より子安神社にかけて南東北の三方に流るる川は皆目原川と称し、其の根本地とも称すべき地方人の尊重せる小丘は眞目原(マメハラ)と称し、西方に沿へる七段歩の地はこれを宮の坪と称する等、目原は此の地に誤りなく、其の社頭及び社領等の広大なりしをも、併せ証する足るべきものなり。
 眞目原  子安神社の東にある小丘にして、高二尺・根廻り6間あり。古来地方人は其の上に登ることを忌み、若し誤って登るときはソコマメを病むと云へり。是蓋し目原神社の根本地にして、後世天満天神社を合祀するに至りて、今の地に遷せしものならん」
として、眞目原にあった式内・目原社を現在地に遷し、加えて天満天神社を勧請したものという。

 また、式内社調査報告(1982)は、
  「(式内・目原社)所在の太田市には、今は公民館及び製材所となっているが眞目原と称される所があり、そこは禁足地といわれ、その処に入るとマメができるという伝承をもっている。この伝承が地名の眞目原から来たものであることは疑ひなく、マは接頭語と考えられるから、本来はメハラであり、そこは、もと子安明神が祀られていた所でもある。
 この子安明神といふのは、高御魂神からきた信仰と考えられ、この地を式内社と考へてよいように思はれる」
として、この天満宮が式内・目原社の有力候補としている。

 これらは、当地に眞目原・マメハラと称する地名(小字名)があったこと根拠とするものだが、マメハラから現在地に遷った理由・時期などは不明で、また天満天神社も江戸前期にはあったというだけで勧請由緒・時期等不明。

 ◎眞目原
 道路を挟んだ東側に“太田市町公民館”があり(今、使われている様子は見えない)、また、その北隣にある廃屋が製材所跡だとすれば、この辺りが磯城郡誌がいう眞目原の地かと思われる。

 ただ、今の地面は郡誌がいうように高くはなってはおらず(道路面と略同じ)、またこの辺りにはっきりとした微高地は見当たらない(神社境内の方が道路面よりやや高い)

 郡誌編纂から一世紀近く経過した今、地形も大きく変わったようで(家屋・畑・空き地が混在している)、郡誌の記述をもとに眞目原の地を探すのは困難となっている。

【耳成山口神社説】
 耳成山山頂近くにある耳成山口神社(上記B)とするのは、室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(略称・五郡神社記・1446)で、そこには
  「帳に云う目原神社、河辺郷目原村(近代木原に作る-後世の注記か)高森に在り。社家肥直曰く、目原神社二座 高皇産霊尊・天萬栲幡媛命也。愚僕、此に到り此を見るに、耳無池からの流水を耳无川(ミミナシカワ)と曰ふ、又目原近辺に目无川有り、此の川、耳无川と同川異名也」
とあり、これを継承する大和志料(1944・昭和前期)は、
  「耳成村の大字に木原あり。木(モク)・目(モク)音相通じ、木原は目原の転訛にして即ち当社の所在地なり。今耳成山口神社に配祀せらる」
という。

 これらは、いずれも今の木原は目原の転訛として、式内・目原社は耳成山にあったとするものだが、地名が目原から木原に変わったとする傍証はなく、また木原・目原をモクハラと読むのも恣意的なもので、これを以て市区内・目原社が耳成山山頂にあったとするには根拠薄弱という。

 ただ、本朝神社牒(1758--51・江戸中期の編纂)という江戸時代の古史料によれば、耳成山には“天神社”・“耳成山天神宮”との2社があり、天神社に“旧名耳成山口神社”との注記があることから、大和志料は、
  「単に天神と称するは即ち式内・山口神社にして、耳成山天神と称するは今の山上の神社にありしものの如し」
といい、これを承けて式内社調査報告は
 ・本朝神社牒に耳成山に二社が記されているところからすれば、その山頂の神社が式内社であるとも考えられる。
 ・通常天神といえば、高御魂神を指すのであって、耳成山を天神山と称するのは、高御魂神社を祀ったからに他ならないとも考えられる。
 ・現在、山上の神社(耳成山口神社)にはオオヤマツミ神とともにタカミムスヒ神が祀られているが、これは目原坐高御魂神社がこの地にあった証とすることもできる
として、今、耳成山山頂近くにある耳成山口神社(旧耳成山天神宮)が式内・目原神社ではなかったかという(別稿・耳成山口神社参照)
 とすれば、耳成山口神社を式内・目原社とする根拠としては、上記の木原・目原同音(モクハラ)説より、本朝神社牒によるほうが説得力はある。

【山之坊山口神社説】
 今、耳成山の南麓にある山之坊山口神社(上記C、以下山之坊社という)を式内・目原社とするものだが、特に、これを主張する資料はないという。
 ただ、山之坊社を論社とするのは、同社の登記明細帳に
  「山之坊町の氏神は古くは耳成山上に奉祀されていたが、徳川の中期・享保年間(1716--36)境界訴訟の結果、耳成山が木原町の領地と定められたため、当町の宮司・佐伯丹波守が神霊を奉じて下山、その子孫の宅に奉祭して今日に至る」
とあり、その下山した当社を上記・本朝神社牒にいう耳成山天神宮(式内・目原社)の分霊とみて論社とするもの。

 しかし、当社が、今、山口神社を名乗り、その祭神をタカミムスヒではなくオオヤマツミ一座としていることから、当社は式内・目原社の論社ではなく、式内・耳成山口神社の分社とみるのが順当かもしれない。


※祭神
  高御魂命・他一座
 延喜式神名帳には“目原坐高御魂神社 二座”とあり、一座は、諸資料とも社名に記す高御魂命(タカミムスヒ)として異論はない(神祇宝典1646・神名帳考証1733・大日本史1676など)
 タカミムスヒとは、天地初発のときアメノミナカヌシに続いて高天原に成り出た神だが(古事記)、記紀神話ではアマテラスとともに高天原の中心神として登場し、国譲り・天孫降臨に際して司令神としての役割を果たしたとあり(書紀)、また皇統譜では、天孫・ニニギの母方の祖父とされている。

 残る一座については、次の2説がある(式内社調査報告)
 ・栲幡千々媛命(タクハタチヂヒメ)--神祇志料・1871
   多神社注進状草案にいう
    目原神社天神高御産巣日尊 神像円鏡
    目原神社皇妃栲幡千々媛命 神像□□
を承けたもので、タクハタチヂヒメがタカミムスヒの娘(アマテラスの御子・オシホミミの妃で、天孫・ニニギ尊の母)であることから、親娘を一緒に祀ったとみれば、一理はある。

 ・日神
   大日本地名辞典(1907)がいう
   「高御産霊及び日神  
     日神は旧事記にいう対馬県主等の租・天日神(饒速日尊供奉三十に人之一)是なるべし」
を承けたもの。
 ここでいう天日神命(アメノヒミタマ又はアマノヒノカミ)とは、先代旧事本紀(9世紀前半成立とされる物部氏系史書)に
   「天日神命 対馬県主等の祖」
とあるように、日神・アマテラスではなく、各地の豪族らがそれぞれに奉斎していた日神・天照御魂神(アマテルミタマ)の一で、書記がいう対馬の日神とはこの神を指すとみられ(対馬にはアマテルミタマ神を祀る阿麻氐留-アマテル-神社がある)、とすれば、この日神がタカミムスヒと並んで祀られたとみるのが順当であろう。

 ただ、この両神ともに論社の祭神からは消えている。

 論社3社の祭神は次の通り。
【天満神社】
  高御魂命(タカミムスヒ)・神産日命(カミムスヒ)・菅原道真
   カミムスヒは、天地初発のときタカミムスヒに続いて成りでた神であり、その点では、両神をあわせ祀るというのも一理はあるが、カミムスヒは出雲系の神々の祖神とされることから、違和感もある。
 なお、菅原道真は当社に天満天神社を勧請したことに伴うもので、式内・目原社とは無関係。
 ただ、当社が天満神社と称することからみると、一般には天神さん(菅原道真)を祀るとして崇拝されていたと思われる。

【耳成山口神社】
  大山祇神(オオヤマツミ)・高御産霊神(タカミムスヒ)
   オオヤマツミとともにタカミムスヒを合祀することから、式内・目原社の論社というのだろうが、山口神社と称するかぎりオオヤマツミ神一座(延喜式では一座)とするのが本来の姿であろう。(別稿・耳成山口神社参照)

【山之坊山口神社】
  大山祇神
   祭神を山の神・オオヤマツミ一座とするが、それは山口神社の祭神としてふさわしい神で、、これを式内・目原神社とみるには疑問がある。

※社殿等
【天満神社】
                                                               2013.08.28参詣
 近鉄橿原線・新の口駅(ニノクチ)の北東約2.2km、太田市町の東端に鎮座する。新ノ口駅の北を走る県道152号線を東へ、桜井市との境界(小川-旧目原川か-と交差するが、橋らしきものははない)のひとつ西の細道路を北へ入った左側に鎮座する。

 道路脇に立つ鳥居を入った先に、千鳥破風付き向拝を有する拝殿(切妻造・瓦葺)が、その奥、白壁に囲まれた中、小鳥居の奥に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が鎮座する。


天満神社・鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿


 ◎末社
 資料によれば、当社には末社として子安明神(祭神名不明)と稲荷神社(宇賀魂命)があるという。

 境内右手に稲荷神社と小堂宇があり、ネット資料(奈良の寺社・太田市天満神社)によれば、この小堂宇は観音堂で、中に石造十一面観音座像が安置され、古来から子安観音と称したとあり(根拠資料不明)、これが子安明神であろう。
 なお、子安明神は大正5年に隣接地から境内に勧請されたというが、確証はない。

 他に、小さな石仏2躰を祀る一画と、自然石に金毘羅大権現と刻した石碑がある。


 観音堂(子安社か)

    稲荷社

【耳成山口神社】
 近鉄・大和八木駅の東北東約1.3km、耳成山の8合目に鎮座する。
 別稿・耳成山口神社参照

【山之坊山口神社】
 近鉄・大和八木駅の東約1.8km、近鉄・八木西口駅北の道路・柳町交差点を東へ、米川を渡った先の南側・川との間に鎮座する。周囲は住宅地。

 一の鳥居をくぐり参道に沿って左に曲がった先が広い境内で、入口に二の鳥居が立つ。なお、一の鳥居の神額及び脇に立つ社標には“山口神社”とのみある。
 広い境内左手に社務所(無人らしい)、右手に社殿が南面して建つ。
 切妻造瓦葺きの拝殿の後ろ、白壁に囲まれた本殿域の奥に一間社流造銅板葺きの本殿が鎮座するが、塀が高くよく見えない。


山之坊山口神社・一の鳥居 
 
同・拝殿
 
同・本殿(正面)
 
同・本殿(側面)

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