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奈良豆比古神社
奈良市奈良坂町奥垣内
祭神--奈良津彦神・施基親王・春日王
                                                               2014.01.12参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 奈良豆比古神社 鍬靫』とある式内社。社名は“ナラヅヒコ”と読むが、式内社調査報告(1982)は“ナラノ ツヒコ”と読むべきという。古くは奈良坂春日社とも呼ばれたという。

 近鉄奈良駅の北約2.3km。駅前を東へ、県庁東交差点を左折、県道369号線(木津横田線、旧京街道)を北上、般若寺を越えた先、旧京街道(奈良市北部から木津川市木津へ至る街道、般若寺越のちに奈良坂と呼ばれた)の左側に鎮座する(途中から、県道と旧街道が二股に分かれるが、左-西側の旧街道筋を直進)

※由緒
 広い境内の神社だが、境内に由緒等を記した案内など見えず(参詣時、社務所無人)、入口右の案内・「天然記念物 楠の巨樹」に、
  「今から1200余年前、光仁天皇の父・田原皇太子が病気療養のため那羅山にある一社に隠居せらる・・・とある一社こそ当奈良豆比古神社であって・・・」
とあるだけ。

 管見した資料によれば、
*当社縁起(ネット資料)
  縁起にいう、『光仁天皇・宝亀2年(771)正月二十日、施基皇子(志貴皇子・志紀皇子)を奈良山春日離宮にまつる。奈良津彦の神これなり。のち田原天皇と、おくり名をたてまつる』

*大和志料(1914・大正初)
  奈良市奈良坂町にあり。延喜式神名帳に『奈良豆比古神社 鍬靫』とある即ち是。俗に奈良坂春日社と称し、中ごろ衰頽し、西福寺境内にありて(今も、南に隣接して西福寺あり)、其の鎮守たりしが今は村社となりし
 当社縁起に曰く《正中元間-1324、神主弓削氏之記》 光仁天皇宝亀2年(771)辛亥正月廿日、施基(シキ)皇子を奈良山春日離宮に奉祭。奈良豆彦神即ち是也。後に田原天皇と諡(オクリナ)奉る・・・

*式内社調査報告(1982)
  創祀年代は詳等かでない。奈良坊目拙解(1735・江戸中期)にいう、『奈良坂町の浄土宗知恩院派の西福寺の境内にあり、奈良坂春日社と俗称されていた奈良神社三座をもって延喜式神名帳の大和添上郡奈良豆比古神社、即ち是也』

 これらによれば、当社は天智天皇の第7皇子で光仁天皇(在位770--81)の父にあたる施基(シキ)皇子(志貴皇子とも、668?--716)を、宝亀2年、その生前の居所・奈良山春日離宮(当地にあったというが詳細不明)に祀ったのが始まりとなる。
 ただ、続日本紀・宝亀2年正月条に当社創建に関わる記事は見えず、又、当社に対する神階授与あるいは封戸の施入記録等が見当たらず、創建時期ははっきりしない。

 施基皇子とは、天智天皇(38代)の第7子で、天智の死後、(壬申の乱により)皇統が天武系に移ったため朝廷内での立場は弱まったものの、皇族の一員として周囲に気を配りながら生きたといわれ、続日本紀によれば、
 ・大宝3年(703)10月9日--太上天皇(持統天皇)の葬儀の司を任命した。・・・四品の志紀親王を御竈を造る長官に任命した(崩御した持統天皇の火葬施設の造営)
 ・慶雲4年(707)6月15日--(文武天皇の崩御に際し)三品の志紀親王・・・らに殯宮の行事に仕えさせ、・・・
などしあり、裏方的な役目を誠実に果たしたようで、和銅元年(708)正月には三品(サンホン)の位階が授けられ、最終的には二品まで昇っている(「霊亀2年8月11日 二品の志貴親王が薨じた」とある)

 また、皇子は自然を詠った歌人として知られ、万葉集にも6首が残っているが、代表的なものとして次の歌がある。
  志貴皇子の懽び(ヨロコビ)の御歌一首(8巻1418)
   石走る(イハハシル) 垂水(タルミ)の上の さわらびの 萌え出づる春に なりにけるかも
    (岩上をほとばしり流れる 垂水のほとりの さわらびが 芽を出す春に なったことだ)

 その後、皇子の死後(716)、称徳天皇(48代、在位715--70)を以て天武系の皇統が途絶え、皇子の御子・白壁王が光仁天皇(49代)として即位(宝亀元年・770)したことから、父である施基皇子に春日宮天皇の諡を追賜されている。また、その陵墓・田原西陵(奈良市矢田原町)に因んで田原天皇とも呼ばたという。

 施基皇子への贈称・春日宮天皇について、
 ・続日本紀・光仁天皇宝亀元年(770)11月6日条に、光仁天皇の詔として
   「春日宮においでになった皇子(施基皇子)を天皇と称し奉り・・・」
とある。

 当社縁起および諸資料は、ここでいう春日宮を当地にあった奈良山春日離宮というが、施基皇子の離宮は春日山の東南約3kmの高円山南麓にあったといわれ(ネット資料)、今、高円山の東南約2kmの奈良市矢田原町に施基皇子の陵墓・田原西陵があり、その東南約1.5kmに施基皇子を祀る春日宮神社が、西陵の東約2kmに光仁天皇の陵墓・田原東陵がある。
 これらからみると、現矢田原町一帯が施基皇子一族の領地で、施基皇子の離宮はこの辺りにあったとみるのが順当かと思われる。

 なお、大和志料は
   「施基皇子は光仁天皇の御父にして、崩後春日宮御宇天皇と追尊せられしこと既に国史に明らかなり。
 当社を春日社と称するは所謂春日離宮と春日宮御宇天皇の名称に因めるものにして、三笠山春日の社名を襲へるものにあらず。相混ずるなかれ」
として、当社の別称・春日宮とは、奈良市春日野町(三笠山)の春日大社に関わる社名ではなく、祭神・施基皇子への謚・春日宮御宇天皇によるものという。


 上記に由緒等は、すべて施基皇子を中心としたものだが、これに対して、谷川健一氏は次のようにいう(賤民の異神と芸能・2009、一部要約あり、以下同じ)
 ・奈良市の東北にあたる奈良坂は、平城京と山城国木津を結ぶ京街道にあり、京都の清水坂と並ぶ鎌倉時代における代表的な非人集落であった。
 ・奈良北部にある平城山(ナラヤマ(H≒100mほど))の東を般若寺坂、西に歌姫越えが南北に走り、奈良坂は、もともとは西の歌姫越を指していたが、平城京が廃都になった後、その中心が東大寺等がある東に移ったため、当社の前を通る東の般若寺坂が奈良坂とよれるようになった。
 ・奈良豆比古神社は、宝亀2年に平城山の頂上に祀られ、その後現在地に移転したと考えられる。
 ・奈良豆比古神社は大和と山城の国境の関に祀られた「境の神」であったが、平安中期に春日大社の信仰が盛んになると「奈良坂春日社」との別称で呼ばれるようになった。

 これによれば、当社の原点は般若寺坂に「坂の神」(サカの神)を祀ったことに発し、後に“サカの神=奈良坂に坐す神”を意味する奈良豆(津)比古神社、別称・奈良坂春日社(宮)と呼ばれるようになったという。

 サカの神に関連して、柳田国男は
 ・サカ(坂・境)・サク(避・裂・避)・サケ(同左)・サキ(崎・尖・岬)・ソコ(底・塞)などはいずれも同根の語で、“隔絶”を意味する
 ・隔絶とは、“ものごとを隔てる”・“遠ざける”などを意味し、換言すれば、此処と彼処とを隔てる“境”、即ち民俗学でいう“境界”と同意と考えられる。
 ・シュク(宿)の元の音はおそらくスクで都邑の境または端れを意味し、具体には村はずれ・河辺・坂・峠などを指し、そこは人の住むには適しない辺境で、神や精霊といった霊的なもの(宿神・夙神)が往来し居付く聖なる場所とされていた。
 ・そのような境・辺境に坐す神=宿神は、外からの邪神・悪霊・疫病神などの侵入を遮る神として崇められていた。
 ・また、そのような辺境には、一般社会から阻害・排斥された人々(不治の病、特に癩病を罹病した人・旅の芸能者・一般放浪者など)が集まり集落をつくり生活していたが、集落を宿(シュク、後に夙の字を充てた)、住民を宿人・夙人(シュクウド)と呼んた。
という(石神問答1841・化坊主考1914などを要約)

※祭神
 本殿域前に立つ石版には
   式内社 奈良豆比古神社
    祭神  施基親王 御おくり名田原天皇--左座(向かって右)
         奈良津彦神--------中座
         春日王----------右座(向かって左)
とある。

 この社殿配置からみると、主祭神・奈良津彦神(中座)を中心に、施基皇子及びその御子・春日王(田原太子ともいう、?--699)という父子を配したことになる。
 当社縁起などでは、主祭神・奈良津彦とは施基皇子のことというが、今の当社が奈良津彦神・施基皇子を別々に祀ることからみて別神とみるべきであろう。

 奈良津彦の出自・神格は不詳。
 日本の神々4(1985)は当地の産土神というが、谷川氏は
 ・奈良豆比古神は、大和と山城の国境にあるサカの神であり、土地の神であった。
 ・奈良坂に住む住民は「坂の者」と称せられ、そこに集落が形成されると、サカが宿(夙・シュク)に転じたと考えられる。
として、奈良津彦神(奈良豆比古神)は奈良坂に住む夙人(シュクウド、宿人とも書く)らが奉祀したサカの神(宿神・境界の神)であろうというが、民俗学上の知見あるいは当社が大和・山城の国境に鎮座することからみて順当な説と思われる。

 当社祭神については諸説があり、管見のかぎりでも
 *奈良神社縁起(1324)
  ・宝亀2年正月--施基親王を奈良山春日離宮に祀る(南座)。奈良津彦神は施基親王のことで、のちに田原天皇と謚号
  ・同11年11月--田原天皇の第二皇子・春日王が、春日大社第四殿の姫大神を勧請し、大宮と称す(中座)
  ・保延2年11月--春日若宮を北方の左座に移し、ここに奈良坂春日三社と号した

 *当地・奈良坂村からの報告(明治7年・1874)
  左殿--春日若宮
  中殿--南良(奈良)春日宮大神(施基皇子か)
  右殿--春日神殿--矢幡大神(?)

 *大和志料
 ・宝亀11年(780・奈良末期)11月21日、春日王(田原天皇第二皇子)を春日四ノ御殿に祀り奉る。大神当座中之御社是也
 ・保延2年(1136・平安末期)11月21日、春日若宮(天押雲命)を左座に勧請、奈良春日三座と号し奉る
との当社縁起を挙げ、
  「大宮神殿(中座)は施基皇子の二子・春日王の霊を祭り、奈良御殿(右座)は施基皇子即ち奈良津彦尊にして、共に宝亀中の奉祭に係り、若宮神殿(左座)は保延中に三笠山春日社の若宮を勧請せしものなり」
などがある。
 これらの諸説を整理すれば次のようになる。 

  左座(向かって右・北方)  中座  右座(向かって左・南方) 
 当社石版 施基親王(田原天皇)  奈良津彦神  春日王 
奈良神社縁起(1324)  春日若宮  姫大神  施基親王 
 明治7年報告(1874)   春日若宮  南良春日宮大神  矢幡大神 
 大和志料(1914) 春日若宮  春日王  施基皇子(奈良津彦神)

 これら祭神名の変遷をみると、大和志料は「春日宮とは、三笠山春日の社名を襲へるものにあらず。相混ずるなかれ」というが、古く、春日若宮(春日大社摂社)あるいは姫大神(春日大社第4殿の祭神)を勧請していることからみて、何らかの関係があったと思われる。
 これについて、谷川氏は「奈良坂の夙人は興福寺に従属しており、しかも興福寺と春日神社とは一体であった時代もあるから、春日大社にも従属していたことは容易に伺われる」として、当地に居住する夙人と春日大社あるいは興福寺との関わりを示唆している。

 当社が施基皇子と春日王を祀る事について、谷川氏は
 ・施基皇子を祀ったのは、シキが奈良坂のシュクと音が類似するからである。 
 ・また春日王は実在の人物であるとともに(施基皇子の系譜に春日王が見え、白壁王-後の光仁天皇の異母兄という、奈良坂の夙人が祖と称する浄人王(キヨヒトオウ)の父とされる架空の皇子(伝説上の人物)の名でもある。
 ・ここには実在の皇子にあやかって、みずから先祖を作り上げた奈良坂夙人の作為がみてとれる。
 ・奈良豆比古神社の祭神として施基皇子とその子春日王という実在した人物を祀ることによって、春日王伝説が事実であるかのように思われているのである。
として、当社に祀られる春日王は伝承上の人物であることを示唆している。

 なお春日王伝承には幾つかあるようだが、その一つ、
 *平城津彦神社由来には
  「志貴皇子には男子があった。その名を田原太子とも春日王ともいった。春日王は思いハンセン病を患ったために、大木繁る奈良山の一画に造られた小さな暗に引き籠もって暮らした」
とあり、また
 *奈良坂村旧記(時期不明)に収められた「夙人の元来(由来)」には
  「田原太子(春日王)は伝説の中では桓武天皇の次男となっている。
 元和4年(1618)の弓削夙人の記録によれば、田原太子は頭髪が逆髪(サカガミ)であった。癩人の身体でおられたので、冠にあたる八尺の布で巻き上げていた。
 桓武帝はおどろいて、高僧をえらびあつめ、内裏に壇を立て護摩をたき、癩病を治すことに心を砕き祈願したところ、田原太子の病気は治癒した。
 田原太子はひそかに宮廷を出て、奈良山の奥に隠居した。帝は人をつかわして探したが、発見できなかった。
 太子は年月を経て一人の子を生み、浄人王と名づけた」
とあるが、ここでの春日王は施基皇子の御子ではなく桓武帝の皇子となっている。

 施基皇子の系譜からみると、皇子の御子に春日王(?--745)があったのは事実で、続日本紀には
 ・養老7年(723)正月10日--無位の春日王に従四位下を授けた
 ・天平3年(731)正月27日--従四位下の春日王に従四位上を授けた
 ・天平15年(743)5月5日--従四位上の春日王に正四位下を授け
とあり、万葉集にも
  「春日王の和(コタ)へ奉る歌一首(巻3・243)
   大君は 千歳にまさむ 白雲も 三船の山に絶ゆる日あらめや」
  (歌意--大君は千年も生きておいでなろう 白雲だって 三船の山に とだえる日があろうか)
との歌一首が残っている。

 これらからみると、春日王は元正天皇期から聖武天皇期にかけて活躍した人物で、その人が当時天刑病とされた癩病(ハンセン病・白癩-シラハタケ病ともいった)患者であれば朝廷から追われたはずで、縁起等がいう癩病を患って隠居した春日王とは、谷川氏がいうように、奈良坂に住む夙人らが創作した架空の人物であろう。
 なお夙人のなかには、上記したように一般社会から阻害された賤民が多く、その中には癩病など当時の医療では治癒できない業病を患っといてる人も多かったという。

※社殿等
 街道筋から参道を入り一の鳥居・二の鳥居をくぐり、通路部が二階建てになった神門(割拝殿ともとれる)を入った先が境内で、中央に四方が吹き抜けになった拝殿(周りの軒下に小型の釣り灯籠が多数下がり、舞殿ともとれる)が建ち、ここで翁舞(下記)がおこなわれるのであろう。

 拝殿奥の一段高い石壇の上、朱塗りの鳥居と玉垣で区画された区画が本殿域で、朱塗り・春日造・銅板葺(黒漆塗)の社殿3宇が、いずれも東面して並ぶ。

 社殿3宇とも略同規模の春日造だが、資料によれば、中央社殿の奥行きが左右のそれより一尺長いという。確かに、中座社殿は少しだけ前に突きだして見える。

 
奈良豆比古神社・社頭
 
同・二の鳥居

同・神門(割拝殿か) 

同・拝殿(舞殿か) 
 
同・本殿域全景
 
同・本殿3宇

◎攝末社
 境内の右手(北側)に小祠数社が建つ。社殿域に近い方から、恵比須社・毘沙門天王社・大福社が、右手奥の白壁で囲まれた中に社名不明の小祠(石瓶社か)が鎮座し、一の鳥居右手の神池の畔に弁財天社がある。

 また、毘沙門天王社の右に“春日社”と刻した大きな石燈籠2基が立つが、この春日社とは春日大社の春日ではなく、当社が奈良坂春日社と呼ばれてたことによるものであろう(境内に春日社と刻した石燈籠多し)


恵比須社
 
毘沙門天王社

大福社

不明社

神 池 

弁財天社 
 
春日社銘の石灯籠

※翁舞
 
 当社には国の無形文化財に指定された『翁舞』(オキナマイ)が伝承されている。

 神門前右手に掲げる案内によれば、
  「当神社で秋祭り宵宮(10月8日夜)に奉納される翁舞は、能楽の原典といわれ、国・県の無形文化財として指定されています。
 翁舞は祭神・春日王の病平癒を王の皇子・浄人が祈願して、舞を奉納したのが起源と云われています。
 現在の翁舞はいわゆる式三番で、大夫(タユウ・白い翁面を付ける)・千歳(センザイ・直面)・三番叟(サンバソウ・黒い翁面を付ける)によって天下泰平・国土安穏を祝い、神威にて氏子の繁栄と豊作を祈願する舞となっています。云々」
とある。 
翁舞
(神門通路に掲げる写真の転写)
 当社に伝わる翁舞が何時頃からのものかははっきりしないが、伝来する能面25面(奈良国立博物館に保管)の内、(ベシミ・鬼神面)の面に応永廿年(1413)2月231日の刻銘があり(上記案内)、これが能楽が完成した室町前期頃の面であること、又、写真に3人の翁が登場していることから(今、白い翁面を着けて登場する翁は一人だが、古くは3人あるいは5人が登場したという)、当社の翁舞は相当古い(室町期あるいはそれ以前)形態を伝えたものとみえる。

 当社の翁舞について、地元・奈良坂に残る伝説として、
  「春日王は重い癩病を患ったため、大木繁る奈良山の一画に造られた小さな庵に引き籠もって暮らした。
 隠遁した春日王には御子・浄人王(キヨヒト)と安貴王(アキ)が同道し、父の療養生活を支えるために、兄の浄人王は祖父・施基皇子から伝えられた大弓と矢を作り、弟・安貴王は草花を作り、兄弟して都の市に出かけてこれを売り、散楽(サンガク)や俳優(ワザオギ)の業に長じていた浄人王は、求めに応じてその業を見せ代価を得ていた。
 世間の評判を知った春日大社の社司が、浄人王に諸々の穢れを祓うために春日大社の神前で散楽を舞うことを要請し、王は神前で中臣祓を奏上して神楽(散楽)を舞い、これによって父王の病は快方に向かった。これが当社に残る翁舞の始まりである。
 春日王の死後、これを知った桓武天皇は二人の孝心を褒め称え、浄人王に弓削首夙人(ユゲノオビトシュクウド)の名と与えて春日王を祀る春日社の神官とした」(大略)
との話があるが(幾つかのバリエーションあり)、浄人王が舞った神楽がどんなものかは不明で、これを以て翁舞の起源とするのは索強附会といえる。

 伝承およびその他の資料によれば、浄人王・安貴王は二人とも春日王の御子というが、ネットにみる施基皇子および春日王の系譜では、安貴王の名はあるものの浄人王の名は見えない。

 これについて、ネットで見た「奈良町北郊夙村の由緒の物語」(吉田栄治郎氏)には
 「奈良町北郊の夙村(奈良坂宿)とは、鎌倉期の北山宿の後身で、そこには浄人王説話が伝わっている、として上記伝説の要約(但し、翁舞に関わる部分はない)をあげ、続いて
 ・施基皇子の子・春日王、その子・安貴王が実在したこと、奈良豆比古神社に春日王が祀られていることは事実だが、
 ・その春日王が癩病に罹病していたこと、春日王に浄人王なる子があったこと、を裏付ける資料は確認できない。
 ・従って、浄人王が父春日王を看病したというのは事実に基づくものではなく、多分に天皇系譜や宿村の来歴に詳しい人による創作であろう。
 ・一方、平安時代の寺院には、寺院内の清掃や不浄物の処理をおこなう浄人(ジョウニン)と呼ばれる人々がいて、彼らは寺院の周りに集まる不治の病人、特に癩者の世話をしていたこと
 ・奈良坂村(宿)は、寛元2年(1244)京都の清水寺宿と争論を起こした北山宿の後身で、神社に隣接する般若寺の疥癬(カイセン)之屋舎に集まる癩者の世話をしていたと思われることから
 ・物語の創作者は、奈良坂村の住民は癩者の世話をした浄人の末裔であって、癩者ではないことを主張するために、癩者である父春日王を看病する浄人王という架空の人物を創作し、説話の主人公にしたのであろう」(要約)
とある。
 寡聞にして、この解釈の傍証となる資料は見あたらないが、一つの見解として受けとめてもいいであろう。

 なお正史上の安貴王は、その生没年・事蹟等はわからないものの8世紀前・中期頃の人物で、
 ・天平17年(745)正月7日--従五位下・安貴王を従五位上に叙した
とあり、万葉集にも歌4首が残っている。
 そのうちの一首
  「伊勢海に幸(イデマ)す時に、安貴王の作る歌一首
    伊勢の海の 沖つ白波 花にもが 包みて妹が 家づとにせむ」(3巻306番)
  (歌意--伊勢の海の 沖つ白波が花であれば 包んで妻への土産にしようものを)

 また、散楽とは、中国からの伝来とされる芸能で娯楽的要素が強かったといわれ、それが田楽(デンガク)・猿楽(サルガク)といった民間芸能と混合し発展していく中で、五穀豊穣・子孫繁栄などを予祝して舞われていた素朴な翁の舞を(翁は神の化身とみなされていた)、室町初期の頃、世阿彌などによって洗練されて伝わったのが今の能楽・翁という。

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