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宗 像 神 社
奈良県桜井市外山(トビ)
祭神--多紀理比売命・市寸嶋比売命・多岐津比売命
                                                                     2014.07.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 宗像神社三座 並名神大 月次』とある式内社(新嘗の弊に預かったともいう)

 近鉄大阪線・桜井駅の東約1.4km。駅南の県道165号線を東へ、外山(トビ)バス停すぐ横の南側に鎮座し、鳥見山(登美山)北麓にあたる。

※由緒
 当社の創建年次は不詳だが、社頭に掲げる「御造営趣意書」には
  「外山地区の氏神様である宗像神社は、遠く天武天皇の皇子・高市皇子が宗像の神をこの地に祀られたと伝えられています」
とあり、寛平5年(893)10月29日の太政官符がひく氏人・高階眞人忠峯(タカシナマヒト タダミネ)の解状(ゲジョウ・上申書)には、
  「忠峯等の始祖 太政大臣浄広壱(天武朝の冠位)高市皇子命(654?--96)が、氏賤・年輸物を分かち神舎を修理せしめ、以て永例と為す」
とあることから(類聚三代格所収)、高市皇子の後裔・高階氏が祖神を祀ったもので、創建は天武朝(673--86)以前に遡るのではないかというが(式内社調査報告・1982)、それがどのようなものだったかは不明。

 上記解状以外に創建年次を示唆するものはないが、正史上の記録としては、三代実録(901)
 ・元慶4年(880)3月27日  大和国城上郡の宗像神社を官社に預らしめき。太政大臣(藤原冬嗣)の東一条の第(テイ)に坐し、又筑前国宗像郡に坐すは、皆これ同神の別社なり
とあるのが初見で、次いで
 ・翌5年10月16日 大和国城上郡従一位勲八等宗像神社に筑前国の本社に准ひて神主を置き、高階眞人の氏人を以て之と為しき
とあり、9世記に実在したことは確かといえる。

 この神官任用に係わって、同日付(元慶5年)の太政官符には、
  「氏人である蔵人助従五位下高階眞人忠峯等の解状に、『大和国城上郡登美山に坐す当社は、去年3月27日に官社に預かった。当社は天武天皇の御世(672--85)から高階眞人が累代社務を司り、氏子達が掌る神宝・園地も少なくなかったが、時を経て次第に祭祀を怠るようになり、神宝を紛失するなどしたため、しばしば祟りがあった。
 昨年、筑前の本社に准じて神官を置いてほしいと太政官に上申したが、未だ裁下を蒙っていない。高階眞人中守は天性清廉にして神主たるに堪へる者であるので、神主に補任せられ神事を掌らせてほしい』と上申してきたので、勅して請いに依らしめた」(類聚三代格所収、漢文意訳)
とあり、三代実録がいう「高階眞人の氏人」とは高階眞人中守を指すのであろう。

 これらを承けて、大和志料(1914・大正3)には、
  「城島村大字外山(トビ)にあり。外山は即ち登美(トミ)一に鳥見と作るなり。
  宗像の三女神を祭り、天武帝の世、高市皇子の創祀に係る。・・・
  抑も当社は高階眞人氏の氏神なり。高階氏は実に天武帝の皇子高市に出ず。皇子の生母は宗像氏徳善にして即ち筑前宗像社(宗像大社)の氏子なり。
  故に皇子其の所生の為に産土神をここに勧請し外戚の氏神となし、自家の賤族を分ち、年々物料を輸し神舎を修理し或いは神宝園地を献ぜしより、爾後其の苗裔たる高階氏当社を以て氏神となし、殊に崇敬を加へ、元慶四年官社に列せられ、翌年筑前の本社に准じ神主を置き氏人を以て補任するの例を定められたり」
とあり、天武の皇子・高市の後裔氏族・高階眞人一族が母方(宗像氏)の遠祖・宗像三女神を奉祀したものという。

 因みに、新撰姓氏録には
  「左京皇別 高階真人 諡天武皇子浄広壱太政大臣高市王より出ずる也」
とあり、神名帳考証(1813・伴信友)
  「高市皇子の母は紀に胸形徳善の女(尼子娘-アマコノイラツメ)とあり、筑前胸形神をもていつける胸形君の縁によりて、高市皇子の外戚の氏神として祭り玉へるを、其後の高階の氏人等が祖神とあがめたるなり」
とある。

 その後の経緯は不詳だが、南北朝以降のことは高階氏の後裔と称する玉井氏が編纂した登美山鎮座宗像神社記(1958)に詳しく、それによれば(概略)
 ・20代高階義峯が赤尾城に拠って吉野朝に味方したが、興国2年(1341)、嶋村での北朝方の渡辺源四郎渡との合戦により鳥見山中腹にあった社殿も兵火に罹り神宝も焼失した。
 ・また、これによって付近の社領も失われ、社殿も荒廃し、氏人が僅かに祀るのみとなった。
 ・その後、旧社領は南都興福寺領となり、春日明神とその若宮が勧請され、宗像神社は形骸化して春日神社と称するようになった。
 ・正平9年(1354)、22代高階忠正が神霊を山上から忍坂川畔古垣内の自廷内に移し、宗像中島社と称して奉祀した。
 ・その後高階氏の子孫は帰農したが、天正18年(1590)、玉井忠澄(高階氏)が自廷の祠とは別に登美山腹・宮の谷の旧地に宗像社を再興して中島社と称したが、これは春日社との混祭の形であった。
 ・幕末になって、国学者・鈴木重胤(1812--63)が玉井氏と相計らって当社の復興に尽くし、安政6年(1859)改めて筑前宗像大社より祭神を勧請し、翌万延元年(1860)、社殿を新たに建造した。
 ・明治8年(1875)、春日神社の号を廃して宗像神社に復し、春日神社を併祀した。
 ・明治21年(1888)、社殿を改築して筑前宗像大社を本社とする体裁に改め、同40年(1907)村社に列せられた。
という(式内社調査報告より要約)


※祭神
 ・多紀理比売命(タキリヒメ)
 ・市寸嶋比売命(イチキシマヒメ)
 ・多岐都比売命(タキツヒメ)
 所謂宗像三女神と呼ばれる神々で、古事記によれば、アマテラスとスサノオによる誓約(ウケヒ)の段に
  「天照大神先ず素戔鳴命の佩くける十拳剣を乞ひ度して、三段に打ち折りて、天の真名井に振り濯ぎて、さかみの噛みて、吹き棄つる気吹(イブキ)のさ霧に成りし神の御名は、多紀理比売命、亦の名は奥津島比売命(オキツシマヒメ)。次に市寸島比売命、亦の名は狭依毘売命(サヨリビメ)。次に多岐都比売命。・・・この三前の神は、胸形君(宗像君)等のもちいちく三前の大神なり」
とあり(祭神の表記は古事記により、書紀本文には、田心姫-タヨリ・市杵島姫-イチキシマ・湍津姫-タギツとある)、玄界灘の海上交通を守護する海の神という。

 上記のように、当社の祭祀氏族・高階氏の祖・高市皇子の母(尼子娘)の出自が宗像氏であることから、その遠祖・宗像三女神を祀ったものという。

※社殿等
 国道165号線・外山(トビ)バス停のすぐ西、道路南側の一段低くなった所が社域で、緩やかな坂を下って社頭に至る。左側は小公園となっており、国道脇に「登美山鎮座 宗像神社」との古い石碑が立っている。

 今の社殿等は、平成21年(2009)に改築されたもので(鳥居を入った左に記念碑あり)、それ以前の社殿は、萬延元年(1860)鈴木重胤らの尽力により建てられたものを保ってきたという。

 鳥居を入り参道を進んだ奥に、拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、白壁に囲まれた社殿域に社殿3社が東面して建つ。
  ・中央--宗像社の本殿(一間社流造・銅板葺)--祭神:宗像三女神)
  ・左---春日若宮社(春日造・銅板葺)--祭神;天押雲命
  ・右---春日社(春日造・銅板葺)--祭神:春日四神
 中央の宗像社本殿がやや大きく、社殿様式は以前のものと変わっている(資料には神明造とある)
 左右の2社は、嘗て当地が南都興福寺領であったとき春日明神・若宮社を勧請したことによるもので、今は末社扱いという。

 
宗像神社・社頭
 
同・鳥居
 
同・拝殿
 
同・社殿域
(左:春日若宮社、中央:宗像社、右:春日社) 

◎境内末社 
 ・琴平神社--参道右手に鎮座する小祠
 ・おはらい所--参道左手に鎮座する小祠(一般にいう祓戸社であろう)
 ・社名不明社--参道左手拝殿寄りに鎮座する小祠、石垣の上に社殿が建つ
 資料には、末社として六所神社・宮谷神社・市杵島神社・琴平神社とあるが、今、琴平社以外に確認できず、社名不明の末社が3社の内のいずれかと思われるが、詳細不明。

 
末社・琴平社
 
末社・おはらい社
 
末社社名不明

◎子供神社
 公園の西側、宗像会館の道路側、白壁に囲まれたなかに「子供神社」と称する小祠(一間社流造・銅板葺)がある。

 境内の外にあり当社との関係ははっきりしないが、社頭の御造営趣意書には
  「平成16年秋、当社では通称子供神社の造営をおこないましたところ・・・」
とあり、小祠の傍らに立つ銘板には
  「子供神社(鬼子母神)改修工事 御浄財名簿 平成17年11月28日」
とあることから、当社の境外末社かと思われる。
 なお、小祠は、道路沿いの民家の裏を通って神社西側の公園脇に出(神社側からは行けない)、石段を登った上に鎮座する。

◎能楽宝生流発祥の地
 公園の左側植え込みの中に、「能楽宝生流発祥之地」と刻した石碑が立つ。
 室町時代に成立した能楽は、古くは猿楽と呼ばれ、大和の地には結崎(ユウザキ)・外山(トビ)・坂戸・円満井(エンマイ)の四座があり、後に、それぞれが観世流・宝生流・金剛流・金春流に繋がったという。
 当地が外山座(宝生流)が生まれた外山の地であることから、当社内にこの石碑が建てられたのであろう。

 
子供神社・鳥居
 
子供神社・小祠
 
宝生流発祥之地石碑

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