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添御県坐神社
A:奈良市三碓町(ミツガラス)3丁目
B:奈良市歌姫町
祭神--建速須佐之男命・櫛稲田姫命・武乳速命
                                                          21015.01.24参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添下郡 添御県坐神社 大 月次新嘗』とある式内社だが、上記2社が論社となっている。社名は“ソウノミアガタニマス”と読む。

 A社--近鉄奈良線・富雄駅の南東約900m、駅の西側を南北に走る国道7号線を南へ、5っめの信号バス停・三碓の近くを左(東)へ入った先に鎮座する。

 B社--近鉄・西大寺駅の北東約1.7km、駅北を東西へ走る県道104号線を東へ、佐紀町交差点を左(北)へ、県道751号線を北へ約1km強ほど、バス停・歌姫町から5分ほど進んだ左側(西側)に鳥居がたつ。

※由緒
 当社は、古代大和国に6ヶ所あった御県神社(ミアガタ)の一。
 御県とは、延喜式・祈年祭(トシゴヒノマツリ)祝詞に、
  「御県に坐す皇神(スメガミ)等の前に白さく、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曽布(添)と御名は白して、此の六つの御県に生ひ出づる甘菜辛菜を持ち参来(マイキ)て、皇御孫命の長御膳(ナガミケ)の遠御膳(トホミケ)と聞し食(メ)すが故に、皇御孫命(スメミマノミコト)の宇豆の幣帛を、称辞竟(タタヘゴトヲ)へ奉らくと宣(ノタマ)ふ」
とあるように、朝廷で用いられる蔬菜類の栽培・貢納に携わる朝廷直轄領を指し、御県坐神とは、その守護神をいう。

 当社は大和国・添郡(後に添上郡・添下郡に分割-時期は天武朝ともいうが確証はない)にあった御県社だが、
 ・御県が大和国にのみあって山城国にないこと(平安京時代・山城に御県は設けられなかった)
 ・大和国正税帳(730・奈良前期)--「添御県 神戸 稲152束8把、租20束、合172束8把」との記録があること
などから、8世記・奈良時代にあったのは確かという。


 なお、当社に対する神階綬叙記録としては、三代実録(901)貞観元年(859)正月27日条に
  「大和国従五位下・・・添御県神・・・従五位上を授く」
とあるが、その後の昇叙記録はみえない。

 今、式内・添御県坐神社には論社として上記2社があり、いずれとも決めがたいが、近世以降の古資料には
 ・大和志(1734)--三碓村に在り、今天王と称す
 ・神名帳考証(1813)--志に「三碓村に在り、今天王と称す」とあり
 ・神社覈録(1870)--鳥見庄三碓村に存す、今天王と称す
 ・神祇志料(1871)--今、鳥見荘三碓村にあり
 ・特選神名帳(1876)--三碓村シモンジョ(生駒郡筒井村大字筒井)
として、三碓にあるとするものが殆どだが、いずれも比定根拠は示していない。

 これに対して、大和志料(1914)は“平城村大字歌垣御県山(B社)にありとして、
   「大和志・図絵には『三碓村に在り、今天王と称す』とあるに因り、今富雄村大字三碓にある村社を式内添御県と称するも他に憑拠なし。
 但三碓は往時鳥見庄内にあり、即ち古の鳥見地方にして歴史上著名の処なり。若し添御県社にして三碓地方にありとせば寧ろ鳥見御県社とこそ称すべけれ。
 今、歌姫は現に御県山(ミアガタヤマ)の字を存するのみならず、位置も亦添上郡に接する処にあり、大化立郡の際添県の名を以て二郡に推及ほせしは、固と地理の然らしむる所にして、神社の位置も亦二郡の交界たる歌姫の北方にありしならん。故に今当社を以て式内社と仮定す」
という(古く、添上郡・添下郡は一つの郡で添郡と称した)

 三碓説の根拠が不詳のため単純に比較はできないが、
 ・歌姫の地が添御県(添郡)の中心地帯と考えられること、
 ・木津川水系と大和川水系の分水点に鎮座する歌姫の社は、農耕に必要な水の神(水分神社)としての性格を有し、朝廷に蔬菜等を献納する御県神社として相応しいこと(当社の北に木津川に連なる山松川・鹿川が北流し、南に大和川に連なる佐保川・秋篠川が南流し、北と南で水系が異なる)
 ・鎮座地の小字名が「御県山」とあること
などは、歌姫説(B社)を有力とする傍証ではないかという(日本の神々4)

※祭神
 ・建速須佐男之命(タケハヤスサノオ)
 ・櫛稲田姫之命(クシイナダ)
 ・武乳速之命(タケチハヤ)

 当社本来の祭神は、神名帳に祭神一座とあることから武乳速命と思われるが、その武乳速命について、
 A社(三碓)参詣の栞には
   「一説に、三柱の祭神のうち武乳速之命の正体は、富雄・三碓地域の一帯を開拓し、治めていた首長とされ、古事記に登場する登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)とされ、・・・」
 B社(歌姫)参詣の栞には
   「武乳速之命は添の御県の地の祖神」
とある。

また
 ・新撰姓氏録(815)--大和国神別(天神) 添県主 津速魂命男武乳遣命之後也
 ・先代旧事本紀(神代本紀、9世記前半)
   津速魂命(ツハヤムスビ) 
    児市千魂命(イチチタマ、又はイチチムスビ)  
      児興登魂命(コトムスビ)
        児天児屋根命(アメノコヤネ・中臣氏等遠祖)
       次武乳遣命(タケチノコリ・添県主等遠祖、神名帳云大和国添下郡添御県坐は神社)
とある。

 武乳命・武乳命と神名に一部異なる所があるが、両社の参詣の栞が武乳速之命は添県主の祖神ということから同じ神と解しているらしい(姓氏録・旧事本紀にいう武乳遣命が本来の神名かもしれない)

 また、添県主については、続日本紀・称徳天皇・天平神護元年(765)条に
  「2月3日 大和国添下郡の人で左大舎人大神位下の県主・石前(イワサキ)に姓(カバネ)を添県主と賜る」
とあり、中臣系系譜では、この石前が武乳遣命の後裔で添県主の祖という。
 また、添県主の賜姓が8世記中葉であることは、当社の創建が奈良時代というのとも整合する。

 なお、A社参詣の栞では、武乳速之命を神武の大和入りに抵抗した登美の豪族・ナガスネヒコに比定している。
 記紀でナガスネヒコの根拠地とされる鳥見(登美)とは、当地を含む富雄川の流域とされるが、わざわざ神話上の人物を持ち出すこともあるまい。

 建速須佐男之命・櫛稲田姫について、
 A社(三碓)栞に、建速須佐男之命・・・(神仏習合期の別称)牛頭天王(ゴズテンノウ)
            櫛稲田姫命・・・(同)婆利采女(ハリサイジョ)
とあり、
 大和志以下の古資料でみるように、江戸時代の当社が天王社と呼ばれていたことからみると、当時は、防疫神・牛頭天王とその妃・婆利采女を祀っていたと思われる(その当時、武乳速命はゴズテンノウの子・八王子とされていたらしい)
 それが明治の神仏分離令によって仏教色の強い牛頭天王が排斥され、同一の神格をもつ須佐之男・妃櫛稲田姫に変えられ(例-京都・八坂神社)、それがそのまま名を変えて残ったと思われる。

 これらのことからみると、当社本来の祭神は、添御県を領治する添県主の祖・武乳速命と思われるが、何時の頃かに防疫・防災の神・牛頭天王が勧請され、その後、同神格の須佐之男命が主祭神の座を占めたものと思われる。


【添御県坐神社(三碓)】
 近鉄奈良線・富雄駅の南南東約900m、駅の西を南北に走る県道7号線を南下、5っめの信号を東へ入り、約400mほど進んだ左手に鳥居が立つ。

 当社で頂いた参詣の栞には
 「平安時代初期に編纂された延喜式神名帳という全国の神社を総覧した文書によりますと、月次祭や新嘗祭に朝廷から幣帛を奉られる大社という社格が認められた神社として記されています。従って、延喜年間以前にすでに存在していたことは確実です。
 一説に、三柱の祭神のうち武乳速之命の正体は、富雄・三碓地域の一帯を開拓し治めていた首長とされる、古事記に登場する登美能那賀須泥毘古(トミノナガスネヒコ)とされ、鎮座の起源は古墳時代まで遡ることができると考えられます。
 その後、富雄川流域のこの地域は、古代豪族の小野氏が治め、水質が良かったため米作りも盛んでしたが、農業ばかりでなく、林業を業とする杣人の活動する地域ともなっていました。また、薬草の自生地として知られていたとの伝承もあります」

 また、ネットにみる当社公式サイトによれば、
 「古来、添御県坐神社は、皇室の食料をまかなう『此の地』の安寧と、収穫の豊穣を祈る三碓(ミツカラウス)地区の鎮守社として創建され、御祭神は建速須佐之男命・武乳速之命・櫛稲田姫之命です。
 平安時代初期に編纂された延喜式神名帳という全国の神社総覧によりますと、当神社は、月次祭や新嘗祭に、朝廷からお供え物の布類を奉られて『大社』という格式を認められた神社と記されています。従って、延喜年間(901--23)に既に存在していました。
 一説には、三祭神のうち武乳速之命は添御県の一帯を支配し治めた豪族の祖先神とされ、起源は奈良時代以前まで遡ることができます」

 また、奈良市史(1985)には、
 「神社は富雄川の東方小高い斜面にあり、生駒の暗峠を越えて奈良と難波を結ぶ旧大阪街道はここから1km南にある。
 この街道は古くから物資交流の道として利用されていた。
 三碓町は富雄川に沿い交通の要路を占め、奈良時代には豪族小野氏の拠点と伝える。神社の所在地は、こうした重要な位置にある。
 社標に『延喜式内 添御県坐神社』と刻まれている。これと同名の神社が歌姫町にもあることから、式内社をめぐる諸説は江戸時代からあって、今後ともなお研究を要する課題である。
 三碓地方は添下の西端に当たるから、ここに添御県坐神社があることは注目される」
とある。

 参詣の栞および奈良市史は、当地を小野氏の拠点だったという。
 小野氏とは、新撰姓氏録(815)
  「左京皇別  小野朝臣  大春日朝臣道祖  彦姥津命五世孫米餅搗使主命之後也」
  「左京皇別  大春日朝臣  出自孝昭天皇皇子天帯彦国押人命也」
とある氏族で、天帯彦国押人命(アメノタラシヒコクニオシヒト)を祖とする和爾氏(後の大春日氏)に連なる氏族で、7世記後頃半から平安中期頃にかけて活躍したという。

 これによれば、小野氏とは和爾氏系氏族で、それが物部氏系の武乳速命を祀るのは解せない。物部氏系の添御県氏が没落し、変わって春日氏系の小野氏が進出したのかもしれないが、よくわからない。

◎社殿等
 道路脇に立つ鳥居を入り、やや長目の参道の先・左手の石段を登った上が境内。
 境内右手(東側)に拝殿・本殿が西向きに鎮座し、境内左に恵美須社・英霊殿・舞台が東面して並ぶ(下右・社殿配置図)

 
添御県坐神社(三碓)・鳥居
 
添御県坐神社(三碓)・境内全景
 
同・社殿配置図

 *拝殿
   横向きに長い長屋形式・瓦葺きの建物で、中央部、一段高い屋根をもつ処が拝所となっている。
 
同・拝殿
 
同・拝所

 *本殿(国の重要文化財・昭和25年)
  五間社流造・朱塗り・檜皮葺、屋根に千鳥破風3基をもち、西面する。
  現社殿は南北朝時代末期・永徳3年(1383)の造営で(墨書あり)、全国的にも珍しく貴重な建物という。

  拝殿裏の石壇の上、朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿域内(中央に鳥居あり)に建つ大きな覆屋のなかに鎮座する。


同・本殿域正面の鳥居 
 
同・本殿正面
 
同・本殿2

*末社
 参詣の栞には次のように記している。
 ・恵美須神社
   「本殿の南西にあり(境内に入ってすぐの左手)、商売繁盛で信仰を集める当地随一の恵比須さま」
   訪問した日、例祭(2月3日)が近いことから当社へ至る道筋から参道にかけて「富雄恵美須大祭 二月三日」と染め抜いた赤い旗が林立していた。
 ・天香久山神社
   「本殿背後の森の南にある。かつてこの付近で良質の陶土が採掘されたことに因む社で、飛鳥との関連も推定されます」
   陶土採掘と天香久山神社との関連は不詳。書紀・神武即位前記に「香久山の土を採って平皿(祭具)を作り神を祀った」とあるのに関連するか。
   本殿の手前(境内に入ってすぐの右手)に天香久山社・竜王社への細い参道(地道)あり。
 ・龍王神社
   「本殿の南西にありあり、古来、雨乞いに霊験のある龍神が祭神。その奥に神水が湧き出る竜神の池があり、毎年10月の本社例祭に備えられた鯉を、この池に放つ習わしがある」
   天香久山神社前を過ぎ坂を下った先、覆屋の中に鎮座する。奥の龍神の池は実見せず。
 ・福神宮
   「本殿のすぐ北側にあり、奈良時代、三碓を中心とする地域を治めていた豪族・小野福麿公を祀る。因みに隣の“九之明神”には福麿公に忠義を尽くして殉じた9人の従者が祀られている」
   気がつかず参詣せず。

 
末社・恵美須神社
 
同・天香久山神社
 
同・龍王神社
 
同・福神宮(栞転写)


【添御県坐神社(歌姫)】

 近鉄京都線・平城駅の東北約1km、平城京跡北側の佐紀町交差点から県道751号線(旧歌姫街道)を北へ1kmほど進み、緩やかな歌姫峠を過ぎて少し下った西側に鎮座し、歌姫神社ともいう。
 近鉄西大寺駅から神社のすぐ南までバス便(歌姫町行)があるが、便数は少ない。

 社頭に掲げる案内には
 「当神社は、大和平野中央を貫く古代の下ツ道の北端に位置します。
 そして、大和から歌姫越えて諸国へ旅をする際に、国境に鎮座する手向けの神として崇敬されていました。
 万葉集に左大臣・長屋王の詠んだ次の歌があります。
   『佐保すぎて 寧楽(ナラ)の手向けに 置く弊(ヌサ)は 妹を目離(カ)れず 相見しめとぞ』(300番)
   歌意--佐保を出て 奈良山の峠に奉る弊は 愛する妻と何時も一緒に居させてほしい(旅から無事に帰って妻に逢わせてほしい) という願いからです。
 この歌には、大和と山城の国境の神・添御県坐神社を拝し、旅の安全を祈念したものと考えられます。
 当神社は、格式のある式内社・御県社の一つとしてだけでなく、農の神・旅の神として崇敬されてきました。
 江戸時代には牛頭天王社・八王子社として、除災の神として信仰されてきました」
とあり、

 拝殿に置かれていた参詣の栞には、
 「延喜式の祈年祭の祝詞によると、御県の神は代々天皇の御膳に野菜を献上したと記されています。また、櫛稲田姫の神名は『奇(ク)し稲田』が原義で、その神格は農の神であります。
 なお、当社は大和平野中央を縦貫する下ツ道の北端に位置し、古来、国境に鎮座する手向けの神として尊崇されてきました。
 万葉集に左大臣・長屋王の詠んだ歌があります(上記の歌)
 昌泰元年(898)10月、宇多天皇の吉野行幸に従った菅原道真の歌に次の一首があります。
  『このたびは 弊(ヌサ)もとりあへず手向山 もみぢの錦 神のまにまに』(古今集・小倉百人一首)
  (歌意--支度もそこそこで出立した旅なので、お供えするヌサも用意できませんでした。代わりとして、手向山を彩る綾錦のように見事な紅葉を手向けまして、旅の安全は神の御心にお任せいたします)
 この二首の歌は、大和・山城の国境の神、この添御県坐神社を拝し、旅の安全を祈念したと想定して、はじめて作の真意に到達します。
 農の神、旅の手向けの神として崇敬されてきた当社は、江戸時代から病気を治す神として信仰され、近時菅原道真ゆかりの神社として合格を祈願する人の姿も見るようになりました」
とある。

 当社の東を南北に走る県道751号線(平城京跡北側の佐紀町交差点から北へ延びる)は、古く歌姫街道(京都街道ともいう)と称した古道で、その街道筋の高所である当社付近は歌姫峠と呼ばれていたという(近年まで御県山との小字名があったという)。また、当社から北へ約3kmほど行くと京都府(山城国)との府県境に達する。

 古代の人々は、村境・川・峠などは彼岸(あちら)と此岸(こちら)との境界であって、そこには境界の神・塞の神(サイノカミ、後に道祖神と習合)が坐して、外からやってくる邪霊・悪霊を遮り、且つそこを通る人々の安全を守ってくれると信じ、為に、そこに祠を設け、通る人々は塞の神に弊(ヌサ、野の花などが多かったという)を手向け、旅の安全を祈ったという。

 大和と山城を結ぶ歌姫街道の峠に位置し、国境にも近い当社が、その立地から、本来の添御県の守護神という神格に加え、境界に坐して旅の安全を守る塞の神・道祖神的神格が付与され、それが本来の神格かのように崇敬されたことを示すのが社頭の案内および栞といえる。

 また、当社に牛頭天王が勧請されたのも、牛頭天王が当時の流行神であるとともに、牛頭天王がもつ疫病除け・除災の神という神格が、塞の神がもつ邪霊・悪霊除けという神格と習合したものとも考えられる。

 なお、奈良市史には
  「鳥居傍らの社標石柱に『延喜式内 添御県坐神社』と刻まれている。神社の傍らを通る道は京都街道で歌姫越えと呼んでいた。付近には前方後円墳をはじめ古墳が散在し、陶棺を出した赤井谷古墳もある。また奈良時代の瓦窯跡もあって、この地域は古代史上重要なところである。
 ここは添上・添下のいわば接点にあるから、添御県坐神社というには相応しい土地柄である。
 なお市内には、三碓町にも同名の神社があり、式内社のことにつき江戸時代以降諸説があって、今後とも研究を要する課題となっている」
とある。

◎社殿等
 道路の西側に「延喜式内 添御県坐神社」とま石碑が立ち、樹木に覆われて鳥居が立つ。
 鳥居を入り、道に沿った参道を進んだ先が境内で、正面に拝殿(舞殿兼用か)、その奥、石壇に上、朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿域内(正面に朱塗りの鳥居あり)に本殿が南面して鎮座する。
 *本殿
   一間社流造・朱塗り・桧皮葺
   伝聞によれば、本殿は元東向きだったが、郡山藩主の参勤交代に神前を通るのが恐れ多いとして南向きに改められたという。
   社殿は大分古いが、平城村史によれば、宝暦5年(1755)に修理し、さらに明治25年・大正4年に修理したのが現在の社殿という。

 なお、明治12年の明細書には本殿のみが記載され、大正15年のそれに拝殿・祝詞社などが加筆されているというから、古くは本殿のみの神社だったと思われる。(以上・式内社調査報告)


添御県坐神社(歌姫)・社頭 
 
同・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿域正面

同・本殿 

◎歌碑
 境内に入った参道の左右に歌碑2基が立つ。
 右のそれには、社頭の案内にいう長屋王の歌・『佐保すぎて 寧楽の手向けに・・・』が、
 左のそれには、参詣の栞にいう菅原道真の歌・『このたびは 弊もとりあへず手向山・・・』が刻まれている。

 
歌碑・菅原道真
 
歌碑・長屋王 

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