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墨 坂 神 社
付--墨坂伝承地
奈良県宇陀市榛原萩原
祭神--天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神
     伊邪那岐神・伊邪那美神・大物主神
                                                       2018.12.05参詣

 近鉄大阪線・榛原駅の東南東約600mに鎮座する。式外社

 榛原駅の南ロータリーから国道370号線(伊勢本街道)沿いに南東方へ進み、宇陀川に突き当たって左折、最初の橋を渡った対岸に鎮座する。町中の道は輻輳していて地図必要。

 なお、表参道は宇陀川の南にそって延び、当社東の国道396号線が宇陀川に突き当たる手前西側に一の鳥居が立っている(今回は此方から入った)

※由緒
 社頭の案内
  「御祭神 墨坂大神
  神武天皇御遷都の砌、大合戦のあった墨坂の地に祭祀されていた大神で、その地名を称号して墨坂大神と申している。
  崇神天皇の御代(西暦380年)国中に疫病が蔓延したため赤盾・赤矛を幣帛として御勅祭せられ、又天武天皇白鳳元年(西暦673年)に大来皇女を使者として奉幣されたと伝えられている。
  文安6年(1450)に墨坂から現在の地に遷座された。(以下略)

 当社公式HP
 「古事記・日本書紀には、崇神天皇9年春のこととして、国中に疫病が蔓延し人民失せて尽きんとするとき、或る夜神人が天皇の夢に立ち、『赤盾八枚・赤鉾八棹をもって墨坂の神を祀り、黒盾八枚・黒鉾八棹をもつて大坂の神を祀れ』とのお告げがあり、天皇はその教えに従って祀られたところ、たちどころに疫病は平癒し、天下安泰となったと伝えられています。

 この墨坂の神は当神社の御祭神で、大坂の神は大坂山口神社(香芝市逢坂)の御祭神ですが、いずれも古代大和への東西の重要な入口として、疫病の侵入を防ぐ神々であることから、当社は日本最古の健康を守る神を祀るともいわれる由緒ある神社で、厄除け・地鎮・方位除け・病気平癒・交通安全などを祈願する参詣者が沢山おられます」

 大和志料(大正3年・1914)
 「日本書紀に、崇神天皇9年春3月天皇夢に神人有り、誨(オシ)へて曰、赤盾八枚赤矛八棹を以て墨坂神に祠れ。古事記に宇陀の墨坂神に赤色の盾矛を祭ると見え、これが鎮祭の由来といふ。
 然るに爾後の史乗及び延喜式に当社のこと所見なし。唯 新抄格勅符抄に、墨坂神一戸〔信乃、天応元年-781-10月14日〕と見ゆれば、当時儼然社殿の設けありて天応中一戸の神封を信濃に有せしなり。
 当社の所在、志・名所絵図等之を記せるも、古来萩原村の天野にあるものを墨坂社と称せり、古老の相伝に本と西峠字天王にありしを中古ここに移社すと云ふ」

 当社祭祀の始まりという崇神9年の夢告について、記紀には
*古事記
 [この天皇の御世に疫病蔓延し人民が尽きようとした。天皇が憂え歎いていると、夢に大物主神が顕れて『オオタタネコをして吾を祭らせよ』との夢告があったので、天皇がオオタタネコを神主として大物主神を祭り、また天つ神・国つ神を祭り]
 ・また宇陀の墨坂神に赤色の楯矛を祭り、また大坂神に黒色の楯矛を祭りまた坂の神・河の神に幣帛を奉られた。
 ・これによりて疫の気は悉く息んで、国中が安平になった。
*書紀
 [5年、国中に疫病多く、民の死亡する者が半分に達した。6年、その状態が続き、流離・反逆する百姓が多かった。
 7年、天皇が占われると、夢に大物主神が現れて、「わが子・オオタタネコに吾を祀らせよ」とのお告げがあったので、茅渟県の陶邑にいたオオタタネコを召し出して、これを神主として大物主神を三輪山に祀り、別に八百万の神々を祀ったところ疫病は収まり、国中は鎮まり、五穀も実った]

 ・9年春3月甲子の朔戌寅に、天皇の夢に神人まして、誨へて曰はく、「赤盾八枚・赤矛八竿を以て、墨坂神を祠れ、亦黒盾八枚・黒矛八竿を以て大坂神を祠れ」とのたまふ。
 ・4月の甲午の朔己酉に、夢の教のままに墨坂神・大坂神を祭りたまふ。
とあり、
 古事記によれば、大物主神や墨坂・大坂両神を祀ることで疫病が収まったとあるが、そこに墨坂・大坂両神を祀れとの夢告があったとはなく、
 書紀では、夢告によるとはいうものの、それは疫病終息2年後の出来事であって、疫病終息とは直結していない。

 これからみると、当社HPは記紀両書の記述をつきまぜて作られたものだろうが、4世紀とされる崇神天皇の御世に社を設けての神マツリがなされていたとは思えず、よしんば祭があったとしても、それは神籬を設けての神マツリと思われ(そこに赤い楯矛が立てられたか)、これを以て当社の創建とするには疑問がある。


 墨坂の神が坐す墨坂について書紀・神武即位前紀には
 ・9月5日、天皇は宇陀の高倉山に登って国中を眺められた。すると、賊軍・八十梟帥(ヤソタケル)が女坂(メサカ)には女軍(メノイクサ)を置き、男坂(オサカ)には男軍(オノイクサ)を置き、墨坂には“おこし炭”(火を燃やしたらしいが実態不明)をおいていた。女坂・男坂・墨坂の名はこれから起きた。
とあり、また即位4年条に
 ・天皇は「わが皇祖の霊が天から降り眺められて吾を助けてくださった。今、多くの敵はすべて平らげて天下は何事もない。そこで天神を祀って大孝を捧げたい」と詔して、祭の場を鳥見山の中に設け皇祖・高皇産霊尊を祀られた。そこを上小野の榛原・下小野の榛原という。
とあり、
 当社HPには、
 「上小野の榛原が当地墨坂の地であって、現在の宇陀市榛原西峠地区であり、現墨坂神社は、文安6年(1449・室町前期)9月28日に上榛原天神ノ森(榛原西峠)から下榛原天野(現在の宇陀市榛原萩野天野)の地に遷座されたものです」
とある(墨坂伝承地については下記)

◎赤い楯矛
 赤色・朱色とは血の色であり生命の色であるとともに、古代にあっては、播磨国風土記・逸文に、
 「神功皇后が新羅を平定しようと欲して神々に祈ったところ、丹土の神・ニホツヒメが国の神・イワサカヒメに憑いて、『吾を祀れば、霊験ある赤土を出して、新羅を平定しよう』といい、赤土を与えた。 
 皇后は、その赤土を天の逆鉾に塗って船の前後に立て、兵の衣服を赤く染めて船出したところ、前を遮るものもなく新羅に渡りこれを平定した」
とあるように、赤色・丹色には悪霊・邪霊を排除する霊力があるとされ、古墳等でも石室あるいは石棺内に辟邪の色としての朱色が塗られているものが多々みられる。
 崇神天皇が、墨坂の地に赤色の楯矛を立てて神を祀ったというのも、東方から大和へ侵入しようとする悪霊・邪神を、大和と東国との境界である墨坂で遮るためであったろう。

 これについて、榛原町史(1959)には
 ・古代乃至未開社会の色彩、ことに丹の色に関する呪術の信仰の存在することからすれば、黒色は黒霊を意味し、黒色の楯矛を奉ることにより雨を誘足し、赤色の楯矛を奉ることにより流電・雷雨を誘促するの模擬呪術(類感呪術ともいう)と考えることができる
 ・赤黒の楯矛を奉ったというのも、疫病をやめ、水を豊かにし、生産を助ける農業神への祈願の意が強くあるとしなければならない
とある(日本の神々4・2000)

◎創建時期
 当社HPは崇神天皇9年創建とするが、これは神マツリの始まりを御肇国天皇(ハツクニシラス スメラミコト)である崇神に求めた記紀の記述によるものであって、この時期、神籬などを設けての神マツリはあったとしても社殿を設けての神社があったとは思えず、また神階綬叙記録など当社創建時期を示唆する史料もない。
 ただ、神抄格勅符抄に記す大同元年牒(806、奈良時代以降の社寺に対する封戸授与記録)
 ・墨坂神 一戸 信乃(信濃) 天応元年10月14日
とあって、天応元年(781・奈良末期)に神封一戸が与えられているから、8世紀後半(奈良時代後期)にあったことは確かであろうが、そのような古社が延喜式に見えない理由は不明。


※祭神
 社頭の案内には
 「祭神
  ・天御中主神(アメノミナカヌシ) 天地宇宙創造の神
  ・高皇産霊神(タカミムスヒ) 男女産霊の神 生成力を持たれる神
  ・神皇産霊神(カミムスヒ) 生成力を人間の形とした御祖神(ミオヤ)
  ・伊邪那岐神(イザナギ) 国生みと神生みの神
  ・伊邪那美神(イザナミ) 天つ神の命より創造活動の殆どを司り、異界を司る女神
  ・大物主神(オオモノヌシ) 五穀豊穣厄除け国の守護神
 これらの6神を総称して墨坂大神(スミサカノオオカミ、病気平癒・健康の神)と申しあげます」
とある。

 これらの祭神は、天地開闢の時、高天原に成りでた神代七代の神々のうち、最初に成りでた造化三神と、最後に成りでた国造り・神生みの2神に、大和国の守護神・地主神ともいえる三輪の大物主を加えたもので、神武4年条に「上小野の榛原・下小野の榛原に高皇産霊尊を祀った」とあることから(上記)、これを神代七代の神々へと拡大したものかと思われるが、これらの神々を祀る由縁はない。

 今、一般ではほとんど忘れられているが、古く“境界”という観念があった。
 境界とは此方と彼方との境、換言すれば現世と異界(あの世)との境であり、村境・国境・坂・峠・川といった処がそれだと認識され、崇神天皇が神を祀った墨坂・大坂の地も大和国と東西に位置する境界と認識されていたと思われる。
 そこは、人間・物資はもとより神・悪霊邪霊・精霊などあらゆるモノが往来する場であって、疫病・災害・病害虫などもこの境界を越えて侵入してくる悪霊邪霊によって持ちこまれると考えられていた。

 その境界にあって、侵入しようとして異界からやってくる悪霊邪霊を遮ってくれるのが、“塞の神”(サエノカミ)と呼ばれる神で(岐の神-フナトノカミともいう)、当社が、大和国の東の境界である墨坂の地に坐す神に疫病の終息を祈ったことから(古事記)、そこで祀られた墨坂の神とは疫病神等の侵入を遮り排除する塞の神であって、それが何時の頃かに、より著名な造化三神以下の神々へと変えられたのであろう。

◎墨坂伝承地

 当社HPは、「墨坂の地は現在の榛原西峠地区で、神社は、そこにあった天神の森から現在地に遷った」というが、墨坂があったという榛原西峠地区の場所は不詳(今、西峠との地名はない)
 ただ、その候補地として、榛原角柄(ハイバラツノガワラ)付近(西峠交差点西側)・榛原あかね台1丁目付近の2ヶ所がある。

*西峠
 、榛原駅の北をほぼ東西に走る国道165号線の“西峠交差点”(榛原駅の北西約700m)から西へ100mほど進んだ南側(左側)の小山の裾に“西峠案内板”が立ち(右見取り図の左側)
 「西峠  宇陀市榛原角柄
 西峠は萩原からみた呼び名で、古くは墨坂と呼ばれていました。
 古典の坂は多く峠路をさし、トウゲはタムケ(手向)の意、あるいは山の鞍部を指すタワ(垰)・タオリから出て、タワゴエが縮まった語ともいわれています。

付近見取り図

 古来、村境や国境は異境との接点であり、そこには邪霊や悪霊が侵入しやすく、それを防ぐため塞の神が祭られました。坂にも神がいるので旅人は弊を捧げて道中の安全を祈りました。

 墨坂の名は古代の文献にしばしば登場します。その理由として、三輪山を中心とする地域に栄えた大和王権にとって、墨坂は初瀬谷の奥、真東の太陽が昇るところでした。
 また、水の神をはじめとする神々のいます聖地で、王家の後背地として軍事的に重要な入口であり、さらに東方進出の重要な唯一の経路であったことが考えられます。

 古事記の建国説話の中で、宇陀の部分が最も詳細に記され、かつ巧みな戦略・戦闘場面が構成され、さらに8首もの歌謡(久米歌)を配して、量的にも質的にも優れているのは、記紀の編者が宇陀の重要性を意識していたからかと思われます。
                                 紀伊半島交流会伊勢街道分科会 風景街道『伊勢街道』連絡協議会」
とあり、墨坂は大和と東国との境界に位置する要衝であって、そこには坂の神(塞の神=墨坂太神)が坐したという。

 国道・西峠交差点の辺りは坂道の高所(峠の頂上)にあたり、交差点から西へ向かって緩やかな坂道が下り、道の両側には樹木に覆われた低い丘が続き、今も山の鞍部を通る峠道の面影が残っている。
 
案内板は古びたもので、道端の山蔭に西向きに立つため、東(交差点方面)から進む場合は見落とす恐れがある。

 
西峠・案内板
 
西峠交差点(東より西を望む)
(左の小山の先に案内板が立つ)

西峠交差点西側の坂道
(西から東へ向かって緩やかに上っている) 

*墨坂伝承地・石碑
   宇陀市榛原あかね台1丁目
 国道を西峠交差点から東へ約500mほど進んだ処にある小道を南へ少し入った道ばたの石垣の下に、『墨坂伝承地』との石碑が立っている(榛原駅の北約550m、見取り図・右上)。道を南に進むと榛原小学校東側の道へと続く。

 石碑の正面に『墨坂傳稱地』、右側面に『昭和十五年十一月』、左側面に『紀元二千六百年奈良県奉祝会建之』とある。
 側面の刻文からみると、この石碑は昭和15年(1940)に政府主導でおこなわれた神武天皇建国2600年(紀元2600年)記念事業の一環として立てられたものと思われる。

 なお、この地も又、緩やかな坂道の高所にあたり、南の小学校へ向けて緩やかな坂道が下っている。

 
墨坂伝承地・石碑
 
同・立地場所
 
同・坂道
(北から南を望む。右に石碑が立つ)

 この辺りは各所に坂道があり、その何れが墨坂なのかは不詳だが、西峠交差点を含む榛原角柄地区から墨坂伝承碑が立つあかね台にかけての何処かであって、現国道が往古の峠道を拡幅整備したものと思われることから、西峠の辺りが有力な候補地であろう。


※社殿等
 国道396号線が宇陀川に突き当たる手前の左てに朱塗りの一の鳥居が立ち(神額には墨坂社とある)、宇陀川左岸に沿って表参道が延びる。その先に立つ二の鳥居を過ぎて、緩やかな坂道を上ると当社正面の大鳥居前に至る。


墨坂神社・社頭(左に二の鳥居がみえる) 
 
同・一の鳥居
 
同・二の鳥居

 参道を上りきった低い石垣の上に立つ朱塗りの大鳥居(四脚鳥居)をくぐって境内に入る。
 広い境内正面の石垣の上に、左右に延びるの回廊がついた楼門があり、楼門を入って社殿域に入る。

 当社社殿について、拝殿・向拝部に掲示されている「墨坂たより」に、
 「神殿と本殿の間は、堀と高い石垣で区切られている。石垣の上には朱塗りの回廊があり、中央に楼門がある。
 石段を登り切ると素木造りの拝殿となり、その奥に朱塗りも鮮やかな本殿が目に入る。
 拝殿と本殿の間にも低い石段があり、本殿との間に瑞籬をめぐらしている」
とある(一部省略)

 
墨坂神社・正面大鳥居
 
同・社殿域正面(左右に回廊が延びる)
 
同 左

 楼門を入ってすぐに拝殿が迫っている。
 当社拝殿は、通常のそれとは異なり、拝殿前面の向拝部が長くつきだし別建物となったような構造で、一般の参詣者は此処までしか入れない。
 拝殿本体は、向拝右手の境内社前から一部がみえるだけで、その建築様式などは不明。

 
拝殿・向拝部正面
 
拝殿(中央白壁の社殿、左は向拝部)
 
拝殿・内陣

 拝殿後ろの石垣の上に本殿が鎮座するが、拝殿側より実見することはできない。
 ただ、本殿右の大山祇神社境内から白壁越しに本殿の一部をみることができる。

 上記墨坂たよりには
 「本殿は朱塗りで、屋根は檜皮葺きである。
 この本殿は奈良・春日大社から下されたもので、国宝春日大社の一代前の社殿で、江戸時代末の元禄元年(1864)に移されてきている」
とある。 

 
本殿(大山祇社横より)
 
本殿(墨坂たよりより転写)

◎境内社
 境内社として小祠11社が鎮座している。
 *龍王宮--祭神:罔象女神(ミズハノメ・水神)
  本殿の向かって左奥に鎮座する小祠。
  墨坂神社正面回廊の向かって左端にある石段上に朱塗りの鳥居があり、その奥に拝所が、その奥、小さな池を隔てて小祠があり、中には注連縄を張った小さな磐座が鎮座しているが、遠目のため詳細は不明。
  
  拝所の傍らに立つ案内石碑には
  「御神水  波動水 “奇跡の水”
   効能  当社5万パワー(水道水の100倍)
   御神水“波動水”は、水の神様の御神徳を頂いたものです。
   各家庭の御神前又は御先祖様にお供えください。又通常の生活において、この御神水はあなたの肉体をはじめ、神霊を清めて頂く霊験髙々なお水であります。
   波動カードを用いて体の毒素を出し、墨坂大神様の御神徳である健康へと導いて頂く事ができる神水でもあります」
とあり、当神水の霊験が記されており、横に神水を頂く蛇口が設置されている。
 (波動水--水の中に“何かがある”といわれ、これを飲むだけで健康になるという摩訶不思議な水。科学的根拠なし)

 
龍王宮への階段
 
龍王宮・拝所
 
同・社殿

 *大山祇神社--祭神:大山祇神(オオヤマツミ・山の神) 
  本殿の向かって右、本殿域を囲う白塀の外にある小社。
  境内八社の右手背後に沿って当社への参道が延び、素木鳥居の奥に小祠が鎮座し、その右奥に「山之神」と刻した細長い石碑が立つ。
  昭和56年(1981)石山(場所不明)から合祀という。

 
大山祇神社・鳥居
 
同・社殿
 
山之神・石碑

 *祓戸社--祭神:瀬織津姫神(セオリツヒメ)・速開都姫神(ハヤアキツヒメ)
          ・気吹戸主神(イブキドヌシ)・速佐須良姫神(ハヤサスラヒメ)
   大鳥居左の参道脇にある小社
   朱塗りの鳥居の奥に小祠が鎮座する。

   当社祭神4座は、延喜式の「六月晦大祓祝詞」にみえる神で、
   知らず知らずのうちに身についた穢れを祓い浄めて、俗界から大海へ、
   最後には根の国に追い祓ってくれるとある。

 
 

祓戸神社

 拝殿向拝の右手の横長の覆屋の中に「境内八社」が鎮座している(社殿は全て同形)。 
 左(北)から
 *天神社--祭神:天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神(造化三神) 明治41年西峠堂ノ上より合祀
 *市杵島社--祭神:市杵島姫神
 *菅原社--祭神:菅原道真公
 *恵比須社--祭神:少彦名神(スクナヒコナ・医療の神) えびす神を少彦名とするのは珍しい
 *金刀比羅社--祭神:大物主神 明治41年萩原不動堂から合祀
 *愛宕神社--祭神:火産霊神(ホムスビ・火の神) 明治41年萩原不動堂から合祀
 *八幡神社--祭神:誉田別神(ホムタワケ・応神天皇)
 *稲荷神社--祭神:倉稻魂神(ウカノミタマ・穀物の神) 明治10年萩原稲荷山から合祀
 すべて、明治末の神社統合令によって、近傍の小社を遷したものという。

 
:境内八社(部分)
 
恵比須社
 
八幡社

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