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佐 紀 神 社
A:奈良市佐紀町亀畑
B:奈良市佐紀町西畑
祭神--天児屋根命・経津主命・六御県神
                                                     2015.01.25参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添下郡 佐紀神社』とある式内社だが、今、平城宮跡の北側・御前池の両側にある上記2社が論社となっている。

 近鉄・西大寺駅の東北東約700m、駅北から東への県道104号線を東へ、佐紀池(道の北側)手前(西側)の小道を左折(北)、突き当たりの御膳池前を右折(東へ)、池南の小道を進んだ左側に亀岡の佐紀神社が鎮座。
 西畑の佐紀神社は御膳池の西側に鎮座し、御膳池南添いの道を西へ進み佐紀池を越えた先の右側(北側)に鳥居が立つ。両社間は約100m(直線距離)

※由緒
 創建由緒・時期等不明だが、亀岡の佐紀神社境内にある案内には、
  「今を距ること1300余年、天武天皇御宇白鳳3年(674)の鎮祀にして、即ち神名式(帳)に記載せる佐紀神社は蓋し当神社なり。
 後、第59代宇多天皇御宇寛平3年(891)9月下旬始めて官社に列し、春冬二度の班弊に預かり、演昭大僧正に台命ありて、超昇寺を(原文は“の”とあるが、それでは文意が通じ難い)別当寺とせられたり。
 降って、安徳天皇御宇治承4年(1180)内蔵頭三位中将平重衡の兵焚に罹りしも、素より朝家の尊崇厚かりし故、仲御門左大臣忠公の奏聞にて文治6年(1190)に再建せられしも、再び天正6年(1579)兵火のため、遂に狭隘の社地となる。詳しくは社の記録に瞭然たり」
とある。

 一方、西畑の佐紀神社は社頭に何らの案内もないが、奈良市史(1985)には
  「御前池の西・小字西畑に鎮座。池を隔てて東の亀畑にも佐紀神社がある。
 由緒は不詳であるが、平城旧社考(時期不明)によれば、亀畑の佐紀神社を分祀したものといわれている。
 鳥居脇に『式内佐紀神社』との石標があり、延喜式神名帳添下郡の佐紀神社としている」
とあり、西畑の社は亀畑からの勧請分祀ではないかという。

 当社は、神名帳に記載がある以外に神階綬除記録等はなく、創建後の沿革は不詳。
 当社に関する近世以降の資料として
 ・大和志(1734・江戸中期)--超昇寺村(現佐紀町)に在り、今大宮と称す--神名帳考証(1813・江戸後期)も同じ
 ・神社覈録(1870・明治3)--祭神詳ならず、超昇寺村にあり、今大宮と称す
 ・特選神名牒(1876・明治9)--新古超昇寺村字佐紀 今生駒郡都跡村大字佐紀に佐紀神社二社あり
 ・大和志料(1914・大正3)--都跡村大字佐紀にあり、俗に大宮と称す。延喜式内の神社にして、今村社たり。祭神詳ならず
などがあり、いずれも亀畑の佐紀神社を指すと思われる。

 これらを承けて、奈良県史(1989)
  「佐紀池と御前池との間の小字亀畑にある森に鎮座する。祭神は経津主命・天児屋根命・六御県命。
 社伝では、天武天皇2年(673)に創祀。超昇寺の建立と同時に鎮守神として崇敬されたという。 
 貞観元年(859)社殿改築、寛平3年(891)官社に列し、超昇寺が別当寺となった。治承4年(1180)の兵火で焼失、文治6年(1190)再建、天正6年(1579)再度兵火により焼失したという。
 大和志に『在超昇寺村 今称大宮』とあり、当社を延喜式神名帳添下郡下の佐紀神社にあてている。

 当社と御前池を隔てた西佐紀町2701にも同名の神社(西畑の佐紀神社)があり、祭神も同じである。由緒は明らかでないが、平城旧社考(時期不明)によると、亀畑の佐紀神社より分祀したものといわれる」
という。

 この分祀云々にかかわって、古資料の殆どに亀岡の佐紀神社を“大宮と称す”とあること、徳川時代の古図(時期不明)に亀岡の佐紀神社は“二條宮”として載っているが、西畑のそれが載っていないことからみて、徳川後期頃に分祀されたのではないかという(式内社調査報告)

 当社創建時期について、亀畑の案内・奈良県史は天武2年(白鳳3年・673)というが、書紀・天武2年条(その前後を含む)に神社創建を示唆する記述はない。
 また、県史に「超昇寺建立と同時に鎮守神として崇敬された」とあり、これが当社の創祀時期を示すものとすれば、超昇寺の建立が仁明天皇・承和6年(839)ということから(ネット資料)、天武朝創祀というのはあり得ない(超昇寺建立時、既にあった当社を鎮守としたのかもしれないが、それを天武朝とする確証はない)
 なお、超昇寺は平城天皇第3皇子・高岳親王(799--865?)の創建といわれ、親王は、薬子の変(810)により嵯峨天皇の皇太子を廃されて出家し(真如法親王-弘法大師十大弟子の一人という)、貞観4年(862)求法のために渡唐し彼の地で没したという。

※祭神
 亀畑社社頭の案内には
 「御祭神 相殿三座
   天児屋根命(アメノコヤネ) 文学に秀で君臣の間の融和にして 後此の子孫を中臣と申す 之藤原氏の祖神なり
   経津主命(フツヌシ)     武神として敬ふは蓋し此の神なり
   六御県神(ムツノミアガタ)  五穀並食物等を守護し給ふ大神なり 農家に尊崇すべし」
とある。

 アメノコヤネ命は、天岩戸の前でアマテラスを呼び戻すための祝詞を唱えて祈祷し、天孫降臨に際して五部神の一として随伴した神で、その時、『天児屋根命は神事を司る宗源者(モノ)なり、故、太占(フトマニ)を以て仕へ奉らしむ』と命じられたことから、その子孫・中臣氏は宮中における祭祀を一手に取り仕切ったという。
 また、中臣とは“神と人との間を取り持つ”との意味ともいわれ、これを君臣の間と解釈すれば、案内がいう「君臣の間の融和」というのも一理ある。
 ただ「文学に秀で」というが古資料にそれらしき記述は見えず、その出所は不明。

 フツヌシ命は、霊剣フツノミタマを神格化した刀剣の神で、国譲りに際してタケミカツチとともに天降り、それを成就させたといわれ、本来は軍事氏族・物部氏よって香取神社に奉祀されていたが、その没落後藤原氏に取りこまれ、祖神としてタケミカツチ神・アメノコヤネ命とともに春日大社に祀られている。

 この2神は藤原氏に係わる神だが、当地に藤原氏あるいは関連氏族が居住していたとの資料はなく、この2神が当社に祀られる由縁は不明。

 六御県神がどのような神かは不詳だが、神名にいう“御県”(ミアガタ)が朝廷への蔬菜等供給のために設けられた朝廷直轄領であること、案内が御県神を「五穀・食料の守護神」ということからみて、大和国の6ヶ所にあった御県の神をまとめて“六御県神”と称したのであろう。
 ただ、当社の北北東約1kmに式内・添御県坐神社があることから、当社も添御県に関連していたのかもしれないが、当社と御県との直接的な関係は見えない。

 当社の祭神について、古資料には
 ・神名帳考証(1733・江戸中期、度会延経)・大和国大小諸神社神名帳並縁起(1870・明治3)--道祖神
 ・神社覈録--祭神祥ならず
 ・特選神名牒--今按ずるに、社伝に祭神天児屋根命・経津主命・六孫神(六孫神は六県神ならむ)とあれど、信じがたし。されど、何神を祭れるにや詳ならず 
 ・大和志料--祭神詳ならず
などがあり、これらからみて「祭神不詳」とするのが順当かもしれない。

※社殿等
【佐紀神社(亀畑)】
 御前池沿いに東へ進み二股に別れた剣先に鳥居が立つ。参道を進み突きあたりを左へ折れた先が境内。
 境内正面に拝殿(瓦葺き平屋)が、その奥、瑞垣に囲まれた中に弊殿を介して本殿(一間社流造・銅板葺)が南面して鎮座する。
 拝殿の左右に伸びる柵に遮られて中には入れず、本殿の詳細は実見不能。


佐紀神社(亀畑)・鎮守の杜 
 
同・鳥居
 
同・境内
 
同・拝殿
 
同・本殿正面

同・本殿側面 

【佐紀神社(西畑)】
 御前池を過ぎた先、鎮守の杜の南側に立つ鳥居を入り、参道を入った先に拝殿(入母屋造・瓦葺)が、その奥、弊殿を介して本殿(一間社流造)が南面して鎮座する。
 拝殿の左右に伸びる瑞垣に遮られ、樹木繁茂のため本殿の詳細は実見不能。

 
佐紀神社(西畑)・鎮守の杜
 
同・鳥居

同・参道 
 
同・拝殿
 
同・本殿正面
 
同・本殿側面

◎釣殿神社
 佐紀神社(西畑)に添って右(北)へ進んだ先に【釣殿神社】と称する小さな神社がある。
 奈良市史(1985)によれば、
  「祭神 天児屋根命(アメノコヤネ)・市杵島姫命(イチキシマヒメ)
 本殿は春日造・桧皮葺でかなり古くなっていて、大きい覆屋の中に鎮座する。すぐ前にも木造の鳥居が立っている。
 座小屋は鍵の手に建っている。
 ここはもとの西畑の地にあって、神事は座の人たちが年交互に勤めていた」
という。

 祭神の一座(天児屋根命)が佐紀神社と同じことから、佐紀神社(西畑)と何らかの関係があるのかもしれないが、詳細不明。

 
釣殿神社・鳥居
 
同・座小屋

同・社殿入り口に立つ鳥居 

同・社殿覆屋 
 
同・社殿

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