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村 屋 神 社
村屋坐弥富都比売神社境内摂社
奈良県田原本町蔵堂
祭神--経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神
                                                               2014.03.27参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城下郡 村屋神社二座』とある式内社だが、今は、式内・村屋坐弥富都比売神社の境内摂社として、同社拝殿の向かって右(東側)に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「経津主(フツヌシ)・武甕槌(タケミカツチ)二神は春日四神の内の二神であることから、春日神社とも言う。
 大連(オオムラジ)二神は壬申の乱に、吉野軍の将として活躍し功績が高かったため、天武5年(677)に合祀される。
 この森屋郷は、古くは室屋郷とも室原郷とも言い、室屋大連の神は、この地の出身ではないかと考えられる。

 この神社は、元は大宮(村屋坐弥富都比売神社)から200mほど東、初瀬川の川縁に鎮座されていたが、南北朝時代に兵火に会い、神領を没収せられ、社地を縮小せざるをえなくなり、本殿を守るような形で、前に向かい合わせの型で遷された。
 明治の初めには、廃仏毀釈があり、仏教的なものは取り払われた。今二座が鎮座するところは鐘楼跡といわれている。

 壬申の乱に功績があった三神の日本書紀の記述では、高市の事代主神、身狭の生霊神と二神は神名まで表記されているが、村屋神は地名だけで神名はない。あるいは村屋神社の二神ではないかとも思われる。
 本社弥富都比売神は女神であり、戦いにはしっくりこない。経津主神・武甕槌神の方がふさわしく思うが、決定する資料がない。 文 村屋坐弥富都比売神社 守屋広尚 宮司 
とある。

 当社の創建・沿革に関わって、式内社調査報告(1982)が引用する神社明細帳(1881)は次のようにいっている(番号は引用者挿入)
 ①天孫降臨に先立ち、天穂日命(アメノホヒ・出雲臣の祖)が高天原から眺めると、葦原中国(大八島国)には荒ぶる神々が跋扈していたので、己の子・天夷鳥命(アメノヒナトリ)に経津主神武甕槌神を副えて天降らせ、荒ぶる神々を平定し、国造之大神(大国主命)の心を和らげ鎮めて大八島国を天孫に譲ることを誓わせた(要約)。
 ②(国譲りの後)大物主櫛甕魂神(オオモノヌシ クシミカタマ)御妻三穂津比売神(ミホツヒメ)共に是の地に住み賜ひしかば、皇御孫命(スメミマノミコト)の為に経津主神武甕槌神等も亦共に是の村屋に韴霊(フツノミタマ)を以て厳御魂と幸比鎮め賜ひしか。
 ③日本紀に天武天皇元年村屋神が祝(ハフリ・神官)に著いて曰く、今吾社の中道より軍(近江軍)が至らんとす、故に宜しく社の中道を塞げと云々 村屋神等なり。
 ④崇神天皇7年の創立御鎮座にして、弥富都比売命の御許に齋ひ奉り賜ひしか。
 ⑤三代実録に、大伴健持大連公(オオトモタケモチノオオムラジ)の子が室屋大連公(ムロヤノオオムラジ)と云う
 ⑥大祝(オオハフリ・神官)森屋喜久麻呂父子をして、白鳳5年(677)8月、森屋の太祖大伴健持大連公室屋大連公の二神を村屋神社に並び併せ祭らす
 ⑦社地は字宮之山・久須々美神社の南の方に村藪と云に鎮座ありしを、天正12年8月10日本社境内に移し祀る。

 ①にいう天穂日命云々は、出雲国造神賀詞(新任された出雲国造が天皇に奏上した寿詞・716初見)がいう天穂日命の功績と同文だが(但し、神賀詞には武甕槌の名はない)、これは天穂日命の後裔氏族といわれる出雲国造側の主張であって、記紀では、天穂日命は国譲り交渉の使者として天降ったが大国主命に媚びて8年間も報告しなかったという。
 ただ、経津主神・武甕槌神が国譲り交渉を成功させ、帰順しない荒ぶる神々を平定したというのは、書紀の記述と整合する(書紀・国譲り段・本文に、「二神は、もろもろの従わない神たちを誅せられた」とある)

 ②前段では、大物主神とその妻・三穂津姫(ミホツヒメ・高皇産霊神の娘)2神が村屋の地に住んだというが、別の伝承では、「大物主神三室の丘に住みたまひき時に、三穂津姫神は是の村屋の地に住みたまひき」とあり、当地に住んだのは三穂津姫神一座という。
 大物主櫛甕魂神とは、出雲国造神賀詞に「大穴持命が、己の和魂を倭の大物主櫛𤭖魂命と名を称えて、大三輪の甘奈備(三輪山)に坐せた」という神で、三輪山の神・大物主命を指す。
 これからみて、当地に鎮まったのは三穂津姫のみとみるべきで、この部分は村屋坐弥富都比売神社(祭神:三穂津姫神)の鎮座由緒ととれる。

 後段は、三穂津姫の村屋居住に伴い、経津主・武甕槌2神が霊剣・韴霊を当地に鎮めたということで、これが当社の創建由緒と思われる。
 ただ、三穂津姫の当地居住に伴う霊剣・韴霊の鎮齋とは、経津主・武甕槌にとって主筋にあたる高皇産霊神の娘・三穂津姫の守り神として韴霊を鎮めたとも解されるが、三穂津姫と経津主・武甕槌との間に直接的な関係はなく、よくわからない。

 ③にいう日本紀云々とは、書紀・天武元年条にいう
  「村屋神の祭神が、祝に神憑って「今わが社の中の道から軍勢がくる。社の中の道を防げ」といった。
 何日もせぬ中に、近江方の軍が中の道から襲来した。人々は「神の言葉はこのことだったのだ」といいあった。
 戦後、将軍はこのことを天皇に奏上したところ、天皇は勅して神の位階を引き上げてお祀りになった」(大意)
との記述(書紀・天武元年条)をさすが、この村屋神が当社の神なのか、同じ村屋に坐す弥富都比売神社の神なのか、どちらともとれ判然としない(両社とも中道の近くにあったという)
 社頭の案内は、両社祭神の神格(女神と武神の別)からみて「村屋神とは、確証はないが当社の神二座ではないか」(宮司見解)というが、弥富都比売神社も「村屋神とは当社の神であり、この功績により位階が授けられた」(大意、別項・村屋坐弥富都比売神社参照)という。

 ④にいう崇神朝創建とは、書紀・崇神紀7年11月条に、
  「(大物主大神と大国魂神を祀ったとき)別に八百万神の群神を祀った。よって天社・国社・神地・神戸を定めた」
とある天社・国社に当社が含まれるとみたものだろうが、この記述は、神マツリの始まりを崇神朝とする書紀の方針によるもので、史実とはいえない。

※祭神
 今、当社祭神は経津主神・武甕槌神・室屋大連神・大伴健持大連神の4座となっているが、延喜式に祭神ト二座とあることから、本来の祭神は経津主神(フツヌシ)・武甕槌神(タケミカツチ)と見るべきであろう。

 社頭の案内には「春日四神の内の二神」というが、それを意識しての祭神というより、天孫降臨の魁として荒ぶる神々を平定した武神、換言すれば国土平定神としての奉齊とみるべきかもしれない。
 ただ、神社明細帳に「経津主・武甕槌の2神が、皇御孫のために韴霊(フツノミタマ)を鎮めた」とあることからみると、祭神は韴霊とも解され、和州旧跡幽考(1681)・大和名所図会(1791)には、「此の神は韴霊剣にてまします」とあるという。

 韴霊(韴霊剣)とは、
 ・神武東征の折、熊野の地で苦戦する神武の救援を命じられた武甕槌が、自分の代わりに熊野の高倉下に投げ下ろした剣で、これを得ることで神武は大和へ入ることができたとあり(書紀・神武即位前記)
 ・神武に抵抗する長髄彦を殺して帰順した宇摩志麻治(ウマシマジ・ニギハヤヒの子)に褒賞として与えられ(先代旧事本紀)、それ以降、諸国平定に力のあった物部氏が奉齋した霊剣であり、
 ・その霊剣・韴霊を神格化したのが経津主神ともいう。

 これからすれば、経津主・武甕槌の2神が韴霊を鎮めたというのは、己らの分身としての韴霊を鎮めたともとれ、そう解すれば、当社が経津主・武甕槌2神を祭神としてもおかしくはない。


 残る二座・(大伴)室屋大連神(ムロヤオオムラジ)と大伴健持大連神(オオトモタケモチノオオムラジ・武以・武持とも記す)について、案内は「壬申の乱における功績により天武5年に合祀されたと」いうが、大伴氏一族で書紀・天武紀(壬申の乱)にみえるのは、大伴連馬来田(オオトモノムラジ マグタ)とその弟・吹負(フケイ)であって、室屋・健持の名はみえない。

 室屋大連とは、雄略朝(5世記後期頃)に大連として政権を掌握し大伴氏一族に最盛期をもたらした大伴室屋を指し、大伴健持大連は仲哀紀(5世記初頭頃)に大伴武以連(オオトモタケモチノムラジ)の名でみえる人物で(公卿補任-10世記後半-には仲哀朝の大連とある)、両者ともに5世記代の人物であり、壬申の乱(672)に功績があったとするのは時代的にあり得ない。

 因みに、大海人皇子軍の将軍として奮闘していた吹負は、敵の来襲を予告する村屋神の託宣をうけて当地・村屋(中道沿いにあった当社内という)に布陣し、来襲した近江方の軍勢を破るという功績を挙げ、その死に際して(天武12年・683)大錦中(天智天皇が定めた冠位二六階の8番目)の冠位が贈られている。

 多分に、当地における大伴吹負らの活躍(神社明細帳③)をうけて、大伴一族が中興の祖・室屋大連(実在は確実という)とその父(あるいは2・3代前か)健持大連を合祀したということであろう。

※社殿
 式内・村屋坐神社拝殿の右手(東側)、玉垣に囲まれた一画(案内には鐘楼跡とある)の中央、低い基壇上に小祠2宇が東西に並んで鎮座する。
 社名表示は2宇共に村屋神社とある。

 社殿は、切妻造妻入り・庇付銅板葺、
   屋根に千木・勝男木を頂くことから、小社とはいえ、それだけの格式をもつ神社だったことが窺われる。

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