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宗我坐宗我都比古神社(改訂)
奈良県橿原市曾我町
祭神--宗我都比古神・宗我都日売神
                                                        2013.07.07参詣、2016.02.06改訂

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 宗我坐宗我都比古神社二座 並大 月次新嘗』とある式内社。社名は“ソガニマス(又はソガノ)ソガツヒコ”と読む。

 近鉄大阪線・真菅駅の西約100mの市街地の中に鎮座する。
 駅北側の通りを西へ、突き当たりを左折(南へ)、踏切を越えてすぐの西側に鳥居が立つ。

※由緒
 神社社務所発行の由緒略記によれば、
  「曾我は古名を蘇我と記し、8代孝元天皇の御子・彦太忍信命(ヒコフトオシマコト)の孫に当たる武内宿禰の第三子・石川宿禰が大家を賜って、大阪河内から移り住み、このために宿禰がここに社殿を改めたという。
 33代推古天皇の御世(592--628)になって、石川宿禰五世・蘇我馬子宿禰がここに社殿を造って、始祖・石川宿禰夫妻をお祀りしたと伝えられ、凡そ千三百数十年前で、当神社の起源とされる。
 蘇我氏の氏神を祀る当社は、古くから曾我の近郊の人たちから『曾我さん』という愛称で広く親しまれている」
とある。

 室町初期の古書・和州五郡神社神名帳大略注解(略称・五郡神社記、1446)には、
   「帳に云 宗我坐宗我都比古神社一座 久迷(久米)郷宗我村石川辺に在り。
   社家宗我宿禰曰く 蘇我都彦神社二座 大臣武内宿禰・石川宿禰也
   推古天皇の御世 石川宿禰五世孫蘇我馬子宿禰 神殿を蘇我村に造営し、之を奉祀す」
とある。

 蘇我氏といえば、飛鳥に都があった宣化朝から皇極朝(536--645)にわたって大臣(オオマエツキミ)として国政の中心に在り続けた古代豪族で、その略系譜は次のとおりという。

 

 しかし、孝元天皇は欠史8代としてその実在が疑問視される天皇で、その曾孫とされる武内宿禰も、記紀に、景行から仁徳までの5代の天皇に仕えたとあるように、超長寿の伝説的人物(死亡年齢として280歳から360歳まで諸説あり)というのが定説となっている。

 古事記によれば、武内宿禰には7人の男子があり、そのうちの5人、蘇我石川宿祢(蘇我氏他)・巨勢小柄宿祢(巨勢氏他)・平群木菟宿禰(平群氏他)・紀角宿祢(紀氏他)・葛城襲津彦(葛城氏他)は古代ヤマト朝廷で活躍した豪族の始祖という。
 しかし、これらはあくまでも伝承上での始祖であって(後世になって遠祖を武内宿禰に求めたものであろう)、これらの始祖が実在したという確証はない(葛城氏の祖とされる葛城襲津彦は実在の可能性が高いというが、武内宿禰の5男というのは附会であろう)

 上記系譜の内、正史上にみえる人物としては、
 ・満智--履中2年1月条、蘇我満智宿祢が他の3人と共に国政に携わった
 ・韓子--雄略9年3月条、蘇我韓子宿祢が他の3人と共に新羅討伐軍の将軍に任じられた
とあるが、これが史実かどうかは不詳で、実在が確証されるものとしては
 ・稲目(506?--570)--宣化元年(535)2月条、蘇我稲目宿祢を以て大臣とした
との記録が初見という。

 加えて、蘇我氏本貫の地(発祥の地)もはっきりしないが、主なものとして
 ①河内国石川郡(現大阪府富田林市の石川流域一帯)
 ②大和国高市郡曽我(現奈良県橿原市曽我町)
 ③大和国葛上郡(現奈良県御所市一帯)
がある。

 このうち①河内国石川郡とするのは、三代実録・陽成天皇元慶元年(877)12年27日条の、
 「右京の人正五位下石川朝臣木村、散位正六位上箭口朝臣岑業(ヤグチアソンミネナリ)に、姓・宗岳朝臣(ソガノアソン)を賜ひき。
 木村言(モウ)しけらく、『始祖大臣武内宿祢の男・宗我石川、河内国石川の別業(ベツギョウ)に生る。故に石川を以て名と為し、宗家の大家(本拠となる家)を賜りて居と為し、因りて姓・石川宿祢を賜る。淨御原天皇(天武)の13年(685)、姓・朝臣を賜りき。
 先祖の名を以て子孫の姓と為すは、緯を避けず(筋が通らない)』と。詔し許し給ひき」
によるもので、
 ここで、蘇我氏の後裔である石川朝臣木村と同族の箭口朝臣岑業が、自分らの始祖・石川宿祢の生誕の地は河内国石川の別業であるといっていることから、河内国石川が蘇我氏本貫の地とするもので、ほとんどの資料が之を採用し、当社由緒も「大阪河内から(当地に)移り住み」として河内国が蘇我氏の本貫としている。

 これに対して、
 ・始祖石川宿祢が生まれたとされる別業とは、本拠地とは別の所領のことであり、蘇我氏には幾つかの別業があったと思われること
 ・蘇我氏の河内国進出は馬子(551?--626)の子・倉麻呂(別名:雄当、生没年不明)の頃といわれ、その子・倉山田石川麻呂(?--649)の代には河内の蘇我氏系氏族の中心としての勢力を有していたと思われること
 ・上記の上奏文は、蘇我本宗家及び倉山田石川麻呂系が滅亡したのち、倉麻呂の子・連子(ムラジコ・611--664)が氏上を継承して石川臣へと改姓した(7世紀末、石川石足-667--729の頃改姓、天武13年に朝臣の姓を賜る)後に主張された氏族系譜で、
 ・石川臣が根拠とした河内国石川郡を、同じ石川を名乗る始祖・石川宿祢の生誕の地として作られた系譜と思われること
などから、後継氏族・石川臣氏の居地が河内国にあったことは否定できないが、この地を蘇我氏本姓の本貫とするには疑問があるという。

 ②の大和国高市郡説とは、
 ・古代の豪族は大きく二つに別れ、連(ムラジ)系の氏族はその職掌を以て氏名とし、臣(オミ)系氏族は地名を以て氏名としたといわれ、
 ・古事記にいう武内宿祢の後裔氏族のうち川辺臣以下の6氏はすべて臣系氏族で、且つ大和国の地名を冠していることから、同じ系譜に列する臣系氏族・蘇我氏も大和の地名からきたと考えるのが順当と思われること
 ・紀氏家牒(平安時代という)に、「蘇我石川宿祢の家、大和国高市郡蘇我里、故に蘇我石川宿祢である」とあること
などから、蘇我氏本貫の地は大和国高市郡蘇我であった蓋然性は高いという。
また、上記五郡神社記にいう当社所在地・久米郷宗我村石川が、大和国高市郡内の字名であったように、高市郡に石川の字があったことも、当地を以て蘇我氏本貫とする傍証といえる。
 (今も、当社の南南東約4.5kmに石川町があり、そこに蘇我氏の遠祖とされる孝安天皇の陵がある)

 ③の大和国葛上郡説とは、
 推古32年(624)10月条に、馬子から推古天皇に対して
 「葛城県(葛上郡・葛下郡・忍海郡の古称)は、私の産土の地であり、それに因んで曽我葛城臣の名もあります。永久にその県(アガタ)を賜って、私が封じられた県としたい」
と申し出ていること(推古天皇は、自分の時代に大王家直轄領である県を失うことはできないと拒否している)
 また、皇極元年(642)条に
 「この年、蘇我大臣蝦夷は、自家の祖廟(オヤノマツリヤ)を葛城の高宮(現御所市森脇付近に比定)に建てて、八佾の舞(ヤツラノマイ・天皇にのみ許される舞)をした」
とあることによると思われる。

 古代葛城の地は、古代豪族・葛城氏が本貫とする地域だが、その地には
 ・主要氏族として、武内宿祢の子・葛城襲津彦(カツラギノソツヒコ)を祖とする葛城朝臣系葛城氏と、高魂命五世の孫・剣根命を祖とする葛城国造系葛城氏とがあり、
 ・盟主的存在であった葛城朝臣系葛城氏が、雄略天皇即位直前の政争により没落したことから(460年代か、書紀雄略即位前記)
 ・その空白を埋める形で進出したのが葛城氏で、おそらく、稲目の頃に政治的勢力として定着しはじめたと推測される
 ・そんな中、稲目と葛城系の女性との間に生まれたのが馬子と思われ、
 ・為に、馬子が己の姓氏を蘇我葛城臣と称し、葛城を産土の地と主張したと思われる。
 これによれば、蘇我氏が葛城の地に勢力を張っていたのは確かとしても、それは雄略朝以降のことで、これを以て蘇我氏の本貫が葛城にあったというのは早計であろう。

 ただ、古代の葛城は葛城朝臣系葛城氏を盟主的氏族とする複数氏族の集合体だったともいわれ、その葛城朝臣氏が滅亡したのち、残った集団に中から台頭し勢力を培ったのが蘇我氏で、その蘇我氏が東に近接する高市郡曽我の地に進出して、これを第二の拠点としたともいう。
 これによれば、蘇我氏は表には現れないものの、古くから葛城の地に居たともとれ、葛城の地を以て本貫の地としてもおかしくはないが、管見するかぎりでは、これを証する資料はない。
                   以上の本貫の地に関して、蘇我氏の古代(2016・岩波新書)・蘇我氏-古代豪族の興亡(2015・中公新書)により改定

 これらからみると、蘇我氏本貫の地は大和国高市郡曽我の地とみるのが有力で、その祖先の地に創建されたのが当社ということになろう。

 蘇我本宗家滅亡後の蘇我氏は、蝦夷の兄弟・蘇我倉麻呂(雄当-オマサ、生没年不明)系が引き継いでいくが、その子・蘇我倉山田石川麻呂(?--649)が乙巳の変(644、大化の改新)で中大兄皇子に荷担したことから、孝徳朝で右大臣として国政にあたったが、異母弟・日向の讒言により謀反を疑われ山田寺(桜井市山田に寺跡あり)においてその子・三男一女とともに自死し(孝徳5年-654条)、この系統も滅んだという。

 その後の蘇我氏は、倉山田石川麻呂の弟・連子(ムラジコ・611?--664)系のみが生き残るものの(斉明・天智朝の大臣)、その後は朝廷内での地位を次第に低下させながら中級官人として平安期まで続いたという。 
 この連子系蘇我氏は、河内の石川を根拠としていたと思われ、連子の子・孫・石足(イワタリ・667--729)の時代に石川臣に改姓(後に朝臣を賜性)、その後陽成朝に宗岳(ソガ、後にムネオカ・宗岡とも記す)朝臣の姓を賜っている(元慶元年・上記)

 当社の創建時期について、由緒略記・五郡神社記は馬子の時代という。
 当社が蘇我氏本貫の地にあることからみて、蘇我氏の最盛期であった馬子によって創建されたとみてもおかしくはないが、その傍証となるものはなく、
 当社の創建は蘇我本宗家滅亡後唯一生き残った石川臣(あるいは宗岳朝臣)によるとみるのが妥当かもしれない。

 これに関連して、宗我大神伝記(成立時期不明、宮座・井上氏所蔵という)には
  「持統天皇(686--97)が蘇我一門の滅亡を憐れんで、倉山田石川麻呂の次男・徳永内供に蘇我氏の一支族・紀氏を継がせ、内供の子・永末に祖神を祀るための土地を賜い、社務と耕作を行わせたことに始まる。徳永内供は持統天皇の伯父に当る」
とあるという(式内社調査報告・1982)
 しかし、上記のように倉山田石川麻呂一族は孝徳5年に滅亡しているから、半世紀後の天皇・持統が倉山田石川麻呂の孫に土地を賜り云々というのは解せない。
 ただ、このような伝承が残っていることは、当社の創建が馬子ではなく、後継氏族によることを示唆するものといえよう。

 このように、当社創建時期の確定は不可能だが、新抄格勅符抄所収の大同元年牒(806、社寺に与えられた封戸の記録)
 ・宗我神  三戸 大和
とあることから、9世紀初頭以前からあったことは確かで、神格授叙記録としては
 ・貞観元年(859)正月27日  大和国従五位下・・・宗我津比古神・・・従五位上を授く
 ・貞観6年(864)6月16日   大和国従五位上宗我津比古神に正五位下を授く
がある。

*追記
 当社にかかわる資料に、「別名・入鹿神社」とするものが多い。
 これは、江戸中期の地誌・大和志(1734)
  「曾我村に在り、今、入鹿宮と云う」
とあることによると思われるが、大和志が当社をの別名を入鹿神社とした根拠は不明。
 これに対して、大和志と同時期に記された神名帳考証(1733)では
  「今、蘇我村蘇我川原に在り。土民誤って宗我入鹿を祭ると称す」
として完全に否定している。

 今、入鹿神社は当社の南東約1.5km(大和八木駅の西約600m)にあって、蘇我入鹿と素盞鳴命を祭神としている。神仏分離で廃寺となった善賢寺の鎮守社で、江戸期まではゴズテンノウ(今の祭神・スサノヲの前身)と入鹿を祀っていたという。
 祭神が同じ蘇我氏の一族ということからの混乱かとも思われるが、距離的にだいぶ離れていることから、当社を入鹿神社とするのは間違いといえる。

※祭神
 今の祭神・宗我都比古命(ソガツヒコ)・宗我都比売命(ソガツヒメ)とは“ソガの男”・“ソガの女”という一般的神名と解され、これに具体の人物名を充てたのが、 
 ・始祖石川宿禰夫妻--由緒略記
 ・大臣武内宿禰・石川宿禰--五郡神社記
であろう。
 ただ、上記したように、石川宿禰の実在が疑問だとすれば、ソガの男・ソガの女を意味する宗我津比古・宗我津比売とするのが順当だろうが、あえて具体名を挙げれば、由緒略記あるいは五郡神社記の祭神名もありうると思われる。

※社殿
 道路脇の鳥居を入り、長い参道を進んだ先に拝殿(切妻造・瓦葺)、その奥、少し間をあけて、正面を中門から左右にのびる透塀と、残る三方を白壁塀に囲まれた中に本殿(流造・桧皮葺)が鎮座する。
 ただ、透塀・白壁が高いため、本殿の流造正面に大きな千鳥破風が突きでた珍しい形の屋根が見えるだけ。

 
宗我坐宗我津比古神社・鳥居
   
同・拝殿
 
同・本殿域を画する
中門及び透塀
   
透塀越しに見る本殿
 
◎末社

 境内の右手北寄り、石鳥居と朱塗鳥居8基が並ぶ参道奥に簡単な覆屋があり、中に末社3宇が鎮座する
 中 央----稲荷神社
      鳥居に掲げる神額には“八太夫稲荷神社”とある
 向かって左--戎神社(大国主命・事代主命)
      戎社祭神をコトシロヌシとする事例は多いが、オオクニヌシを合祀する由緒は不明
  同   右--八坂神社(素盞鳴命)
      嘗ての防疫神・ゴズテンノウが、明治の神仏分離でスサノヲに変わったものと思われる

 また、拝殿前右手、石玉垣の中に背の低い樹木が生えており、“祓所”という。
 
同・末社
(中央:稲荷社、左:戎社、右:八坂社)

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