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志都美神社
奈良県香芝市今泉
祭神--天児屋根命・誉田別命・底筒之男命
付--武烈天皇陵
                                                 2019.01.08参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛下郡 志都美神社』とある式内社。社頭の案内には社名“シズミ”とある。

 JR和歌山線・志都美駅の西南西約500mに鎮座する。
 駅西の駅前広場から国道168号線へ出て左折(南へ)、最初の交差点を右折(西へ)した先の北側に鎮座する。
 当社の西に接して武烈天皇陵があり、御陵の森と当社叢林とが一体となっている。

※由緒
 社頭の案内には
 「志都美神社は、弘仁4年(813)、従四位民部少輔(ミンブショウフ)片岡綱利が宮を片岡に造り、片岡家の鎮守として創建され、往古は清水神社と称されていたことが社伝に見えます。
 現在の本殿は三間社流造で、江戸時代中期の建立と考えられ、天児屋根命・中筒男命・誉田別命が祀られています。

 江戸時代の元禄年間(1688--1704)、盲目の僧侶が境内に涌いていた清水で目を洗って霊験があったとの伝承があります。そのため、大和志や大和名所図会には『清水八幡』として紹介され、境内の石鳥居や手水鉢にも清水八幡と刻まれています。

 また、境内には神宮寺の明王院がありました。天文22年(1553)3月、三条西公条(サンジョウニシキンエダ、戦国時代の公卿・歌人、1487--1563)の“吉野詣で”には、高野山・吉野参詣からの帰途、片岡明王院で一夜を明かしたことが記されています。 
 明王院は明治の神仏分離令で廃寺となりましたが、近くの念通寺に鎌倉時代の不動石仏(市指定文化財)が、万善寺に木造阿弥陀如来座像が遷されています」
とある(社務所無人)


 当社を創健したという片岡綱利(綱俊とも)の生没年・経歴等は不明だが、拝殿脇の案内(上記案内とは別)には「大職冠藤原鎌足六世の孫」とあり、奈良県史所載の藤原家系図に、
  鎌足(大職冠)--不比等--武智麻呂(南家)--豊成--綱継(縄麿とも)--綱利 ・・・→片岡家
とある藤原南家に連なる人物で、父・綱継以降当地一帯を所領して片岡を名のり、その子・綱利が所領地の鎮守(片岡家の氏神)として創建したのが当社であろう。


 当社に関する近世以降の諸資料には
 ・大和志(1734)--上里村に在り 今志都美八幡と称す
 ・神社覈録(1870)--上里村に在り 今志都八幡と称す
 ・神祇志料(1871)--今下牧村に在り 志都美八幡と云 
              志都美八幡とは、蓋し石清水八幡の名に依りて 志都美神社を呼び改めしものなるべし
 ・大和志料(1914)--志都美村大字上里清水にあり 俗に志都美八幡と称す 
              延喜式内の小社にして今村社なり 祭神祥ならず
とあり、江戸時代には志都美八幡と称していたという。

 また、“清水八幡”と称した時期もあったようで、上記案内には、“元禄時代に盲目の僧侶が境内の清水で目を洗って霊験があった”との伝承があり、“大和志や大和名所図会には『清水八幡』と紹介されている”とある。
 しかし、実見した大和志には「志都美八幡と称す」、名所図会には「志都美神社 上里村にあり 神名帳に出ず」とあって清水八幡の名はみえないことから、清水八幡と称したのは一時期のことで、少なくとも江戸中期以降は志都美八幡と称していたと思われる

 これからみると、当社社号は 清水神社(当初)→清水八幡宮(江戸前期末頃)→志都美八幡宮(江戸中期以降)→志都美神社(明治以降)と変遷したらしい。
 清水神社との社号は、当社鎮座地の小字名・清水(大和志料)によると思われるが、それから志都美八幡への改称について、神祇志料は石清水八幡宮との関係を云々しているが、清水・石清水の類似からの牽強付会とのニュアンスが強く、且つ当社及び当地と八幡宮との接点はみえず、当社を八幡宮と称した由縁は不明で、単に時代の流行にのっただけらしい。

 今、香芝市に片岡との地名はなく(東隣lりの上牧町の北部に片岡台との地名がある)、当社の祭祀氏族である片岡氏が所領したという片岡が何処なのかは不祥。
 ただ古い地名のようで、
  万葉集に「岳を詠む」として
  「片岡の この向つ峰に 椎蒔くかば 今年の夏の 陰にならむか」(巻7-1099)
   (片岡の この向こうの丘に 椎の実を蒔いたら 今年の夏の 日陰になるだろうか)
との歌があり、参道入口の右側に歌碑が立っている(右写真)
 万葉集(小学館版)の注記に、「片岡 奈良県王子町南方から香芝市一帯にかけての地域」とあり、隣接する上牧町上牧には片岡国春築城という片岡城(1550頃、山城)の跡があることから、王寺市南部から香芝市北部・上牧町一帯にかけての広い範囲が片岡と呼ばれていたらしい。

万葉集・歌碑

 また、書紀・推古天皇21年(613)12月1日条に、
  「皇太子(聖徳太子)が片岡においでになったとき、道ばたに飢えた人が倒れていて、名を問うても応えられなかった。
  皇太子は食事を与え、また自分の衣装を脱いで掛けてやり、『安らかに眠れ』と声をかけ、
   『しなてる 片岡山に飯(イヒ)に飢(エ)て 臥(コヤ)せる その旅人哀れ 
     親無しに汝(ナレ)なりけめや 刺竹(サスタケ)の君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人哀れ』
 (片岡山で食に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ 親なしで育ったのか 優しい恋人はいないのか 食に飢えて倒れている旅人はかわいそうだ)
と歌われた。
 翌日 使いをやって様子をみられると 飢えた旅人は既に死んでいたので その場所に塚を築いて葬った。
 数日後、皇太子は近習の人に『先日の飢えた人は普通の人間ではあるまい。きっと聖者だろう』といって様子を見にやられたところ、
 使いは帰って『墓の処に行きましたが、墓は動いていないのに 開けてみると屍はなくなっていて、衣服だけが棺の上に畳んで置いてありました』と報告した。そこで太子は、その衣服を取ってこさせ、以前の如くお召しになった。
 時の人は、『聖(ヒジリ)は聖を知るというが、そりは本当のことなんだな』と言いあった」(大意)
とあり、その注記には「葛下郡片岡 片岡荘今泉村(現香芝市今泉)」とある(岩波版・日本書紀)

 この太子伝承にかかわって、万葉歌碑の左にある石碑には
 「太子は推古天皇21年に片岡に遊行したおり、飢人を救ったと伝えられている。
 その片岡が、香芝市の志都美地方から王寺町にかけての地域である。
 太子遊行の6年前には『肩岡池』築造の記事があり、現在の簱尾池か分川池の前身と推定されている。
 まさに、この地は法隆寺から大阪府太子町への『太子を偲ぶ道』にふさわしい」
とある。

◎虎列拉(コレラ)祈念碑
 拝殿横の案内に
 「明治12年(1879)8月コレラが流行適行し、氏人が氏神に侵入防止を祈願した結果、ひとりの患者も出なかったのを喜んだ人々が感謝の意味で本殿背後の石垣に、
  『明治十二年八月虎列拉病流行氏人祈願無一人患者無人歓呼奉納』
と刻み奉納した」
とあり、本殿裏にその記念碑があるというが、本殿裏はだいぶ荒れていて気づかなかった。

 因みに、わが国でのコレラ流行は文政5年(1822)・マカオから入ったのが始まりで、明治に入ってのそれは、同10年(1877)9月の横浜での流行にはじまり、予防治療法が一般に知られていなかったことから、コレラ除けのために、神仏の前で護摩を焚いたり、赤紙に牛の字を三つ書いて門口に張ったり、厄神送りなど、コレラの流行は外からやってくる厄神・コレラ神の仕業として、それを神仏の力で押さえつけたり村外に送り出そうとするなどの騒動があったという(明治13年までの患者数16万8千人・死者数10万人という)
 当地の人々が当社に祈願したというのもその一つで、外からくる疫病神(コレラ神)の侵入阻止を神に祈ったのであろう。

※祭神
  天児屋根命(アメノコヤネ)  中筒男命(ナカツツノオ)  誉田別命(ホムタワケ)

 天児屋根命は古代豪族・中臣氏(後の藤原氏)の始祖で、当社創建が藤原鎌足6世の孫・片岡綱利によることから、片岡氏(藤原氏)の始祖・天児屋根命一座が本来の祭神であろう(延喜式では祭神一座)

 中筒男命は、黄泉国から帰ったイザナギが筑紫の阿浪岐原(アワギハラ)で禊ぎをしたときに成りでた住吉三神の一柱だが、これが当社に祀られる由縁は不明。よしんば祀る理由があったとしても何故三柱の中の中筒男命一柱のみを祀るのかは不明。

 誉田別命とは応神天皇のことで、当社が八幡宮と称したことから祀られたと思われるが、特選神名牒(1876)には
 「志都美神社 今按ずるに 本社祭神を誉田別命とするは、中古、八幡宮と誤称するに依りての事にて古伝にあらず。
 石見国静間神社(現鳥取県太田市・式内社)祭神『大穴持命 少彦名命』なる由ありて聞え、静間と志都美とは同音なれば、此の神ならむと云う説もあれど、証なければ取りがたし」
とあり、誉田別命は当社の俗称・八幡宮によるものだが、当社が八幡宮と称する根拠はないという。

 なお神名帳考証(度会延経・1733)
 「志都美神社  狐井村(キツイムラ)  鹿葦津姫命(カシツヒメ) 
           日本紀云鹿葦津姫亦名木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ) 近江国阿志都弥神社 亦按に志都・葦津畧同字也」
として、当社祭神を大山祇の娘で天孫・瓊々杵尊と結ばれた鹿葦津姫とし、その理由として志都と葦津の読みが同音に近いからというが、牽強付会の説としかとれない。(近江国の阿志都弥神社とは、今、滋賀県高島市今津町にある式内社で、祭神は木花開耶姫)


※社殿等
 国道168号線から西へ入って約200m、道路が二股に分かれる角に大きな石灯籠に挟まれて一の鳥居が立ち、道路沿いに西へ延びる参道を進んだ北側(右側)に二の鳥居が立ち、境内に入る。

 
志都美神社・一の鳥居付近

同・一の鳥居 
 
同・二の鳥居

 境内正面に、唐破風向拝を有する入母屋造・瓦葺きの拝殿が南面して建つ。


志都美神社・拝殿 
 
同 左
 
同・内陣

 拝殿の背後、渡殿・祝詞殿を介して三間社流造・銅板葺きの本殿が南面して鎮座するが、周りの玉垣が高く全体は見えない。
 嘗ては朱塗りの華麗な社殿だったようだが、古くなった今は色彩もだいぶ剥げ落ちている。


左から 本殿・祝詞殿・渡殿 
 
本殿(屋根部分のみ)
 
本殿・側面

◎摂社
*大神神社  祭神:天照皇大神
  境内左手、石垣の上に鎮座する小祠
*稲荷神社  祭神:稲荷太神(豊宇気比売命)
  境内右手に鎮座する小祠
*奥之稲荷社  祭神:稲荷太神(宇賀御霊神)
  社殿の右奥に鎮座する小祠


大神神社 
 
稲荷神社

奥之稲荷社 

 上記以外に祓殿神社があるというが気づかなかった。

【武烈天皇陵】
 当社の西に接して『武烈天皇陵』がある。
 武烈天皇は第25代天皇で、その在位期間は5世紀末頃(498--506・書紀期年、実在を疑問視する説もある)といわれ、その陵墓について、書紀には『傍丘磐坏丘陵』(カタオカノ イワキノオカノ ミササギ)とあり、この傍丘が上記の推古21年条の片岡と同じとすれば、当地香芝市今泉にある陵墓がこれに相当し、陵墓拝所前には『武烈天皇 傍丘磐坏丘北陵 宮内庁』と掲示されている。
 しかし、この陵墓は明治22年(1889)に治定されたもので、江戸時代まで当地を武烈陵として扱った事蹟はなく、武烈陵は所在不祥とされていたという。

 当陵は王寺以南の低い丘陵の裾部に立地し、その規模は東西約20m・南北約150m・高さ約20m。
 正面拝所部分(東北側)は天皇陵の形態を整えてはいるものの、その墳形は下図にみるように、北部より南部が高い瓢箪の形をした自然丘陵であって、その陵名傍丘と地名片岡の一致から陵墓として治定した可能性が高く、埋葬施設などの有無は不明で(天皇陵総覧・1994)、当陵が武烈天皇陵である確証はない。 


武烈陵拝所への参道
(背後の森は陵墓北端部) 
 
武烈陵・拝所正面
 
同・中央部
 陵墓は、下の航空写真に見るように全体が鬱蒼とした樹木に覆われ、その南東部に隣接する志都美神社の森と一体化してその境界ははっきりしなくなっている。
 なお、神社背後の森は「志都美神社社叢」(コジイを主体としてアラカシ・クスノキ・スギ・ヒノキ等で構成される照葉樹林という、下右図の斜線部分)として、平成8年3月、奈良県から天然記念物指定を受けている。
 
武烈陵・航空写真
(右下部が志都美神社)
   
同・平面図
(斜線部-天然記念物指定範囲)

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