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讃 岐 神 社
奈良県北葛城郡広陵町三吉(ミツヨシ)
祭神--大國魂命・倉稲魂命・大物主命
                                                  2015.03.17参詣

 延喜式神名帳に、『大和国広瀬郡 讃岐神社』とある式内社。

 近鉄田原本線・箸尾駅の南西約2.1km、駅西を走る県道5号線を南下、寺戸南交差点を西へ、古墳西交差点(この辺りは大きな公園となっている)を南へ、県道132号線西側の森の中に鎮座する。なお、境内へは森の南側から入る。

※由緒
 境内に当社由緒にかかわる案内なく、詳細不明(鳥居脇の案内は祭神・社殿のことのみ-下紀)

 当社にかかわる古資料は少ないが、その中にあって大和志料(1914・大正3)には
  「(当社の古記録を転記した上で) 上記の記録により之を綜合すれば、舒明天皇其の御父押阪彦人皇子の遺命を以て高市皇子に勅して大國魂・倉稲魂・大物主の三神をここに祭らしめ、之を讃岐神社と称せるものなり。

 然れども大神分身類社抄(1265・鎌倉中葉、諸説あり)附尾に「讃岐神社一座大和国広瀬御井命」とあり、且広瀬神社の摂社に散吉社(サヌキ)あり今廃す、本と当社より勧請せしものなりと云ふ、

 広瀬川合神社(広瀬大社)略本記に、
   散吉神社三座 当殿は廊外にて河曲の西北の岡にあり、本は当国当郷散吉郷の讃岐に坐す、俗に南河合神社と云う官社也
     御井神 木俣神(御井神の別名) 
         此の神は大己貴命の子にして母は因幡国の八上姫也、讃岐国より神格をなす、仍りて讃岐神社と云、奴の字を略して散吉と呼ぶ也
     大嵩神(オオタカ) 大己貴命 此の神は大己貴命の子にして母は奇稲田姫也
     井精神(イセイ) 粟井水神(アハイノミズノカミ) 
と見ゆ。

 之に依れば、当社は讃岐の御井木俣神を広瀬郷に勧請し、本国名を取りて社名にも及ほせるものにして、所謂讃岐の御井神は、延喜式神名帳に讃岐国苅田郡粟井神社名神大とあるものならん。

 大嵩神は三代実録に元慶7年(883)12月2日大和国正六位上散吉大建命神(サヌキオオタケノミコト)に従五位下を授くと云へる大建命神なるべく、
 粟井神は上に引ける当社来由記に所謂「赤穂の辺アハキあり」の井精にして、亦讃岐国より勧請せられ、乃ち木俣・大己貴・井精の三神を祭りたるものなり。

 但し創祀の年代詳ならずと雖も、延喜以前既に官社となりつつあれば由来已に久しく、或は舒明朝の世にありしならんも未だ知るべからざるものなり」
とある。

 一方、式内社調査報告(1982)は、社伝によるとして
  「舒明天皇がその父押坂彦人皇子の遺命をもって高市皇子に勅して、大國魂・倉稲魂・大物主をここに祭らしめ、これを讃岐神社と称したといふ。
 その後 更に広瀬川合の若宇加乃売命を勧請して、『南川合明神』と称した。

 しかし、一説に大神分身類社抄附尾に『讃岐神社一座大和国広等郷御井神』とあり、且、広瀬神社の摂社に散吉社があり、当社より勧請したものといふ。
 これによると、当社は讃岐国より広瀬郡に勧請し、本国名をとって社名にも及ぼしたものであり、元慶7年12月2日甲午「大和国正六位上散吉大建命神、散吉伊能城神(サヌキイノキ)並従五位下」に叙せられている神々が、その祭神であるといふ。

 このように、讃岐神社の創建について2説があるが、同郡の式内社於(ウヘ)神社と密接な関係があるので、おそらく讃岐国より讃岐人がこの地方に移住して、その祖神をそれぞれ奉齊したものであろう」
という。

 このように、当社の創建については2説があるが、
 ①舒明天皇創建説
   社伝は、舒明天皇(在位629--41)が高市皇子(654?--96)に命じて大國魂他2柱を祀らせたというが、舒明天皇の御子に高市皇子の名はなく、多分に、天武天皇の御子・高市皇子であろう(舒明天皇の孫にあたる)
 ただ、この高市皇子の生年は孝謙天皇・白雉5年(654)といわれ、それは舒明天皇の没後13年にあたり、社伝がいうように、舒明天皇が高市皇子に命じたということはあり得ず(高市皇子の生年は不詳だが、舒明天皇存命期まで上がることはないであろう)、この記述には疑問がある。

 ②讃岐国よりの勧請説
   広瀬大社の旧摂社に、当社からの勧請と伝える讃岐神社(祭神:御井神、散吉神社とも記す)があり(今は廃絶している)、この讃岐の神(御井神)は、もともと讃岐国苅田郡に鎮座する粟井神社(香川県観音寺市)からの勧請で、讃岐国から当地へ移住した人々が祀ったものであろうという。
 当社の社名が讃岐(散吉)であること、当地が古く散吉郷(サヌキ)と呼ばれたこと、近くに同郷の式内・於神社(ウヘ・ウエ、広陵町大塚、讃岐国に同名の神社あり)があることなどからみて、当地に移住した讃岐の人々が故郷の神を祀ったのはあり得るとはいえる。

 ただ、当社の元社といわれる讃岐の式内・粟井神社(香川県観音寺市粟井町)は古代氏族・忌部氏(讃岐忌部氏)にかかわる神社で、現在の祭神は、忌部氏の祖神・天太玉命であって御井神ではなく、又、忌部氏と当地との関係も不明。

 一方、讃岐国を本貫とする古代氏族に讃岐公氏(サヌキノキミ)がある。この讃岐氏(延暦10年-791-讃岐公氏と改姓)は、後世中央にも進出したといわれ、
 ・新撰姓氏録(815)
   「右京皇別  讃岐公
            大足彦忍代別天皇(景行天皇)皇子五十香彦命(イカヒコ)[亦名・神櫛別命(カミクシワケ)]之後也」
とあるように、忌部氏(神別氏族)とは出自を異にする氏族(皇別氏族)で、
 ・先代旧事本紀(国造本記、9世記前半頃)には
   「応神帝の御世、景行天皇の子・神櫛王の三世孫・須売保礼命(スメホレ)を讃岐国造に定む」
とあり、讃岐公氏が讃岐国造家の後裔氏族であることから、当社とも何らかの関係があったと思われるが確証はない。

 ただ、社頭に掲げる“かぐや姫”案内には
  「竹取翁の出身部族である讃岐氏は、持統・文武朝廷に竹細工を献上するため、讃岐国の氏族齊部氏(忌部氏)が大和国広瀬郡散吉郷に移り住んだものとしいてる」
と、讃岐忌部氏の流れをひくものとしているが、忌部氏は天太玉命を祖とする神別氏族で、姓氏録にいう讃岐公氏は神櫛別皇子の後裔(皇別氏族)であって、両者の出自は異なっている。

 なお、奈良県史(1989)には
 「三吉(ミツヨシ)の北の巣山古墳西南に鎮座する社を、式内讃岐神社にあてられている。三吉は和名抄での広瀬郡散吉郷に比定される。
 祭神は、社伝によると元来大国魂命・大物主命・倉稲魂命であったが、後に広瀬神社の若宇加乃売命を勧請したので、当社を南川合明神と称するようになったという。
 広瀬神社社記には、広瀬神社の旧摂社散吉社(今廃絶)は、散吉郷の南川合明神から勧請した御井神・井精神・大己貴神を祭神としているし、一説に讃岐国から御井神を勧請して、社名を讃岐神社として祀ったという、詳かでない。
 大和志に三代実録元慶7年12月従五位下を授けられ、済恩寺・赤部二村界にあり、二村の笠村・古寺・寺戸・中村共に祭祀に預かるとある」
とある。

 これらからみて、当社の創建由緒は諸説混沌としていて不詳だが、讃岐からの勧請というのが史実に近いかもしれない。ただ、その元社が讃岐の粟井神社かどうかは不明。

※祭神
 当社祭神には諸説があり、
 ①社頭案内(だらだらと書いてあるがまとめると)
   ・散吉大建命神・散吉伊能城神--三代実録・元慶7年(883)の神階綬叙記録による
                          (神名帳考証-1813・神祇志料-1870・特選神名牒-1876も同じ)
   ・大国魂神・倉稲魂神・大物主神--当社伝による
   ・広瀬大明神--大物忌神と同神の広瀬坐和加宇加之売神社の分霊を勧請して祀ったことに因る
 ②本殿前の立て札
   ・若蔵稲之命・讃岐伊能城命・若宇迦売命
 ③大神分身類社抄(1265)
   ・御井神(別名木俣神)
 ④広瀬川合神社略本縁(時期不明)
   ・御井神(木俣神)・大嵩神(大己貴命)・井精神(粟井水神)
 ⑤神祇志料(1871)
   ・五十香彦命(別名・神櫛皇子)
 ⑥神社覈録(1870)
   ・讃岐公の祖
などがある。

 ①のうち、散吉大建命神・散吉伊能城神は、神名に散吉(=讃岐)を冠することから讃岐国から勧請された神と思われるが、その出自・神格は不詳。
 なお大和志料は、散吉大建命を④にいう大嵩神に充てているが、その根拠は不明。

 同じく社伝は大国魂神以下3座というが、その構成からみてこれらが当社本来の祭神とは思えず、奉齊の経緯は不明。
 同じく広瀬大明神とは、後世になって広瀬大社からの勧請によるもので当社本来の祭神ではない。

 ②にいう3座は、①の散吉伊能城命に食物神・穀神を併せ祀ったようにみえるが、その奉祀根拠等は不明。

 ③④にいう神々は、当社が讃岐国・粟井神社からの勧請ということかららしいが、ネットでみた式内・粟井神社の祭神にこれらの神々の名はない。
 なお、御井神(ミイ)とは、大己貴と八上姫(因幡の白兎に出てくる女神)との間に生まれた木俣神(キマタ)の別名(古事記には御井木俣神とある)
 大嵩神は大己貴と奇稲田姫の御子というが、記紀にみる大己貴の後裔にそれらしき名はなく、出自・神格不明。
 井精神・粟井水神は神名からみて水神であろうが、詳細不明。

 ⑤⑥は同じ神で、景行天皇の皇子で讃岐公の祖・五十香彦命(別名・神櫛皇子・神櫛別皇子)を指す。

 現祭神を含めて、これら諸説の是非は判断できないが、当社が讃岐人による奉齊とすれば、
 ・大神分身類社抄にいう“御井神”(御井木俣神)
 ・神祇志料がいう“讃岐公の祖”即ち“五十香彦命(神櫛皇子)
のいずれかと思われが(延喜式に祭神一座とあるのとも整合する)、それは当社を、同じ讃岐でも、忌部氏系(前者)・讃岐公系のいずれとみるかによると思われる。

※社殿
 鎮守の森の南側に立つ朱塗りの鳥居を入り、参道を進んだ先が境内。
 境内中央に拝殿(切妻造・瓦葺)が、その奥、白壁に囲まれ玉垣で区切られた本殿域に本殿(三間社流造・朱色鉄板葺)が、いずれも南面して鎮座する。

 社殿について、当社案内には
 「慶長19年(1614)正月火災後の現本殿は檜皮葺(現在鉄板葺)三間社で、その前方の切妻造本瓦葺の拝殿には掲額が多く、なかでも三十六歌仙扁額6面(別保管)は、元禄16年(1703)海北友賢筆の貼絵を付した貴重な歌仙図である」
とある。

 
讃岐神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿域正面
 
同・本殿

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