トップページへ戻る

菅田比売神社
奈良県大和郡山市筒井町
祭神--伊豆能売神
                                                                2014.03.04参詣

 延喜式神名帳に、『大和国添下郡 菅田比売神社二座 鍬靱』とある式内社。

 近鉄橿原線・筒井駅の東北東約400m、戦国時代の古城・筒井城跡に鎮座する。周囲は住宅密集地。

※由緒
 当社の創建由緒・年代等は不明。

  当社拝殿に置かれていたパンフレット(以下、冊子という)には、
  「歴史  往事は、現在の筒井小学校東側、大字篠田北篠田にあり、信田宮と称した。
 伊豆能売神(イズノメ)は、天照大神(伊勢神宮)のお姉様で、穢身・穢家の災難を清浄し給ふ神様として、筒井村を中心に57カ村の敬神として祭られていたが、紀元2240年(西暦1580、戦国末期)、正親町天皇(オオギマチ、第106代天皇・1557--86)の御代、天正8年(1580)戦国時代の兵戦にて焼失、後に水害等にあっており、字北垣内・八幡神社に合併せられ、大正元年、県社寺課より筒井村の敬神として尊ばれ、現在に至る」
とある。

 右写真--拝殿に置かれていたもの。
  信田宮 天正8年迄のイメージ図、場所は筒井小学校東側、篠田小字北篠田に有り、とある。
  現在の境内社殿配置をもとに描かれたようだが、今、図左側の鳥居はない。

 江戸中期の地誌・大和志(1734)には
  「菅田比売神社二座 鍬靱 筒井村に在り、今、信田宮と云う」
とあり、式内社調査報告(1985・以下「調査報告」という)
  「菅田比売神社とみられている当社の前身は、古く筒井と丹後庄との間にあって、篠田社(信田社)と称していた。
 現在の鎮座地は、もともと八幡神社のあったところで、往古の社地からは、江戸時代末期ごろに移転、合祀されたようである」
とある。

 大和志がいう、「筒井村に在り、いま信田宮という」とは、その大字篠田(信田)の地名からくる社名と思われるが、その信田宮を式内・菅田比売神社に比定した根拠は不明。

 当社は、その社名からみて、当社の南・大和郡山市八条町にある菅田神社(当社の南約2km)と対となる社で、菅田神社・菅田比売神社の菅田とは八条町付近の古地名・菅田からくるものと推測される。
 その古地名・菅田の範囲について調査報告は、大和郡山市史をもとに、中世の菅田北庄・同南庄などの荘園は、今の大和郡山市八条町・宮堂町、天理市の二階堂北菅田町・二階堂南菅田町あたり(いずれも当地の東南方で、佐保川の対岸の地域)に展開していたと考えられるとし、
  「大和志以降、信田宮を菅田比咩神社としているが、その根拠もはっきりせず、果たして、この筒井までをも菅田と称していたか、ということについては、今なお問題が残る」
として、筒井村(小字篠田)にあった信田宮を式内・菅田比売神社に比定することに疑問を呈している。


 当社現在の鎮座地は、室町時代に筒井氏一族(戦国末の梟雄・筒井順慶の一族)が居城とした筒井城の主郭跡の一画(東寄り)を占めているが、筒井城に関するネット資料には、
  「かつての主郭跡の一画に菅田比売神社が建ち、神社南側にわずかながら土塁が確認できる。
   神社は筒井城が機能していた当時から存在し、現在地から位置を変えずに鎮座している」
とある(今、当社の周りには家が建てこんでおり、城跡の面影は境内東側の堀跡らしい水路のみ)

 この記述は、大和志などがいう旧社地の位置と食い違うが、調査報告が、「当鎮座地はもともと八幡神社のあったところで・・・」ということから、筒井城当時からの神社とは、筒井氏が武家の守護神として祀った八幡宮かと思われ、とすれば、当社が「江戸末期頃に旧社地から遷座し八幡神社を合祀したらしい」という調査報告の記述と整合する。
 なお、筒井城は天正8年(1580)織田信長によって取り壊されたという。

 当社が延喜式神名帳に列することから10世紀初頭にあったことは確かだが、当社に対する神階授与などの記録はなく、その創建年次を示唆する史料はない。


※祭神
 当社の祭神について、参拝のしおりには『伊豆能売神』(イズノメ)とあり、一般には、社名の菅田比売とはこの神を指すとしているが、他にも諸説があり、式内社調査報告によれば、
 ・伊豆能売神(一座不詳)--当社・神社明細帳(明治12年・1879)
 ・管忍比咩神(読み不明、道中貴-チヌシノムチ・宗像三女神-か、という)神名帳考証(1733)--比定根拠不明
 ・天乃目一命(アメノマヒトツ)の比売神(一座不詳)--神祇志料(1873)
   考証--古事記・姓氏録を按ずるに、天津彦根命の裔往々にして大和に住む者あり、且つ下(南)に菅田神社あるを思ふに、菅田比売は蓋し菅田首の祖神・天乃目一命の比売神を主として、二座を祭れるものならん。然れども明徴なし
 ・菅田比売神・天久斯麻比止都命(アメノクシマヒトツ=アメノマヒトツ)--特選神名帳(1876)
   考証--姓氏録に菅田首は天久斯麻比止都命之後也とみえ、又下に菅田神社あり、祭神菅田比古命とあるを以て考ふるに、本社には菅田比売神を主として比古神を合せ祭れるにやあらん。其の比古神は菅田首の祖・天久斯麻比止都命なるべし
 ・八幡神・一座未詳--大和志料
   考証--菅田比売神社二座、長尾氏曰く、筒井村の氏神・八幡宮是なり(但し一座未詳)とあり祭神明らかなり。然るに今之を伊豆能売神とするは拠を見ず。疑くは、管(スガ)を清潔の義にとり付会せしものなるべし、故に取らず
という。
 なお、ネットに見る大和郡山市HPには、天鈿女命(アメノウズメ)とあるが、その根拠は不明。

 伊豆能売神とは、古事記・イザナギの禊祓段に
  「(黄泉の国から帰ったイザナギが筑紫のアワキハラで禊祓いをしたとき)黄泉国の穢れによりて成りし神の名は八十禍津日神(ヤソマガツヒ)・神禍津日神(カムマガツヒ)・大禍津日神、次にその禍(マガ・災厄)を直さむとして成りし神の名は、神直毘神(カムナオビ)・大直毘神・伊豆能売神、併せて三神なり
とある神で、黄泉国で身についた穢れによってもたらされた禍(ワザワイ)を直して清浄化する神という(書紀には神禍津日神・大禍津日神の名はあるが伊豆能売神の名はない)

 その伊豆能売神を当社の祭神とする由緒は不詳。大和志料がいうように、管(スガ)を清潔(すがすがしい)の意と解し、穢れを祓い清浄な状態に直す神として祀られたのかもしれないが、当社が筒井村の鎮守であったことからみて(現世利益をもたらす神が多い)、そのような抽象的・観念的な神を祀ったとは思えない。

 当社が、一般にいわれるように八条町の菅田神社と対となる神社だとすれば、菅田神社が菅田首の祖神・天乃目一神(=菅田比古神)を祀ることから、当社はその妃神を祀るとみられ、当社は菅田比売神を主祭神とし、併せて祖神・菅田比古神(別称:天乃目一神)を祀ったとするのが順当であろう。

※社殿等
 北面する鳥居を入り、参道を進んだ右側(西側)正面に横長の拝殿(切妻造・瓦葺)が、その奥、一段高くなった区画に本殿(一間社流造・銅板葺)が、いずれも東面して鎮座する。

 本殿の左右(本殿域の四隅)に、境内社(小祠)各2宇がある。右側手前の小祠には八幡社とあるが、当地にあったという八幡宮が主神の座を追われ境内社となったかとも思われるが、詳細不明。
 この八幡宮以外の神社名不明。

 
菅田比売神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・境内社(左側)
 
同・本殿

同・境内社(右側、手前が八幡社)

 境内の石灯籠には八幡宮と刻したものがあり(寛文10年・安永4年銘)、江戸時代の当社が八幡宮であったことを証している。

 境内東南隅に堂舎があり、中に仏像が安置されている。何らの表示なく堂名・仏像名など不明だが、仏像の左手に壺を持つことから薬師像かと思われる。

 また、堂の前に簡素な小堂があり、祖師像が安置されているが、祖師名など不明(花が捧げられていたから、お参りする人があるらしい)

 当社内に祀られる由緒など不明だが、あるいは、嘗ての神宮寺の名残かもしれない。 

トップページへ戻る