トップページへ戻る

葛城の式内社/高鴨神社
(高鴨阿治須岐詫彦根命神社)
奈良県御所市鴨神
祭神--阿遅志貴高日子根命(迦毛之大御神)・事代主命
・阿治須岐建速雄命・下照姫命・天稚彦命

                                                        2012.12.05参詣

 延喜式神名帳に、『大和国葛上郡 高鴨阿治須岐詫彦根命神社四座 並名神大 月次相嘗新嘗』とある式内社だが、神名帳以外の古史料では高鴨神社と記されている。略称かとも思われるが、詳細は不詳。

 近鉄御所線・近鉄御所駅の南約6km強、県道30号線(葛城の道)東側の森(古墳ともいうが確証はない)の中に鎮座する。一の鳥居に隣接して葛城の道・歴史文化館がある。

※由緒
 当社配付の小冊子「高鴨神社」から、由緒にかかわると思われる箇所を抄出すれば、
 「高鴨神社は大和平野の西側に位置し、大阪府との県境である金剛山の山麓・標高300m辺り、大和平野が一望できる場所に鎮座しています。
 この地は古代の豪族・鴨族発祥の地で、鴨族は山を支配し、薬草・天体観測による暦・製鉄、農耕技術・馬術にすぐれ、弥生中期後半、鴨族の一部はこの丘陵から大和平野の西南端、今の御所市に移り、葛城川の岸辺に鴨都波神社を祀って水稲生活をはじめました、また東持田の地に移った一族も葛城御歳神社を中心に水稲生活に入りました。その為、一般に本社を上鴨社、御歳神社を中鴨社、鴨都波神社を下鴨社と呼ぶようになりました。
 近年の考古学調査では、この辺りには縄文晩期より集落が存在したことが解っており、当神社北方には巨大祭祀施設の極楽寺ヒビキ遺跡(5世紀後半の豪族居館遺跡ともいう)や南郷遺跡群(5世紀以降の周濠遺跡)が広がっております。
 当神社の祭祀の起源は証らかではありませんが、少なくとも弥生中期(約2000年前)から行われており、日本最古の神社の一つであります。
 大和朝廷が成立する以前、大和には倭国(ヤマトノクニ)と葛城国(カヅラキノクニ)が存在しており、当神社は葛城国一ノ宮でありました
 また、高鴨神社は全国加茂(鴨・賀茂)社の元宮であり、当神社主祭神・迦毛大御神を祀る神社は、北は青森県から南は鹿児島県まで全国に約300社あります」
とある。

 当社の祭祀氏族・鴨氏(賀茂氏・加茂氏)とは、古く、古墳時代(それ以前からともいう)から奈良盆地西南部(現葛城山・金剛山東麓一帯)・葛城の地に盤踞していたとされる豪族だが、その実態はよくわからない。

 賀茂氏といえば、山城国風土記(逸文・713頃)にいう賀茂社(現上賀茂神社・下鴨神社)の丹塗矢説話が知られているが、そこには
 「日向の曾の峯に天降った神・賀茂建角身命(カモタケツノミ)は、神武天皇の先導として御前にお立ちになって、大倭の葛木山の峰に宿っておいでになり、そこからしだいに移動し、山城国の岡田の賀茂に至り、山代河にしたがって下り、葛野河と賀茂河とが合流するところにおいでになり、云々(以下、丹塗矢説話に続く)(東洋文庫版)
とあり、“カモタケツノミなる神が東征する神武を日向から先導して葛城山(現葛城山・金剛山を併せた古称)に至り、そこから山城国に移動した”という。このカモタケツノミが山城の上賀茂神社・下鴨神社を奉斎する賀茂氏の始祖。

 しかし、新撰姓氏禄(815)によれば、賀茂氏には
 ①山城国神別(天神)--以下「山城賀茂氏」という
  ・賀茂県主(カモアガタヌシ) 神魂命(カミムスヒ)の孫・武津之身命(タケツノミ)の後也
  ・鴨県主  賀茂県主同祖 神武天皇が中洲(ナカツクニ-大和)に向かわれたとき、山中嶮絶にして跋渉するに路を失う。
              この時神魂命(カミムスヒ)の孫・鴨建津之身命(カモタケツノミ)が大烏(八咫烏)と化して飛びかけり導き奉る。
              天皇その功を嘉み厚く褒賞せり、天八咫烏(アメノヤタカラス)の号は此より始まる。
 ②大和国神別(地祇)--以下「葛城鴨氏」という
  ・賀茂朝臣(アソン) 大神朝臣(オオミワアソン)同祖 大国主神の後也 
              大田田祢子命(オオタタネコ)の孫・大賀茂津美命(カモツミ)、賀茂神社を齋き奉る。よって姓を賀茂と負へり。
 ③左京皇別
  ・鴨県主 開化天皇(第9代)の皇子・彦坐命(ヒコイマス、10代崇神天皇の異母弟)の後也
と、大きく3系統があったという。

 このうち①②の賀茂氏を比較すれば
 ・山城賀茂氏 祖神:カモタケツノミ--天神(アマツカミ) 姓:県主 →上賀茂神社にかかわる賀茂氏
 ・葛城鴨氏   祖神:カモツミ--地祇(クニツカミ)     姓:朝臣(元は君・キミ →当社にかかわる鴨氏
との違いがあり、また、令義解(833・大宝令・養老令の勅撰解説書)には、天神社・地祇社について
 「天神とは伊勢・山城鴨・住吉・出雲国造が斎く神等是ぞ、
  地祇とは大神(オオミワ)・大倭・葛城鴨・出雲大汝神等の類是ぞ」
と記しており、9世紀の頃には、両氏は同じカモを名乗るものの異なる氏族と認識されていたらしい。

 しかし、山城国風土記になかで、祖神・カモタケツノミが葛城→岡田(京都府木津川市)→大和賀茂(現京都市北区上賀茂)と移動していることから、賀茂氏の本貫は葛城とするのが一般の理解で、
 ・葛城鴨氏が本流で、その一部が別れて山城国へ移動し山城賀茂氏と称した(5世紀後期頃か、風土記の記述はこれを窺わせる)
 ・平安遷都以降、山城賀茂氏が奉斎する賀茂神社(現上賀茂神社)が王城守護の神社として皇室の尊崇をうけるようになったことから、その勢力は葛城鴨氏を圧倒するようになった(この頃、カモタケツノミを天津神であるタカミムスヒと結んだのかもしれない)
という。

 これらのことからみて、姓氏禄編纂当時(9世紀初頭)、当社の祭祀氏族が葛城鴨氏と呼ばれた氏族(あるいはその前身)であったことは確かといえる。
 ただ、この葛城鴨氏が出雲系であった確証はなく、葛城地方の出自とするのが妥当とおもわれる。記紀編纂後、各氏族が伝承してきた系譜では朝廷との結びつきが薄れるとして(俗にいえば、出世できない)、系譜を変更して、その祖神を記紀に記す皇族・天神あるいは地祇に求めた傾向をうけて、地祇の代表であるオオクニヌシに結びつけたのかもしれない。

 小冊子は、当社の祭祀が弥生中期頃(紀元前後)に始まるというが、
 ・各地の弥生遺跡からみて、その頃に何らかの神マツリが行われていた痕跡が、また、弥生中期頃と推定される神殿址(高床式大型建物の柱穴・柱材)が出土している(曾根池上遺跡・大阪府和泉市)が、管見のかぎりでは、当地付近の遺跡からそのような痕跡あるいは大型建物跡は報告されていない
 ・当社近傍から出土した遺跡から、弥生中期頃から、当地一帯に人々が住んでいたのは事実だが、それが鴨氏としてまとまっていたかどうかは不明である
ことから、弥生中期創建というには疑問がある。
 ただ、当地一帯に勢力を有していた葛城氏が5世紀末(雄略朝、古墳中期)に滅亡していることからみて、それと通婚するなど好(ヨシミ)を通じていたとされる鴨氏は、遅くとも古墳時代の頃(4・5世紀)には当地に居住していたとみてよく、また、山城賀茂氏の山城進出は5世紀末から6世紀始め頃ということからみて、当社の創建はそれ以前かと推測される。

 なお、当社の正史上での初見は、三代実録(901撰上)・清和天皇・貞観元年(859)正月27日条の
 「大和国・・・従二位勳八等高鴨阿治須岐宅比古尼神・・・に従一位を授ける」
との記録で、ここで従二位から従一位に昇っているから、8世紀あるいはそれ以前からあったことは確かで、
 出雲国風土記(733撰上)の意宇郡条にも
 「賀茂の神戸(カンベ) 所造天下大神命の御子・阿遅須枳高日子命、葛城の賀茂の社に坐す。此の神の神戸(カンベ)なり。故、鴨と云ふ。神亀3年(726)、字を賀茂と改む。即ち正倉有り」
とあり、これを傍証するものとして出雲国計会帳(正倉院所蔵)・天平6年(734)11月14日条に、
 「一、賀茂に進上(タテマツ)る神税 絲壱佰斤に交易する事
  一、同日鹿皮四拾張を進上る事」
とあり、賀茂の神戸から当社に貢納品が奉られている。
 (神戸--特定の神社の祭祀を維持するために、その神社に所属した人々を指し、そこから出す租庸調は全てその神社の造営や供神料に充てられたという)

※祭神
 小冊子によれば、今の祭神は次のようになっている。
 ・主祭神--阿遅志貴高日子根命(アジシキタカヒコネ、味耜高彦根命・阿遅耜高日子根命-アジスキタカヒコネ-ともいう)
 
・配祀神--事代主命(コトシロヌシ)
         阿治須岐速雄命(アジスキハヤオ)
         下照姫命(シタテルヒメ)・天稚彦命(アメノワカヒコ)
 神名は5座となっているが、シタテルヒメ・アメノワカヒコの夫婦神を一座とみて、神名帳の4座に合わせたものであろう。

 これらの神々の出自について、古事記・大国主の神裔条に
 「大国主命、胸形の奧つ宮に坐す神・多紀理毘売(タキリヒメ、田心姫-タコリヒメ-ともいう、宗像三女神の一)を娶(メト)して生みし子は、アジスキタカヒコネ神
 次に妹高比売命(タカヒメ)、亦の名はシタテルヒメ。 このアジスキタカヒコネ神は、今、迦毛大御神(カモノオオミカミ)といふぞ。
 また神屋楯比売(カムヤタテヒメ)を娶して生みし子は、コトシロヌシ神。・・・」
とあり、アジスキタカヒコネ・コトシロヌシ・シタテルヒメはオオクニヌシ(オオナムチ)の御子神という。

 また、出雲国造神賀詞(イズモクニノミヤツコカンヨゴト、出雲国造が新任したとき、朝廷に参向して奏聞する詞、続日本紀・元正天皇霊亀2年-716-が正史上での初見)には、
 「大穴持命の申し給わく、皇御孫の命の静まり坐さむ大倭の国と申して、己命の和魂(ニギタマ)を八咫の鏡に取り託けて、倭のオオモノヌシと名を称(タタ)へて、大御和の神奈備(三輪山)に坐(イマサ)せ、己命の御子・アジスキタカヒコネ命の御魂を葛木の鴨の神奈備(当社に比定)に坐せ、コトシロヌシ命の御魂を宇奈提(ウナテ、式内・高市御県坐鴨事代主神社に比定-橿原市)に坐せ、賀夜奈流美命(シタテルヒメの別名)の御魂を春日の神奈備(式内・加夜奈留美神社に比定-明日香村)に坐せて、皇御孫の近き守神と貢(タテマツ)り置きて、八百丹杵築宮(現出雲大社)に静まり坐しき」
と、オオクニヌシが自分の和魂(ニギタマ)を三輪山に、御子神3柱を大和国の周りに鎮座させたとあり、ここでアジスキタカヒコを鎮めた“葛木の鴨の神奈備”が当社ということになる。

 *、アジスキタカヒコネは、古事記ではオオクニヌシの御子神という。
 その事蹟としては、記紀両書に、アメノワカヒコの葬儀に際して友人として弔問に赴いたが、アジスキタカヒコネがアメノワカヒコと瓜二つだったことから、遺族等が“ワカヒコが生き返った”として取りすがってきたので、アジスキタカヒコネは“友人だから弔問に来たのに、穢らわしい死者に見立てるのか”と怒って喪屋を切り倒し足で蹴飛ばし、飛び去った(大意)、とあるのみで他には見えない(この説話は、年ごとに死んで復活する穀神信仰に由来するもので、穀神・アメノワカヒコが一旦死んで、アジスキタカヒコネとして復活したことを意味するという)

 一方、出雲国風土記では、意宇郡(賀茂の神戸-上記)の他、楯縫郡(神奈備山)、神門郡(塩冶郷及び高岸郷)、仁多郡(三津郷)に登場し、そのうち、仁多郷三津郷条には
 「大神オオナムチの御子・アジスキタカヒコネ命が、髭が長く伸びるほどになっても、まだ昼も夜も泣いてばかりで言葉もしゃべれなかった。その時、御祖の大神が、御子を船に乗せて沢山の島々を連れめぐって心を楽しませようとされたが、泣き止まなかった。大神が「御子が泣くわけをお教えください」と夢でのお告げを祈願なさったところ、その世の夢に、御子が口をきくようになったとご覧になった。その時、御子は「御津」と申された。・・・故に三津と云ふ」
との地名説話があり(神門郡高岸郷条にもほぼ同種の説話がある)、そこにはアジスキタカヒコネを祀る“三津の社”(現三澤神社・式内社-仁多郡奥出雲町)があるという。

 これからみると、アジスキタカヒコネは出雲系の神となるが、別名・迦毛大御神というように、その原姿は葛城の土着神とする説が有力。

 アジスキタカヒコネを神名から解釈すれば、土地の開発に威力を発揮する鉄製の鋤を神格化したもので、「立派な(美しい)鋤の、高く輝く日の御子」を意味し、農耕神的神格をもつという。
 その意味では、この神が何処で祀られてもおかしくはないが、葛城の人々(鴨氏)が奉斎した土着神とみるのが順当であろう。

 この神が出雲系とされる理由は不明だが、記紀神話の中で、同じ葛城を出自とするコトシロヌシが、父神・オオクニヌシに代わって国譲りを承諾する神として登場したことから、同じ葛城の神であるアジスキタカヒコネも又オオクニヌシの御子神の中に組み込まれたのではないかともいうが、説得力は弱い
 また、アジスキタカヒコネを奉斎して大和に移ってきた出雲系の人々が祀ったのが当社の始まりともいうが(大和国愛宕郡に出雲郷があったことから、出雲系の人々が移ってきたとの説があるが、確証はない)、それが葛城在地の豪族・鴨氏によって奉斎された理由は説明できない。

 *、コトシロヌシ命とは、アジスキタカヒコネの異母弟で、記紀では、国譲りを迫るタケミカヅチへの回答を、父オオクニヌシから任されて、天神への恭順を宣言して、自らは海中の青柴垣のなかに隠れ去ったという。
 しかし出雲風土記には、この神の名は一切見えず、出雲では知られていなかった神という。その本姿は葛城の土着神で、神意を告げる託宣の神といわれることから、神(オオクニヌシ)の意志を代弁する神として国譲りの場に登場したもので、オオクニヌシの御子神というのは記紀編者の創作ではないかともいう。
 また、コトシロヌシはアジスキタカヒコネの異母弟とはいうものの、アジスキタカヒコネ一家と一緒に祀られることには違和感があり、当社からの分社とされる鴨都波神社の祭神であることから、後世の追加かとも思われる。

 *、アジスキハヤオ命の名は記紀など古史書に見えす、その出自は不明。
 大阪市内に鎮座するアジスキタカヒコネを祀る阿遅速雄神社(都島区放出、式内社)では、アジハヤオはアジスキタカヒコネの御子神という(別稿・「阿遅速雄神社」参照)。当社のアジスキハヤオはアジハヤオと同一神であろうが、当社がどういう由緒から祭神としたのかは不詳。

 *、シタテルヒメとは、アジスキタカヒコと同腹の妹神で、国譲り交渉のために降臨してきたアメノワカヒコの妻。
 アメノワカヒコが返し矢によって死んだとき(下記)、その死を嘆くシタテルヒメの泣き声が高天原まで届いた。
 その葬儀の場に弔問にやってきたアジスキタカヒコネが、死んだアメノワカヒコと間違われたことを怒って喪屋を切り払って飛び去ったとき(上記)、兄神の名を顕す歌をうたった(古事記)、とある
 シタテルヒメの事蹟は、この場面以外には見えないが、何故か、子授け・子育ての神として各地で崇敬されている。
 なお、大阪市東成区に鎮座する比売許曽神社(ヒメコソ)が祭神・シタテルヒメとするように、シタテルヒメは新羅から渡来したヒメコソの女神(一名・アカルヒメ)と同神ともいうが、これには賛否両論があり(否定する説が強いか)、確証はない(別項、「比売許曽神社」参照)

 *、アメノワカヒコとは天津国玉命(アマツクニタマ)の御子。国譲り交渉の使者として高天原から葦原中国に派遣されたが、シタテルヒメを娶って8年経っても復命せず、あげくに、その真意を問うために派遣された使者(雉の鳴女)を天神から授けられた弓矢で射殺してしまう。
 その矢が天まで届き、タカミムスヒが“邪心があればこの矢に当たって死ぬであろう”との呪文をかけて投げかえした矢(返し矢)に当たって死んだという。

 延喜式がいう祭神四座について、諸資料をみると、アジスキタカヒコネを主祭神とする点では一致するものの、残る三座については次のような諸説がある(アジスキタカヒコネ以外の3座のみ記す)
 ①社伝(奈良県神社明細帳・1891、江戸時代からの説という)--シタテルヒメ・アメノワカヒコ・タキリヒメ
 ②出雲国造神賀詞義解(1905)--天御梶日女命(アジスキタカヒコネの后)・多岐津比古命(同じく御子)・塩治比古命(同じく御子)
 ③大神分神類社抄(1960)--アジスキハヤオ・夷守比売命(出自不明、シタテルヒメの別名ともいう)・コトシロヌシ
 ④古事記伝(1798)--他の三座は何れの神を祭るかしらず
 ⑤神祇志料(1871)--三座 祭神は今考ふべき由なし
 ⑥特撰神名牒(1876)--タキリヒメ、此の外にシタテルヒメ・アメノワカヒコを祭る由あれど(①のことか)、疑わしければ取らず
 ⑦奈良県史(1965)--高鴨神(下記)・高龗神(タカオカミ-水神)・大山祇神(オオヤマツミ-山の神)--葛城の土着神を祀るというもの

 これらをみると、アジスキタカヒコネ以外の三座については異論が多く、定説となるものはないが、
 ・アジスキタカヒコネのアジスキは形容詞であって、本名は高日子であり(根=男性を意味する)、これにシタテルヒメの別名・高比売とを加えた一対の兄妹神が本来の祭神であって(兄妹神を一緒に祀る事例は多い)、これに記紀神話の系譜をうけて、縁が深い母神・タキリヒメと妹婿のアメノワカヒコを配したとする説がある

 これは、①の社伝にいう祭神四座を説明したものと思えるが、アジスキタカヒコネを中心に母神・妹神・その婿神という組み合わせは、母神を除き、記紀にみえないアジスキハヤオと異母弟・コトシロヌシを配した今の祭神五座より自然といえる。
 なお、祭神が今の五座となったのは近年になってのことと思われるが、その経緯は不明。

◎高鴨
 祭神・アジスキタカヒコネの前に冠されている“高鴨”が何を意味するのか不詳。
 当地付近に“高宮”(タカミヤ)・“高天”(タカマ)のように“高”とつく地名があることから、高鴨もまた地名とも解され、とすれば、神社名・祭神名は“高鴨に坐すアジスキタカヒコネ命”となる。しかし、当地に高鴨との古地名があったとする資料はみえない。

 一方、続日本紀(797)・淳仁天皇天平宝宇8年(764)11月7日条に、
 「再び高鴨神を大和国葛上郡に祠った。
 高鴨神について法臣(僧位)・円興とその弟の従五位下・賀茂朝臣田守らが次のように言上した。
 昔、雄略天皇が葛城山で猟をされましたとき、老夫があって何時も天皇と獲物を競いあいました。天皇がこれを怒って、その人を土佐国に流しました。これは、私達の先祖が祀っていた神が化身し老夫となったもので、この時、天皇によって放逐されたのです(今、記録を調べても、この事は見えない)。
 ここに於いて、天皇は田守を土佐に派遣して、高鴨の神を迎えて元の場所に祀らせた」
と、賀茂朝臣らが、祖神として奉祀していた高鴨神が雄略天皇により土佐国に放逐されているから、これを元に戻してほしいと請願し、朝廷がこれを許し、賀茂朝臣・田守をして元の地に祀らせたとある。

 また、三代実録(901撰上)・清和天皇貞観元年(859)正月27日条には、
 「大和国・・・従二位勳八等高鴨阿治須岐宅比古尼神・・・正三位高鴨神に並に従一位を授く」
と、アジスキタカヒコネ神と高鴨神とは別神とされている。
(ただ、貞観元年正月条に、同じ鴨族が祀る名神大社である鴨津味波八重事代主神に対する神階叙授の記録が見えず、同社が古く下鴨社と呼ばれていたことから、ここでいう高鴨神とは記録の誤りで、下鴨社の祭神・八重事代主神ではないかともいう)

 これらからみると、アジスキタカヒコネの他に葛城の地主神である高鴨神との神があり、当社は、地主神・高鴨神と賀茂氏の祖神・アジスキタカヒコネを併せ祀ったのが本来の姿で、そこから高鴨阿治須岐託彦根命神社と称したともとれる(ただ、今の当社に高鴨神の痕跡はない)

 しかし、続日本紀の編纂者が、“記録を調べても、この事は見えない”と注記しているように、記紀には
 「雄略天皇が葛城山に狩猟に出かけたとき、葛城山の神・一言主神(ヒトコトヌシ)が現れ、二人は仲良く狩をして楽しんだ」(大意)
との記事はあるが、そこには
 ・雄略天皇が葛城山で出会った神はヒトコトヌシであって高鴨神ではなく、
 ・天皇と神とが仲良く狩を楽しんだとはあるが、獲物を競いあい、怒った天皇がその神を土佐国に放逐したとは記されていない。

 また、釈日本紀(鎌倉末期・13世紀末頃に成立した日本書紀註釈書)・一言主神の項には、“或説に曰く”として、
 「此の時、天皇と神とが獲物を競いあい、神に不遜の言葉があったので、天皇が大いに怒り、神を土佐に移した。
 それを、天平宝宇8年、賀茂朝臣田守等が奏請して、葛城山東下の高宮岡上に迎え鎮め奉った。その和魂は、なお土佐国に留まって、今も祭祀している」
とあり、土佐に流されたのはヒトコトヌシであって高鴨神ではない。

 因みに、土佐に流されたヒトコトヌシが祀られていたのは、延喜式神名帳に「土佐国土佐郷 都佐坐神社(トサニマス) 大」とある土佐国唯一の大社で、同社の社伝によれば、
 「祭神は古くは高鴨神といわれ、元は大和の葛城山に坐していたが、雄略天皇の怒りに触れて都佐国に流され、はじめは幡多郷の賀茂社、そののち土佐郷に移った」
とあり、高知市一宮にある現土佐神社(祭神:アジスキタカヒコネ・ヒトコトヌシ)だという。
 また、土佐国風土記(逸文)には
 「土佐の郷。郡役所から西方四里のところに土佐の高賀茂の大社がある。その神の名を一言主尊とする。その祖ははっきりしない。一説では大穴六道尊(オオアナムヂ=オオクニヌシ)の子、味耜高彦根尊という」
とあり、社伝・風土記を併せ読めば、高鴨神=ヒトコトヌシ=アジスキタカヒコネと解していたともとれる。

 これらからみると、高鴨神とアジスキタカヒコネ・ヒトコトヌシとの間で伝承に混乱があり、その実態は不詳としかいいようがなく、当社の高鴨が地名か神名かは判断できない。ただ、地名とすれば、高鴨の後に“坐”(イマス)とあってしかるべきで、それがないことから神名とみる見解に組したい。

※社殿等
 県道30号線(葛城の道)の東側、歴史文化館脇に立つ一の鳥居(朱塗)を入り、杉並木の参道を進んだ先の石段を上った上に二の鳥居が立ち境内に入る。
 高い石垣上の境内正面に拝殿(三間社入母屋造瓦葺)、その背後の石垣の上、透塀にに囲まれた神域内に本殿が、それぞれ南面して鎮座する。
  本殿--三間社流造・檜皮葺 国指定重要文化財
 小冊子によれば、
  「現在の本殿は、1543年(天文12年、室町時代)に再建されたもので、絢爛たる彫刻、極彩色に彩られた極めて壮麗な社殿であり貴重な建造物として明治35年に特別保護建造物となり、・・・」
とある。大正8~9年に解体修理、昭和30年・54年に屋根葺き替え、平成20~22年にかけて屋根葺き替え・彩色復元

高鴨神社/一の鳥居
高鴨神社・一の鳥居
高鴨神社/参道
同・参道
高鴨神社/拝殿
同・拝殿
高鴨神社/本殿
同・本殿
高鴨神社/本殿全景(資料転写)
同・本殿全景(資料転写)
高鴨神社/社域案内図
同・社域案内図

◎摂社
 西宮--境内への石段下を左へ、山裾の池沿いに伸びる細い参道(地道)を約100mほど進んだ先に鎮座 一間社春日造檜皮葺
   祭神--多紀理毘売命(タギリヒメ)--本社祭神・アジスキタカヒコネの母神、宗像三女神の一
     配祀-- 天御勝姫命(タメノミカヂヒメ)・塩冶彦命(ヤムヤヒコ)・瀧津彦命(タキツヒコ)--出自・神格など不明
 東宮--石段下から右に進んだ小広場に鎮座  三間社流造檜皮葺 県指定文化財
   祭神--天照大御神・天児屋根命(アメノコヤネ)・住吉大神

高鴨神社/摂社・西宮
摂社・西宮
高鴨神社/摂社・西宮社殿
摂社・西宮社殿
高鴨神社/摂社・東宮社殿
摂社・東宮社殿

◎末社
 神域の左右に末社が各8社ずつ鎮座する。鎮座由緒・時期等は不明。
 神域左--西宮への参道沿いに8社が点在(入口近くより)
  ・八幡社(誉田別命) ・一言主社(事代主命) ・猿田彦社(猿田彦命) ・聖社(大物主命) ・稲荷社(宇賀乃御魂命・石段を上った山腹に鎮座)
  ・金刀比羅社(大己貴命) ・八坂社(素盞鳴命) ・牛瀧社(豊岡姫命)
   社殿--いずれも一間社春日造・檜皮葺
 神域右--摂社・東宮の左右に8社が並ぶ
  ・右手--佐味護国社(西南戦争以後の戦没者)--一間社流造・銅板葺
        ・大山祇社(大山祇命) ・春日社(建御雷命) ・雷社(火雷大神) ・細井社(水波能売命)--一間社春日造の小祠
        ・西佐味社(高木大神・闇龗大神・高龗大神・十二勝軍大神)--一間社流造・銅板葺
  ・左手--市杵島姫社(市杵島姫)--一間社春日造・銅板葺
 なお、一の鳥居脇(西側)にも払戸社(大直日命・神直日命・伊豆能売命・底津綿津見神)が鎮座する

高鴨神社/末社・八幡社
末社・八幡社
高鴨神社/末社・一言主社
末社・一言主社
高鴨神社/末社群
末社・(左より)
佐味護国社・大山祇社・春日社
雷社・細井社・西佐味神社
高鴨神社/市杵島比売社
末社・市杵島姫社

主な参考図書--式内社調査報告(1982)・日本の神々(2000)・奈良県史(1989)・御所市史(1965)・神々と天皇の間(1970)
            ・葛城と古代国家(2000)・古代葛城とヤマト政権(2003)

トップページへ戻る