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高市御県神社
奈良県橿原市四條町
祭神--天津彦根命 ・高皇産霊神
                                                                   2013.07.07参詣

 延喜式神名帳に、『大和国高市郡 高市御県神社 名神大 月次新嘗』とある式内社。社名は“タケチノミアガタ”と読む。

 近鉄橿原線・大和八木駅の南約1km(次の八木西口駅から約700m)、四條町と今井町との境に鎮座する。
 八木西口駅南から西へ出て、広幅員の道路(今井町の東側を走る美観道路)を南下、奈良県国際交流センターの角を西へ入った南側叢林のなかに鎮座する。

※由緒
 境内に創建由緒・年代などを記した案内はない。

 当社社名にある御県(ミアガタ)とは、延喜式の祈年祭祝詞(トシゴヒノマツリ ノリト)に、
  「御県においでになる皇神等の前に、『高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名は申してお祭り申し上げますことは、この六つの御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を、持ち参り来って、皇御孫命の長久の召し上がりものとして、召し上られます故、皇神等のその恩賴に対する御礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ献ります』と申しあげます」(延喜式祝詞教本・1959)
とあるように、朝廷に穀物・蔬菜などを供給するために設けられた朝廷直轄地を指し、大和国には高市御県以下6ヶ所の御県があったという。

 これら御県に鎮まる神々を祀ったのが御県神社だが、当社は、祈年祭祝詞で大和6御県神社の筆頭に挙げられ、また唯一延喜式の名神大社に列するなど、特に格式高く重要視される古社であったと思われる。

 当社の創建年次は不明だが、
 ・書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月5日条に、
  「倭の国の六つの県(高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布)に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検知せよ」
 ・書紀・天武天皇即位前記(678)
  「高市郡の大領・高市県主(タカイチノアガタヌシ)許梅(コメ)が神懸かりして云々」
とあることから、この当時、即ち7世紀中頃にはあったのではないかと思われるが、確証はない。

 確実な史料として、
 ・新抄格勅符抄(平安時代の法制書)が引く大同元年牒(806、奈良時代以降、神社寺院に与えられた封戸の記録)に、
  「高市御県神 二戸」
 ・三代実録(901)・清和天皇貞観元年(859)条に
  「正月27日、大和国従五位下・・・高市御県神・・・従五位上を授け奉る」
とあることから、9世紀初頭に実在したことは確かといえる。

 なお、当社の創建を“社伝によれば成務朝”とする資料がネット上に散見される。
 社伝を実見していないため何ともいえないが、これは、書紀・成務天皇5年秋9月条に、
  「諸国に令して国郡に造長(ミヤツコノオサ・国造)を立て、県邑に稲置(イナキ・県主)をおき、それぞれ楯矛を賜って印とした」
  (成務4年条に、国造・県主を置く理由が記されている。また古事記は「成務朝に、大国・小国の国造、大県・小県の県主を定め給う」と簡単に記している)
とあるのを承け、県主が置かれた頃に神社も創建されたとみたものだろうが、国造・県主制の成立を成務朝とすることには異論が強く、また、4世紀末頃(古墳時代前期末)とされる成務朝時代の神マツリは、その都度神籬(ヒモロギ)等を設けてのものだったと推測され、常設の神社があったとは考えられない。

 当社を式内・高市御県神社に比定したのは、江戸中期の地誌・大和志(1734・江戸中期)に  
  「高市御県神社 名神大・・・四條村に在り、今高県宮(コウケノミヤ)と称す 所謂遊岡(アソブガオカか)即ち此」(神廟の部)
  「遊部井(アソビベノイ) 今井村に在り」(山川の部)
と記し、卯花日記(1829・江戸末期)
  「此飛鳥川は今井の里の末を流るなれば、此所を遊部の岡といふ。今の“こけの宮”の辺りの古き名也」
とあるように、当時、遊岡にあった当社がコウケノミヤ(あるいはコケノミヤ)と呼ばれていたことからという。
 ここでいう高県宮とは、高市御県の“高”・“県”で式内社本来の社名を残すものであり(こけの宮も“コウケ”が“コケ”に訛ったもの)、遊部岡(遊岡)も、当地が旧高市郡遊部郷・雲梯郷(橿原市の西北部地域)であったと推定されることからという(日本の神々4・2000)

 これからみると、江戸時代の当社は、社名に式内社の面影は残すものの、式内社であることが忘れられていたが、中期頃になって式内社として再認識されたものであろう。

※祭神
 今の祭神は
  天津彦根命(アマツヒコネ)
  高皇産霊神(タカミムスヒ)
の2座というが、延喜式には一座とあることから、本来の祭神はアマツヒコネ一座であろう。

 アマツヒコネとは、天安川でおこなわれたアマテラスとスサノヲの誓約(ウケヒ)によって生まれた男神5柱のうちの3男で(記紀)、古事記には
  「天津日子根命は・・・高市県主・・・の祖なり」
とあり、高市御県を封地とする高市県主(タケチノアガタヌシ)が、その祖神であるアマツヒコネを祀ったものという。

 合祀されているタカミムスヒについて、式内社調査報告(1982)によれば、高市郡神社誌(1922・大正末期)
  「本社は元は天津彦根命の一座であり、後に高皇産霊神を別社に奉祭したのを、後代社頭の衰微すると共に本社祭神に混入したものであろう」
と記されているというが、詳細不明。

※社殿
 道路脇の鳥居を入り、疎林に囲まれた参道奥に拝殿(切妻造・生子板葺)、その奥、古ぼけた石玉垣に囲まれた中に背の高い本殿(春日造・生子板葺)が鎮座する。
 周囲は、市街地の中に残る疎林に囲まれた鎮守の森で、荒れてはいないが、参詣者があるような雰囲気は感じられない。

 
高市御県神社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿

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