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耳成山口神社
奈良県橿原市木原町
祭神--大山祇神・高御産霊神
                                                                 2013.08.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国十市郡 耳成山口神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“ミミナシノヤマグチ”と読むが、中近世の頃には天神社と呼ばれていたという。

 近鉄橿原線・大和八木駅の東北東約1.3km、大和三山のひとつ・耳成山(ミミナシヤマ、H=139.7m)の8合目に鎮座する。

※由緒
 拝殿内に掲げる案内には、
  「創建とその経緯
 創建の年代は定かではありませんが、
 ・正倉院の天平税帳に登場し、天平2年(730)に時の帝より、神戸(租税を神社に納める農民)および稲を給わったとあり、
 ・平安時代の延喜式神明帳にも大社として記載されていて、帝より月次・新嘗の二祭に預かったとされている
 ・貞観元年(859)9月、大八洲に大暴風雨があり、その時帝よりの遣使が参拝して風雨鎮めの祈願をしたと記されている
 ・しかし、後には何故か全く荒廃して、一時その所在すら判らなくなったが、寛延元年(1748)8月、耳成の郷中の氏子が、現在の神殿および拝殿の建立をして現在に至っております 
 ・なお、拝殿には、近世からの絵馬数点と算額(サンガク)も掛かり、信仰の歴史を描き残しています」
とある。

 当社は、古代の大和に坐す山口神6座の一座で、延喜式・祈年祭祝詞(トジゴヒノマツリ ノリト)に、
  「山口に鎮まります皇神等の前に申しますことは、飛鳥・石寸(磐余)・忍坂・長谷・畝火・耳成と御名は申してお祭りする所以は、遠近の山々に生育している大小の木材を、本と末とを切って中程を持ち来まして、それを材料として皇御孫命の瑞々しい宮殿を造営し参らせて、云々」(延喜式祝詞教本・口語訳分、1959)
とあるように、皇居舎殿造営のための用材を切り出す山の入口(山口=山麓)に坐す神を祀る神社(山口神社)という。

 山口神は、一義的には樹木の生育にかかわる山の神だが、延喜式・大忌祭(オオイミノマツリ)祝詞に、
  「皇神等が領知せられます山々の口から、(山口の神が)谷間を急流として下されます水を、灌漑に適する良い水として受けて、天下の公民の耕作している御稲を、暴風洪水の災害にあわせず、実らせ幸いならしめてくださいますならば、云々」(同上)
とあるように水の神・農の神でもあり、祈雨・止雨を祈願する神でもあったという。

 当社の創建が何時頃かは不明で、上記山口神6座が飛鳥藤原京を取り巻くように配置されていることから、その頃に創建されたとも推測されるというが、それを証する史料はない。
 ただ、案内がいう“正倉院の天平税帳”即ち大倭国正税帳(天平2年・730)
  「耳梨山口神戸稲四拾八束六把 租四束七把 合五拾三束三把 用四束祭神残四拾九束三把」
とあることから、8世紀初頭にあったことは確かという。

 案内がいう、“貞観元年9月、大八洲に大暴風雨があり云々”とは、三代実録(901)・貞観元年条に
  「九月八日庚申 ・・・耳成山口神・・・(計55社)に使いを遣りて弊(ミテグラ)を奉りき。風雨の為に祈りしなり」
とあるのを指すのだろうが、大暴風雨だったかどうかは不明。その前後に風雨が激しく災害がおこったとの記述がないことからみて(ここでいう9月とは旧暦のことで、今の10月にあたる)、風雨の順調なることを祈願する恒例の奉幣だったと思われる。

◎鎮座地
 今、当社は耳成山の山頂近く(8合目)に鎮座するが、山口神は山麓(山への入口)付近に鎮座するのが普通なのに、当社が山頂近くにあるのは解せない。

 これについて大和志料(1944・昭和初期)には、
  「五郡神社記(正式-和州五郡神社神名帳大略注解・1446-室町初期)に『帳に云う、耳成山口神社 河辺郡南裏村に在り俗に天神山と云う・・・』と云へり。
 案ずるに、当社は山口神なれば、もと耳成山口即ち山の南麓にありしなるべく、南裏村已に廃し址詳ならざれども、其の地正に山口に当たれる処ならん」
とあり(南裏村の存否は不明。天香久山付近を南浦と呼ぶことから、それとの混乱があるのかもしれない)
 また、日本の神々(2000)
  「現在の鎮座地は山口神社にしては高きに過ぎるように思われ、もとは山麓にあったと考えられる」
として、いずれも、式内・耳成山口神社は、嘗ては耳成山の山麓にあったが、今、その跡は不明としている。

 また、大和志料は続けて、
  「今耳成村大字木原の耳成山なる俗に天神と称するものを以て、式内山口社と定め、現に郷社たり」
と、山頂近くにある天神社が式内・耳成山口神社とされていたとしたうえで、
  「然れども、本朝神社牒(旧幕府寺社奉行の記録にして寛延年中1749--51の編纂に係る、との注記あり)
     一 天神社 旧名耳成山口神社  社人梨子彌兵衛
     一 耳成山天神宮        社人佐伯丹波守
と記せり。
 顧(オモ)ふに、当時天神と称するもの二社あり、単に天神社と称するは即ち式内山口社にして、耳成山天神社と称するは、今の山上の神社にありしものの如し、後考を待つ」
として、今、山上にある当社を天神社即ち式内・耳成山口神社とするのに疑問を呈している。

 山口神社は山麓にあるのが通例であることからみて、旧名耳成山口神社との注記がある天神社は山麓にあったのではないかと推測され、とすれば、今の当社は山頂にあった耳成山天神宮(天つ神の宮であって、菅原道真を祀る天神社ではない)の後継社であって、式内・耳成山口神社は山麓の何処かにあったのではないかという。

 この耳成山天神宮がどのような神社なのか不明だが、これを式内・目原坐高御魂神社とする説もある。
 同式内社の祭神・高御魂神(高御産霊神・タカミムスヒ)が、皇統譜に於いて天孫・ニニギ尊の外祖父、即ち天神(天つ神・アマツカミ)であることから、耳成山天神社を目原坐高御魂神社とみてもおかしくはないが、今、同式内社は橿原市太田市町にある天満宮とみるのが有力となっている(別稿・目原坐高御魂神社参照)

 一方、寺院神社大事典(1997)には、耳成山口神社について、
  「中世には天神社と称したため、耳成山も天神山といわれ、新賀・北八木・石原田・常磐・葛本・山之坊・木原各村(今も、耳成山を取り囲む町名として残っている)の氏子が天神山郷を形成。
 慶安4年(1651)、山之坊村民が神木を伐り荒らしたので、他の六村との間に入会(イリアイ)を巡る山論が長く続き、当社は常に争論の中心に立たされた。
 元禄15年(1702)神社焼失、氏子等によって造営されたが、遷宮に関して紛糾、天満宮と改名する事態も惹起したが、宝永2年(1705)、『耳成山天神は式内之社耳無山口神社』とすることで落着(平田家文書)、祭祀は郷中が回りはいすることとなった」
とある。

 これによれば、宝永2年に耳成山天神宮を以て式内・耳成山口神社に比定したとなるが、その比定根拠は不明。また、この式内社比定によって氏子間の紛争が解決したというが、その経緯も判然としない。
 加えて、その半世紀ほど後の寛延年中に編纂されたという本朝神社牒の記述とは整合しない。
 この疑問は、いずれも平田家文書が誰によってどのようにして記されたのか、その性格・信憑性に係わることが、それが判然としないかぎり(ネット検索によるかぎり、平田家文書の内容は実見不能)、旧幕府によって編纂された公的な資料と推測される本朝神社牒の方が信憑性が高いといわざるを得ない。

 今、当社の祭神は大山祇神と高御産霊神、即ち山口神社としての祭神と目原坐高御魂神社の祭神とを合祀した形となっており、祭神からでは、当社がどちらの式内社の後継社なのか判断することはできない。

※祭神
 今の祭神は
  ・高御産巣日神(タカミムスヒ)
  ・大山祇神(オオヤマツミ)
となっており、案内には
  「タカミムスヒ神は、最初、この世界に現れた神は天之御中主神、その次に現れた神が、このタカミムスヒ神です。この神様は、神社本庁に登録の神3132座の中で最高位の神で、私ども日本人の元祖です。
 オオヤマツミ神は、イザナギ・イザナミの二神が国生みで生んだ山の神(国つ神)で、山の恵みを司って豊作豊漁をかなえてくださる神です」
とある。

 この説明に大きな間違いはないが、当社が山口神社を称するかぎり、その主祭神はオオヤマツミ神とするのが順当で、タカミムスヒ神を主神のように祀るのは、嘗ての当社が天神社を名乗っていた頃の名残であろう。
 また、当社が式内・目原坐高御魂神社(祭神:タカミムスヒ神)の論社というのも、タカミムスヒを祀ることからといえる。

※社殿等
 耳成山(耳成山口神社)への登頂路は幾つかあるが、今回は南側・耳成公園側より登頂した。
 公園北側の道路脇に立つ鳥居をくぐり、石燈籠が林立する参道(山道)を登った上の小さな広場の西側、一段と高くなった処に社殿が東面して建つ。

 石段を登った上、樹木に覆われた中に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、石垣を積み、玉垣を巡らした中に本殿(春日造・銅板葺)が東面して建つ。


耳成山(南・耳成山公園側より) 
 
耳成山口神社・一の鳥居
 
同・境内(石段上が社殿域)
 
同・拝殿
 
同・本殿(正面)
 
同・本殿(側面)

◎末社
 拝殿左、覆屋の中に金比羅神社(金山彦命)が、右に稲荷社3宇がひとつの覆屋の中に、その脇にも同じく稲荷社(白龍大神とある)が鎮座するが、いずれも鎮座由緒等不明。
 なお、金比羅社の祭神は大物主命とするのが多く、当末社が金山彦命(鉱山・金属の神)とする理由は不明。

 
末社・金比羅社
 
 

末社・稲荷神社
 ◎算額(サンガク)
 拝殿内に、絵馬数枚とともに“算額”と称する額(絵馬)が奉納されている(右写真)

 算額とは、社寺に奉納された和算(ワサン・江戸時代に発展した我が国独自の算数)関係の絵馬で、和算の問題(幾何学の問題が多い)とその解答、あるいは勉学成就の祈願文などを記して奉納されたという。

 この算額は、嘉永7年(1854・江戸後期)、梨原嘉右衛門・松井平四郎・梨原嘉蔵・木村惣兵衛の4人が、幾何学の問題と解答図をおのおの一題ずつ出し、大工次郎吉が額として細工したものという(式内社調査報告・目原坐高御魂神社の項)

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