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牟佐坐神社

奈良県橿原市見瀬町
祭神--高皇産霊命・孝元天皇
                                                             2013.06.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 牟佐坐神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“ムサニマス”と読む。

 近鉄・橿原神宮駅から南へ延びる吉野線・岡寺駅の横で、駅西側を流れる高取川の対岸、鬱蒼とした叢林の中に鎮座する。

※由緒
 社頭の案内“には、
 「日本書紀天武天皇紀、安康天皇の御世、牟佐村(現見瀬町)村主(スグリ)・青の経営であった当時の祭神・生雷神(読み不明、雷神・イカヅチか)であり、江戸初期まで榊原(境原、サカイバラ)天神と称されていた。
 享保の頃(1716--36)には菅原道真公を祭神とした。
 明治に至り、古道再び明らかにと天津神(アマツカミ・高天原系の神)である高皇産霊神(タカミムスヒ)を奉祀して゜現在に至る。
 境内は孝元天皇の即位された宮地と伝えられている」

 室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(通称:五郡神社記・1446)には、
 「当家古来伝える所の社記に曰、日本書紀に曰、牟佐社の祭神は生雷神也。・・・
  旧記に云う、安康天皇が呉使主(クレノオミ)青に勅して牟佐村主と為す。此の時、霊夢に依りて生雷神を牟佐村築田に祀り奉り、其の子孫を祝部(ハフリベ=神主)と為す。・・・ 火雷(ホノイカヅチ=雷神)所謂生雷神是也。
 天武天皇即位元年(678)七月、無位生雷神に正六位上を授け奉る」(漢文意訳)

 また、江戸中期の地誌・大和志(1734)に 
 「牟佐坐神社 三瀬(見瀬)村に在り 今境原天神と称す 天武紀に謂う所の生雷神此也」
とある。

 これによれば、当社は安康天皇の御世(5世紀中頃か)、牟佐村主青なる人物が霊夢をうけて創祀したとなるが、この人物は、書紀・雄略天皇段に
 ・8年春2月 身狭村主青(ムサノスグリ アオ)・桧隈民使博徳(ヒノクマノタミノツカイ ハカトコ)を呉国(クレノクニ)に遣わす
 ・14年春1月  身狭村主青らは、呉国の使いと共に、呉の献った手末(タナスエ)の才伎(テヒト)、漢織(アヤハトリ)、呉織(クレハトリ)と布縫(キヌヌイ)の兄媛(エヒメ)・弟媛(オトヒメ)らを率いて住吉の津に泊まる
とある“身狭村主青”と同一人物で、雄略が安康の次の天皇であることから、牟佐村主青が安康天皇の御世に当社を創始したというのは、年代的にみてあり得ることだが、他に傍証はない。

 牟佐村主青とは、新撰姓氏録(815)
 「左京諸蕃 漢 牟佐村主 呉孫権の男(子)高より出る也」
とある渡来系氏族の祖的人物で、中国南朝との外交交渉などに従事したという。

 案内にいう“日本書紀天武天皇紀”、五郡神社記にいう“日本書紀に曰”、大和志にいう“天武紀にいう生雷神此也”とは、書紀・天武即位前紀・7月条にいう
  「(壬申の乱-672で)天武軍が金綱井に集結したとき、高市県主許梅(タカイチアガタヌシ コメ)がにわかに神懸かりのようになって、『吾は高市社にいる事代主神である。また身狭社(牟佐社)にいる生霊神(イクミタマノカミ)である。神武天皇陵に馬や数々の武器を奉れ。・・・』と告げた。
 そこで許梅を遣わして、神武天皇陵に参詣させて馬と武器を奉り、高市・身狭の二社に弊を奉ってお祀りした」(大意)
との記事を指す。
 これによれば、当社は天武朝以前から存在していたとなるが、これを証する傍証はない。

 また、五郡神社記には“天武元年、正六位上を授く”とあるが、天武即位前紀には
 「天皇は勅して三神(高市社・牟佐社・守屋社)の位階を引き上げて祀られた」
とはあるものの、正六位上を授けたとはなく、当社に対する神階授与の記録としては、
 三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条に
  「大和国従五位下・・・牟佐坐神・・・従五位上を授く」
とあるのみで、これによって9世紀以前からの存在が確認される。

※祭神
 現在の祭神は、
  ・高皇産霊命(タカミムスヒ)
  ・孝元天皇
というが、当社に造化三神の一で皇統譜母方の祖神とされるあるタカミムスヒを祀る理由はみえない。明治に入って、本来の祭神を記紀にいう著名な神々へ変更した事例は多く、当社もそのひとつであろう。

 本来の祭神は、延喜式に一座とあることから、案内等にいう生雷神とするのが本来の姿だろうが、書紀によれば牟佐社の神は生霊神であり、一字違いながら異なっている。
 この違いを説明した資料はないが、既に、中世の頃には生雷神となっていたようで(五郡神社記-1446-他)、憶測すれば、その当時の当社は菅原道真を祀る天神社であり、為に、菅原道真がもつ神格即ち雷神と習合して、霊を雷と読み替えたのかもしれない。

 なお、書紀にいう生霊神の出自・神格は不明。当社が渡来系氏族・牟佐村主一族が奉齋する社とすれば、生霊神とは彼らが奉斎していた神・すなわち渡来神とも解される。

 配祀神・孝元天皇(第8代)は、当地の小字名・境原と古事記にいう孝元天皇の宮名・軽境原宮の一致から、その宮址伝承地に比定されたためで、たぶん明治に入っての追祀であろう。
 ただ、孝元天皇は、欠史9代としてその実在が疑問視されている天皇で、当地に宮があったかどうかは不明。

 なお、式内社調査報告によれば、当社所蔵の棟札には
 ・天保2年(1831)・同13年(1842)--天神宮
 ・慶応4年(1868)--天児屋根命・高皇産霊尊
 ・明治4年(1871)--先雷神・思兼神
などとあり、祭神の変更が大きかったという。

※社殿等
 岡寺駅の西側、高取川に架かる橋を渡った正面に一の鳥居が立ち、参道を進み石段を登った上が境内。境内入口に二の鳥居が立つ。
 境内正面に拝殿(入母屋造割拝殿・間口七間・奥行二間・正面に千鳥破風を有する向拝あり、瓦葺)が東面して建つ。
 その奥、中門・玉垣に囲まれて本殿2社があるというが、高い二重のコンクリート塀に囲まれ実見不能。

 資料によれば、向かって右がタカミムスヒを祀る社殿(一間社流造・桧皮葺)で、左が孝元天皇の社殿(春日造・桧皮葺)というが、かろうじて撮れた写真を見れば、向かって右が春日造と見える。

 
牟佐坐神社・社叢
 
同・一の鳥居
 
同・二の鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿 

 なお、境内・一の鳥居左に小祠2社(春日造・板葺)が並ぶが、当社との関係は不明。

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