トップページへ戻る

菅 田 神 社
奈良県大和郡山市八条町
祭神--天目一箇命
                                                            2014.03.04参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添下郡 菅田神社』とある式内社。古くは八条天神社・一夜松天神とも称していたという。

  近鉄天理線・二階堂駅の西北西約700m(同平端駅からも東約700mだが、道がわかりにくい)、天理線の北側に広がる田畑に残る森の中に鎮座する。

 二階堂駅の西側県道・193号線を北上、京名和自動車道を過ぎた左側に朱塗りの鳥居が立ち、西へ入った先にあたる。

 右写真(東より)--菅田神社の森、写真左端(森の東南端)に参道入口があるが、鳥居はない。

※由緒
 境内に創建由緒・年代等の案内なく詳細不明だが、管見したネット資料によれば
  「昔、美しい女神が天理市二階堂の菅田池から現れ、大和郡山市八条町の神楽田の所でしばらく休んでから、西の方へ行って鎮座した。
 すると、そこが一夜にして鬱蒼とした松林になったので、誰云うことなく、その土地を一夜松と呼び、今、一夜松天神・八条天神社と呼ばれる菅田神社が鎮座する」
という。
 しかし、これは当社の旧称・一夜松天神にかかわる伝承であって、当社本来の創建由緒・時代等は不詳。

 延喜式によれば、当社は添下郡に属しているが、、江戸中期の地誌・大和志(1734)には、平群郡の条に
  「菅田神社  八条村に在り、菅田長安寺と共に祭祀に預かる。式に添下郡と載る」
とあり、添下郡ではなく平群郡に属していたようで、日本の神々4(1985)
  「当社の辺りは添下郡ではなく平群郡のうちに含まれるので、当社を式内の菅田神社に比定するには少し問題が残るが、他に有力な比定地を見いだしえない今日では、やはり当社を重視せざるをえない」
という。

  また、大和志料(1914・大正3)には
  「菅田神社  平群村大字八条にあり。一に一夜松天神と称す。延喜式に添下郡菅田神社とある即ち此。祭神詳かならず。
   姓氏録に菅田首天斯麻比止都命之後也と見ゆ、菅田氏の祖を祭れるものか。後考を俟つ。
   筒井諸記に当社及び近傍の地理の図説を載せて参考に供す」
として、右の略図(筒井諸記所載菅田神社近傍地図)を載せている。

 この略図によれば、八条天神社(A)と書かれた当社(現鎮座地に相当)の南方、宮堂集落の北方に“菅田神社とも山伏塚とも云”(B)と記した塚が描かれ、
 また西大寺田園目録(1290・鎌倉後期)に記す菅田の地がこの山伏塚の所在地にあたることから、当社はこの山伏塚(行者塚ともいう)付近にあったと推測されるという(日本の神々)

 その山伏塚の所在地について、式内社調査報告(1982)には、
  「近鉄線の南の池の内にあり、行者塚とも呼ばれている。現在、古社の跡は不明であるが、一応、近鉄天理線と佐保川が交差する辺りと考えられる」
とあるが、今、佐保川以東・近鉄線の南北に広がる田畑の中にそれらしい塚は見当たらず(小さな茂みは点在するが、塚とは見えない)、たまたまお会いした年配の方に訪ねても、「そのようなものは知らない」とのことであった。
 探し方が足りないのかもしれないが、既に消滅している可能性が強い(社務所不在のため、神社では聞けなかった)

 当社が現在地へ遷座した時期は不詳だが、大永3年(1523・室町末期-戦国時代)の金福寺屋敷寄進状との古文書に、「金福寺が現菅田神社の地に屋敷地を寄進された」とあることから、寺は、この年あるいはその直後に移転したと思われ、
 また、室町以降の当社が金福寺の鎮守社としてその北側にあったことから、この金福寺の移転と一緒に遷座したのではないかという。
 この金福寺は、明治の神仏分離の際、八条集落の東北の端に移され(今、ネット地図に金福寺との寺はみえない)、当社のみが現地に残ったといわれ、今、神社の南一帯が田畑となっているのは、ここに寺の堂舎があったことを示唆するという(式内社調査報告・1982)

 当社に対する神階授与記録等はなく、創建年次・沿革などは推測できないが、資料によれば、
 ・八条町に残る宮座文書(鎌倉時代)として、金福寺堂別当職寄進状(1506)・一夜松宮本之日記(1519)・金福寺屋敷寄進状(1523)などがあること
 ・境内にある元和5年(1619)の社殿再興を記念しい立てられた石灯籠に、
  「奉再興抑□□大和国平群郡一夜松金琳宮御前之以石灯籠両郡奉賀□ 原話五年八月廿五日 傳助曰」とあること
などから、中近世の頃には一夜松金琳宮と称していたことが確かめられるという(古い石灯籠の刻文は摩耗激しく確認不能)

※祭神
 当社の祭神については、
 ・天目一箇命(アメノマヒトツ)--当社・神祇志料(1873)
 ・菅田比古命--神社覈録(1870)
 ・祭神不詳(菅田氏の祖か)--大和志料(1914)
との説がある。

 天目一箇命とは、アマテラスとスサノオの誓約(ウケヒ)によって生まれた五男神の一・天津彦根命の御子で(天之御影命ともいう)
 書紀神代紀(天孫降臨段・一書2)に、
  「(タカミムスヒの命により、国譲りに応じた大己貴神を天太玉命が祀ったとき)・・・天目一箇神を作金者(カナタクミ・鍛冶職)とす」
 古語拾遺(807・平安初期・忌部氏系史書)には
  「天太玉命の率たる神の名は、・・・天目一箇命(筑紫・伊勢両国の忌部が租なり)と曰す」(氏祖系譜段)
  「天目一箇神をして雑(クサグサ)の刀(タチ)・斧及び鉄(クロガネ)の鐸(サナギ)を作らしむ」(日神の石窟幽居段)
とあり、金属器製造に関わる神、即ち鍛冶の神という。

 天目一箇の“目一箇”とは片目(隻眼)を意味する。
 古代にあって、岩石から金属を生み出す技をもった鍛冶職(タタラ鍛冶)は“神に仕える巫覡”、あるいは“神そのもの”として畏れられ且つ崇敬されたというが、タタラ鍛冶職の人は、永年、炉内で燃える火の色を片目で見守り続けるために(火の色によって砂鉄の投入量や吹き込む空気の強弱を判断したという)、その目を痛め失明する(片目となる)ことが多かったといわれ、彼らの守護神である鍛冶の神が片目(目一箇)の神とされるのは、それを象徴するものだといえる。

 神社覈録がいう菅田比古命とは、当社の祭祀氏族・菅田氏の祖神と思われ、菅田氏とは新撰姓氏録に
  「山城国神別(天神)  菅田首  天久斯麻比止都命之後也」
とある氏族で、金属精錬・鍛冶職に関係した氏族らしいが詳細は不明。
 なお、天久斯麻比止都命(アメノクシマヒトツ)とは天目一箇命と異名同神。

 これからみると、天目一箇命・菅田比古命共に菅田氏の祖神にあたることから、当社は菅田氏がその祖神を祀った社であって、どちらの神を祭神としても同じことで、菅田比古命とは天目一箇命の別名ともとれる。

※社殿等

 森の東南端に参道入口があるが、鳥居はなく両側に石灯籠一対が立つのみ(右写真)
 
 森の中の参道を北上した先が境内で、正面に拝殿(切妻造割拝殿・瓦葺)が建ち、その前に形鋼で造られた鳥居らしきものが立っている。、

 拝殿の後ろ一段と高くなって、瑞垣に囲まれた中に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が、いずれも南面して鎮座する。

菅田神社・拝殿 
 
同・本殿正面
 
同・本殿側面

◎末社
 本殿域の左に末社・厳島神社が、本殿域の右手に同・春日神社と皇大神宮が鎮座するが、これらの鎮座由緒・年代等は不明。

 
末社・厳島神社
 
末社・春日神社
 
末社・皇大神宮

◎一夜松伝承

 割拝殿の通路に枯れた古木の一部が置かれ、傍らに
  「奉納 一夜松 幹表皮部分 平成14年12月吉日
とある。 

 一夜松伝承とは、当社を一夜松天神と呼ぶ由縁で、冒頭に記すように、美しい女神が当地に鎮座したところ、一夜にして松林となったというものだが、
 式内社調査報告によれば、この枯木について
  「祭神天女一箇神が高天原から降臨坐しましたときに、この地は一夜にして松山となる。よってこの地を古来一夜松山といふ。
 この枯木は、今からおよそ500年前の永正年間(1504--21)に台風で倒れた先代の一夜松の跡継ぎとして植えられたもので、伝説にある山辺郡匂田村の修験行者小雅之祐が、木の枝の茂みに身を隠して駒野の追跡を逃れたという古木といふ。云々」
との伝承があるという。

一夜松 

 これらは、ご神木とも目せられる松の大木を神聖化するために作られた伝承だろうが、それを継承するものとして、今、境内左手に松の若木が植えられており、傍らの立て札には、「新一夜松 初宮詣記念植樹 菅田某 平成17年9月」とある。

トップページへ戻る