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大坂山口神社
A:奈良県香芝市穴虫
祭神--大山祇命・須佐之男命・天児屋根命
B:奈良県香芝市逢坂
祭神--大山祇命・素盞鳴命・神大市比売命
                                                       2019.01.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛下郡 大坂山口神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、上記2社が論社となっている。

 A社(穴虫社)--近鉄大阪線・二上駅の西南西約300m、穴虫集落西方にある低い丘・宮山の麓に鎮座する。
 B社(逢坂社)--同じく二上駅の北東約350m、逢坂集落に残る疎林の中に鎮座する。
 何れも周辺の細道路が輻輳しており、地図持参が必要。(以下、A社を穴虫社、B社を逢坂社と記す)

 穴虫社・逢坂社の何れが延喜式内社かは不詳だが、近世の古資料では、
 ・神名帳考証(度会延経・1733・江戸中期)に、「今相坂村(逢坂村)と云ふ」とある以外は、
 ・大和志(1734・江戸中期)・神名帳考証(伴信友・1813・江戸後期)神社覈録1870・(明治3年)以降の諸資料は、全て「穴虫村(穴蒸村)に在り」とし、
 ・大和志料(1914・大正3年)
 「二上村大字穴虫宮山にあり。延喜式に大坂山口神社と見え、即ち当国山口社の其の一にして大山祇神を祭る。
 但し、下田村大字逢坂にある社も同名を称し式内社なりと云へり。地勢をみるに山と称すべき処にあらざれば、今之を取らず」
として、穴虫社を以て式内・大坂山口神社に比定している。


 社名にみえる山口とは“山の登り口”を意味し、山口の神とは延喜式・祈年祭祝詞(トシゴヒノマツリ ノリト)に、
 「山口に鎮まります皇神等の前に申すことは、飛鳥・石寸(磐余)・忍坂・長谷・畝火・耳成と御名は申してお祭り申しあげます所以は、遠近の山々に生育している大小の木材を、本と末とを切って中程を持ち来まして、それを料材として皇御孫命の瑞々しい宮殿を造営し参らせて云々
とあるように、皇居舎殿造営のための用材を伐り出す山に坐す神をいう。

 延喜式神名帳には、大和国にある山口神社として夜支布(柳生)・伊古麻(生駒)・大坂など14社を記すが、
 ・全てが延喜式・臨時祭条にいう祈雨神祭85社のなかに列し、降雨・止雨の祈願がおこなわれていること、
 ・延喜式・広瀬大忌祭(ヒロセノオオイミノマツリ)祝詞に
 「皇神等が領知せられます山々の口から、谷間に急流として下さます水を、灌漑に適する良い水として受けて、天下の公民の耕作している御稲を、暴風洪水の災害にあわせず、実らせ幸いならしめて下さいますならば、云々
とあるように、山口神とは山の神であるとともに、祈雨・止雨を祈願する神すなわち水の神であり農の神でもある。

 このような山口神の神格及び鎮座地からみると、式内・大坂山口神社としては、諸資料がいうように二上山の北に位置する宮山の麓に鎮座する穴虫社が有力かと思われる。


 この山口の神である大坂神について、記紀・崇神天皇条に
*古事記
 [この天皇の御世に疫病蔓延し人民が尽きようとした。天皇が憂え歎いていると、夢に大物主神が顕れて『オオタタネコをして吾を祭らせよ』との夢告があったので、天皇がオオタタネコを神主として大物主神を祭り、また天つ神・国つ神を祭り]
 ・また宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また大坂神に黒色の楯矛を祭りまた坂の神・河の神に幣帛を奉られた。
 ・これによりて疫の気は悉く息んで、国中が安平になった。
*書紀
 [崇神天皇5年、国中に疫病多く、民の死亡する者が半分に達した。6年、その状態が続き、流離・反逆する百姓が多かった。
  7年、天皇が占われると、夢に大物主神が現れて、「わが子・オオタタネコをして吾を祀らせよ」とのお告げがあったので、茅渟県の陶邑にいたオオタタネコを召し出して、これを神主として大物主神を三輪山に祀り、別に八百万の神々を祀ったところ疫病は収まり、国中は鎮まり、五穀も実った]

 ・9年春3月甲子の朔戌寅に、天皇の夢に神人まして、誨へて曰はく、「赤盾八枚・赤矛八竿を以て、墨坂神を祠れ、亦黒盾八枚・黒矛八竿を以て大坂神を祠れ」とのたまふ。
 ・4月の甲午の朔己酉に、夢の教のままに墨坂神・大坂神を祭りたまふ。
とあり、ここで疫病退散を願って大阪の地に黒楯・黒矛を立て神を祀ったのが大坂山口神社の前身という(墨坂神については別稿・墨坂神社参照)

 古代にあっては、国境・村境・峠・川などは此方と彼方の境であって、そこは人・物はもちろん神々も行き来し、それに紛れて疫病や災害をもたらす悪神・邪神もやってくると認識されていたという。
 崇神紀にいう墨坂神・大坂神を祀ったというのは、大和国の東・西の境界であるにある墨坂と大坂という境界に坐す神に祈って、外から来る疫病神等の侵入を遮り退散させようとする呪的祭祀で、この境界に坐す神を塞の神(サエノカミ)・岐の神(フラトノカミ)と呼んだ。


 香芝市の西方に位置する大坂山を河内側に越えた太子町には、古墳末期から飛鳥初期にかけての古墳が集中し(磯長谷古墳群、約30基)、そこに聖徳太子をはじめ敏達以下の5天皇が鎮まるように、古代人にとっての大坂山とは、生と死・現世と他界を隔てる境界であって、そこに坐す大坂の神とは境界の神即ち塞の神であったと思われる。

 それが何時の頃かに、延喜式・臨時祭の条に「祈雨祭85座・・・大坂山口神社一座・・・」とあるように、祈雨・止雨の神へと変身したものと思われる。
 因みに、文献上での祈雨祭祀の初見は、扶桑略記(1097頃)・推古33年(625)条の「天下旱魃 以て高麗僧恵灌 令着青衣 購読三論 甘雨已降」、書紀に記す皇極天皇元年(642)8月、「旱魃が続いたので、天皇が南淵(明日香村)の川上で天を仰いで祈ると五日間にわたって大雨が降って天下は潤った」との記述が初見で、国家祭祀としての祈雨祭は7世紀頃に始まったと思われる。

 大坂神について、本居宣長は
 ・大坂神とは、大和国葛下郡 大坂山口神社とある是なり。此の社は今穴蒸村(穴虫村)と云にあり、俗に牛頭天王と云ふ
 ・大坂山とは大和と河内の国堺に在りて、二上山の北方(実は西方)を越ゆる峠なり
 ・大坂の山之口とあるは、河内よりのぼる口なり。孝謙天皇の大坂の磯長陵も河内の石川郡にて、この坂の西面なり
 ・さて、この道は、古は専とかよひし大道なりしを、今はさばかりの大道に非ず
 ・穴蒸越と云て葛城郡穴蒸村と云より、河内国古市郡飛鳥村にいたり、古市などを経て難波の方に通う道なり
という(古事記伝中巻・1798)

 宣長がいう穴蒸峠が何処なのかははっきりしないが、今、香芝市西方を南北に連なる山地に、北の国道165号線(旧長尾街道)と南の国道166号線(旧竹内街道)を結ぶ府道703号線(旧穴虫街道)が斜行し(平行して近鉄南大阪線が走る)、その途中、大阪府と奈良県の国境に穴虫峠と称する峠がある。
 二上山の西北西にあって、穴虫社の西南西約2.5kmに位置する峠で、宣長かいう穴蒸峠とは此処を指すかと思われる。


 大坂山口神社の創建年次は不明だが、三代実録に
 ・貞観元年(859)正月27日 大和国従五位下大坂山口神に正五位下を授け奉る
 ・ 同      9月8日  大和国大坂山口神に使いを遣わして弊を奉り 風雨を祈る
とあり、9世紀にあったことは確かといえるが、この神階綬叙が穴虫社・逢坂社の何れに対するものかは不明。


※由緒
【大坂山口神社(穴虫)
 社頭の案内には
 「祭神  大山祇命・須佐之男命・天児屋根命
 式内社大坂山口神社は、古代大坂越えの大和から河内に至る入口に位置し、近世では長尾街道に面する交通の要衝に鎮座されます。
 本堂は三間社流造の銅板葺きで、文化13年(1816)の再建とされますが、寛永2年(1625)以来の棟札が残されています。それには、背後の山の石巌を掘削して神域を広げたことを記すもの、祇園宮寺がみえ、神宮寺の存在が確認できるものがあります。(中略)
 近世の大和志には、『在穴蒸村 今称牛頭天王』とみえ、牛頭天王社(祇園社)と称されていました。秋の大祭には、この牛頭天王に奉納する宮相撲が行われ、『馬場のお宮さんの相撲』といい、相当な賑わいであったといわれています。(中略)
 なお、式内社大坂山口神社は、当社とその東北約600mに位置する逢坂の二ヶ所が所在し、ともに式内社と称しています」
とあるのみで、創建由緒・時期等の記述はない。

 ただ、冒頭に“当社は古代大坂越の大和から河内に至る入口に位置し”というところに、崇神紀にいう大和国西方の境界にあって侵入しようとする疫病神を遮ったという大坂の神(塞の神)の面影が窺われるだけで、今、崇神紀を知らない人にとっての当社は穴虫集落の鎮守社としての存在でしかないといえる。

 上記案内にいう“寛永2年の棟札”には
  「表 正遷宮 寛永2丁卯9月12日 信心郷衆穴蒸馬場
   裏 遷宮導師多武峰文殊院前検校三部都法大阿闍梨権大僧正法印高藝」
とあり、それ以降のものとして、寛文12年(1672)・元禄8年(1695)・享保14年(1729)・寛延元年(1748)・文化13年(1816)の遷宮あるいは改修の棟札があるという。

【大坂山口神社(逢坂)
 社頭の案内には
 「祭神 大山祇命・須佐之男命・神大市比売命
 当社は延喜式内大社であって、近世には牛頭天王社と称している。

 崇神天皇9年、黒楯八枚・黒矛八竿をもって祭られ給い、神階正五位上を賜る。
 又この年、勅使が参向され、祈雨祭85社の中の一社に列せられる。なお祈年祭には馬一頭を加えらての官弊を賜る。

 本殿と拝殿の中程に周囲13尺8寸(約4.5m)樹齢千数百年程を経た白梼(ハクトウ)の大樹があり、傍らに巨石があり、形状は亀に似て瑞象を現す。往古より神木と崇め注連縄を張り巡らし、大古よりの神籬(ヒモロギ)の跡が窺われる」
とあり、当社は崇神天皇が黒楯・黒矛を以て奉斎した社という。

 両社共に、近世に牛頭天王と称したというのは、疫病神排除の神としての大坂の神を、ほぼ同じ神格ををもつとして当時流行していた防疫神・牛頭天王に変えたもので、更に、明治の神仏分離によって牛頭天王が仏教的色彩が強いとして同格の須佐之男命に変えられたのであろう。


※祭神
 今の祭神は
 穴虫社--主祭神:大山祇命  相殿神:須佐之男命・天児屋根命
 逢坂社--主祭神:大山祇命  相殿神:素盞鳴尊・神大市比売命
という。

 主祭神・大山祇命(オオヤマツミ)とは、イザナギ・イザナミの御子で山を司る神・所謂山の神で、併せて水の神でもあり、山口の神としての当社祭神として異論はない。

 相殿神の須佐之男尊とは、イザナギの禊ぎによって生まれた三貴神の一だが、大和志(1734)に、
  「穴蒸村に在り 今牛頭天王と称す」
とあるように、江戸時代(あるいはそれ以前)には、疫病等を防いでくれる神として勧請された牛頭天王(ゴズテンノウ)を主祭神に擬していたが、明治初年の神仏分離令によって仏教色の強い牛頭天王が排斥されたことから、同じ神格をもつとされる須佐之男尊に変えられたもので、須佐之男尊は嘗ての牛頭天王を引き継いだものといえる(記紀等にいう須佐之男尊の神格とは異なる)

 なお、逢坂社の祭神について、明治の神社明細帳には
 ・祭神 素盞鳴尊 明治12年(1879)
 ・祭神 建早須佐之男尊 天津児屋根命 稲倉魂命(ウカノミタマ) 明治24年(1891)
とあって大山祇命の名はみえないが、明治24年当時の神官が、
 「当社主神は大山祇命を奉祀せるに、中古之を牛頭天王と称し、遂に誤って本地素盞鳴尊とせしは、明治初年に於ける明細帳作製の疎漏なり」
と記しているといわれ、本来の祭神は山口に坐す神である大山祇命であるとの認識はあったと思われる。

 その後、大正5年(1916)になると、明治12年・24年の明細帳記載の祭神を否定し、
  「祭神 大山祇命 素盞鳴尊 神大市姫命に変更したい」
との上申書を提出し、これが認められて今に至るという。

 穴虫社の相殿神・天児屋根命(アメノコヤネ)は古代豪族・中臣氏の遠祖だが、中臣氏が古代祭祀を司っていたことから、祀られたものかもしれない。
 逢坂社の神大市姫(カミオオイチヒメ)とは大山祇命の御子で、須佐之男尊の后となって宇迦之御魂神(ウカマミタマ)と大年神(オオトシ)を生んだ女神で、この縁から当社に祀られたものと思われる。

※社殿等
【大坂山口神社・穴虫】
 道路脇に立つ鳥居を入り、その先の長い石段を登った上が社殿域で、石段上に近接して横長の割拝殿(中央部に土間の通路をもつ拝殿)が建つ。
 社頭の案内には、「拝殿は間口五間、奥行二間のの割拝殿で、棟札から延享元年(1744)の再建とわかる」とあり、その棟札には「延享元年9月吉祥日 奉再興 和劦葛下郡穴虫村牛頭天王拝殿」とあるという。
 なお、入って正面の上部に、「安政六未年(1859)八月吉日」奉納の鹿2頭を描いた絵馬が掛かっている。


大坂山口神社(穴虫)・社頭 
 
同・社殿域への石段

同・拝殿
   
同・安政6年奉納の絵馬

 拝殿背後の少し離れた石垣上の、簡単な中門と左右に延びる玉垣で囲まれたされた中が本殿域で(背後には山裾が迫っている)、その中央に三間社流造・銅板葺きの本殿が東面して鎮座する。


同・本殿域への石段 
 
同・本殿正面
 
同・本殿

 また、本殿の左右に小祠2宇、向かって左に厳島神社(祭神:市杵島姫命)、右に事比羅神社(祭神:金山彦命)が鎮座する。

 
境内社-厳島神社
 
本殿域・全景

境内社-事比羅神社 

【大坂山口神社・逢坂】
 境内から南へ少し離れた所に石の鳥居が立ち、民家に挟まれた参道を北へ進み、低い石段を登った上が境内。
 境内広場の正面中央に、唐破風向拝を有する五間社入母屋造・瓦葺の拝殿が鎮座する。

 
大坂山口神社(逢坂)・鳥居

同・拝殿 
 
同・拝殿内陣

 拝殿裏に近接して、簡単な中門から左右に延びる塀に囲まれた中が本殿域で、中央に本殿が南面して鎮座する。
 本殿について、拝殿脇に掲示する「大坂山口神社神像及び宝物類」によれば、
 「本殿は、三間社流造・檜皮葺きで、寛永15年(1638)の棟札と構造手法から、この時期に建立されたと考えられます。
  しかし、細部に室町時代後半の古い建築様式を残していることから、奈良県の指定文化財となっています」
とある。
 ただ、周りの塀が高く、見えるのは屋根部分のみで、本殿の全容は実見不能。

 なお、本殿と拝殿の中程右手に注連縄を張った巨石があり、社頭の案内にいう“亀に似た形状の巨石で、太古よりの神籬の跡”と思われるが、どうみても亀には見えない。
 ただ注連縄を張っていることから、古代にあって神が降臨する聖地とされた磐座信仰の跡で、当社始原の姿を残すものかと思われる。


同・中門 
 
同・本殿
 
同・磐座

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