トップページへ戻る

嶋 田 神 社
奈良市八島町
祭神--神八井耳命・崇道天皇
                                                                  2014.02.12参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添上郡 嶋田神社』とある式内社。

 奈良市東部を南北に走る県道188号線(高畑山線)にあるバス停・八島町の少し南の角を、東(左)(角に崇道天皇八嶋陵との案内表示あり)約500m程行った北側に鎮座する。鳥居はない。
 なお、角から約200mほど行った北側に崇道天皇八嶋陵があり、道路の南側に池がある。

※由緒
 境内にある案内は本殿に関するもので、創建由緒・時期等は不明。

 数少ない当社関係の古資料のひとつ大和志(1734・江戸中期)には、
  「島田神社 崇道天皇即ち御霊と曰、八島村に在り、陵墓及び仏刹部見ゆ」
とあり、崇道(スドウ)天皇の御霊を祀る社という。

 下記するように、江戸時代までの当社は、現在地の西約300mほどにある崇道天皇八嶋陵の陵域に、崇道天皇を祀る神社と並立する形であったようで、大和志は崇道天皇社を嶋田神社と見誤ったものと思われる。

 これに対して、大和志料(1914・大正初頭)は、
  「島田神社 神名帳に見ゆ。長承注進状(1133・平安後期)応仁春日末社記に拠るに、既に紀伊社に合祭せられしなり、大和志に在八島村と云ひ、今、東市村大字八島今里にあるものを以て式内社とするも亦拠なし」
と、当社は春日大社摂社・紀伊神社に祀られているとして、八島村の当社を式内・島田神社に比定することに疑問を呈している。

 大和志料がいう“紀伊神社”とは、今、春日大社本殿の南に続く奥の院道(通称・福神12社廻り)の最南端にある摂社で、その創建由緒等は不明だが、大和志料には
 「和州志(1700)に引ける旧記及び先規録等に依るに、日前神・五十猛・大屋姫・抓津姫の四神を祭る。故に紀伊を以て社名とすと云ふ。
 然るに、長承注進状(1133)に、外院宝殿の巽方(東南方)五町を去り座す紀伊神社と申す春日祭神所謂赤穂神・島田神・御前社石立命神・石立命神石吸神。又尋尊僧正応永12年-1405-10月13日記に春日末社を記し、紀伊社四所、御前石立明神・赤穂明神・島田明神・天岩吸明神とありて、先規録等の説と相相違せり。
  案ずるに、(神名帳にいう赤穂神社以下の)四社荒廃の後、春日の神地に合祭し、方位に依り紀伊神社と称せしか。後考を俟つ」
とある。
 これによれば、平安末期頃から中世にかけての紀伊社祭神は赤穂神以下四神で、江戸時代には日前神(ヒノクマノカミ、和歌山市日前神宮の祭神)以下紀伊国の四座に変わったと推測される(多分に、紀伊という社名によるものであろう)

 当社が春日大社に祀られた由緒は不詳。大和志料は“四社荒廃により”というが、平安末期頃からの春日大社勢力拡大に伴い近傍の小社をその支配下に取りこんでいったようで、その際、それら小社の祭神を攝末社として勧請したのは有りうることで、当社もその一つとも推測される。

 摂社・紀伊神社社頭の案内には、
   「祭神--五十猛命(イソタケル)・大屋津姫命(オオヤツヒメ)・抓津姫命(ツマツヒメ)
    御神徳--新たな生気をいただく神様」
とはあるものの創建由緒等の記載はない。

 また、参詣の栞をはじめとする大社関連資料にも紀伊社に関する記述はみえず(祭神のみを記す)、嘗ての紀伊社が赤穂社以下4座を祀っていたとする資料は上記2書以外にはない。


春日大社摂社・紀伊神社


 当社は今、県道188号線(高畑山線)の東約500m程に鎮座するが、本殿について、社頭に掲げる案内(奈良市教育委員会)
 「(当社本社殿の)建立・移築の経過は次のとおりです(《 》内は原注)
  宝永6年(1709・江戸中期)--春日大社本社本殿第三殿として建立《部材から「三之御殿」の墨書がみつかっています》
  享保12年(1727)--崇道天皇社本殿として現八嶋陵の地に移築
  明治19年(1886)--八嶋陵整備に伴い、崇道天皇社と嶋田神社を合祀、嶋田神社本殿として現在地に移築」
とあり、明治19年まで八嶋陵域内に崇道天皇社があったことは確かだが、当社についてははっきりしない。
 ただ
 ・土地の古老の話として、「嶋田神社は元はこの陵域にあったが、明治20年頃の御陵整備の際、現在地に遷座」とあること(式内社調査報告)
 ・明治19年の記述に、“崇道天皇社と嶋田神社を合祀して現在地に移築”とあること(上記案内)
から、嶋田神社も八嶋陵域内(あるいは近傍)にあったのは確からしい。

 なお、天皇陵総覧(1994)は、式内社の研究(1977)を引用して
  「崇道天皇陵の西の丘には延喜式内社に比定される嶋田神社があり、崇道天皇社と並立していたことも知られている」
というが、今の八嶋陵域は正面を除いて樹木に覆われていてはっきりしないが、西側に丘といえるほどの高まりはみえず、当社が何処にあったかははっきりしない。

 崇神天皇とは光仁天皇の皇子・早良親王(サワラシンノウ・桓武天皇の弟)のことで、はじめ桓武朝の皇太子であったが、藤原種継暗殺事件(784)に連座して廃皇太子、淡路への配流途中で憤死し淡路に葬られたという。
 その後起こった災害・疫病の流行などが早良親王の祟りとしてその怨霊の鎮魂が図られ(御霊信仰の嚆矢)、崇道天皇の名が追贈されて淡路から大和へ改葬されたのが八嶋陵で、その改葬時期は、日本後記・桓武天皇(805)延暦24年4月11日条に
  「崇道天皇を淡路国から八嶋陵へ改葬する臨時の官司を任官した」
とあることから、9世紀初頭頃と思われる(他に延暦17年説-水鏡、延暦19年説-帝王編年記などあり、はっきりしない)

  今の八嶋陵は円墳として整備されているが、江戸時代には荒れていたようで、藺草のしおり(年代不明-江戸後期か)との紀行文に、
  「八島陵 古市より十二町ばかりのかたに崇道天皇御霊社ともうすが即ち御陵にて、別に築立たる山陵は侍らず。此の御社の内に祭れるところ、古き神輿二基にておはします」(奈良県史)
  「八島村に至る。人家のつづきの南に崇道天皇社あり。・・・社地の南に池あり。東北のかたは広き林にして古樹茂れり。この林中にも陵とおもほるるものみえず。社の下も平地にて陵とは見えず」(天皇陵総覧)
とあるように、所謂山陵ではなく、森の中に崇道天皇社が鎮座するだけだったようで(聖蹟図志-1866・江戸末-にも八島陵域とおぼしき処に崇道天皇社との記載があるという)、崇道天皇の霊は陵というより神社に祀られていたともとれる。

崇道天皇八嶋陵・正面

 ただ、延喜式諸陵寮に
  「崇道陵 在大和国添上郡 兆域東西五町 南北四町 守戸二烟」
とあることから、平安時代には、それなりの陵墓だったとも思われ、あるいは、その後荒廃して、江戸時代には陵墓の形を呈していなかったのかもしれない。

 なお、今の八嶋陵は、幕末から明治初年にかけて奈良県内の寺社・陵墓等を調べていた北浦定政(1817--71、陵墓研究家)が、大和水鏡に記す“嶋田神社境内に崇道天皇陵あり”との記述をもとに調査し、当地と断定したもので、淡路からの改葬時に築かれた古墳ではないようである、という(天皇陵総覧)


※祭神
 社殿域前の立て札には、
   御祭神  神八井耳命・崇道天皇
とあるが、
 江戸中期の地誌・大和志--崇道天皇即ち御霊
 奈良県史--神八井耳命・崇道天皇
とあるていう。

 祭神・崇道天皇とは、崇道天皇八島陵整備による現在地への遷座の際、崇道天皇社を合祀したことからのもので、延喜式に祭神一座とあることから、本来のそれは神八井耳命一座であろう。

 神八井耳命とは神武天皇の第一皇子で、記紀(神武天皇記)によれば、皇位を弟の建沼河耳命(タケヌナカワミミ-綏靖天皇)に譲り、自らは祭事を司る忌人(イワヒビト)として天皇の治世を助けたという。
 その真偽は別として(神武・綏靖が実在したかどうかは疑問)、皇子の後裔と称する氏族は多く、古事記には多臣(オオノオミ)以下19氏族名が列記され、その最尾に当社に関係すると思われる島田臣の名がある。

 島田臣とは、新撰姓氏録(815)
  「右京皇別 島田臣 多朝臣同祖 神八井耳命の後なり 五世孫・武恵賀前命の孫・仲臣子上、成務天皇の御代、尾張国島田上下二県に悪神有り、子上を遣わして之を平服させ、復命の日に島田臣の号を賜る」
とある氏族で、当社は島田臣一族がその祖・神八井耳命を祀ったとみるのが有力という(式内社調査報告)


※社殿等
 道路沿いに生け垣で囲まれた一画(芝生広場)があり、社殿は、その東側に西面して鎮座する。背後は小さい森となっている。
 切妻造2階建ての拝殿を入った正面の石垣の上、玉垣に囲まれた中が社殿域で、正面中央に小ぶりな鳥居が立つ。
 社殿域の中央に春日造・朱塗り・銅板葺きの本殿が鎮座し、明治19年に崇神天皇八嶋陵にあった崇道天皇社の社殿を移したものという。

 当社本殿について、社頭の案内には
  「春日大社本社本殿は、幕末まで、ほぼ20年毎に建て替えられてきました。その際払い下げられた旧本殿が各地に残っています。
 当社本殿もそのひとつで、当初形式をよく残しており、貴重です」
とあり、上記したように、江戸中期・享保12年(1727)の建て替え時に崇道天皇社社殿として払い下げられたものという。
 ただ、社殿擬宝珠に「本年まで271年、明治19年4月29日」とあり、明治19年の271年前は元和元年(1615)にあたることから、慶長18年(1613)正遷宮時の春日旧殿を元和元年に移したものではないかともいう(式内社調査報告)

 境内に立つ石燈籠銘の殆どは“島田社”と刻するが、拝殿脇に“崇道天王御宝前”と刻した古い石標がある。嘗ての崇道天皇社の名残であろう。

 社殿域の右側(南)に、小祠2宇がある。
 右側の小祠は天照大神社で西面するが、左のそれは何故か北面し(横を向いている)、表側に御祭神:金神、裏側に御祭神:天児屋根命・ワノ下大神との立て札2本が立つ。
 天児屋根命は中臣氏の祖神だが、ワノ下大神は不明だし、この両神と金神との関係も不明。

 
嶋田神社・全景
 
同・拝殿
 
同・社殿域正面

同・本殿
 
同・末社
(左:金神社・右天照大神宮)

◎八つ石
 崇道天皇八嶋陵の前やや西寄の道路中央、木柵で囲まれた一段低い区画に“八つ石”と称するものがある。
 大小の石10箇ほどが集まったもので、当社の原姿に関わる磐座の痕跡ではないかともいうが、はっきりしない。

     

トップページへ戻る