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狭 岡 神 社
奈良市法蓮町
祭神--若山咋之神・若年之神・若沙那売之神・弥豆麻岐之神
            夏高津日之神・秋比売之神・久々年之神・久々紀若室葛根之神

論社--漢国神社(奈良市漢国町)
                                                               2014.01.12参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 狭岡神社八座』とある式内社。

 東大寺・転害門前から西へ約2km、県道・44号線(奈良加茂線)のバス停・教育大付属中脇の辻を北へ入った先に鎮座する。

※由緒
 社務所で頂いた由緒記には、
  「本狭岡神社は霊亀2年(715)藤原不比等《淡海公・659--720が国家鎮護・藤原氏繁栄のため、勅許により己の邸宅佐保殿の丘上に天神八座を奉祀して崇拝しました。これが佐保丘天神・狭穂岡天神・狭加岡天神となって、今の狭岡神社になったのであります。
 次いで、藤原淡海公(不比等)は天平神護景雲年間(767--70)に、河内の国枚岡より藤原氏の祖神である春日大明神を、大和国奈良の御蓋山へ移され、斉祀せられました。これが今の春日神社であります。
 それ以来、国政の大事や氏神春日詣りには、藤原一門《公家・女官たち》がこの佐保殿に集まり、必ず狭岡天神に参籠して『日待ちの神事』奉行精進潔斎して、それより日の出を待って国政に掌り、春日社詣をしたと古事に出ています」
とある。

 江戸中期の地誌・大和志(1734)には、
  「狭岡神社  法連□邑佐保田に在り。法蓮町北新町新在家町北市町と共に祭祀に預かる」
とあるが、その比定根拠等は記されていない。

 当社創建に関係する佐保殿(サホドノ)とは、今昔物語(22巻-2)
  「二郎(房前)の大臣の北家いみじく栄え給ひて、山階寺(興福寺)の西に、佐保殿と云ふ所は此の大臣(房前・681--737)の御家なり」
とあるように、代々の藤原氏の氏長者(北家)が所有した邸宅で、氏長者が春日大社や興福寺に参詣する際に宿舎とし、ここで精進潔斎して旅装を改め春日大社に参詣したといわれ(御堂関白記、998-1021の日記が現存)、大和における出先施設として国政の一端をも担っていたという。
 このように佐保殿は藤原氏(北家)の大和における拠点だったらしいが、今、その所在地が確定できないことから、その廷内あるいは近接地にあったと思われる当社の鎮座地が何処だったかは不明。

 当社に対する神階綬叙記録としては、文徳実録・仁寿2年(852)11月条に、
  「大和国率川坐大神御子神・狭岡神・率川阿波神に従五位下に叙す」
とあるのみで、その後の昇綬記録はみえない。

◎論社
 式内・狭岡神社は観光名所・なら町の西にある漢国神社(奈良市漢国町)とする説があり、大和志料(1914)は漢国神社の項において、
 「延喜式神名帳に狭岡神社八座とあるを、志に在法連寺属邑佐保田と見え、今佐保村大字法蓮の佐保田にあるものを以て式内狭岡神社と称す。
 然るに大神分身類社鈔(1265)を読み、狭岡社は佐保田にあらずして漢国社なるを発見せり。その書には、
  『率川狭加岡神社一座添上郡、旧本神名帳に云う、鳴神神社八座 率川坐大神御子神社三座、狭加岡神社、率川阿波神社と。流布に鳴神神社を一座と為し狭加岡神社を八座と為して加の字を脱す。今旧本に随ふ』(漢文意訳)
とあり。・・・
 然らば、即ち当漢国社は本と狭加岡神社の名称を以て延喜式神名帳に収められしを、流布の神名帳に偶々加の字を脱せるより古来謬を伝え、遂に当社を棤きて他に狭岡神社なるものありとするに至れるなり」
という。

 要約すれば、漢国神社は神名帳旧本に狭加岡神社とあったが、流布本で“加”の字を脱したため狭岡神社となり、漢国神社とは別社となったのだという(他にも、鹽尻との古書-1907-に「大和国添上郡漢国社 式所謂狭岡神社也」とあるという-式内社調査報告)

 しかし、
 ・大神分身類社鈔の信憑性に疑問があること(偽本ともいう)
 ・神名帳旧本とは、延喜式以前の弘仁式(820)あるいは貞観式(871)のそれかもしれないが、今に残っていないこと
 ・現漢国神社の祭神は、大神君白堤が勅によって勧請した園神一座・韓神二座であって、狭岡神社とは創建由緒・祭神ともに異ること
などからみて、漢国神社を式内・狭岡神社とするのには疑問がある。

※祭神
 今、若山咋神以下8座を祀るが、これらの神々は、古事記にスサノオの御子・大年神(オオトシ)の御子として出てくる神々で(書紀にはみえない)、スサノオの神裔(孫)という点では天神(天つ神)ともいえるが、実態は地祇(出雲系の国つ神)と見るべきであろう。

 これらは聞き慣れない神々だが、古事記の註(講談社学術文庫版)によれば
 ・若山咋神(ワカヤマクヒ)--山を司る神(水を司る神でもある)
 ・若年神(ワカトシ)--穀物(特に稲)を司る神
 ・若沙那売神(ワカサナメ)--田植えを司る神(サナメは稲の女・田植えをする早乙女の意)
 ・弥豆麻岐神(ミズマキ)--灌漑を司る神
 ・夏高津日神(ナツタカツヒ)--空高く照る夏の日の神
 ・秋比売神(アキヒメ)--秋、稲の収穫を司る神
 ・久々年神(ククトシ)--稲の茎が実ることをあらわす
 ・久々紀若室葛根神(ククキワカムロツナネ)--新嘗祭のための屋舎を造営する神
という。

 由緒記によれば、藤原不比等が自家の繁栄を願って佐保殿の丘上にこれらの神々を勧請したというが、藤原氏とスサノオ或いはオオトシとの直接的な関係は見えず、不比等がこれらの神々を勧請した理由は不明。

 当社祭神については異論もあったようで、特選神名牒(1876)は、
  「今按ずるに、社伝に祭神不詳或いは伊邪那岐命とあるは何によりて云えるか詳ならず。
 神社覈録(1870)に引く神名帳考証(1813)に、『狭岡佐保姫社は若沙那売神に若山咋神以下七神を配祀し八座と為すか』とあれど、佐保姫社と云うにより若沙那姫神に付会して、ご兄弟の神八座を祭れる由に云えるにて、確証なければうべなひ難し」(大意)
として、まずイザナギ祭神説を否定し、次いで、当社が狭岡佐保姫社とも称することから、佐保姫を若沙那売に付会し、それに兄弟7座を合わせて8座を祀るというのであって、確証はないので従えないとし、続けて
  「故考ふるに、仁寿2年、大神の御子神・狭岡神・率川阿波神と同じく神位を進め玉へることから、大己貴神の族類の神を祭れるなるべし」(大意)
として、同じ8座でも、出雲の大神・大己貴に連なる神々を祀るのではないかという。

 しかし、祭神8座の父とされる大年命は素戔鳴の御子であり、大己貴とは兄弟にあたることから、大年神・大己貴いずれにしろ出雲系の神々であり、あえて大己貴の族類とする理由はなく、又、大己貴に直結した場合の祭神が誰々なのか不詳で、あえて異を唱える理由はみえない。

※社殿等
 南からの道路がY字に分かれる突端にある一の鳥居、これに続く朱塗りの二の鳥居を入り、石段を登った左手に横長の御供所(切妻造・瓦葺)があり、その奥が境内。

 境内中央に拝殿(四本柱・瓦葺)が、その奥朱塗りの瑞垣で囲まれた本殿域中央に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が南面して鎮座し、その左右に境内社2社(春日造・朱塗り・銅板葺)がある。

 境内社に社名表示はないが、資料によれば、右:四所神社(伊弉諾神・天照大神・住吉神・春日神・八幡神・天萬神)、左:惣社殿(地主神・金山彦神・事代主神)という。

 
狭岡神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居
 
同・御供所
 
同・拝殿
 
同・拝殿と本殿域
 
同・本殿域正面
 
同・左境内社
 
同・本殿
 
同・右境内社

◎狭穂姫伝承
 境内の森の中に、狭穂姫が姿を写したという鏡池、狭穂姫伝承地と刻した石碑があり、それぞれに案内板が立っている。
 狭穂姫伝承とは、垂仁天皇の皇后・狭穂姫が、兄・狭穂彦の反乱に際して天皇と兄との板挟みになって苦しみ、遂には兄に従い、天皇に攻められて焼死したという古代ロマンとして著名な伝承で(書紀・垂仁4年・5年条、古事記も同じ)、それを狭穂・佐保の類似から当地での出来事するのだろうが、当地であったとする根拠はない。神話伝承と現実とを混合した俗信であろう。

 ただ、嘗て、当社の東方に佐保姫神社(祭神等不明)と称する神社があったようで、奈良曝(1687・江戸前期)との古書に
  「佐保姫神社  西包永町(当社の東約1.4km)北側西はずれ藪の内にあり。此神、本は眉間寺山(佐保山の別名)の傍らにましまして大社なりしを、松永弾正、多聞の城をかまへける時、此ミヤを打やぶりすてしを、町人かく祀ひきぬ」
とあるという(式内社調査報告、なお現若草中学校が多聞城本丸跡という)
 この佐保姫神社は佐保山の辺にある大社ということから、当社の前身ではないかともいうが、この神社は今、東大寺鎮守の手向山八幡宮に末社として祀られており、当社とは無関係であろう。

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