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丹生川上神社
上社--奈良県吉野郡川上村迫
祭神--高龗神(タカオカミ)
中社--奈良県吉野郡東吉野村小(オムラ)
祭神--罔象女神(ミズハノメ)
下社--奈良県吉野郡下市町長谷
祭神--闇龗神(クラオカミ)
                                                              2018.01.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国吉野郡 丹生川上神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。
 延喜式では一社だが、明治以降の考証により、上社・中社・下社の3社を総称して丹生川上神社となり、本来の式内社がどれにあたるかははっきりしない。
 社名は“ニウ カワカミ”と読む。

※由緒
 当社の創建由緒は不詳だが、二十二社註式(1469・室町末期)には
  丹生社  雨師社と号す 延喜神祇式に云 大和国吉野郡丹生川上神社  
     水神・罔象女神(ミズハノメ) 伊弉諾尊の化身也 或は闇龗(クラオカミ)とも云う
     人皇40代天武天皇白鳳四年乙亥(675)御垂迹  当社を大和の別社と為すこと延喜格に見ゆ
     人声の聞こえざる深山に宮柱を立て 以て敬礼せば 天下の為に甘雨を降らし 霖雨(リンウ・長雨)を止めん(漢文意訳)
とある。

 上・中・下社共に、当社は天武天皇白鳳4年の神教により創建されたとしており、最も詳しい中社の由緒(参詣の栞)には
  「今を去る事1300年余り前、第40代天武天皇白鳳4年、『人声の聞こえざる深山・吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ』との御神教により創祀せられ、雨師の明神・水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く、延喜式(927)には名神大社に列せられ、又平安時代中期以降は、祈雨の神として二十二社の一つに数えられました
 祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ、朝廷の特に崇敬する重要な神社でありました」
とある。

 しかし、書紀・天武4年(676)条及びその前後に丹生川上神社創祀を窺わせる記録はなく、白鳳4年創祀の確証はないが、当社は古くから止雨・祈雨の社として崇敬されていたのは事実で、
 続日本紀(797)には
 ・天平宝宇7年(763)5月庚午 畿内諸神に幣帛を奉る 丹生川上神には黒毛馬を加ふ 旱也
 ・宝亀6年(775)9月辛亥 丹生川上畿内群神に白馬と幣帛を奉る 霖雨也
 ・宝亀8年(777)5月癸亥 丹生川上神に白馬を奉る 霖雨也
 ・  同     8月丙戌 丹生川上神に白馬を奉る 霖雨也
などの奉幣記録があり、室町時代初期までの間で50回を越えるという。

 また、延喜式(927)では祈雨神祭85座の中に列し、
  丹生川上社一座 (貴布祢神社と並記)
   丹生川上社・貴布祢社 各黒毛馬一匹を加ふ 霖雨止まざる時の祭料亦同じ 但し馬は白毛也
   凡 丹生川上神への奉幣には 大和社神主が使いに随って社に向かい 之を奉ず(漢文意訳)
と付記されている。
 なお、祈雨祈願に黒毛の馬を、止雨祈願に白毛の馬を献じるのは、黒馬の黒毛が黒雲を呼び雨をもたらし、白馬の白毛が白い雲即ち晴天をもたらすというもので、類感呪術という。

 今、上社拝殿には、白馬・黒馬を描いた絵馬が奉納されている
 (下社にも、白馬絵馬・黒馬絵馬2枚があるが、暗くて撮影不能)。 
 
上社拝殿奉納の絵馬

 このように、丹生川上神社は古来から祈雨・止雨の神として崇敬されていたが、室町時代に入ると次第に衰微し、その所在地すらわからなくなったという。
 その理由として、大和岩雄氏は
 ・丹生川上神社は、地元の人々によって祀られる神社ではなく、朝廷による祈雨・止雨神としての神社であったこと
 ・その朝廷からの奉幣使派遣と黒馬・白馬奉納という祭祀が途絶えたこと
 ・当社が、地元の信仰とは無縁の大和神社の別社であったこと
   (当社祭祀は、延喜式に「大和社神主云々」とあるように、大和の式内・大和坐大國魂神社の別宮であり、その祭祀は大和社神主によっておこなわれたという)
 ・当社とは別に、祈雨の神としての金峰神社が発展してきたこと
などが挙げられるという(神社と古代民間祭祀・1989)

◎所在地
 当社の所在地を示唆する資料として、類聚三代格の寛平7年(895)太政官符・「応禁制大和国丹生川上雨師神社界地事」との文書に、
  「四至(境界) 東限塩匂(シホノワ) 南限大山峰 西限板波瀧 北限猪鼻瀧」
と、丹生川上社神はこの四つの地に囲まれた中に鎮座するとある。

 当社が3社態勢になった経緯として、資料によれば
 ・江戸前期の国学者・白井宗因(生没年不詳、寛文から延宝-1661-81-頃の大阪の医者という)が、その著・神社啓蒙(1670)に、
  「丹生社 大和国吉野郡下市傍山中丹生村に在り 祭神一座」
として以来、大和志(1734)など江戸時代以降の諸資料(神名帳考証・1733、神社覈録・1870など)もこれを追認し、下市町にある現下社を以て式内・丹生川上神社に比定し、明治4年(1871)には官幣大社に列した。
 ただ、この説と太政官符にいう四至との関係は不明で、その鎮座地が丹生村にあることからの比定かと思われ、比定根拠としては弱いが、江戸時代には下社を以て式内・丹生川上神社としていたという。

 ・明治時代に入って、同7年(1874)、下社少宮司・江藤正澄が、下社の位置は、寛平7年(895)の太政官符にいう四至には該当しないとして、
  『東限塩匂は川上村入之波、南限大山峰は大峯山頂、西限板波瀧は未詳、北限猪鼻瀧は小川郷内萩原村の滝』
と想定し、式内・丹生川上神社を川上村迫にあった高龗神社に比定し、これを奥の宮、下市町のそれを口の宮と称し
 ・「明治6年4月郷社に列し、同7年10月13日奥宮と定められ、丹生川上神社所轄奉祀の旨達せらる」と主張した
 ・明治29年(1896)の内務大臣告示により、嘗ての下市村のそれを下社とし、川上村迫のそれを上社として、上社も官幣大社に列した

 この下社と上社について、神祇志料(明治4年・1871)には
  「大和旧跡幽考(大和名所記・1681)・大和志以下諸書、本社を以て丹生村に在りとす(下社)
 然れども、一説に、本村古老の伝に、当社は昔丹生の鳥居の洪水に流れ来たりて此の地に止まりしを、神躰として祭れる由なれば、古社ならぬ事著明なるべき」
として、下社が式内・丹生川上神社であることに疑問を呈し、
  「類聚三代格に丹生川上神社の四至を挙げて、東限塩匂・南限大山峯・西限板波瀧・北限猪鼻瀧と云る文に合わざれば疑わしきを、迫村なるは粗ね此の四至に符ひ、丹生川上と云ふにも合へれば、迫村の神社即ち式社なるべしと云へり」
として、上社こそが式内・丹生川上神社であると主張。
 また、少し遅れる特選神名牒(明治9年・1876)も略同様の理由を挙げて(神祇志料より詳しい考証あり)、式内・丹生川上神社は上社だという。

 ・これに対して、大正4年(1915)当地出身の教育者で春日大社宮司を勤めた森口奈良吉(1875--1968)が、その著・丹生川上神社考(1918)で、当社の四至は
  東限・塩匂--四郷村大豆生(マメオ)の入和田(シホノワダ・塩和田とも書く)付近で、シホノワダはシホノワからの転訛
  西限・板波滝--小川村と國栖村との境界付近で、今にいう小字・糸納(イトオサメ)はイタナミを転読したもの
  南限・大山峰--南方川上村との境にある山脈の山頂に大山(現白屋岳・1177mか)との山がある
  北現・猪鼻滝--小川村と高見村の境界・萩原地区にある河流屈曲地付近で、瀧とは急流をいう
と太政官符にいう四至に完全に合致すると考証し、くわえて
  太政官符に國栖の百姓並浪人らが冒したとある神地は、当社の西限・國栖村と境を接していること
  当社御神体の水神・罔象女神像は藤原末期(11世紀)の優秀な木彫座像であること
  当社に弘長年間(1261-64・鎌倉時代)の丹生社銘石塔一基があること(県指定重文)
  当社所蔵の棟札(慶安3年-1650)に応仁2年重修・文明2年重修とあること
等の傍証をあげ(大略)
 ・小川村(現東吉野村小)の蟻通神社(アリトオシ)を式内・丹生川上神社に比定すべしと主張して、内務省の実地調査を求め
 ・実地調査の結果、大正11年(1922)10月の内務省告示によって丹生川上神社中社と定められ、官幣大社に列した
という。


 式内・丹生川上神社の所在地は、太政官符という公的文書にいう四至が何処にあたるかによるが、
 ・奈良のボランティア団体・「ナント・なら応援団」が作成した資料(下地図)によれば、地図の中央部にある中社の東西南北にそれぞれの森口翁がいう比定地に合致する地名・地形が現存し、森口説の妥当性が検証され (右地図の中央部に中社があり、その東西南北にある4ヶ所が比定地)、嘗て蟻通明神と呼ばれていた東吉野郡小の中社が式内・丹生川上神社であることが有力という。


四至比定地図(森口説)

 上社を式内・丹生川上神社とするのは、明治7年の上社下宮司・江藤正澄による四至比定によるものだが、これについて丹生川上神社考は、概略
  東限塩匂--東方という入之波は南部より僅かに東に偏する処で、これを東ということはできない
  南限大山峰--南方に高山脈が横たわり之に適するとはいうものの、その範囲は極めて不明確で大峰山と特定はできない
  北限猪鼻瀧--中社の北にある地名を利用したものだが、この地が上社の神領だったとは信じがたい
  西限板波瀧--所在未詳
として之を却けている。
 四至が神領の範囲を指すものとすれば、南限の大峰山・北限の萩原地区は遠く離れており、そこまでが神領であったとの確証はなく、東限の入之波は方角が東から南へ大きくはずれており、江藤宮司がいう四至を以て丹生川上神社の神領とするには疑問がある。

 下社を丹生川上神社とするのは、江戸前期の国学者・白井宗因が、丹生社を吉野郡下市の丹生村に比定したことによるが、この地と太政官符がいう四至との関係は見いだせなく、丹生川上神社考は、概略
 ・朝政維新の際、五条県庁が旧神官らを召して、四至の所在地を問うたところ、「一切之なし」と答えた
 ・下社の御魂代である神前の鏡には延宝8年(1798)と貞享3年(1696)の銘があり、何れも徳川時代のもので、二十二社に列していた丹生川上神社であることを示す微証はひとつもない
として、下社が式内・丹生川上神社ではないと結論づけている。

 ただ引用した丹生川上神社考は、森口奈良吉が式内・丹生川上神社は現中社であることを政府に認めさせるために縷々記したもので、その分、上社・下社についての記述は否定的にならざるを得ないところに、この本の限界があるといえる。
 (伊勢市にある神学舘大学には下社に関するまとまった資料あるというが、一般には流布しておらず読んでいない)

※主祭神
  上社--高龗神(タカオカミ)
  中社--罔象女神(ミズハノメ)
  下社--闇龗神(クラオカミ)

 いずれも、イザナミが火神・カグツチを生んだために亡くなったときに成りでた水神で、記紀には次のようにある。
 *罔象女神
   古事記--イザナミ尊、カグツチを生みしに因りて、みほと灸かれて病み臥せり。・・・
           次に尿に成りし神の名は、弥都波能売神(ミツハノメ)
   書紀5段・一書2--イザナミが火傷して亡くなろうとされるときに、横たわったまま・・・水の神・罔象女を生んだ
     同  ・一書3--イザナミが火産霊(ホムスヒ)を生むとき、子のために焼かれて死んだ。
                死なれようとするとき水神・罔象女を生んだ
     同  ・一書4--イザナミがカグツチを生んだとき、熱に苦しめられて嘔吐し・・・
                次に小便をされ、それが神となった。名を罔象女という
 *高龗神
   書紀5段・一書7--イザナギ尊が剣を抜いてカグツチを斬って、三つに絶たれた
                その一つは雷神となった。一つは大山祇神となった。一つは高龗(タカオカミ)となった。(古事記にはみえない)
 *闇龗神
   古事記--イザナギ命、佩かせる十拳剣を抜きて、その子カグツチ神の頸を斬りたまひき。・・・
          次に御刀の手上に集まれる血、手俣より漏れ出でて成りし神の名は、闇淤加美神(クラオカミ)
   書紀5段・一書6--イザナギ尊が腰にさげた長い剣を抜いてカグツチを三つに斬られた。・・・
                また剣の柄頭からしたたる血が注いで神となった。名づけて暗龗(クラオカミ)という
 なお、高龗・闇龗の“高”(タカ)とは“水源となる高山の頂き”を、“闇”(クラ)とは“水が流下する渓谷”を指し、“龗”(オカミ)とは“龍”の古語という。
 高龗・闇龗とは、水神である龍が生まれ、流れ下る様を神格化したものといえる。 雨冠の下に口を横に3っ並べ、その下に龍)

 式内・丹生川上神社本来の祭神は、二十二社註式がいうように“ミズハノメ”だったようで、明治29年(1896)3社体制になったとき、中社の祭神はミズハノメ、上社のそれはタカオカミ、下社のそれはクラオカミとされたという(神社辞典・1979)

【丹生川上神社・上社】

 近鉄大阪線・榛原駅の南約21km、吉野川(大滝ダム湖)添いに走る国道169号線を南下、川上集落に入った国道西側の高地に鎮座する。

◎由緒
 当社参詣の栞には
 「丹生川上の地は、日本書紀神武天皇即位前紀戌午年9月甲子条に、『厳瓷(イツヘ)を造作(ツク)りて、丹生の川上にのぼりて天神地祇を祭りたまふ』と記されており、上古より祭祀を行う聖域であったことが知られます。
 天武天皇の御代白鳳4年(675)、『人声の聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬(イツ)き祀らば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めむ』という神宣により、御社殿が建立奉祀されました。
 それ以降、祈雨・止雨の神として奈良時代には淳仁天皇・天平宝宇7年(763)の奉幣祈雨、光仁天皇・宝亀6年(775)の奉幣祈祷をはじめ、室町時代に至るまで数十回の奉幣祈願がなされ、朝廷・国家また人々より篤い崇敬を受けてまいりました(中略)
 明治以降、御由緒の重きにより官幣大社として上社(明治29年)・中社(大正11年)・下社(明治4年)の3社が列せられました」
とあるが、当社が式内・丹生川上神社に比定された経緯等についての記述はない。

◎鎮座地
 当社は、嘗ては現鎮座地の東方・吉野川左岸の河岸段丘上にあったといわれ、その地が大滝ダム建造(1962--2012)によってダム湖に沈むことから、平成10年(1998)3月に現在地に遷座したという。

 大滝ダム建造に伴う発掘調査(1998--2000)によって、旧社地付近一帯から縄文時代の集落遺跡(宮の平遺跡)が発見され、現地説明会資料(2000.10.)所載の遺跡地形図(下図・左)によれば、遺構・遺物は吉野川の蛇行部に突き出た上下2段からなる段丘上に広がり、その上位段丘の先端部に丹生川上神社上社があったという。

 参詣の栞には、
 「県立橿原考古学研究所による元境内地の発掘調査の結果、本殿基壇の直下から数期にわたる神社関連遺構が検出され、平安時代前期頃に祭場として意識され、平安末期から鎌倉初期には社殿が建立され、その後造替を繰り返して現代まで続けてきたことが明かにされました」
とある。

 今、拝殿前の展望所からダム湖を望むと、湖上に菱形をした筏状のものがみえ、その下辺りに旧上社があったという。

 
遺跡地形図
(■:旧上社跡)
 
湖上にみる旧上社跡
(中央の筏状部分)

 今、拝殿右に“旧本殿跡から発掘された平安時代奉場址”との石組みが復元されている。
 その石組みからみると、前方に拝殿・後方に本殿を有する小ぶりな社殿とみえるが、入手した旧上社境内図によれば、南西の県道から北東の吉野川近くまで広がる境内をもち、本殿は三間社流造、拝殿は入母屋造だっようで、他にも祝詞殿・神饌所・太鼓殿・末社3社などを有する堂々たる神社だったらしい。
 ただ、社殿の向きは今とは反対で、社殿を通して北方の吉野川を拝するようになっているのが異なっている。

 
旧社殿址・復元石組み

同左(栞より転写)
(上部が本殿址、下部が拝址跡らしい)
 
元社地での拝殿
(栞より転写)

 
旧社殿配置
(境内図より抄出)

 なお、説明会資料によれば、宮の平遺跡とは縄文時代のほぼ全期間にわたって断続的に続いた集落遺跡で、土器の出土状況などからみて、その盛期は中期末から後期初頭の頃(約4500年前頃)ではなかったかという。
 主な出土遺構としては、下位段丘面から検出された円形の竪穴住居跡5棟(中央に炉をもつ径4~6mの円形)、立石遺構3基(内1基は直立状態で出土)、環状配石遺構(外周径約30mの半円弧状、東半分は吉野川の浸食作用で消失か)などで、他に上下段丘面から配石を伴う土坑約250基が検出されたという。

◎祭神
  主祭神--高龗大神(タカオカミ)
  相殿神--大山祇神・大雷神

 高龗神の出自は上記の通りだが、当社ではこれを水神である「龍」と受け止め、拝殿内には龍を描いた絵画が奉納され(右写真)、七夕灯籠祭では灯籠を並べて龍を形作るという。
 

 わが国での龍は中国からもたらされたものだが、古代中国での龍は“水棲の動物”とみられ、中国の古書・管子に「龍は水から生ず」あるいは春秋左氏伝に「龍は水物なり」とあるように、龍には水がつきものであり、特に龍の頭上にある“博山”(ハクサン)と呼ばれる肉の盛り上がりの中に、龍のもつ力の源泉である“尺水”(セキスイ)が蓄えられているという。
 龍のもつこのような性質から龍は水を呼ぶ聖獣とされるが、その代表が黄河の神である河伯(カハク)であって、旱(ヒデリ)のときも黄河が氾濫したときも、皇帝は河伯に牛馬の犠牲を捧げて慈雨を求め、黄河が治まるのを祈ったという。
 ただ、古代中国では雨乞いの主宰者は皇帝とされていたが、これは皇帝が天候や農作物の豊凶に全責任を負うという思想からのもので、当社における黒馬を捧げての雨乞いが天皇の勅願によって行われたのも、中国古来の習俗に倣ったものだという(龍の起源・1996・大要)

 なお、大山祇神・大雷神を相殿に祀るのは、この2神が高龗神とともに成り出たことによると思われる(書紀・一書7)

◎社殿等
 国道169号線から村内の道を通って約10分弱走った処にある上社は、HPに「天空の社」というように、幾重にも重なった石垣の上に鎮座する。

 通常は、“く”の字型に折れ曲がった石垣沿いの坂道と石段を上るのだろうが、小型車なら鳥居下まで行くことができる。

 
鳥居(神額には高龗大神とある)

折れ曲がった参道
 
上社・全景(栞より転写)

 境内正面に入母屋造の拝殿が建ち、正面には「神雨霑灑」(シンウ テンサイ)との扁額が掲げられている。
 その背後・一段高くなったところに流造の本殿が鎮座するが、外からは側面しかみえず詳細は不明。
 神雨霑灑とは、「神の雨が麗しく濯ぎ 恩恵を施す」との意という。

 
拝 殿
 
扁額
 
本 殿

 本殿左(西)の狭い平地に末社2棟が鎮座するが、これの鎮座由来等は不明。
 ・山之神社--右・本殿寄り、春日造
   祭神--大山祇神(オオヤマツミ・山の神)
 ・合祀殿--左 切妻造平入の合祀殿
   祭神--右から 水神社--弥津波能売神(ミズハノメ・水神)
              恵比寿社--大国主神・事代主神(コトシロヌシ・エビス神)
              愛宕社--火武須毘神(ホムスヒ・火の神


【丹生川上神社・中社】

 近鉄大阪線・榛原駅の南約16kmに鎮座する。

◎由緒
 頂いた参詣の栞には
 「当神社の御祭神・罔象女神は、水一切を司る神様で水利の神として、又は雨の神として称え、五穀豊穣、特に旱続きには降雨を、長雨の時には止雨を祈るなど、事あるごとに心からなる朝野の信仰を捧げ、水神の加護を祈ってきました。

 今を去る事1300年余り前、第40代天武天皇4年(675)『人声聞こえざる深山吉野の丹生川上に我が宮柱を立てて敬祀らば、天下のために甘雨を降らし、霖雨(長雨)を止めむ』との御神教により創祀せられ、雨師の明神・水神宗社として朝廷の崇敬は殊の外篤く、延喜式(927)には名神大社に列せられ、又平安中期以降は、祈雨の神として『二十二社』の一つに数えられ、祈雨には黒馬を、止雨には白馬又は赤馬を献じ、朝廷の特に崇敬する重要な神社でした。

 763年(国史上での初見)より応仁の乱(1467--77)の頃までは朝廷よりの雨乞い・雨止めの奉幣祈願が96度されていることが記録にみられることからも、当社がいかに重要な神社であったかが伺えます。

 しかし、都が京都に遷り、戦国時代以降はそのような祈願も中断され、丹生川上雨師神社も何時しか蟻通神社と称され、ついにはその所在地さえ不明となってしまいました。

 明治維新となり、丹生川上神社は何処かという研究調査が行われ、明治4年丹生村(下市町)、続いて明治29年川上村の神社が、夫々有力視され、官幣大社・丹生川上神社下社・上社とされました。
 蟻通神社こそが丹生川上神社だと、大正11年、当村出身の森口奈良吉翁の精緻な調査検証により、丹生川上神社中社として官幣大社に列格され、ここに従来の二社は三社になったが、官幣大社丹生川上神社としては一社であります。
 そこで、この神社の社務所を当社に移して、下社・上社を統括して祭務を行ってきましたが、戦後神社制度の変遷により今日では三社別々の神社となったが、当社は丹生川上神社と登記されています」
とある。

◎蟻通明神
 当社が丹生川上神社・中社と称するようになったのは大正11年(1922)の内務省告示以降のことで、それまでは“蟻通明神”(アリトオシ ミョウジン)と呼ばれていたという。

 蟻通とは聞き慣れない社名だが、「県民だより奈良」(ネット資料)には
 ・蟻通神社は和泉国にもある古い神社で(大阪府泉佐野市・蟻通神社・主祭神:大国主命)、紀貫之の和歌や枕草子・世阿弥の能“蟻通”にも登場する
 ・東吉野村の蟻通神社は、平安末期に和泉の蟻通神社を勧請したものという
 ・小川郷八ヶ村の土地神として敬われ、今も地元の人から“蟻通さん”として親しまれている
とある。

 これに対して丹生川上神社考には
 ・蟻通神社の創立については吉野旧事記(19世紀前期頃)に“文治元年(1185・鎌倉初期)8月和泉国泉南郡長瀧村蟻通明神より勧請、同2年神田を寄付したとの朱印あり”とあるが、
 ・泉州の蟻通神社において小川郷に分神したとの証拠はなく、
 ・御朱印は室町時代に始まったもので、鎌倉時代に御朱印があったはずはない
  (御朱印は、鎌倉末期頃に始まった六十六部回国巡礼での納経の請書に記したことに始まり、江戸時代になって冊子化して盛行したという)
とある。

 また蟻通神社の造営について
 ・徳川幕府の成立で世の中が太平となり神社崇敬の念が復興し、丹生社の再興が図られたが、旧社地は岩山と川にはさまれた細長い地であって拡張の余地はなかった
 ・そこで、対岸の雄略天皇の猟と蜻蛉の故事(下記・吉野離宮址)により有名な小牟漏岳を開拓して新宮を造営したもので、
 ・その時期は、慶安3年(1650・江戸前期)の頃であろう。
という。

 丹生川上神社考は、当社の遷宮は和泉国蟻通神社からの勧請、その時期は平安末期あるいは鎌倉初期ということに疑問を呈しているが、これは慶安3年の棟札あるいは大和志(江戸中期)の記述などによるもので、その後の資料等からみて、平安末期遷宮というのも捨てがたい。


 蟻通神社の文献上での初見は、平安前期の歌人・紀貫之(866--943)の歌集・貫之集(946?)といわれ、そこには、和泉国の蟻通神社にかかわる説話として、
 「紀の国に下りて、帰り上りし道にて、にはかに馬の死ぬべくわづらふ(突然乗っていた馬が倒れた)ところに、道行く人々立ち止まりて、
  『これは ここにいまする神のしたまふならん。年ごろ社もなく、しるしも見えねど、うたてある神(神威怖ろしき神)なり。さきざきかかる折には祈りをなんせよと申す』
といふに、
 御弊(ミテグラ)もなければ、なにわざもせで、手洗ひて『神おはしげもなしや。そもそも何の神とか聞こえん』ととへば、『アリトホシの神』といふを聞きて、よみてたてまつりける。馬のここちやみにけり(倒れた馬も回復した)
  『かきくもり あやめも知らぬ大空に ありとほしをば思ふべしやは』
とあり(新潮日本古典集成80)、これを元に創作されたのが能・蟻通という。

 また枕草子(清少納言・1000頃)には
 ・蟻通明神 貫之の馬が患ったが 「この明神は祟りをなさる」というので 歌を読んで奉納したそうだが 大変面白い
 ・蟻通しと名づけられた理由は 本当にあったことかどうかはわからないが
 ・昔 ある天皇が 40歳以上の年寄りを殺してしまおうとされたが ある中将は年老いた両親を自宅の地下に隠していた
 ・ある時 唐土の帝から難題が持ちこまれ その一つに「玉に開けられた七曲に曲がりくねった細い穴に糸を通せ・・・」というものがあった
 ・皆が困っていると、中将が、「玉の向こう側の穴に密を塗り 細い糸を付けた蟻を こちら側の穴から入れてみよ 蟻は密の香を嗅いで、穴を通って向こう側から出てくるであろう」と告げた
 ・早速、蜜をつけた玉に蟻を使って糸を通し 難題を無事に解決することができた
 ・天皇が褒美として官位を与えようとすると 中将は 「これは私の老父から教わったこと」として官位授与を固辞し、かわりに「老人を殺すことを止めて欲しい」と願いでて許され これを聞いた万人が大いに喜んだ
 ・その人が 蟻通しの明神になられたのでしょうか ある夜 お参りにきた人に「七曲りにまがれる玉の緒を貫きて 蟻通しとは知らずやあるらむ」と告げられた と誰かが語ってくれた
との(226段・大意)、蟻通の由来めいたものが記されている。
 この話は、仏典や漢籍にある同種の説話をわが国風に改変したものといわれ、その内容からみて、蟻通明神は知恵の神的な神格をもつと思われる。(別稿・蟻通神社参照)

 これに対して、丹生川上神社考は
 ・元来蟻通の名は、地中における水の流れが常に山嶽をも磐石をも滲透して已まざることを指すもので、常に在々(アリアリ)て絶えざる意に用いる“在”(アリ)の語に外ならず、
 ・蟻通明神とは、水の神なる丹生川上神社の別称である
として、蟻通とは、流れ続けて岩石をも貫き通す水の浸蝕作用を指し、それは水神を祀る丹生川上神社に通じるとあり、枕草子にいう蟻通の由来より納得がいく。

 また、当社は和泉国蟻通神社の勧請ではなくして、
 ・当社の神宮寺は大乗院と号し真言宗に属したことから、其の本山の高野山に倣い、丹生社を改めて蟻通明神と号せるものであり、
 ・現に当社に存せる真鍮の釣灯籠一対(1688・1694)には「蟻通大明神奉掛御宝前所願成就所」とあることから、
 ・江戸時代に蟻通と呼ばれたのは確かだという。
 ここでいう“高野山に倣い”とは、正応6年(1293)太政官牒・金剛峯寺の条に、「当社四所明神之中 三大神号蟻通神託宣曰・・・」とあるように、高野山の鎮守・四所明神(現丹生都比売神社・和歌山かつらぎ市)第三殿の祭神が嘗て蟻通明神であったことを指す(今は大食都比売を祀る)

◎祭神
  主殿 主祭神--罔象女命(中央)
      相殿神--伊弉諾命(東)・伊弉冉命(西)
  東殿 天照大神(中央)・誉田別命(東)・八意思兼命(西)
  西殿 開化天皇・上筒男命(中央)・菅原道真・綿津見神(東)・大国主命・事代主命(西)
   
◎社殿等

 
丹生川上神社・全景
(中社公式HPより転写、右上に本宮・神武顕彰碑あり)

 県道220号線脇に朱塗りの両部鳥居(柱を支える稚児柱があり、笠木の上に屋根のある鳥居)が立ち、参道の先、一段高い所に三間社入母屋造の拝殿が建つ。


鳥 居 
 
拝殿・正面
 
拝殿・側面

 拝殿背後には高い石垣が接近し、その上の本殿域に上る屋根付きの急階段(約6m)があり、その上に祝詞殿が建ち、左右の石垣上に透塀が延びている。

 資料によれば、本殿域には三間社流造の本殿(桁行2.5間・梁行2間)をはさんで、左右に六間社流造(桁行6間・梁行2間)の東殿・西殿が鎮座するというが、いずれも高い石垣の上にあり下からの実見は不能。
 ただ、拝殿左から本殿域西側後方に回り込むと、かろうじて西殿とそれに並ぶ本殿の屋根と側面の一部を見ることができるが(東側は接近不能)、透塀の隙間が狭く社殿の全貌を窺うことはできない。


本殿への階段(西より) 

石垣上の祝詞殿と回廊(東より) 
 
本殿及び西殿(西より)
手前:西殿側面、奥:本殿の一部

 拝殿の西側に末社2社が鎮座する。拝殿側から
 ・龍神社--社名・祭神の表記はないが、社務所で竜神社というから祭神は高龗神であろう。鎮座由緒等不明。
 ・木霊社--祭神:五十猛命(イタケル・樹木の神)
   傍らの案内には
   「昭和57年春、小川郷木材林産協同組合市場開設30周年を記念し、神恩奉社隆栄の祈りをこめて殿宇を建立せり」
   とある(大意)
   吉野郡特に当地付近は良質の木材(杉)の産地として有名であり、それに関わる人々が樹木の神である五十猛命を祀ったのであろう。


龍神社 
 
木霊社鳥居・石段
 
木霊社


◎摂社・丹生神社
   祭神--弥都波能売神(ミズハノメ)

 本社社頭の道を東へ進み、丹生川(高見川)に架かる朱塗りの蟻通橋を渡った橋詰め右側に鎮座する。
 丹生川上神社の旧鎮座地で本宮とも呼ばれる。

 これについて江戸中期の地誌・大和志(1734)には、式外社の中の一社として
 「丹生神祠  小村(オムラ)に在り 小川荘七村相共に祭祀す 濯手川(ミタライガワ)南 本宮山に旧址尚存す・・・」
とある。
 ここでいう丹生神祠とは、式内社と認定されていなかった頃の蟻通神社即ち現在の中社を指し、旧址とは本宮山にある旧鎮座地即ち現摂社・丹生神社のことであろう。

 この旧址から現鎮座地への遷座時期については、上記したように、平安末期あるいは鎌倉初期とする説(県民だより奈良)と、江戸前期という説(丹生川上神社考)があるが、いずれとも判断できない。

 玉垣に囲まれた狭い境内の、切妻造の覆屋の中に春日造の社殿が鎮座し、傍らの案内には、
 「御祭神を罔象女神(ミズハノメ)と言い、日本最古の水神で水神総本社である。
 祀られた初めは何時代か分からぬ位古く、恐らくは神武天皇の頃にはこの辺りに神籬式(ヒモロギ・祭事の都度簡単な式台を設けておこなう祭式)の神として祭られていた。
 最初武運守護の神として崇敬されたが、天武天皇の時初めて社殿を建て神社としての形が出来上がった。この以後は、天下に良き雨を降らせ、また大雨を止める水神の神徳が上下の人々から信仰せられたが、・・・」
とある。
 当社の始まりを神武天皇の頃というのは、当社を古くみせんがための付会であって論外だが、当社の始まりが神籬を設けての水神祭祀であったのは確かであろう。ただ、その時期を推測できる遺跡などの資料はない。

 
蟻通橋(左が対岸)
 
摂社・丹生神社全景
 
同・社殿


◎神武天皇聖蹟
 蟻通橋を渡った左手の樹木に囲まれた低地に(摂社・丹生神社の道路をはさんで向かい側)、玉垣に囲まれて“神武天皇聖蹟丹生川上顕彰碑”との石碑が立っている
 この聖蹟は、神武天皇が天神の教示をうけて、この地で天神地祇を祀り戦勝を得たという神話によるもので、

参詣の栞には
 「神武天皇戌年午九月  天下平定の為 平瓮(ヒラカ)乃厳瓮(イツヘ)を造り給ひ 丹生川上に渉りて天神地祇を祀らせられ 又丹生之川に厳瓮を沈めて祈り給へり  聖蹟は此の地付近なり  昭和15年11月  紀元二千六百年奉祝」
とあり、当地が神武が天神地祇を祀った聖地だという。

 書紀・神武即位前紀には
 ・神武が宇陀の高倉山の頂きから国中を眺めると、賊軍が満ち満ちていて道が塞がれていた
 ・天皇が神に祈ってやすまれると、夢に神が顕れ、『天の香具山の土をとって、平瓦80枚と御神酒を入れる瓶をつくり天神地祇を祀り、また身を清めてウケヒ(占いの一種)をすれば、敵は自然に伏するだろう』とのお告げがあった
 ・天皇は香具山の土を採ってくるよう椎根津彦(シイネツヒコ)と弟猾(オトウカシ)に命じ、二人は老翁・老婦に化けて敵中を抜け香具山の土を採ってきた
 ・天皇は、その土で沢山の平瓦(ヒラカ)と御神酒を入れる厳瓮を造り、丹生の川上にのぼって天神地祇を祀られた
 ・また宇陀川の朝原で、ウケヒして厳瓮を川に沈めると、大小の魚がすべて酔って浮いてきた
 ・天皇はウケヒが成就したことを喜んで、丹生川上の榊を根こぎにして神々を祀られた
とある(大意)
 (ウケヒ--そうならばこうなる そうならないならこうなると、あらかじめ宣言して行う呪術、ここでは、厳瓷を沈めて魚が浮いてきたら事は成就する宣言して行ったウケヒを意味する)
 今立っている顕彰碑は、昭和15年(1940)の皇紀2600年奉祝行事の一環として翌16年6月25日に建立されたものという。

 ただ、上社・下社ともに、その案内に“神武天皇聖蹟は当社である”と記してあり、
 また岩波文庫版・日本書紀の注には、
  「丹生の川上--吉野郡東吉野村小川、丹生川上神社中社の付近。
             しかし通釈・地名辞書の説の如く、宇陀郡榛原町雨師の丹生神社ともみられる」
とあり、宇陀市榛原雨師の丹生神社(高倉山伝承地の北約8km)の案内には
  「神武天皇が丹生川上で天神地祇を祭り、宇陀川の朝原で呪い(ウケヒ)をしたと日本書紀にあるが、その宇陀川の朝原の地がここである」
とある(ネット資料)
 これらによれば、神武聖蹟は何カ所もあることになるが、これらの聖蹟は、皇紀2600年(戦前まで、記紀でいう神武天皇即位年-紀元前660年をわが国の建国年としていた)を国を挙げて奉祝するなかでの比定であり、神話上での話を云々しても意味はない。

 また、神武紀にいう“天皇が山頂から四方を眺めた宇陀の高倉山”は宇陀市大宇陀守道の高倉山(H=440m)に比定されているが(中社の北約15km、他にも比定地あり)、これも昭和15年(皇紀2600年)に文部省が伝承地として認定したもので神武聖蹟と同断。

 なお、蟻通橋の上流に3川の合流地点かがあり、参詣の栞には
 「夢渕  木津川・日裏川・四郷川の三支合流の碧潭をなし、畏くも皇祖神武天皇親しく天神地祇を祀った聖蹟の地」
とあり、書紀にいう神武天皇親祭の地は此処だという。

 
神武天皇聖蹟・全景
 
顕彰碑
 
夢 渕
(奥に、朱塗りの小橋あり)


◎吉野離宮址

 参道の左(西)少し入ったところに『史蹟 吉野離宮址』との石板が立ち(右写真)、傍らの案内には
 「吉野離宮址
   離宮への行幸のたびに珍しと 蛙の声を聞こしけむ   元宮中顧問官 井上通泰
 万葉の歌に多く詠まれ 又しばしば蟻通ひ給ひし(何度も行幸された)吉野離宮は、雄略天皇が御猟なされた小牟漏岳(オムロガタケ)の麓・秋津野(アキツノ)の野辺に、宮柱太敷まして建てられていた。
 そこは丹生川上神社の神域地で、この辺りから奥に離宮があったと推定される。
 この対岸には、大宮人の邸宅があり、川を堰き止め舟を浮かべ、離宮に出仕のために朝な夕な競ふて渡った。今も邸宅の名残である御殿や軒先といふ地名が残っている。
                       昭和41年10月18日  東吉野村郷土史蹟顕彰会」
とある。 
 

 吉野宮があったという“小牟漏岳の麓・秋津野”について、雄略記には
 「天皇 吉野の宮に御幸された時、(中略)
 阿岐豆野(アキツノ)に御幸になって猟をなさった時、座っておられる天皇の腕に虻(アブ)が食いついたが、すぐに蜻蛉(アキツ)が来てその虻をくわえて飛び去った。
 そこで天皇は、『吉野の御牟漏嶽に猪や鹿が潜んでいると、誰が申し上げたのか。わが大君が獣を待とうと呉床(アグラ)におすわりにり 白たへの袖もきちんと着ている腕の内側に、虻が食いつき、その虻を蜻蛉がくわえて飛び去った。このような手柄をたてた蜻蛉を名にづけようと、大和国を秋津志摩というのだ』との歌をお詠みになった。
 それで、その時から、その野を名づけて阿岐豆野(アキツノ)というのである」
とある(講談社学術文庫版古事記)

 アキツとは蜻蛉(トンボ)の異名だが、その蜻蛉が天皇の腕に食いついた虻をくわえて飛び去ったことから、それを讃えて、この地を“アキツノ”と呼ぶという地名説話で、
 小牟漏岳とは当社背後の山を指すが、当地の小字名“小”を“オムラ”と称するのは、このオムロタケからきたのかもしれない。

 ただ、天武・持統天皇らが訪れたという吉野離宮は、当社の西約5.5kmの吉野町宮滝の辺りにあったというのが一般の理解で(異論あり)、また雄略が猟をした吉野宮と天武・持統の吉野離宮とは異なるとの説もあり、当地を吉野離宮址とする確証はない。


【丹生川上神社・下社】
 近鉄南大阪線・下市口駅の南約9km、長谷集落のはずれ丹生山(H=330m)山麓に鎮座する。

◎由緒
 境内に掲げる案内には、
 「御祭神  闇龗大神 イザナギ・イザナミ二尊の御子神
  御創建  天武天皇白鳳4年(676)『人声聞こえざる深山に宮柱を立て祭祀せば、天下のために甘雨を降らし、霖雨を止めむ』との御神誨に因り創建された古社である。
  御神格   延喜式の名神大社 二十二社の一社 元官幣大社(明治4年列格)
  御鎮座地  丹生川の川上 丹生山
          神武天皇御東征の途 御親祭遊ばされた地である」
とあるが、当社が式内・丹生川上神社に比定された経緯等についての記述はない。

 ただネット資料(Wikipedia)によれば、
 「上古の由緒は不詳で、土地の古老の伝えに、丹生社の鳥居が洪水によって流されてきたので、それを拾って神体として祀ったのが創祀であるというが、当神社の背後の丹生山頂に祭祀遺跡とおぼしき矩形の石群があること、また、社前を流れる丹生川流域には丹生神社が点在すること(未確認)、かつては付近に、御酒井・五色井・吹分井・祈祷井・御手洗井・罔象女井・降臨井・鍛人井といって多くの井戸が湧出していたことなどから、古くからの水神信仰があった可能性がある。

 江戸時代前期以降、式内社の所在地についての考証が盛んになると、式内大社・丹生川上神社について、当時『丹生大明神』と称していた当社に比定する説が有力になり、朝廷や幕府においてもこれを認め、宝永7年(1710)に中御門天皇の勅使が派遣されたのを始め、時には祈雨の奉幣がなされた」
とあり、上記創建由緒とは異なる由緒となっている。

 上流の丹生神社の鳥居が流れ着いた云々の話は別として(丹生川上神社考は、上流の丹生神社を現上社とみて、両社の水系が異なることから、鳥居の漂着などあり得ないという)、当社の始まりが素朴な古代の水神マツリに始まるとみてもおかしくはなく、古代からの水マツリが続いていたことを重視した江戸時代の識者が、当社を水神を祀る雨乞いの神として知られた丹生川上神社に比定したとすれば、太政官符にいう四至に該当しないなど些細なことともいえる。

◎祭神
  祭神--闇龗大神(クラオカミ)

◎社殿等
 道路脇に立つ朱塗りの一の鳥居を入った境内正面、一段と高くなった上に二の鳥居が立ち、左右に透塀が延びる。
 宮司さんから頂いた明治時代の写真(復刻版)にもほぼ同様の社頭景観が写っているが、現在の笠木を有する明神系鳥居ではなく丸太を用いた神明系鳥居となっているのが異なるだけで、基本的には変わっていない。


一の鳥居 
 
境内前景
 
二の鳥居

 二の鳥居の奥が境内で、正面に入母屋造銅板葺の拝殿(桁行6.5間・梁行2.5間)が建つ。


拝殿・正面 
(拝殿の上に、本殿の屋根が小さくみえる)

拝殿・側面
 
明治時代の社頭景観
(現在とあまり変わっていない)

 拝殿裏には丹生山麓が迫り、拝殿から約70度の急勾配をもつ屋根付きの階段(長:約約18m、幅約:2.7m)が延び、その上に祝詞殿が建つ。
 従来の階段は木造と思われていたが、改修工事に伴う事前調査によれば、踏板の下から古い石段が出てきたという。

 
本殿への階段(西より)
 
階段・正面
(踏板の間に石段がみえる)

階段上部の祝詞殿(東から) 

 本殿は高い石垣の上に鎮座し、千木・鰹男木を乗せた銅板葺きの屋根が拝殿越しにみえるだけだが、
 頂いた明治時代の写真(絵葉書)によれば、透塀に囲まれた中に三間社流造・茅葺きの本殿が鎮座しており、現在の社殿とは、屋根が銅板葺きになっただけで、基本的な結構は変わっていないらしい。


本殿・屋根のみ
(前にみえる三角形の切妻屋根は階段上の祝詞殿)
 
明治時代の本殿

 なお資料によれば、末社として
 ・八幡神社--応神天皇
 ・大山祇神社--大山祇命
 ・稲荷神社--稲荷大神
 ・祖霊社--旧社家(川上六家)の祖霊
があるというが、小雪のなか時間なく参詣せず。

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