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菅 原 神 社
現社名--菅原天満宮
奈良市菅原町貴光寺藪
祭神--天穂日命・野見宿祢・菅原道真
                                                 2015.01.25参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添下郡 菅原神社』とある式内社で、平年14年(2002)菅原天満宮と改称したという。

 近鉄・西大寺駅の南南西約1km強、駅西を富雄川に添った南北道路(やや広い)を南へ、県道308号線・菅原東交差点を右(西)へ、次の菅原交差点(第二京阪道路奈良側終点近くに当たる)を右(北)へ入った右側(東側)に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
  「当 菅原天満宮は、菅家発祥の地にあり、創建は不明ですが、菅家一系の三神を祀られていることから、古くより在ったと思われます。
 祭神 菅家の祖神・天穂日命(アメノホヒ)は、天照大神の御子であり、中興の祖・野見宿祢命(ノミノスクネ)は、垂仁天皇の后・日葉酢媛命(ヒバスヒメ)が崩御されたとき、古来悪習であった殉死を無くし、代わりに埴輪を造り埋めるべきと進言、その功績により土師臣の姓を賜った(平成2年の発掘で実証され、現在菅原はにわ窯公園となっている)。また当麻蹶速(タイマノケハヤ)と力比べをしてこれに勝ち、相撲の始祖としてもしられている。

 その後、土師家は大喪を掌っていたが、天応元年(781)その子孫である土師宿祢古人・土師宿祢道長等15名が居住地である菅原の里の地名をとって土師家より『菅原』姓の改姓を願い出、勅許されている。
 爾後、古人・清公・是善と続き承和12年(846)6月25日、菅原道真公の誕生となり、当神社東100mには、道真公が産湯に使われたとされる天神堀がある。

 その後、菅原家は出世の一途をたどりつつあったが、藤原家との争いに敗れ、道真公は太宰府に左遷され、延喜3年(903)2月25日59歳で薨じた。
 没後、天神縁起で知られるように天神信仰が隆盛となり、学問の神・書道の神・難除けの神と崇められ、菅原の天神さんと親しまれている由緒正しき神社である」
とある。

 また、奈良県史(1989)
  「近鉄橿原線・尼ケ辻駅から西北約600mの地に鎮座。
 式内菅原神社に比定されているこの社は、通称菅原天満宮ともいう。
 天穂日命とその裔の野見宿祢・菅原道真を祀る。殉死の風を止むべきことを奏進して埴輪を陵墓に立てて、天皇の嘉賞を受け、土師臣の姓を賜ったという野見宿祢の裔孫土師氏は、代々菅原地方を本貫地として祀ったのが当社の草創とみられる。いつの頃からか野見宿祢・菅原道真を合祀、三座となった。
 社宝に室町時代の渡宋天神像があり、天神が入宋して仏鑑禅師の所に参向したとの画像で、禅僧の間での天神信仰を示す資料である」
という。

 当社は、古代の陵墓造営・葬送儀礼などに従事した土師氏(ハジ)の一族が、その祖神を祀った社というが、その経緯等はも一つはっきりしない。

 土師氏とは古代出雲氏の流れをひく野見宿祢を元祖とする氏族で、その事績は上記案内にいう通りだが、その本貫の地は河内国志紀郡土師の里(現藤井寺市・羽曳野市)という。
 古墳時代終了後葬送儀礼の変化にともなって逼塞したが、桓武天皇の祖母が土師氏出身であったことから脚光を浴び、その縁で朝臣の姓を賜っている。

 土師氏は、新撰姓氏録(815)によれば
 ・右京神別(天孫) 土師宿祢 天穂日命十二世孫可美乾飯根命(ウマシカラヒネ)之後也
              光仁天皇天応元年、土師を改め菅原氏を賜う、勅により改めて大江朝臣の姓を賜ふ也
 ・山城国神別(天孫) 土師宿祢  天穂日命十四世孫野見宿祢之後也
 ・大和国神別(天孫) 土師宿祢  秋篠朝臣同祖 天穂日命十二世孫可美乾飯根命之後也
 ・和泉国神別(天孫) 土師宿祢  天穂日命十四世孫野見宿祢之後也
などが見え、広く各地に進出していたことが窺われる。

 このうちの一部が(多分、大和国の土師宿祢の一族であろう)、光仁天皇(桓武の父)・天応元年(781・奈良末)6月25日条に、
  「遠江介・従五位下の土師宿祢古人と散位・外従五位下の土師宿祢道長ら15人が、『居住地の地名にちなんで、土師を改めて菅原の姓にしてほしい』と奏上したので、勅して是を許した」(続日本紀・大意)
とあるように、寧楽末の頃、居住地の名をとって菅原に改姓したいと願い出、勅許をうけて改姓したのが菅原氏という(延歴9年-791に朝臣の姓を賜る)
 その土師氏の一部が当地に進出した時期は不明だが、土師氏系譜によれば(真偽不問)、古人の6代前に大枝・菅原・秋篠の3系列に別れているから、天応元年より100年ほど前(飛鳥時代)かもしれない。
 なお、同時期に、大和国大枝及び秋篠の地に居住していた一族が、それぞれ大枝氏(後の大江氏、桓武祖母の出身氏族)・秋篠氏と改姓している。

 当社の創建年代は不詳。
 ただ、菅原という地名について、
 ・書紀・推古天皇16年(608)条に「冬、倭国(大和国)に・・・菅原池を造った」とあり、この池が当社の北西約2kmiにある“蛙股池”に比定されていること、
 ・続日本紀・元明天皇和銅元年(706)条に「9月14日、天皇は菅原に行幸された。同20日、平城に巡幸して、その地形をご覧になった」
とあることから、飛鳥時代末には菅原の地名があったのと思われ、その頃、当地に進出した土師氏が、その祖神を祀り、その社名に地名・菅原を充てたとすれば、奈良時代にはあったかと推測される。

※祭神
  今の祭神は、天穂日命(アメノホヒ)・野見宿祢(ノミノスクネ)・菅原道真というが、延喜式には祭神一座とあり、本来の祭神は天穂日命であって、他の2座は後世の奉祀であろう(天神信仰が隆盛となった10世記中葉以降か--北野天満宮創建・947年)

 天穂日命とは、アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって生まれた5男神の一(第2子)で、記紀によれば、国譲りの使者として出雲に派遣されたが、大己貴命(オオナムチ)に媚びて3年経っても報告しなかったとある。
 しかし、出雲国造神賀詞(イズモノコニノミヤツコノカンヨゴト)によれば、大己貴に国譲りを承諾させ、子の天夷鳥(アメノヒナトリ)に経津主(フツヌシ)を添えて派遣して、荒ぶる神々を鎮めて葦原中国を平定したという。

 この天穂日命が土師氏の遠祖ということで、当社に祀られているのだが、記紀によれば、
 ・古事記--天菩比命(アメノホヒ)の子、建比良鳥命(タケヒナトリ) こは出雲国造・・・等が祖なり
と出雲国造等の祖(これが一般の理解)とあって、土師氏の名は見えないが、
 ・書紀では、天穂日命--これは出雲土師氏の先祖である
とある。
 記紀の間で混乱はあるが、書紀に出雲土師氏の先祖とあることは、8世記の時点で(記紀編纂時期)、土師氏は天穂日命の後裔とする認識があったことを示している。

 野見宿祢の正史上での初見は垂仁7年条で、国中で一番力が強いと自慢する当麻蹶速(タギワノクエハヤ)と力比べをするために出雲国から呼び出され、これと角力をとって破り、そのまま朝廷につかえたという(桜井市穴師に相撲神社・祭神野見宿祢あり)
 また同32年条には、皇后日葉酢媛が亡くなったとき、それまでの風習であった殉死の代わりに、陵墓の周りに埴輪を立てることを奏上し、許されて出雲から土部(ハジベ)100人を呼んで埴輪を作って媛の陵墓に立て、これによって天皇に喜ばれ、土師の職に任じられたといわれ、垂仁紀には
  「(埴輪制作の経緯を記した後)それで本姓を改めて土師臣という。これが土師連らが天皇の喪葬を司るいわれである。いわゆる野見宿祢は土師連等の先祖である」
とある。

 この土師氏改め菅原氏から出たのが菅原道真で、系譜では菅原氏の初代・古人の曾孫という。
 道真の事跡については巷間に広く知られているが、当社では、当地が菅家発祥の地・道真生誕の地といい、当社の東約100mに産湯の池と称する池がある(下紀)
 菅家発祥の地というのは、上記土師古人等の上奏文で「居住地の地名にちなんで・・・」ということからで、当地がそれであることに異論はないようだが、 道真生誕の地は当地以外にも、菅大臣神社(京都・下京区)・菅原院天満宮(京都・上京区)・吉祥院天満宮(京都・南区)・菅生院(奈良・吉野郡)・菅原天満宮(松江市)などがあり、当地である確証はない(Wikipedia)

※社殿等
 道路脇に立つ鳥居のすぐ先、表門(四脚門・瓦葺)を入った中が境内。
 境内正面に拝殿(入母屋造・瓦葺き)が、その背後・白壁に囲まれた中に、棟続きの祝詞殿を介して本殿(流造・銅板葺)が南面して建つが、壁が高く本殿の詳細は見えない。

 
菅原神社・鳥居
 
同・表門 

同・拝殿 
 
同・本殿

 天満宮だけあって、境内には、拝殿前左右の他各処に梅の木が多く、花の頃は見応えがあろう。
 また、境内左手に“筆塚”と称する毛筆の形をした石碑が立ち、栞には「古い筆を社頭に納め、文筆の神である道真に感謝し、ますますこの道に励もうとして寄進されたもの」とある。

◎末社
 ・市杵島姫神社--拝殿の向かって右手奥にある小祠、   祭神:市杵島姫(イチキシマヒメ)は水神で弁財天と習合しているから、弁天様として祀られたのかもしれない
 ・春彦神社--拝殿の左手にある小祠
   祭神:度会春彦(ワタライハルヒコ)は、世継ぎがなかった父・是善が伊勢外宮の禰宜であった度会春彦を通じて神に祈願して道真が生まれたといわれ、その縁で道真に仕え、その最後まで従ったという人物 
 ・稲荷神社--春彦神社の右にある小祠
   祭神は豊宇気姫(食物神)とある

市杵島姫社 

度会春彦社

稲荷社

◎菅原道真公産湯の池
 当社の東約100m、当社近くから東流する小さな天神堀と、当社へ至る道とが交差する処に小さな池があり、【菅原道真公産湯の池】と称している。
 傍らの「菅原天満宮天神堀]との案内には、

 「この池は菅原院の一部にして、相伝菅神のの遺跡であり、古くから菅原道真公の産湯の池と伝えられております。

 島の中にある碑には、星霜年を経て古くなり、神の盛なるを託し、その祖先を敬うことにより徳を戴き、荒れた岸に石垣を積もうとしたところ、その趣旨は四方に伝わり瞬く間に完成した。
 神徳は、月日が下界を照らすようなもので敬わない人はいないだろう。神をたたえ、この碑を立て記念とする
                    慶應3年11月  平成8年6月改修」
とあり、当社山系の栞には
 「道真の母君が京都からこの菅原の故地に帰参して産みむたもうたもので、・・・」
とあるが、その真偽は不明。 

菅原道真公産湯の池
(左に天神堀が流れる) 

天神堀

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