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室生龍穴神社
付--吉祥龍穴
奈良県宇陀市室生
祭神--高龗神
配祀神--天児屋根命・大山祇命・水波能売命・須佐之男命・埴山姫命
                                                          2018.12.05参詣

 延喜式神名帳に、『大和国宇陀郡 室生龍穴神社』とある式内社。

 近鉄大阪線・室生口大野駅の南東約4km、駅西から県道28号線を南下した山中に鎮座する。
 室生口大野駅から奈良交通バス・室生寺前から徒歩約15分というが、昼間一時間に一本しかない。

※由緒
 拝殿脇に掲げる案内
 「主神 高龗神は、伊邪那岐大神 其御子 迦具土神を斬り給へる時生れませる神にして、水火を司るの威徳を具へ給ひ、晴雨を調節して国土民生を安じ給ふ。
 蓋し、農を以て国の本とする我国古来の伝統的信仰として旱天に慈雨を祈るの風 朝野を挙げて後を絶たざりし所以にして、木津川・淀川の上流の当地に此大神の鎮まります事深く故なしとせず。
 随って、古来暦朝朝野の信仰篤く、祈雨・止雨の奉幣に預かり給ふこと度々にして、神階は度々昇叙されて応和元年正四位下に叙せられ給ふ。
 延喜の制 貴船・丹生等の社と列び、その神威赫々たる官幣の小社に列せられ、所謂式内社として近畿一円に衆庶の信仰篤く以て今日に及べり。
 配祀の祭神は、古来聚落の叢祀に奉斎せしを、明治末年に合祀せり」

 神祇志料(明治4年・1871)
 「今室生村室生山の麓にあり、龍王社といふ。
 光仁天皇宝亀中(770--80)、僧をして延寿法を室生山に修めて、東宮の御疾を祈らしむるに則験給ひき。後興福寺僧賢憬室生山寺を創建しより、此神殊に霊あるを以て、伽藍護法神とす。
 凡そ旱災ある毎に、龍穴に臨て雨を祈るに神験屡々顕る。(以下略)

 大和志料(大正3年・1914)
 「室生村大字室生の龍穴にあり。延喜式内にして中世以降 室生寺の本地と称せらる。今村社なり。祭神は雨師(ウシ、古代中国で雨を掌る神という)なり。

 龍穴について、室生山記に『室生山龍穴の事、彼の山に三龍穴あり、龍穴の底に入る十五丈、五尺池有り、右左に穴有り、左の穴最も方也、此内に石戸あり、広さ三尺厚さ二尺を以て戸扉を為す。
 此の内に入る七尺にして大岩有り、地より一尺三寸上に最方穴有り、広一尺八寸高一丈五寸』と見ゆ。今尚存在せり。

 而して之を龍穴と称するは、漢土の俗説にもとづくものにして、文選呉都賦に注して、湘東新平県に龍穴有り。穴中に黒土あり。天旱すれば人々水を以て此の土を沾せば(潤せば)暴雨之に応じが故に、常に之に雨を祈る也と云へるもの、即ち是なり

 按ずるに、赤埴白岩社記に、白岩社 大国主神嫡妃須勢理姫命(スセリヒメ)が宇陀大室生の岩窟に入り、五百引き石を以て岩戸の口を塞ぎ、赤埴土を以て窟口を塞ぐ。赤埴の号此に発す。岩窟は今の室生龍穴神社是也。
 然るに延暦9年(790)須世理姫命社を赤埴白岩の下に鎮座せしむ。夫れより以後赤埴に鎮座すと謂へり。
 国民郷土記に、龍は室生八車八十神の末なりと見え、須勢理姫の旧跡となせり、以て其の伝説の久しきを知るべし。然れども須佐理姫と雨師とは直接の関係を有せず。

 寛文寺社記には室生寺を以て延暦中(782--06)僧賢憬の開基する所となす。彼是相参するに、賢憬室生山を開き仏地となす(室生寺開山)に当り、旧来の須勢理姫を赤埴の白岩に移し、其の旧地〔即ち岩窟〕を漢土の龍穴に擬し、更に雨師を祭り以て祈雨の処となせるものなるべし」(一部省略あり)

 これらを簡単にまとめると
 ・室生龍穴神社は室生山にある岩窟で、これに坐す龍神に降雨を祈ったことに始まる
 ・この岩窟には、大国主命の嫡后・須勢理姫の旧跡であって、姫は室生の岩窟に入り、岩を以て岩戸の口を塞ぎ、赤埴土を以て窟穴を塞いだという伝承があり、須勢理姫が隠ったという岩窟が当社の始まりという
 ・延暦年中、室生寺開山に際し、この地に坐した須勢理姫を赤埴白岩の地に移し(当社の西約4kmの榛原赤埴の辺りで、今、白岩神社が鎮座している)、その旧地を古代中国の伝承にいう龍穴に擬し、雨師を祀って祈雨の処となした。これが今の室生龍穴神社である
となるが、資料・伝承等が混乱していてよくわからない。

 ただ、大和志料にいう須勢理姫とは素盞鳴尊の御子で、素盞鳴のいる根の堅州国を訪れた大国主と結ばれ、二人して出雲に帰ったとはあるものの、やや嫉妬深かったという以外に是といった事蹟は記されておらず、まして、水神・龍神との接点はみえず、その須勢理姫が如何なる由縁で室生の龍穴に隠もったとの伝承ができたのかは不明。

 これらを承けて、式内社調査報告は
 「室生山中の岩穴は古くから信仰の対象とされていた。その岩穴を龍穴と考えるようになり、ここに龍穴信仰がおこり、龍王常住の処とされ、室生龍穴神社が建てられ龍王を祀ったのであろう」
という。

 当社は古くから室生寺と関係が深く、室生山年分度者奏状(937)
 「旧記に曰く、宝亀年中(770--80) 東宮聖体不予の時、浄行僧5人を以て彼の山中に於いて延寿法を修せしむ。即ち玉躰安予。
 其後興福寺大僧都・賢憬仰せを蒙って件の山寺(室生寺)を創建す。是より以降、龍王其の験を顕し、これを国家鎮護社と為す」(漢文意訳)
とあり、
 ・皇太子・山部親王(後の桓武天皇)が病気になったとき、室生山で延寿の法を修したところ病気が平癒した
 ・その後、僧・賢憬が命により此処に山寺(室生寺)を創建した
 ・室生寺は、はじめ延寿法を修する場であったが、8世紀末になると龍穴神社の宮寺(神宮寺)的性格をもつ寺となったと考えられる
という(調査報告)

 当社の創建年次は不詳。
 現地を案内してくれたガイドさんは、室生寺開山(8世紀後半という)より以前からあったと強調していたが、古史料に
 ・日本紀略(11世紀末頃)--弘仁9年(818)7月14日 使いを山城国貴布禰神社・大和国室生龍穴等に遣わして雨を祈る也
   (ここで、室生龍穴とあり神社とは云っていないことから、この時期には未だ社殿はなく、吉祥龍穴前での奉祀だったのかもしれない)
 ・三代実録(901)--貞観9年(867)8月16日  大和国従五位下室生龍穴神に正五位下を授く
とあることから、遅くとも9世紀中頃にあったことは確かなようで(室生寺開山との前後関係は不祥)
 その後、延喜10年(910)従四位下、延喜18年(918)従四位上、応和元年(961)正四位下へと昇っている。


※祭神
  主祭神--高龗神(タカオカミ)
  配祀神--天児屋根命(アメノコヤネ・中臣氏の遠祖)・大山祇命(オオヤマツミ・山の神)・水波能売命(ミズハノメ・水の神)
         ・須佐之男命(スサノオ)・埴山姫命(ハニヤマヒメ・赤土の神)

 高龗神の(オカミ、雨冠の下に口3つ横に並べ、その下に龍)とは水を司る龍を意味する古称で、高山に坐す水雨の神。
 書紀(5段一書7)には
 「伊弉諾尊が軻遇突智を斬って三つに断たれた。その一つは雷神となった。一つは大山祇神となった。一つは高龗となった」
とある。

 古くは、主祭神は龍神あるいは龍王といわれていたという。
 龍王とは、仏教でいう護法善神の一で、海中に住み雨水を掌って万物を潤し、特に降雨に功徳があるとされ、
 日本紀略(平安末期)
 「弘仁9年(818)秋7月14日 使いを山城国貴布祢神社、大和国室生龍穴に遣わして雨を祈る」
とあるように、祈雨祈願所である当社の祭神として相応しいが、明治の神仏分離によって仏教色が排されたことから、書紀にいう水神・高龗神へ変わったのであろう。

 配祀の5神は、明治末の神社統合令によって、明治41年(1908)に近傍の各地から合祀された社で、
 ・天児屋根命--春日神社(字春日より合祀)
 ・大山祇命--山神神社(字弁天より合祀)
 ・水波能売命--水神神社(春日社境内社)
 ・須佐之男命--八坂神社(字カラミより合祀)--明治の神仏分離で、嘗ての祭神・牛頭天王が須佐之男命に変わったと思われる
 ・埴山姫命--秋葉神社(字春日より合祀)--通常秋葉神社の祭神は火の神・軻遇突智神であり、当社が土の神である埴山姫を祀る由縁は不詳
という。


 当社龍王にかかわって、次の伝説がある。
*奈良の猿沢池に住んでいた善達龍王は、ある日采女が入水自殺したので、死穢をきらった龍王は春日山の香山に移った。しかし此処でも死者が絶えなかったので、遂に室生の龍穴に住むようになった。
 (猿沢池には、平城天皇の時、帝の寵愛が薄れたのを悲しんだ采女が身を投げて亡くなったという伝承があり、池脇にこれを祀る采女神社がある)

*淳和天皇・天長元年(824)、旱魃が続いたため、僧・空海が勅を奉じて京の神泉苑で雨乞い祈願をしたとき、それに感応して現れた善女龍神が大雨を降らせ、神泉苑の池から飛翔して室生の峯に至った。

*室生の賢憬が、生身の龍王を拝むために龍穴深く入ると、奥に龍宮があり。机上に法華経一巻があり光を発していた。
 そこに一人の男が現れ、何用かと尋ねたので、龍王の生身を拝したいのだと答えると、此処は狭いから外で逢おうといった。
 そこで龍穴の外で待っていると、300mほど離れた水面上に衣冠を正した龍王が腰から上を顕したので、賢憬はこれを伏し拝み、その像を刻んだ。 その地が今の龍穴神社である。


※社殿等
 県道28号線の道路脇に、杉の巨木に挟まれて大鳥居が立ち(明治14年-1881の建替という)、叢林に包まれた参道の奥に拝殿が建つ。
 神社一帯には杉を主とした巨木が繁茂し、静寂の中に神秘的な雰囲気に包まれている。


杉の巨木間に立つ大鳥居 
 
大鳥居
 
参道(奥に拝殿が見える)

 叢林の中に建つ拝殿(桁行三間・梁行二間)は、元禄7年(1694)、将軍・家光の側室・桂昌院(1627--1705・将軍・綱吉の母)の施入により室生寺堂舎の造営修復がおこなわれたとき、室生寺の般若堂を移築し拝殿としたものといわれ、古びてはいるが寺院堂舎の面影が残っている。


拝殿・全景 
 
拝 殿
 
拝殿・側面

 拝殿裏、少し離れて本殿域があり、正面・木柵に囲われた中央に小型の鳥居が立ち、その奥に朱塗りの神門、朱塗りの瑞籬に囲まれた中に春日造・朱塗の本殿が鎮座しているが、瑞籬に阻まれて屋根以外の細部はみえない。
 資料によれば、本殿は寛文12年(1672)の再建といわれ(奈良・春日若宮社からの移築ともいう)、江戸時代何度かの修理を経て、明治40年(1907)に社殿の大修理がおこなわれたという。

 
本殿域・正面
 
神門と瑞籬
 
本殿・正面
   
本殿・側面

◎御神木
 大鳥居から向かって左へ少しいった右手に、地表から7・8mほどは一本だが、上部は二本に別れた室生杉の巨木が聳えている。
 この巨木は「御神木」であり、その根元に『神木 而二不二』(二にして二にあらず)と刻した石碑が置かれている。
 この石碑には
 「領主織田氏が屋形を建てようとして龍穴神社の神木を伐採しようとしたとき、一夜霊夢を見たので驚き、人をやって神木の伐採を中止させ、「神木 而二不二」との標石を境内に建てた」
との由来があり、今、杉の根本にある石碑が是だという。

 
御神木
 
神木 而二不二の石碑



【吉祥龍穴】
 室生龍穴神社北方の山中に位置する。

 神社前の県道28号線を東へ(一の鳥居を出て左へ)、約10分強ほど行った左手に『吉祥龍穴 800m』との案内板があり、そこから左の林道(四つけ村1号線、幅員4m)に入り、曲がりくねった坂道を約20分ほど上った左手に石の鳥居が立ち、傍らに『やまとの水 吉祥龍穴』との案内板が立つ。

 
室生龍穴神社案内図
龍穴(奥宮)への道順(神社大鳥居脇にあり)
 
吉祥龍穴入口付近
 
同・入口に立つ鳥居

 鳥居から、やや急勾配の階段を下った谷間対岸の断崖の下に龍穴があり、その前、小川のこちら側に簡単な拝所が建っている(拝所内土足厳禁)
 現地に案内などなく、また祠などの痕跡はみえないが、嘗ては、拝所の辺りに神籬を設けて、龍神に祈雨を祈る神マツリがおこなわれていたのかもしれず、臆測すれば龍穴前での祭祀を麓に移したのが室生龍穴神社なのかもしれない。

階段は材木で土留めをしたものでしっかりしているが、手摺等はなく(一部谷側にロープが張られている)上り下りには注意が必要。
 なお、龍穴の右手に『招雨瀑』と称する小さな滝があり、流れ落ちた水は龍穴の前を通って左手に流れている。 

 
龍穴への階段
 
拝所
(拝所の向側に龍穴あり)
 
招雨瀑

 龍穴は、切り立った崖の下に注連縄を張った逆三角形の穴が開いているだけで、大きな穴ではなく、近寄れないため中の様子は見えない。
 龍穴の下部から外に向かって水道(ミズミチ)がみえるから、水が流れ出ることもあると思われ、そこから龍神が鎮まる聖地との伝承が生まれたのであろう。

 
吉祥龍穴

同・拡大
 
龍穴上部の崖

 この龍穴について、室生村史(1966)には
 「龍穴神社の北東約600mの山中、神社の北を流れる渓流に小さな滝があり、その上に一つの岩穴があり、従来これが龍穴であると考えられてきた。
 伴信友の著・神名帳考証(1813)が引用する室生山記(松下見林)には「室生山には三龍穴有り」とあるが、神社付近には上記龍穴以外にこれに相当するものはない。
 ただ、室生川に沿って古く「爪出淵」・「悪龍淵」という淵があったが、今は出水などで、淵とも穴ともいう程のものではなくなっている。
 しかし、上記山中の岩穴は、確かに古くから龍穴の一つと考えられたもので、それが龍穴神社を祀る根拠となったのであろう」
とある。


◎天の岩戸
 林道途中(入口から半分強行った処)の道路脇に鳥居が立ち、注連縄を張り渡した苔生した磐座(巨石)2基が座り、『天の岩戸』との立札が立っている。
 案内なく詳細不明だが、磐座2基間の隙間を他界への入口と見立てて、これを天の岩戸と称したものと思われる。


天の岩戸・鳥居 

磐 座 
 
磐座の隙間

 磐座の右手、少し離れた岩の上、瑞籬に囲まれた中に春日造・朱塗りの小祠が鎮座している。社名表示等なく詳細不明。

 
磐座横の小祠
   
社 殿

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