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葛城の式内社/高天彦神社
奈良県御所市高天
祭神−−高皇産霊尊
                                                        2012.12.05参詣

 延喜式神名帳(927撰上)に、『大和国葛上郡 高天彦神社 名神大 月次相嘗新嘗』とある名神大社。社名は“タカマヒコ”と読む。

 近鉄御所線の終点・近鉄御所駅の南南東約6km強、金剛山(H=1125m)の東側山腹に張り出したテラス状台地の西寄りに鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる案内には、
 「天照大神の子の、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)に本社御祭神の娘、栲幡千々姫(タクハタチヂヒメ)が嫁ぎ、御子の瓊瓊杵尊(ニニギのミコト)が高天原から降臨される。その神話にいう高天原(タカマガハラ)がこの台地である。
 御祭神を祖神とした葛城族は、大和朝廷に先行する葛城王朝を築き、亡びた後も平群(ヘグリ)・巨勢(コセ)・蘇我の豪族として栄えた。
 延喜の制では、名神大社に列し、月次・相嘗・新嘗には、官弊に預かってきた神社である」
とあり、
 また、当社配付のパンフレットには、由緒として
 「本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神・高皇産霊尊(タカミムスヒ)を奉斎する名社であります。
 神話では、天照大神の御子・天忍穂耳尊に、本社祭神の娘の栲幡千々比売命が嫁がれ、その間にお生まれになった瓊瓊杵尊が高天原からこの国土に降臨されます。
 その天孫降臨にあたって、国つ神の征討に赴く武士の派遣から、天孫の降臨命令まで、すべて本社御祭神がお世話申し上げたのであります。
 日本国民が太古から神々の住み給うところと信じていた“高天原”も、実は御祭神の鎮まるこの高天の台地であります。御本殿の背後には美しい円錐形の御神体山が聳えていますが、社殿ができる以前は、この御神体山の聖林に御祭神を鎮め祀っていました。・・・
 葛城族は、弥生時代中期に現在の御所市柏原の地に移って水稲生活をはじめました。そして葛城川流域の鴨族と手を結んで部族国家を形成しました。・・・
 葛城王朝は神武天皇から開化天皇に至る9代で亡びますが、武内宿禰によって復興し、大臣は葛城一族が独占して平群・巨勢・蘇我氏へと世襲されました・・・・」
とあり(現地で入手できなかったので、ネット資料からの抄)、いずれも、当社は古代の豪族・葛城氏がその祖神・タカミムスヒを祀ったとしている。

 葛城とは、奈良盆地西方に南北に連なる二上山(H=517m)から葛城山(H=960m)・金剛山(H-1125m)の東麓一帯(奈良盆地の西南部・現香芝市・大和高田市・御所市付近)を指し、神武紀に
 「高尾張邑(タカオハリムラ)に土蜘蛛がいて、その人態は身丈が短く手足が長かった。皇軍は葛の網を作って覆い捕らえてこれを殺した。そこでその邑を改めて葛城(カヅラキ)とした」
との地名起源伝承があり、神武朝云々は別としても、古くからの地名といえる(葛城は、今カツラギと呼ぶが、カヅラキが古称という)

 この葛城一帯に勢力を張っていたのが葛城氏で、4・5世紀のころには大王家と並び立つ豪族だったというが、その実態はよくわからない。

 上記案内には、「当社祭神(タカミムスヒ)を祖神とした葛城族は・・・」というが、
 日本書紀によれば、葛城氏の系譜は、
  孝元天皇(8代)−−彦大忍信命(ヒコフトオシノマコト)−−屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオタケオノココロ
   −−武内宿禰(タケウチスクネ)−−襲津毘古(ソツヒコ・葛城長江曾都毘古ともいう)−−葦田宿禰−−玉田宿禰−−円(ツブラ)
とある。
 記紀にいう皇統譜によれば、タカミムスヒは天孫・ニニギ命の外祖父(ニニギ命の母・タクハタチヂヒメの父)というから、孝元天皇の後裔という葛城氏がその祖神をタカミムスヒに求めてもおかしくはない。

 ただ、孝元天皇の曾孫とされるタケウチスクネは、景行・成務・仲哀(神功皇后)・応神・仁徳の各天皇に仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物であること(書紀にいう在位年を総計すれば200年を越える)、その祖・孝元天皇も実在が疑問視されている(所謂・欠史9代説)ことなどから、タケウチスクネ以前の系譜の信憑性には疑問がある。
  (葛城氏以外にも、古代豪族・平群氏・巨勢氏・紀氏・蘇我氏などがタケウチスクネを祖先とするが、いずれも後世の付加であろう)

 一般には、葛城氏はタケウチスクネの子・ソツヒコから始まるというが、そのソツヒコは、書紀の神功皇后5年・62年条、応神14年・16年条、仁徳41年条にその名がみえ、特に神功62年条に記す
 「新羅が朝貢しなかったので、ソツヒコを遣わして新羅を討たせた」
との記事に続く注記(百済紀から引用)
 「壬午年(382説が有力)、新羅が日本に朝貢しなかった。日本は沙至比跪(サチヒコ)を遣わして討たせた。・・・」
とあることから、書紀のソツヒコと百済紀がいうサチヒコを同一人物として、ソツヒコが実在した可能性は強いという。
 ただ、ソツヒコの名がタケウチスクネと同じように、神功皇后から仁徳までにわたって見えるることから、実在したとするには疑問もある。

 ソツヒコ以降の人物として、書紀によれば
 ・葦田宿禰−−履中天皇(17代)の妃・黒姫の父(履中元年条)
 ・玉田宿禰−−允恭天皇(19代)から先帝・反正天皇(18代)の殯(モガリ)への奉仕を命じられていたが、地震があった夜、殯の場におらす、葛城の家で酒宴を開いていたことから、天皇によって殺された(允恭5年7月条)
 ・円−−雄略天皇(21代)に大臣として仕えていたが、安康天皇(20代)を暗殺して逃げてきた眉輪王(マヨワオウ・仁徳天皇の孫)を館にかくまい、天皇への引き渡しを拒否したことから、天皇によってマヨワオウらとともに焼き殺された(雄略3年条)
 (当社の北東約1.6kmにある極楽寺ヒビキ遺跡から焼けた痕跡のある大きな建物跡が出土し、ここが雄略天皇によって焼かれた円大臣の館跡ではないかという)
とあり、この円大臣(ツブラノオオオミ)が誅殺されたことで葛城本宗家は滅亡したという(5世紀末頃か)

 一方、神武紀によれば、神武東征に従って功績のあった人物への論功行賞のなかに、
 「また剣根(ツルギネ)という者を葛城国造とした」
とあり、このツルギネ命に葛城の地が与えられたと解され、新撰姓氏禄(815)によれば、その後裔氏族として
 大和国神別(天孫) 葛木忌寸 高御魂命五世孫劔根命之後也
 河内国神別(天孫) 葛木直  高御魂命五世孫劔根命之後也
 和泉国神別(天孫) 荒田直  高御魂命五世孫劔根命之後也
などの氏族がある。
 この葛城国造系の葛木氏と上記の葛城氏との関係は不明。あるいは、葛城本宗家滅亡の後、後に残った葛城氏系の人々が、その系譜を改編し、祖先をタカミムスヒ5世の孫というツルギネ命に求めたのかもしれないが、ツルギネ命は葛城の土着神ともいわれ、その実態は不明。

 以上は記紀を元にした葛城氏の概要だが、これに対して、一般に実在が疑問視されている神武から開化天皇までの9代は、葛城の地に実在した王朝(葛城王朝)で、この王朝と密接にかかわり、王朝を支えたのが古代の葛城氏とする説がある(神々と天皇の間・1970)
 この説は、
 ・初代・神武から6代・孝安天皇までの宮処及び8代・孝元天皇の宮処が、大和平野の西南・葛城山麓から畝傍山にかけての地域にあったこと
 ・神武から孝元天皇までの御陵が、同じく葛城山麓から畝傍山にかけて設けられていること
などを主たる根拠とするものだが、これは記紀の記述を史実とみてのもので、そこには各天皇の宮処・陵墓・后妃名のみで他の事蹟がないことからみて、史実とするのは疑問とする説が有力。
 ただ、弥生から古墳時代初期にかけて、当地一帯に幾つかの氏族集団が割拠していたのは確かなようで、その中から葛城氏が勢力を広げ、初期ヤマト政権のなかで重きをおいていったのであろう。

 当社にかかわる古史料上の記録として、
 ・新抄格勅符抄(平安時代の法制書、9世紀頃の編纂か)−−高天彦神四戸 大和国 宝亀10年(779)
 ・日本後記(841)・大同元年(806)4月条−−大和国葛上郡正四位上高天彦神四時幣帛に預かる 吉野太后の願いによる也
 ・続日本後紀(869)・承和6年(839)5月条−−従三位高天彦神を名神と為す
 ・三代実録(901)・貞観元年(859)正月条−−正三位勳二等高天彦神に従二位を授叙
などがあり、9世紀初頭以前からの古社であるのは確かだが、その創建年次は特定できない。

※祭神
 祭神・高皇産霊神(タカミムスヒ、高魂神・高木神とも記す)とは、記紀に
 ・混沌のなかから最初に成り出た造化三神の一柱−−古事記
    (書紀−−本文にはなく、一書4に「高天原に坐す神3柱の一」として出てくる)
 ・その娘(タクハタチヂヒメ)とアマテラスの御子(アメノオシホミミ)との間に天孫・ニニギ尊が生まれた(天皇家の母方の遠祖)−−記紀
 ・国譲り交渉の使者派遣及び天孫降臨を指令した神−−書紀(本文・一書4・6)
  (上記パンフに「天孫降臨にあたって・・・すべて本社の御祭神がお世話申し上げた」とあるのは、このことを指す。但し、古事記では、すべてアマテラスとする)
とある神で、皇祖神・アマテラスと同格、あるいはアマテラスに先行する最高神ともいわれ、天皇を守護する神として宮中の神祇官西院に祀られる“御巫(ミカンナギ)等祭神八神”の筆頭神として祀られている(この八神のなかにアマテラスは見えない)

 なお、諸資料の中には、祭神・タカミムスヒに市杵島姫命(イチキシマヒメ)・菅原道真を加えて三座とするものもあるが、延喜式での祭神は一座であり、イチキシマヒメ・菅原道真は後世の加上であろう。

◎高天彦
 当社の社名・高天彦の由緒は不明。
 上記パンフは、「高皇産霊尊 別名・高天彦」というが、書紀ではタカミムスヒの別名として高木神(タカキノカミ)の名はあるものの、高天彦の名は見えず、他にもこれを示唆する資料はない。

 高天彦を“高天の男”と解すれば、背後に聳える金剛山が高天山(タカマヤマ)と呼ばれていたことからみて、“高天山に坐す神”であり、高天台地一帯に水の恵みをたれる水神、豊かな稔りをもたらす農耕神(山の神は水神・農耕神でもある)とみるのが妥当で、当社の原姿は、金剛山(あるいは直背の白雲岳)を神が降臨する神奈備山として崇敬した素朴な自然神信仰に発するとみられる。

 今、当社の由緒・祭神名に高天彦の痕跡は見えないが、
 ・上記パンフに、
  「社殿造営以前は、この神体山の聖林に祭神を鎮め祀っていた」
 ・社頭の休憩所に掲げる絵馬(個人寄贈)に記す案内文に
  「当神社は、金剛山中腹の脱塵幽谷の勝地に鎮座し、社殿ができる以前は背後の円錐形の峰(白雲岳)を御神体とされて、
   高天彦大神・高皇産霊大神始め市杵島姫命・菅原道真公を祀っています」
とあることからみると、当社の原姿が山の神・高天彦神を祀る神社であるとの認識があることが示唆され、在地の豪族・葛城氏が奉斎する神としては相応しい。


※社殿等

 一の鳥居の正面、石垣の上(神域)に二の鳥居が立ち、その奥、低い石垣の上に本殿(三間社流造・瓦葺・庇部銅板葺)が東面して建つ。
 境内に拝殿らしき建物はない。式内社調査報告(1982)には、「拝殿−昭和53年改築」とあるが、見たところ、神域内に本殿に相応するだけの拝殿を建てるだけの余地はない。鳥居と神域の間だったのかもしれないが、その痕跡も見当たらない

高天彦神社/一の鳥居
高天彦神社・一の鳥居

同・社殿全景
同・社殿
同・本殿

◎末社
 社殿の右手に、
 ・菅原社(菅原道真) ・御霊社(井上内親王) ・市杵島姫社(市杵島姫命) ・稲荷社 ・護国社
 社殿左手に、
 ・春日社(天児屋根命・武甕槌命・経津主命・比売神、修復工事中) ・八幡社(神功皇后・応神天皇・仲哀天皇・武内宿禰) ・三十八社(葛城三十八皇神)
が並ぶ。

 これらの勧請由緒・時期等は不明だが、次のような資料もある。
 ・御霊社−−日本後記(841編纂)・大同元年(806)4月条に
   「大和国葛上郡正四位上高天彦神四時幣帛に預かる 吉野太后の願いによる」
とあるという。
  吉野太后とは、光仁天皇を呪詛したとして皇子・他戸親王とともに宇智郡(現五條市)に幽閉され、そこで亡くなられた皇后・井上内親王をいう。その皇后と当社の間に何らかの関係があって、末社として祀ったのかもしれないが、詳細は不明(日本の神々4)
 ・八幡社−−所謂八幡神三座に加えて武内宿禰が合祀されている。葛城氏がタケウチスクネの子孫ということで、関係の深い八幡社に合祀したのであろう。
 ・三十八社−−葛城三十八皇神とは金剛山の守護神で、修験道に関係する神々らしいが詳細不明

末社/八幡社
末社・八幡社
末社/稲荷社・市杵島姫社・御霊社
末 社
稲荷社・市杵島姫神社・御霊社
末社/菅原社
末社・菅原社
末社/三十八社
末社・三十八社

※高天原伝承地
 一の鳥居前を左(南)へ少し入った道脇に、『高天原舊蹟地』と刻した石碑が立つ。建立年次不明。

 記紀神話にいう高天原が当地(高天台地)とする伝承にもとずくものだが、その伝承が何時頃にうまれたものかは不明。

 葛城山・金剛山東麓一帯に、崇神朝成立以前に葛城山麓に葛城王朝(神武から開化天皇までの9代)があったという鳥越憲三カ氏は、
 「遠く葛城族が住む背後の山が、ならぶ二上山や葛城山よりも高くそびえているのを見て、その山を高天山(タカマヤマ)と名づけた。そして、その中腹のひろい台地に神々が集い、そこで神遊びが行われると感じたのは、当時の思考ではあたりまえのことであった。そして、その神々のいます広い台地を高天原と呼んだのであった」(神々と天皇の間・1970)
という(高天山とは現金剛山・H=1125mを指す)
 氏は、神話とは過去にあった何らかの事実をうけたもので、現在の知識なり常識なりで解釈してはならないというが、天上にあった高天原を地上の地に求めるのはナンセンスで、宮崎の高千穂地方など各地に高天原伝承地がそうであるように、当地も“そうあったほしい”という願望から作られた伝承であろう。
高天原旧蹟地の石碑
高天原旧蹟地の碑

◎地名・高天(タカマ)

 当社は御所市高天の南端に鎮座するが、そこは北窪との町境にあたる。
 高天の地名は、当社の鎮座地である高天とともに、北窪を挟んで西方の金剛山一帯にも高天(タカマ)の地名があり、金剛山は別名“高天山”(間山とも記す)とも呼ばれたという。
 この地名が何時頃からのものかは不詳で、平安中期編纂の事典・和名類聚抄(和名抄とも・937編纂、当時の国・郡・郷名のほとんどが記されている)には見えない。

 しかし、古く、当社の北方に、勅により僧・行基が建立(伝・養老2年-718)したとの伝承をもつ“高天寺”なる大寺があったといわれ、8世紀はじめ頃には、当地一帯が高天(間・タカマ)と呼ばれていたと推測される(郷を構成する小字か)
 なお、高天寺の本体は南北朝の戦乱で焼失したといわれ、今、当社の北東約600mにある“高天寺橋本院”は焼失をまぬがれた一院を移したものという。

橋本院・本堂
橋本院・本堂

 古く、当地一帯が“タカマ”と呼ばれていた傍証として、万葉集(8世紀末頃)に次の歌(1337番)があり、橋本院前の空き地に歌碑が立っている。

  葛城の間(タカマ)の草野(クサノ) はや知りて 標(シメ)刺さましを 今ぞ悔しき
   歌意−−葛城の間の草野(人名)を早く知って求婚すればよかった、今となっては悔しいことだ
          −−他人の妻となった女性を惜しんだ歌という

 
万葉歌碑
万葉歌碑

参考図書−−式内社調査報告(1982)・日本の神々4(2000)・御所市史(1965)・奈良県史(1989)・神々と天皇の間(1970・鳥越憲三カ)
            
・古代葛城とヤマト政権(2003・和田萃)

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