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鷺 栖 神 社
奈良県橿原市四分町
祭神--誉田別命・天児屋根命・天照大神

                                                                   2013.07.22参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 鷺栖神社 靫』とある式内社。社名は“サギス”と読む。

 近鉄橿原線・畝傍御陵前駅の北東約800m、飛鳥川右岸近くに鎮座する。駅東の県道169号線を北上、次の信仰(歩道橋あり)を右折(東へ)、飛鳥川を渡り、右岸堤防上の道路を北へ少し進んだ右手(東側)の森の中に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる由緒略記によれば、
  「当社は里人鷺栖八幡と称し、延喜式神名帳鷺栖神社靫とあり、古事記垂仁天皇記に鷺栖池の記事と、釈日本紀所引氏族略記には鷺栖坂の記事も玉林抄に按ずるに鷺栖の地名今四分村に在り、と云い又、池坂も神社の付近にありました。

 又右御祭神をもって大和三山の中心地点に創立されたのでありますが、その年代は詳かでありません。しかし、延喜式内社として古くからひろく知られていることかに考えてみると、たしかに千数百年以前の創立にかかるものと思われ、まさに藤原京以前の旧社であることは、うたがい得ぬ事実であります。

 古事記によれば、垂仁天皇の皇子たる本牟智和気皇子が出雲大社に御参詣の折、ここにお立ち寄りになり御記願あらせられたことになっております。

 なほ、大和志巻十四に『鷺栖神四分村に在り、中古より鷺栖八幡と称せられ武神として崇敬高く、次に安産の守護神ともなり、地方人からあがめられた』という意味のことが記されています。
 なほ、同じく大和志に『鷺栖八幡』と称し、城殿・小房・縄手・醍醐・四分の五大字で祭祀にあずかるということが記されています」
という。

 ここにいう古事記垂仁天皇記云々とは、垂仁の皇子・本牟智和気(ホムチワケ)の出雲大社参詣説話に記す物語で、そこには
 (言葉が言えないホムチワケが、夢告に従って出雲大社に参詣しようとしたとき)
 「天皇が、ホムチワケに随行する曙立王(アケボノタツノミコ・開化天皇の御子・彦坐命の孫)に命じて誓約(ウケヒ・あらかじめ結果を定め、それが成るか否かによって事の成就を判断する占い)をさせ、
 『この大神を拝むことによって本当に効験があるのなら、この鷺栖池の木に住む鷺よ、このウケヒによって落ちよ』
と申させた。こう仰せられたとき、ウケヒをした鷺が地に落ちて死んだ。
 また、『ウケヒによって生きよ』と仰せられると、再び生き返った。
 また甘樫丘の埼に生えている樫の木をウケヒによって枯らし、また生き返らせた」
とある(書紀には、ホムチワケが言葉が云えなかったとはあるが、出雲大社参詣の記事はない)
 
 由緒略記は、この説話にかかわる社が当社といいたいらしいが、一読して意味が通りにくい。

 まず、この鷺栖池の近くに創始されたのが当社というが、その鎮座地について、
 ・室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(略称・五郡神社記・1446)には、
   「鷺栖神社一座 加美郷鳥形山山尾に在り」
とあり、当初は、今、飛鳥坐神社が鎮座する鳥形山の山麓(現明日香村北部)にあったという。

 ・江戸中期の地誌・大和志(1734)には、
   「鷺栖神社 四分村に在り 今鷺栖八幡と称す」
とあり、五郡神社記とは場所が違っている(現在の鎮座地・橿原市四分町と飛鳥・鳥形山とは、東南に約3kmと離れている)

 また式内社調査報告(1982)
   (説話によれば)鷺栖池と甘樫丘とは相接近していると思われ、
   また釈日本紀に「藤原京 高市郡鷺栖坂の北地に在り」とあることから、
   元の鷺栖神社は、豊浦・雷から小山・上飛騨の間にあったと考えられる
とあり、藤原京の南方に旧社があったというが、これだけでは場所の特定はできない。

 当社の創建由緒・その後の沿革、あるいは旧鎮座地と現在地との関係などについて、その真偽は別として、ある程度明快に説明している資料として“日本語に探る古代信仰”(1990・土橋寛)がある。以下、その論旨の要点を記す(文章の一部改編あり、《  》内は私見)

 ・(上記五郡神社記を引用して)その社殿は、現在は無くなっているが、江戸時代までは飛鳥の鳥形山の飛鳥坐神社と、大原神社との間に存在していた。
 ・鷺栖池の位置は現在では確認できないが、おそらく鳥形山の南辺・飛鳥の大原(別名・藤原)の辺りで、そこは中臣氏の本貫であった。
 《飛鳥の大原とは、現明日香村飛鳥の東に隣接する明日香村小原(読みはオオハラ)の古称で、今、飛鳥坐神社の東南約300m強(飛鳥と小原の境界近く)に大原神社(藤原鎌足誕生の地という)がある。
 この大原(別名・藤原)を中臣氏の本貫というが、中臣氏の本貫は河内の枚岡(現東大阪市出雲井町、アメノコヤネを祀る枚岡神社あり)とするのが一般の理解。
 ただ、藤原家伝(トウシカデン、760)に、藤原鎌足の出生地は“大和国高市郡藤原”とあること(茨城県鹿嶋市との説もあり、定説はない)、藤原の姓もこの地・藤原から採ったいわれることから、大和に進出した中臣本宗家の根拠地だった可能性はある》

 ・その中臣氏本貫の地に、氏の守護神として祀ったのが鷺栖神社で、
 ・その創建は、推古朝(592--628)の前事奏官(後の神祇官)兼祭官(後の伊勢神宮祭主)であった中臣国子か、その子・国足が、法光寺(中臣寺ともいう)を鳥形山に創建したのとほぼ同じ頃であったろうと想像される。
 《ネット資料にみる中臣氏系譜によれば、中臣国子は鎌足の伯父にあたり、推古朝から舒明朝にかけて前事奏官兼祭官を勤めたという。
 また法光寺(別名・中臣寺)を建立したのは国足とする資料が多く、系譜上からみると国足は鎌足と同世代(従兄弟同士)であることから、その活躍期は推古朝より後の7世紀中葉以降と思われ、法光寺もその頃に建立されたのであろう。
 (大和名所図会-1791に、「法光寺 旧址不詳 法光寺は中臣寺ともいひしが、今、改めて藤原寺といへれ。大織冠の氏寺なり」とあり、江戸時代までは飛鳥付近にあったらしい)
 これからみて、鷺栖神社は、中臣氏が大和のおける氏神社として創建した可能性は高いが、それを証する古資料はなく(土橋氏も、鷺栖神社が中臣氏の氏神であったとする説を、これまでみたことがない、という)、また、それが7世紀中葉頃に創建されたことを証する資料もない》

 ・持統天皇が遷都(694)した藤原京の“藤原”は、天皇の陰の協力者であった藤原不比等の本貫地・藤原の名を採ったもので、それは不比等との協力関係を天下に宣言する意味を持っていた。
 ・藤原京の真南、朱雀大路の通過する日高山の上に、不比等の氏神・鷺栖神社が分祀されたが、それも同じ意図に基づく持統天皇の措置であった。
 ・釈日本紀(鎌倉末期)の「藤原京遷居」の注に
   「氏族略記に云う 藤原京は高市郡鷺栖坂の北地に在り」
とみえる“鷺栖坂”は、日高山の鷺栖神社の名に基づくもので、日高山の北面の坂のことである。
 《今、藤原京の朱雀大路跡(上飛騨町の北寄りに遺構あり)を南に伸ばした先・上飛騨町に、雑木と竹林に覆われた小丘があり、丘の北に日高山団地との表示(市販地図)があることから、この小丘が日高山と思われる。
 持統天皇が日高山の上に飛鳥の鷺栖神社を分祀したというが、位置的に、藤原京南の守護神としておかしくはない》

 ・江戸時代になると、飛鳥の鷺栖神社は祀る人も居なくなって衰えたのに対して、日高山のそれは四分村と周辺4村の村人たちが、鷺栖八幡と呼んで祀っていた。
 《今、日高山南麓・上飛騨集落の北端に八幡宮という社がある。
 山上と山麓の違いはあるが、上記大和志に
   「鷺栖神社 四分村に在り 今、鷺栖八幡と称す 城戸・高殿・醍醐・縄手(村の名)共に祭祀に預かる」
とあるのは、この社かと思われる。
 この地は今上飛騨町に属するが、江戸時代にはこの辺り一帯も四分村だったといわれ、また、周辺には城戸(城殿に改称)・高殿・醍醐・縄手の地名が残っており、大和志は日高山にあった頃の鷺栖神社を記したものと思われる》

 ・明治以降、飛鳥の鷺栖神社は姿を消してしまい、日高山のそれは高市郡畝傍町四分(現橿原市四分町)に遷された。
 《鷺栖神社が現在地に遷ったあとに残ったのが、日高山麓にある八幡宮かとも思われるが確証はない》

 この説によれば、鷺栖神社は飛鳥朝時代に中臣氏の氏神社として鳥形山の東・大原の地に創建され、持統朝に藤原京の南・日高山に分祀され、明治に入って現在地に遷座したことになる。
 これからみると、由緒略記がいう“創立年次は不詳ながら、藤原京以前の旧社であることは確か”という記述、上記・五郡神社記や大和志の記述も、創建時の有様・日高山への分祀時の有様を記すものとして、説明不足ながら、それなりの整合性はあるといえる。

 しかし、鷺栖神社が中臣氏の氏神社であったかどうかを含めて傍証となるものはなく、推測によるものとの感が強く、これをそのまま当社の由緒・沿革とするのは躊躇せざるを得ない。

 なお、上記由緒略記には次の疑問点がある。
 由緒略記は“ホムチワケの出雲大社参詣の折、当社に立ち寄り祈願した”とあるが、古事記にはホムチワケが当社に参詣したとの記事はなく、また、4世紀中頃とされる垂仁朝に常設の神社があったとは思えない。

 略記後段に、“大和志に、「中古より鷺栖八幡と称せられ武神として崇敬高く、次に安産の守護神ともなり云々”とあるが、大和志には“鷺栖八幡と称す”とはあるものの、武神として云々の記述はなく、八幡宮=武神という一般認識からの推測にしかすぎにない。また、安産の守護神という根拠は不明。


※祭神
 由緒略記には
  右殿--天児屋根命(アメノコヤネ)
  中殿--誉田別命(ホムタワケ・応神天皇)
  左殿--天照皇大神(アマテラス)
とある。

 当社祭神について、 式内社調査報告は、
  「当社最古の銘文・元禄13年(1700)寄進の石燈籠には春日大明神とあり、始めは春日神・即ちアメノコヤネ命を祀っていたものであろう。
 しかるに後代皇大神と八幡神の二神を合祀し、江戸時代後期末期には、八幡神が主座となり、アメノコヤネ命は皇大神と共に脇座とせられていたが、明治12年(1879)に至って再び主祭神を春日神(アメノコヤネ)とする事に改められた」
という。

 上記の配置からみると、主祭神は中殿に祀られるホムタワケ・所謂八幡神となる。これは、大和志に“今、鷺栖八幡と称す”とあるように、八幡神を主祭神とした江戸時代の祭神構成をそのまま踏襲したもので、明治12年に、主祭神を春日神に改められていることから、中殿には中臣氏の祖神・アメノコヤネが祀られるべきであろう。
 ただ、アマテラスを祀る由緒は不明。

 これに対して、五郡神社記には
  「或曰 鷺栖神 亦鳥居社と云う。未だ神号詳ならず。鳥井氏祖神か。新撰姓氏録に鳥井宿禰 高麗国人伊利須使主(イリスノオミ)の後也と云う」
と記し、渡来人・鳥井氏の祖・イリスノオミではないかという。
 ここで“祭神不詳”というのは、室町初期には未だ八幡神は勧請されていなかったが、本来の祭神も又わからなくなっていたことを示唆する。
 また、“鳥井氏の岨・イリスノオミではないか”とは、社名・鳥居社(他に、当社が鳥居社と呼ばれていたとする資料はない)と高句麗系渡来氏族の鳥井氏を結びつけての推測であろう。
 鳥井氏が大和に居たことは姓氏録で確認できるが、それが当地であったとする資料はなく、また、当社由緒に関わる伝承とは整合しない。

 なお鳥井氏とは、新撰姓氏録(815)
  「大和国諸蕃 高麗 鳥井宿禰 (高麗国人)伊利須使主之後也」
とある氏族で、その岨・イリスノオミとは、斉明天皇2年(656)8月8日条に
  「高麗は達沙(タツサ)らを遣わして調を奉った。大使達沙、副使伊利之(イリシ)
とある副使・イリシではないかという(姓氏録には、イリスノオミは大和の鳥井氏・栄井氏・吉井氏、摂津の日置氏などの祖とある)

 今、境内には数基の石燈籠があるが、殆どの銘文が摩耗しているため、上記・元禄13年寄進のものがどれか確認できない。
 ただ、堤防道路から降りた左右に、春日社と刻した石燈籠一対があり往事の面影を残している。寄進年代は不明だが、氏子中とあることから、明治以降、春日社へ戻った後の寄進であろう。

※社殿
 堤防道路から石段を降りた処が境内で、傍らに「郷社鷺栖神社」との石柱が立つ。長い参道の途中に一の鳥居が、更に参道を進んだ先に、やや小ぶりな二の鳥居、その奥に拝殿(向拝付き入母屋造・割拝殿、瓦葺)が建つ。

 拝殿の背後の一段高くなった基壇上、正面を透塀(屋根瓦葺・中門あり)、三方を白壁に囲まれた神域内に、本殿(三間社流造・銅板葺)が西面して鎮座する。


鷺栖神社・堤防道路からの入口 
 
同・一の鳥居
 
同・二の鳥居および拝殿
 同・本殿域正面  
同・本殿

◎万葉歌碑

  参道脇に、逝去された高市皇子(696逝去)のモガリの時、柿本人麻呂が詠った挽歌(長歌)に対する反歌
  「ひさかたの 天(アメ)知らしぬる 君故に 日月も知らず 恋ひ渡るかも」(2巻-200)
  (高市の皇子はご逝去になりましたが 私たちは、月日の過ぎるのもわからないほど 慕いつづけるでしょう)
と刻した万葉歌碑があるが、当社と直接的な関係が見えない高市皇子(天武天皇の皇子)に関わる歌碑が立つ。
 その理由は不詳だが、皇子の香具山の宮が、埴安池(香具山の西麓にあったという池)を隔てて香具山に対していたという伝承があり、その宮を当社付近と見てのものか。

※八幡宮(上飛騨町)
 当社の旧社地ではないかという上飛騨町の八幡宮は、当社の南東約800m、飛鳥川に架かる上飛騨橋の東詰すぐの民家に挟まれた小道を北に入り、細い道を右・左・右と曲がった集落北側の日高山(山というより低い丘・右写真)の南側山麓に鎮座する。

 鳥居から参道(地道)を進み、石段を上がった上に拝殿(切妻造・瓦葺)が、その奥、朱塗りの透塀とコンクリート壁に囲まれた中に本殿(一間社流造・朱塗・銅板葺)が鎮座する。

 境内に、社名・祭神・由緒などの表示なく詳細不明だが、手入れは行き届いており、今もって集落の鎮守として崇敬されていることを示している。
 ただ、当社が旧鷺栖神社であったことを示唆する痕跡は見えない。
 
     日高山(東より望む)
 
八幡宮・鳥居 
 
       同・拝殿
 
    同・本殿域正面

同・本殿

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