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葛城の式内社長 尾 神 社
奈良県葛城市長尾
祭神--天照大御神・豊受大神
                                                               2014. 08.30参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛下郡 長尾神社』とある式内社。

 近鉄南大阪線・磐城駅の南約250m、駅前から南へ進み、国道166号線(磐城駅前交差点)を越えた右手(西)に鎮座する。
国道を過ぎた辺りから前方に鎮守の森がみえる。

 当地は古代の官道・竹内街道の東の起点といわれ、社頭の案内には
  「日本最古の官道である竹ノ内街道及び初瀬街道(横大路)や長尾街道など古代主要街道の各起点地に鎮座するため、古来より交通安全・旅行安全の神様として厚く信仰されています」
とある。

 境内北側の東西道が旧竹内街道(現大阪府堺市から竹内峠をへて当地に至る旧官道、約26km)の跡と思われ、境内北東の交差点南西の角に“竹内街道案内図”・“竹内街道と刻した道標”が立つ。
 また、この交差点の西約200mの辺りが北から来る長尾街道(現堺市から東へ、竹内街道の北約2kmを通った旧官道、当地辺りで竹内街道と連なったという)との交差部だったようで、交差点の南東角に“竹内街道道標”が立ち、古い道標2基が集められている(文字の判読不能)


竹内街道案内図 
 
竹内街道・道標
 
旧竹内街道跡
(東より、左は神社の森)
 
竹内・長尾街道交差部
に立つ古道標


※由緒

 社頭に掲げる案内には、
  「延喜式神名帳に『葛下郡長尾神社 大月次新嘗』とある式内の古社です。

  『放光寺古今縁起』(1302・鎌倉後期)や『大和志』(1736・江戸中期)によると、ご祭神は伊勢神宮の内宮外宮の大神で、住吉・熱田・諏訪の神々をも祀られて、江戸期の文献では水光媛命・白雲別命も祀られたとある。
  --(中略・上記竹内街道の説明)--
 また同縁起には、『長尾神社は葛下郡全体の総社である。天武天皇が壬申の乱(672)で勝利した後に感謝の気持ちから葛下郡一郡を当社に献じられた』と記され、江戸時代には正一位の神階を授けられました。

 また水光媛命は古事記や日本書紀に体が光って尾が生えていたと記されて、神様のお姿が白蛇であるといわれるところから、蛇の頭が三輪明神で尾っぽが当社という伝承もあります。
 さらに当社は、西日本の長尾姓の発祥地ともいわれています」
とあるが、これは祭神についての記述であり、その創建由緒・時期などについての記載はない。

 当社の創建時期は不明だが、三代実録(901)・貞観元年(859)正月27日条に
  「大和国従五位下・・・長尾神・・・従五位上を授け奉る」
とあり、9世記にあったことは確かといえる。
 その後の正史に昇叙記録はみえず、社伝によれば
  ・公安4年(1281・鎌倉中期)--正二位
  ・江戸時代--正一位(享保9年-1724の長尾大明神明細帳に正一位長尾大明神とあるという)
に昇ったというが、これは中世以降の神社界を支配した京都・吉田家(吉田神道)によるものであろう。

 その後の沿革は不明だが、江戸時代には近傍5ケ村(竹ノ内・八川・尺土・水戸・長尾)により奉齊され、明治6年(1873)村社に列したという。

※祭神
 社頭の案内には
   御祭神  天照大御神 豊受大神
           水光姫命(豊御富) 白雲別命
           住吉大神 熱田大神 諏訪大神
とあるが、諸資料では
  ・水光姫命(ミヒカリヒメ、又はミヒカヒメ) ・白雲別命(シラクモワケ)--
とするのが多く(特選神名牒-1876・式内社調査報告-1982・日本の神々4-1985他)、他にも
  ・伊勢内宮・外宮の祭神--放光寺古今縁起(1302)・大和志料(1914)--現主祭神
  ・長尾首祖神神--当地に盤踞した豪族・長尾直氏の祖神--大日本地名辞書(1907)
との説を散見する。
 なお、住吉・熱田・諏訪大神を祀るというのも放光寺古今縁起によるものだが、その勧請由緒・時期等は不明。また今の当社にその痕跡はみえない。

◎天照大御神・豊受大神説
 伊勢内宮・外宮の神とするのは、放光寺古今縁起との古文書で、これを承けた大和志料には、
  「祭神は天照大神・豊受大神なり。創立の由緒、正安の放光寺縁起に詳かなり。参考すべし。
 然るに、今、水光比売とするは南都人・今出河氏の作為せる社記に拠られたるものなれども、その書牽強付会にして信ずるに足らざれは、今之を取らず」
として、祭神・水光姫・白雲別説を否定して、正安4年(1302)僧・審盛(シンジョウ)著の放光寺古今縁起に拠るべしという。

 式内社調査報告が引用する放光寺古今縁起には
 「当寺(放光寺)は鎮守として
   南御殿 長尾五所 葛下惣社振別
   中御殿 八幡三所 源氏宗廟大菩薩
   北御殿 地主地霊 大原氏神付近小社
を祀る。
  南御殿に祀る長尾神は伊勢の内宮外宮の垂迹で、それは天武天皇が大友皇子の追求を逃れて吉野に隠れられたとき、大神宮を遙拝され、大友皇子との合戦に勝利されたので、即位の後、葛下郡を大神宮の神地として献じられたことによる。
  長尾五所とは、内宮外宮に諏訪・住吉・熱田を加えた五社を云う」(漢文意訳)
とある。

 確かに、天武紀・元年6月条には
  「26日、朝、朝明郡(アサゲノコホリ・三重県三重郡に比定)の迹太川(トオカワ)のほとりで、天照大神を遙拝された」
とあるが、戦勝の褒賞として葛下郡を伊勢大神宮に奉ったとの記事はなく、縁起がいう即位後云々の根拠は不明。

 社頭の祭神名は、放光寺古今縁起に、同寺鎮守として南御殿に祀られる神(アマテラス・トヨウケ)は当社からの勧請とあることから、当社の祭神は伊勢内宮外宮の神即ちアマテラス・トヨウケヒメの両神とするものだろうが、それを傍証するものはなく、また縁起の信憑性がどの程度のものかも不詳。

 この縁起は多分に、神仏習合思想による記紀神話の見直し、所謂中世神話流行のなかで作られたものと思われ、大和志料が、これを以て当社祭神をアマテラス・トヨウケヒメとする方が牽強付会であろう。
 放光寺は、今、王寺町本町の王寺小学校の西北、式内・片岡神社の隣にある寺がそれと思われるが、当社とは相当に離れており、その寺に当社祭神を勧請した由縁は不明。

 なお、放光寺古今縁起の後半に
  「城上郡の女に近づいた神人の衣の裾に“緋の糸”をつけ、跡をたどったら長尾の宮に入ったとして、糸が長く尾を引いたから長尾と名づけた」
との地名説話を載せているというが、これは三輪山で有名な苧環(オダマキ)神話を模して作られたもので、当社祭神白蛇の頭が三輪明神で尾っぽが当社であるとの伝承ともあいまって、中世における当社と大神神社との関係を示唆するものという(式内社調査報告)

◎水光姫命・白雲別命説
 水光姫命・白雲別命とは、吉野地方を根拠とする吉野首(ヨシノノオビト、天武12年、連-ムラジの姓をを賜る)の祖神とされる神で、新撰姓氏録(815)には、
  「大和国神別(地祇)  吉野連  加弥比加尼(カミヒカネ)之後也 
    神武天皇が吉野に行幸して神瀬に至り、人を遣わして水を汲んだ。使者は還って『井に光る女が居た』と報告した。天皇が之を呼んで『汝は誰か』と問うと、『妾は天より降り来た白雲別神の女で、名を豊御富(トヨミホ)という』と答えた。天皇は水光姫と名づけた。今吉野連が祀る水光神は是也」(漢文意訳)
とある。

 これは、古事記・日本書紀に記す伝承を承けたもので、記紀には
 ・古事記・神武即位前記
   天皇は、八咫烏の後について進まれ吉野川の川尻にお着きになり、・・・、さらにお進みなると、尾の生えた人が井から出て来た。その井の中は光っていた。そこで「お前は誰か」と問うと、「吾は国つ神で、名は井氷鹿(ヰヒカ)という」と答えた。これは吉野首等の祖である
 ・書紀・神武即位前紀
   天皇は吉野の辺りを見たいと思われて、宇陀の穿邑から軽装の兵をつれて巡行された。吉野に着いたとき、人がいて井戸から出てきた。その人は体が光って尻尾があった。天皇は『お前は何者か』と問うと、『吾は国つ神で、名は井光(イヒカ)という』と答えた。これは吉野の首部(オビト)の先祖である。
とある。

 この両神の神格は不詳だが、
 ・水光姫--ミヒカ(水光)は記紀にいうイヒカ(井光)の転訛と思われ(井→水)、井の神・水神であろう。
   なお、姓氏録にいう豊御富(トヨミホ)の富(ホ)を稲穂と解すれば、豊かな稲の神即ち豊穣神とも解され、豊穣神は水神でもあることから、水光・井光・豊御富いずれも豊穣を司る水神であろう。
 ・白雲別命--水光姫命の父神で、雲が雨を伴うことから雨・雷の神で、これもまた水神とみることができる。

 当社に伝わる「長尾神社略記」(社伝、今出河如鶏著・1724・江戸中期)には
 ・社家吉川家は吉野川氏で、吉野連の子孫である
 ・祭神は、記紀所伝の井光女・水光姫
 ・大字竹ノ内の三角磐に、水光姫命が白蛇となって降臨された
 ・夢の訓により、長尾の地に御蔭井を造り、この白蛇をお遷しした、其上に磐石を以て覆った
との伝承があり、長尾大明神明細帳(1724・江戸中期)との古文書には
 ・御宮郷内竹ノ内村領三角岩、亦の名は降臨石とも申す。当社旧跡に御座候
 ・神殿の艮(東北)に御陰井御座候
とあるといわれ、今も社殿の東北にある藤の木の根元に苔むした石があり(気づかず未見)、これをあげると大和一円が水浸しになるとの言い伝えがあるという(式内社調査報告)

 これらからみて、吉野連一族がその祖神を祀ったのが当社である蓋然性は高いが、その後裔という吉川家が社家を勤めたという以外に、当地に吉野連一族が居住していたことを示す傍証はない。

 これに係わって、特選神名牒(1876)は、
  「祭神・水光姫命とは、姓氏録に『今吉野連が祀るところの水光姫是也』とあるによるが、長尾神社を、尾の有ると云る尾の字に付会して云う説と聞ゆれれど、外に考ふべきたつきなければ姑(シバラク)は社伝に従ふ」
と記し、長尾神社と有尾人、共にある尾の字からの付託であろうとして、一抹の疑問を呈している。

◎長尾首祖神説
 当社の祭祀氏族を長尾直(ナガオノアタヒ)一族とみるのが大日本地名辞書(1907)で、書紀・天武天皇元年(672)7月条に
  「(大海人皇子軍の)将軍吹負(フケイ)が稗田(大和郡山市稗田)に到ったとき、ある人が『河内から軍勢が攻めてくる』と告げた。
   吹負は・・・長尾直真墨(ナガオノアタイ マスミ)・・・らに三百の兵士を率いさせて、竜田を守らせた」
とある長尾直真墨は当地・長尾の豪族で、この長尾直一族が祖神を奉祀したのが当社ではないかという。

 社名・鎮座地名からみて傾聴に値する説だが、姓氏録に長尾直の名はみえず、正史にも真墨以外は登場せず、その出自・事績は不明。

◎まとめ
 これらからみて、何れの説も根拠薄弱で、当社祭神をどの神なのかの判断は難しいが、愚考すれば、
 ・社伝に水光姫・白雲別とあること、当地に水光姫伝説・白蛇伝承が残ること、水光姫が人々の生活・農耕に必要な水を司る水神であることなどからみて、この両神である蓋然性は高く、
 ・次いで、在地の豪族が長尾首一族とすれば、その祖神を祀った可能性もあり、延喜式に祭神一座とあることからみると、この説が妥当だが、今の本殿が2宇あることとは整合しない。
 ・現当社がいう伊勢内外宮の祭神は中世以降の創作と思われる。

※社殿等
 当社鎮守の森の東側に朱塗りの鳥居が立ち、
 境内正面の玉垣内に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、一段高くなった本殿域に本殿2宇(唐破風向拝付き春日造・銅板葺)が東面して鎮座する。

 本殿について、享保9年(1724・江戸中期)の明細帳に
  「神殿両殿共に紫宸殿柞、奥行八尺二寸、広さ四尺九寸」とあり、
 屋根の両端に交差する千木(チギ)の先端は北殿が水平(内削ぎ、祭神が女神であることを示す)、南殿が垂直(外削ぎ、男神)となっている、という(式内社調査報告)

 本殿域に入れないので詳細はみえないが、現在の本殿は春日造であり、明細帳がいう紫宸殿作がどのようにものかは不明。
 千木は、撮った写真でみると、向かって右(北側)の千木は内削ぎ、左(南側)のそれは外削ぎとみえ、これは当社の祭神が女神・男神の二座であり、右に水光姫命左に白雲別を祀ることを示す。
 この社殿構造からみると、女神同士であるアマテラス・トヨウケヒメ説は成り立たず、長尾首祖神説も一座であることから成立しない。

 
長尾神社の森(北から)

長尾神社・鳥居 
 
同・拝殿

同・本殿(左) 
 
同・本殿

同・本殿(右)

◎境内社他
 本殿域の左、小さな石鳥居の奥に境内社・厳島神社があり、境内右に絵馬殿がある。

 ・厳島神社--祭神:市杵島姫命(イチキシマヒメ)、天児屋根命(アメノコヤネ)を合祀
   元大字長尾字里垣内にあったものを、大正4年(1915)12月に当社内に遷座したもので(明治末から強行された神社統廃合政策によるものだろう)
   合祀の春日神社は、明治中期頃、長尾村葛城寺境内から遷座し、末社となっていた春日神社を合祀したもの(祭神:武甕槌命・経津主・天児屋根命・比売神

 ・絵馬殿--創建時期は不明だが、中には小型の絵馬がびっしりと並び、安永元年(1778)寄進の絵馬があるという。(以上、式内社調査報告)

 
厳島神社
 
絵馬殿
 
奉納の絵馬

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