トップページへ戻る

村屋坐彌富都比売神社
奈良県磯城郡田原本町蔵堂(クラドウ・クランドとも)
祭神--三穂津姫命(彌富都比売命)・大物主命
                                                              2014.03.27参詣

 延喜式神名帳に、「大和国城下郡 村屋坐彌富都比売神社 大 月次相嘗新嘗」とある式内社。社名は“ムラヤニマス ミフツヒメ”と読む。俗に天王さん・森屋の明神という。以下、弥富都と記す。

 近鉄橿原線・田原本駅の東約2.1km、駅東の国道24号線・阪手交差点から県道50号線を東へ、初瀬川・太平橋西袂から川沿いの道を南へ、2つ目の蔵堂橋(クロンドバシ)の西側から南へ延びる森の中に鎮座する。森の南側に一の鳥居が立つ(東側からも社殿前に入れる)。 

由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「主神三穂津姫命は、高皇産霊神の姫神で、大物主命が国譲りされたとき、その功に報いるためと、大物主命に二心がないようにという願いから、自らの娘を贈られたという神話に出てくる神である。この故事から、縁結びの神・家内安全の神として信仰されている。
 大物主命は大神神社の主神であることから、その妃神である当社にも大物主命を合祀して三輪の別宮とも称せられた。

 天武天皇元年(673)壬申の乱のとき、村屋神が神主にのりうつり軍の備えに対する助言があったという。この功績によって、神社として初めて天皇から位を賜ったと日本書紀に記されているほどの名神である。
 現在正一位森屋大明神の呼称が残っている」
とあるが、創建由緒・年代は不詳。

 後段にいう“天武天皇元年云々”とは、書紀・天武元年(673)条にいう
  「大海人皇子は軍を分けて上道中道下道に配置した。将軍・吹負(フケイ)は中道の村屋に軍を敷いた。・・・
 また村屋神(守屋神社)の祭神も、祝(ハフリ・神官)に神懸って、『今我が社の中の道を防げ』といった。何日もせぬ中に、廬井造鯨(オオイノミヤツコ クジラ・近江軍の将)の軍が中の道から襲来した。人々は『神の教えられた言葉は、これであったのだ』といった。
 戦いが終わったのち、将軍たちは、この三神の教えられたことを天皇に奏上したところ、天皇は勅して三神に位階を引き上げてお祀りになった」
との記述を指す。

 ここで“三神”というのは、村屋神の神託の直前に、高市社の事代主神と身狭社の生霊神が、人に懸かって近江軍の来襲を予告し備えさせたとあり、この村屋・高市・身狭の三神をさす。
 なお、古代の官道・中つ道は今の県道51号線(天理環状線)とほぼ同じルートで、当社直近を通っていたという。

 ただ、当社境内に摂社・村屋神社(祭神:経津主神・武甕槌神)があり、古くは当社の東・初瀬川縁にあって、同じ村屋地域に含まれたことから、天武紀にいう村屋神が当社を指すのか、この境内・村屋神社を指すのかははっきりせず、境内摂社・村屋神社の案内には、
  「天武紀には、高市の事代主神・身狭の生霊神と神名まで表記されているが、村屋神は地名のみで神名がない。あるいは、境内・村屋神社の二神ではないかと思われる。本社・弥富都比売神は女神であり、戦いにはしっくりこない。経津主神・武甕槌神がふさわしいと思うが、決定する資料がない」
とあれ、中っ道は、村屋神社の旧鎮座地境内を通っていたともいわれ、とすれば、当社ではなく村屋神社に関わるとするのが順当かとも思われる。


 当社の創建年代は不明だが、上記天武元年の記事からみると7世紀中頃にはあったらしいが、その確証はない。
 ただ、磯城郡誌(1915・大正4)には「崇神天皇七年の創祀に係ると云ふ」とあるというが(式内社調査報告・1982)、これは崇神紀7年11月条に、
  「(大物主大神と大国魂神を祀ったとき)別に八百万神の群神を祀った。よって天社・国社・神地・神戸を定めた」
とある天社・国社に当社が含まれるとしたもので論外。

 古史料上での記録としては、上記天武紀以外に
 ・大倭国正税帳(730)--村屋神戸 稲十三束二把 用五四束祭神四束神嘗酒料五十束 残二把
 ・新抄格勅苻抄が引用する大同元年牒(806)--神戸 杜屋神六戸 大和三戸美作三戸
 また神階綬叙記録として
 ・三代実録・清和天皇貞観元年正月17日条--大和国従五位下・・・村屋弥富都比売神・・・従五位上を授く
などがあり、その後順調に神階が昇り、最終的には宝永2年(1705・江戸中期)正一位を賜ったとあり、これらからみると、8世紀にあったことは確かといえる。

 なお、神社明細帳(1891)所載の蔵堂村他から大阪府に提出された文書(1873・明治6)には
 ・神武元年9月--媛蹈鞴五十鈴姫命に村屋の神等を齋祀させた
 ・崇神天皇7年--伊香色雄命に命じて村屋坐弥富都比売神に韴霊(フツノミタマ)を納めさせた
 ・垂仁天皇29年9月--伊香色雄命の子・物部十市根命に命じて弥富都比売神へ大物主神を合祀させた
 ・推古天皇元年(592)10月--物部忍勝連公が世襲の祝の職を継いだとき、社殿を改造・修繕した
とあるというが(日本の神々4・1985)、いずれもそれを証する史料はなく、伝承を列記したものであろう。


 当社境内には、境内摂社として延喜式内社である服部神社(ハットリ・境内の左奥)・久須須美神社(クスズミ・境内の左側)・村屋神社(ムラヤ・拝殿の右側)があるが、いずれも戦国時代の戦乱により被災し、当社内に遷ってきたものという(別項参照)

※祭神
 今、当社祭神は三穂津姫命・大物主命の二座を祀るが、延喜式には一座とあり、本来のそれは三穂津姫命で、大物主命は後になっての祭祀であろう。

 主祭神・三穂津姫(ミホツヒメ、別名:弥富都比売-ミフツヒメ)とは高皇産霊尊(タカミムスヒ)の娘で、三輪山に坐す大物主命の妃神というが、それは書紀・第9段一書2に
  「(国譲りが終わり、大物主命と事代主神が、帰順した多くの神々を率いて高天原に昇ってきて恭順の意を表した時)高皇産霊神が大物主命に向かって、『お前がもし国つ神を妻としたならば、私はお前がなお心から帰順していないと思う。それで、今わが娘の三穂津姫をお前に娶せて妻とさせたい・・・』と告げて還り降らせられた」
とある記述によるものだが、ニュアンスはやや異なる。

 上記案内は“大物主命が国譲りをされたとき”の出来事というが、これは
 ・書紀・第8段一書6に「大国主神は大物主神・・・ともいう」とあること、
 ・一緒に国造りをしてきた少彦名命(スクナヒコナ)に去られて困っていた大己貴命(大国主命)に、海を照らしてやってきた神(大物主命)が「吾は汝の幸魂・奇魂なり。大和の三輪山に住みたい」と告げたこと
 ・出雲国造神賀詞に、大穴持命(オオナモチ・大国主命)が己の和魂を“倭の大物主櫛𤭖玉命(オオモノヌシ クシミカタマ)と称えて、三輪山に鎮まらせた”とあること
などから、大国主命と大物主命を同一神とみたものだろうが、大物主命が主人公として登場する崇神紀の祟り神伝承や三輪山伝説などには大国主命の面影はなく、本来は別々の神とみるべきであろう。

 当社は、社名にいう弥富都比売を高皇産霊神の女・三穂津姫の別命とするが、記紀等に弥富都姫の名は見えない。
 また、三穂津姫にしても上記一書2に出てくるのみで、その事績は不詳。
 ただ、三穂を“多くの稲穂”あるいは“美しい稲穂”と解すれば、在地の人々によって穀物の豊穣を司る女神(農業神)として祀られたのが当社の始まりと思われる。

 なお地元には、大物主命が三室の丘(三輪山)に住むようになったとき、三穂津姫は村屋の地に移ってきたとの伝承があるという。

 なお、祭神を韴霊剣(フツノミタマノツルギ)とする異説もあるという(大和名所図絵・1791)
 韴霊剣とは、神武天皇が熊野の地で難渋しているとき、高天原から降された霊剣で、天皇はこれを得たことで天下を平定したという。
 これは、神社明細帳・村屋神社の項に、「皇御孫命のために経津主神武甕槌神が村屋に韴霊を以て厳御魂と鎮め賜ひき」(大意)とあることによるのだろうが、これは当社祭神ではなく末社・村屋神社の祭神に関わることだろうという(式内社調査報告)

※社殿
 森の南端に立つ一の鳥居を入り、参道を進むと二の鳥居(前を一般道路が横切る)があり境内に入る。
 樹木に囲まれた境内正面に拝殿(入母屋造・銅板葺)が、その奥、一段高くなった本殿域に千鳥破風をもつ一間社流造・朱塗りの社殿2宇を連結した本殿(銅板葺)が鎮座する。

 
村屋坐弥富都比売神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居

同・拝殿 
 
同・本殿域正面
 
同・本殿

◎道祖神石碑
 鳥居左の道傍に斜めになった石碑一基がある。
 全般的に摩耗しており彫りははっきりしないが、正面の像は“御幣”の形にみえる。

 資料によれば、御幣の右に“道祖神”、左に“保食神”(ウケモチノカミ)、下に“諸人并牛馬道中安全祈願”と刻み、下の台座には世話人の氏名が刻まれているという(式内社調査報告)
 よくみれば、それらしい文字(一部)は見えるが、全体の判読は不能。

 これが何時頃から当地にあるのかは不明だが、当地に古代からの街道・中っ道が通っていたことから、交通安全の守護神として街道脇に祀られていた道祖神石碑であろうという。ただ、道祖神主像が御幣であり、左に保食神とあるのは珍しい。

村屋神社へリンク]・[服部神社へリンク]・[久須々美神社へリンク]

トップページへ戻る