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大和坐大国魂神社
(通称:大和神社)
奈良県天理市新泉町星山
祭神--日本大国魂大神・八千戈大神・御年大神
                                                        2010.12.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国山邊郡 大和坐大国魂神社(オオヤマトニマス オオクニタマ)三座 名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社。
 通称・大和神社(オオヤマト)

 JR桜井線・長柄駅の南東約500m、山辺の道の西側、南北に長く伸びた低い台地上に鎮座する。駅南の道を東へ約300mほど進んだ角を南へ(案内表示あり)、兵庫町の集落内を抜けた先、大きな森の中にある。

※創建由緒
 当社・参詣の栞によれば、
 「当神社の主神は、日本の全国土の大地主大神(オオトコヌシ)で、第5代孝昭天皇の年、宮中内に天照大神と同殿共床で奉斎されたが、第10代崇神天皇6年、天照大神を皇女豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)につけて倭の笠縫邑に移されたとき、皇女渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に勅して、市磯邑(イチシノムラ-大和郷)に移されたのが当神社の創建である」
とある。

 これは書紀・崇神紀6年条にある
 「これより先、天照大神・倭大国魂の二神を、天皇の御殿の内にお祀りした。ところが、その神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで天照大神をトヨスキイリヒメに託し、大和の笠縫邑に祀った。・・・また日本大国魂神(ヤマトオオクニタマ・倭大国魂とも書く)は、ヌナキイリヒメに預けて祀られた。ところがヌナキイリヒメは、髪が抜け落ち体が痩せてお祀りすることができなかった」
をうけたものだが、崇神以前から宮中にアマテラス・ヤマトオオクニタマ両神を一緒に祀っていたとはいうものの、それが孝昭天皇の時に始まるとは記されていない(孝昭天皇時とするのは、大倭神社注進状・1162-江戸期の偽書ともいう)

 古代の神は、その子孫の祭祀はうけるが他氏からの祭祀は拒否したという。ヌナキイリヒメがヤマトオオクニタマを祀ることができなかったのは、大和国の地主神であるヤマトオオクニタマが、外来者である大王家の祭祀を嫌ったともいえる。

 ヌナキイリヒメに代わる祭祀者として神の意に叶ったのが市磯長尾市(イチシノナガオチ)で、崇神紀7年条には、
 ・8月7日 倭迹速神浅茅原目妙姫他二人に、「イチシノナガオチをヤマトオオクニタマ神を祀る祭主とすれは、天下は平らぐであろう」との夢告があった(大意)
 ・11月13日 ナガオチを祭主としてヤマトオオクニタマ神を祀ったところ、疫病が収まり、国内は鎮まった(大意)
とある。

 なお垂仁紀25年条には、アマテラス大神の伊勢遷座ののち、ヤマトオオクニタマ神が祭祀に不満を述べたので、改めて長尾市宿禰に命じて、穴磯邑を神地とし、大市の長岡崎(岬)に祀らせた、とある(大意)

 市磯長尾市とは、神武東征のとき水先案内を勤め、即位後、大倭国造に任ぜられた椎根津彦(シイネツヒコ・神知津彦-カミシリツヒコ・宇豆彦-ウズヒコともいう)の子孫で、大倭直氏(大和連・大和宿禰)の祖とされ、新撰姓氏禄には、
   「大和国神別(地祇) 大和宿禰  神知津彦命より出ず 
    (神武の水先案内を務めたとの記事の後に)天皇之を嘉し、大倭国造に任ず。是大倭直の始祖也」
   「摂津国神別(地祇) 大和連  神知津彦命十一世孫御物足尼之後也」
が見える。
 大倭直氏は奈良時代を通じて当社の祭祀を司ったが、平安時代には衰微し、中世になると史上から消えたという。

◎鎮座地
 当社創建時の鎮座地は、垂仁紀にいう大市の長岡岬の比定地如何によるが、一般には現在地東方の何処にあったというが、その具体の位置については諸説がある。
 主な説として
 ・穴師坐兵主神社の地(桜井市穴師)に比定し、垂仁期に現在地に移ったとする説
 ・現在地の東南約1.5kmの釜口山長岳寺(天理市柳本町)の地とする説
 ・大市を城上郡大市郷とし、長岡岬を①狭井神社(桜井市三輪)西の丘陵突出部、②桧原神社(桜井市三輪)西の丘陵突出部、③巻向山山崎とする説
 ・現在地の南東約1.1kmの大和若宮神社(御旅所坐神社・天理市中山町、現御旅所)とする説
 ・中山町の高槻山にあったが、奉弊使の便宜のために現在地に遷座したとする説
他などがあるが確証はなく、鎮座地移動の有無を含めて、いずれとも決めがたいという(日本の神々4所載・大和神社・2000)

※祭神
 現在の祭神は上記の3座で、
  ・中央社殿に倭大国魂神--ご神体:八尺瓊(玉)→現在:玉
  ・左に八千戈神--ご神体:広矛→現在:剣
  ・右に御年神(御歳神)--ご神体:八握厳稲→現在:鏡
が祀られているが(大倭神社注進状による祭神という)、元々のご神体は、永久6年(1118)に神殿とともに焼失、新たに造ったご神体も天正(室町末期)の兵火で焼損、焼け焦げた石をご神体としていたが、明治7年(1874)に朝廷より奉納されたのが、今のご神体という。

 延喜式には一座とあることから、本来の祭神は、市磯長尾市を祖とする大倭直氏が祀ったヤマトオオクニタマ神であり、他の二座は後の合祀であろうが、その合祀由緒は不明。

 倭大国魂神との“国魂”とは、国そのものを神格化したもので、国々を治めるのは人であるとともに、その土地に鎮座する神の霊力(国魂)によって成就するとされ、本居宣長は「その国を経営坐(ツクリ)し功徳(イサオ)ある神を、国玉国御魂」という(神道事典・1999)
 そこから、ヤマトオオクニタマ神とは、大和国を造り治める国つ神・地主神を意味するが、大倭神社注進状には“大己貴神(オオナムチ)の荒魂で大地主神”と記している。オオナムチが倭国全体の大地主神である大国主神の別名とすれば(書紀一書2)、オオクニタマとオオナムチは異名同神ともいえる。

 八千戈神とは、書紀(一書6)によればオオクニヌシの別名とされるが、オオクニヌシを各地の国つ神を統合した神名とみれば、別神ともいえる。八千戈(沢山の戈)と名乗ることから武神ともみられるが、古事記に越のヌナカワ姫への妻問い物語があるように、艶福の神でもある(戈は男性に通じる)

 御歳神(御年神)は、穀物神・大年神(オオトシカミ、スサノヲの御子神)の御子神という(古事記のみ)。御子神は父神の一面を引き継ぐという意味では大年神と同神ともいえる。古く、“年”は“稲の実り”を意味し、大年神・御歳神いずれも穀物神。

 祭神については、上記以外に次の諸説がある。
 *大国魂神・大歳神・須沼比神(スヌマヒ)とする説--神社覈録(1870)
    先代旧事本紀(9世紀後半)・「大年神は、まずスヌマヒ神の娘・伊怒姫(イヌヒメ)を妻とし、五柱の神を生んだ。子の大国御魂神は大和(オオヤマト)の神である」によるという。
 *大倭大明神(中央)・三輪大明神(左)・天照大神(右)とする説--元要記・神社社家
 *一宮:大年神・二宮:大国魂神・三宮:稲倉魂神(ウカノミタマ)--元要記一説
 *大国魂神(中央)・大己貴神(左)・大年神(右)--大和神社より神社奉行への提出文書(1759)
    現祭神の八千戈神が大己貴神に替わっているが、この両神は異名同神ともいうことから、今の祭神と同じともいえる。

※社殿等
 古道・上ッ道沿いに一の鳥居、東西に伸びる長い参道の中程に二の鳥居が立つ。
 境内正面に、堂々たる拝殿(入母屋造・桁行五間梁間二間・銅板葺)が東面して建ち、その奥に本殿(春日造・檜皮葺)3棟が並ぶが、参詣時、改修工事中で実見できず。

大和神社/二の鳥居
大和神社・二の鳥居
大和神社/拝殿
大和神社/拝殿

◎摂社
 (境内摂社)
増御子神社(マスミコ)
  祭神--猿田彦大神・天鈿女命
   二の鳥居すぐの参道南側に鎮座する摂社。
 社頭の案内には、
  「猿田彦大神は、ものごとの一番最初に御出現になり、万事最も良い方向へお導きになる大神です。記紀などにも、わが国のはじめ天孫ニニギ尊をこの国土へご啓行になられたと伝えています。・・・「先立ちの神」「さきみちの神」「ひらきの神」として云々」
とあるが、当社由緒誌には「サルタヒコ・アメノウズメ・市磯長尾市命を祀る(知恵の神)」とあり、ナガオイチが加わっている。

 古伝によれば、古くはサルタヒコを祭神として成願寺村(本社の東方・現成願寺町)にあったという。
 サルタヒコとアメノウズメは塞の神・道祖神として祀られる場合が多く(今も、中山大塚古墳へ至る農道脇に双体道祖神が残っている)、当社も旧上ッ路沿いに、道祖神として祀られていたのかもしれない。

神社(タカオカミ)
  祭神--高龗神
   社殿の左、朱塗り鳥居の先・拝所の奥に一間社春日造・朱塗りの小祠が鎮座する。
 社頭の案内には、
  「祭神は雨師大神(アマシ)、即ち水神で、崇神天皇のときヌナキイリヒメをして穂積長柄岬(現新泉星山)に創設せらる」
とあり、祈雨を祈る水神社の総本社という(古伝によれば、祈雨の神である吉野の丹生川上神社は、当社の祭神を勧請した別宮という)
  由緒誌には「天候・産業を司り、水利を授け給う」とあり、古くは“雨師神社”と称したという。

 タカオカミ神とは、イザナミ逝去の因となった火の神・カグツチを、怒ったイザナギが三段に斬ったとき、イカヅチの神・オオヤマツミ神とともに生まれた水神(書紀・第7の一書)
 (オカミ・雨カンムリの下に口3ッ個、その下に龍)とは、“水を司る龍”を意味する古語で、同類の水神としてクラオカミ神(渓谷を流れる水の神)・クラミツハ神(渓谷奥の水源の神)がある。

朝日神社
  祭神--朝日豊明神(アサヒトヨノアカリ)
   社頭の案内には、
  「殖産を興し、交易を奨めさせ給う。・・・」
とあり、由緒誌には、「朝日豊明神(天照坐皇大祖)を祀る」とある。
 貞観11年に従五位下を授けられた古社で、曾て佐保庄町朝日(当社北東方)に在り、明治8年に境内に遷座、同10年摂社となったという。
 朝日豊明神は日神に関係がありそうだが、その出自・神格は不詳。また天照坐皇大祖も意味不明。

大和神社・摂社/増御子神社
摂社・増御子神社
大和神社・摂社む/高龗神社
摂社・高龗神社
大和神社・摂社/朝日神社
摂社・朝日神社

(境外摂社)
 境外摂社として、次の2社がある。由緒誌には“摂社”とあるが、諸資料では“末社”という。
 *渟名城入姫神社--祭神:ヌナキイリヒメ
   大和神社の南約900m、岸田町(字サカイ)に鎮座する摂社。
  JR奈良線・柳本駅の東・旧上ッ道を北へ約400m行った西側、狭い道を少し入った処にあり、境内正面に拝殿、その奥、石積壇上に春日造の小祠が鎮座する。社名・由緒など表示なし。
  江戸前期の古書・神社啓蒙(寛文7年・1667)に、「大和所摂宮姫大神一座」とあるのか当社といわれ、斎侍御前・斎女御前、通称サネゴゼンと呼ばれたというが、詳細不詳。
 式内社調査報告(1982)には、「明治41年(1908)大和神社の境外末社に加わった」とある。

 *御旅所坐神社--祭神:本社三神に同じ(明治末期からの祭神という)
   大和神社の南東約1.1km、中山町字大塚に鎮座する摂社(現地の社名標には末社とある)。大和稚(若)宮神社ともいう。
   大和神社の例祭(4月1日)に続く渡御祭(通称・チャンチャン祭)では、当地まで神輿渡御がおこなわれる。

  国道169号線・中山バス停からの小道を東へ約300m先、中山大塚古墳の前方部の一部を削平した平場に、右に御旅所坐神社(大和若宮神社ともいう)・左に末社・歯定神社が並び建つ。やや広めの境内には鳥居・瑞垣等はないが、横を通る山辺の道の脇に
  「最古の神社 大和神社御旅所」
との標柱が立つ。

 道路脇に立つ“大和神社御旅所の由来”には、
  「中山大塚古墳(130m)アラチガ原に坐す皇女渟名城入姫命の塚。約二千年前、煌々と輝き現れる神々は、大歳大神(五穀豊穣)・主神日本大国魂大神(大地主神・オオトノヌシ)・須治比売大神(スジヒメ・天照大神)」
とある。
 ここでいうスジヒメとの神は記紀等の古史料には見えず、先代旧事本紀にいう“オオクニタマの祖父・須沼比神(スヌマヒ)”の誤記かともいう。とすれば、神社覈録にいう祭神三座(上記)と同じとなる。

  またスヌマヒ神の娘で、オオクニタマの母神・伊怒媛(イドヒメ)が祭神で、“例祭(チャンチャン祭の神輿渡御)は母神の許への渡御を表す”とする伝承もあるという(式内社調査報告)

 資料によれば、「維新前は古墳の前方部にあり、現御旅所の神輿が安置される所に観音堂があったが、神仏分離で本尊が長谷寺小池坊に移され、当社が現在地に遷座した」とある。古く、大塚古墳の前方部の上にあったのかもしれない。

ヌナキイリヒメ神社/境内
渟名城入姫神社・境内
ヌナキイリヒメ神社/本殿
同・本殿
御旅所坐神社
御旅所坐神社

 

◎末社
 境内左手に、境内末社2祠が並ぶ。
 *事代主神社--福の神・恵比須と習合したコトシロヌシ(本来は託宣の神)を祀る。
   古称・夷明神、弘法大師が三輪市より勧請というが、弘法大師云々は伝承であろう
   元、当社の北方にあったが、明治17年星山の上に遷座、昭和5年現在地に遷座という。

 *厳島神社--市杵島姫命(イチキシマヒメ)-航海の神・海の守護神
   古称・弁才天、吉野天川(天川弁才天社)より勧請という(元要記)

 *祖霊社--氏子の霊を祀るために明治7年創建。
          旧朝和村の戦死者の英霊を祀り、昭和28年に戦艦大和の英霊を、
          同47年に大和所属艦隊の英霊を祀るという。:
大和神社・末社/事代主神社・厳島神社
左・厳島社、右・事代主社

 *境外末社・歯定神社(ハジョウ)
  祭神--大己貴神・少彦名神
   御旅所坐神社の左に鎮座する小社。
  一段高くなった壇上に、鳥居・拝殿(切妻造)、その奥、木製瑞垣の中に春日造の小祠が鎮座する。古称:“歯定大権現”。

 歯定神社の神格不明。医療の神・スクナヒコナを祀ることから“歯の神”らしいが、歯定との社名からくる付会とも思える。
 一説によれば、古く、“葉状神社”と呼ばれ、農業・特に葉物野菜の種蒔きに際して、当社に豊作を祈願したともいう(ネット資料)

 古くは小字・歯上(定)堂にあったものを、明治初年頃に現在地に遷したという(式内社調査報告)。社頭の石燈籠に、“元治初甲子”(1864)の銘があり、幕末以前からの古い神社らしいが、今は忘れられた神社との感が強い。
大和神社・末社/歯定神社
末社・歯定神社
歯定神社前の磐座
歯定社前の磐座
(すこし離れてもう一基あり)
 当社前の境内に、注連縄を張った磐座2基がある。旧地・歯上堂にあったものを、遷座のとき当地に移したご神体という(ネット資料)

※中山大塚古墳
 所在地--天理市中山町字大塚
 前方後円墳--全長120m・後円部径64m・前方部幅56m(諸説あり)
  南北方向に立地するが、北側(後円部)をやや東に振っている。
 埋葬施設--竪穴式石室(内法長7.5m・幅1.4m・深1.8m)、盗掘により出土遺物微少。

 前方部が撥形に開いていること、宮山型の特殊器台(片)が出土したことなどから、大和古墳群の中でも西殿塚古墳と並ぶ発生期の古墳と認められている。

 渟名城入姫命の墓との伝承があるが、当地に居た古代氏族の墳墓であろう。
                                   (以上、日本古代遺跡事典・1995)

中山大塚古墳・後円部

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