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竹 田 神 社
奈良県橿原市東竹田町
祭神--天火明命
                                                                2013.08.28参詣

 延喜式神名牒に、『大和国十市郡 竹田神社』とある式内社。

 近鉄橿原線・新ノ口駅(ニノクチ)の東約1.8km、東竹田集落の西寄り、寺川・竹田大橋の南東すぐに鎮座する。

※由緒
 境内に由緒等の掲示なく詳細不明だが、資料によれば、
  「左京神別(天孫) 竹田川辺連 火明命五世の後也。 仁徳天皇御世 大和国十市郡刑坂川(オサカ)の辺に竹田神社有り。因りて氏神と為し、同居(ソコ)に住めり。緑の竹が大きく美しかりければ、御箸の竹に供(タテマツ)りき。因りて竹田川辺連を賜る」(新撰姓氏録・815)
とあり、通常、これを以て由緒とみなしている。
 また和州五郡神社神名帳大略註解(略称・五郡神社記、室町初期)には
  「河辺郷竹田村河辺に在り
 社家(河辺連)曰く 竹田神社は天照国照彦火明命也。当社の辺りに刑坂川有り、此の川岸原に緑の大竹多く、俗に竹田と云う。仁徳天皇の御世に及び、祝部(ハフリベ・神官)武(竹)田押命、件の竹を以て箸を作り朝廷に献上、天皇これを賞美したまい、詔して竹田川辺連を賜う」(漢文意訳)
と、略同意の由緒が記されている。

 これによれば、仁徳朝の頃、十市郡の刑坂川(現寺川)一帯(現東竹田町集落内を寺川が斜めに貫流する)に居住していた竹田川辺連一族が氏神として奉祭したのが当社となる。
 しかし、5世紀中頃(古墳時代中期)とされる仁徳朝に常設の神社があったとは思われず(その都度、神籬を設けての神マツリはあったであろう)、時期不明ながら、当地を本貫とする竹田川辺連一族が、その氏神社として創建したのが当社であろう。

 なお、大和志(1734・江戸中期)には「東竹田村に在り 今三十八社と称す」とあるが、三十八社を式内・竹田神社に比定した根拠は不明。
 ここでいう三十八社がどのような神社かだが、当社の東南約1.6kmに三十八柱神社(桜井市大福・式外社・祭神:宮中坐神36座・イザナギ・イザナミ)があり、これと混同したのかもしれない。

 当社にかかわる神戸・封戸・神階授与等の記録もなく、古史料上での確認はできないが、平安末期の多神宮注進状にその名があることから(下記)、平安時代にあったのは確かだが、それが何時頃まで遡上できるかは不明。

◎祭祀氏族
 新撰姓氏録によれば、竹田川辺連は火明命五世の後也とある。火明命を祖とする氏族は多く、竹田川辺連も含めて、その殆どが尾張氏の同族とされる(尾張国を中心に大和・山城・河内・近江他の各地に広がるが、全てに血縁関係があったかどうかは不明)

 その尾張氏について、姓氏録には、
   「左京神別(天孫) 尾張連 火明命の男・天香語山命の後也」
とあり、先代旧事本紀(9世紀前半・物部氏系史書)には、
  天火明命--天香語山命--天村雲命--天忍人命--天戸目命--建刀米命(建斗米命)ーー(6男1女あり)
との系譜がある。

 これによれば、姓氏録にいう竹田川辺連は火明命の五世孫・建刀米命(タケトメ)の子(6男1女)の一人から出たことになる(五郡神社記には、建刀米命次男竹田押命とあるが、旧事本紀に竹田押の名はみえない)

 この竹田川辺連がどのような氏族なのかは不詳だが、尾張系氏族の殆どが宮廷の側近者として皇子・皇女の守り役(壬生部-ミブベ)としての役目を所掌し、加えて宮中の食膳を司る膳夫(膳部・カシワベ)でもあったという(尾張氏の系譜・松前建、1974)
 これからみると、竹田川辺連の本来の職掌は壬生部であり、祝部・竹田押命が竹の箸を献上したという由来からみて、宮中の食膳に係わる膳部にもかかわっていたのかもしれない。

 因みに、姓氏録には竹田川辺連の直前に“湯母竹田連”(ユモタケダムラジ)との氏族があり、竹田川辺連と同じく、火明命五世孫タケトメ命の子・竹田折命(旧事本紀では建多乎利命)が景行天皇から菌田連(タケダムラジ)の姓を賜り、後に湯母竹田連に改姓したという。。
 氏族名に冠する“湯母”(ユモ)とは、この氏族が従事した職掌を指すようで、書紀(一書3)
  「亦曰く、ヒコホホデミ尊は、婦人を召して乳母(チオモ・ウバ)・湯母(ユモ)及び飯噛(イイカミ)・湯人(ユビト)と定めて、(皇子・ウガヤフキアヘズ命を)養育した。これが乳母を決めて子を養育する始まりである」
とあるように、“ユモ”とは皇子等の養育にあたる壬生部の職掌の一つであろうという。


 当社は田原本町にある多神社(通称)と関係していたようで、多神宮注進状草案(1149・平安末期)に、
  「若宮一座 竹田神社 天孫国照火明命 神像竹箸に坐す」
とあり、本文末尾に、多朝臣常麻呂(禰宜)・肥直尚弼(祝部)に続いて“祝部正六位下 川辺連(竹田川辺連の略称)泰和”との署名があることから、竹田川辺連から神官(祝部-禰宜に次ぐ神職)が出ていたことを示している。

 その理由について、日本の神々4(2000)は、
  「多氏も壬生と日神祭祀にかかわる氏族であり、そのため、多氏系の子部の祖が火明命になっていたり、多氏同祖氏族の島田臣・爾波臣は尾張国の氏族であったりして、両氏族が混合しており、竹田神社が多神社の若宮となっているのも、そのような重層の結果であろう」(大意)
というが、よくわからない。


※祭神
 当社祭神には諸説があるという(式内社調査報告、以下同じ)
 ①天火明命(アメノホアカリ)--多神宮注進状(1149)・大日本史(1676)・神名帳考証(1733)・大和志料(1944)・特選神名牒(1876)
 ②天香語山命(アメノカグヤマ)--神社明細帳(1952)
 ③道臣命(ミチオミ又はミチノオミ)--神社明細帳(1951)
 ④神皇産霊尊(カミムスヒ)--神祇宝典(1646)

 ③道臣命とは、神武東征に大功のあった大伴氏の祖神で、神武即位後の論功行賞で築坂邑を賜ったとされる。
 昭和26年の神社明細帳に
  「崇神天皇5年、初めて道臣命を猛田(竹田)の地に斧一振りを以て神魂として祭典す(後柏原院時の御魂祭典式にあり)。即当社なり」
とあるというが、大伴氏の根拠地は旧築坂邑(ツキサカムラ・現橿原市鳥屋町-道臣命を祀る式内・鳥坂神社あり)で、竹田の地との関係はみえない。築坂を猛田(竹田)と改作したかと思われるが、詳細不明。

 ④神皇産霊尊(カミムスヒ)とは、姓氏録・左京神別に記す竹田連がカミムスヒを祖神とすることから(左京神別 竹田連 神魂命十三世孫八束脛命之後也とある)、この竹田連の祖神・カミムスヒと竹田川辺連の祖神・タカミムスヒを混同してのことだろうという。
 
 ①②のうち、②天香語山命とは天火命の御子であり、これを祖神として祀ってもおかしくはないが、これを祭神とするのは明治27年の神社明細帳のみであり、それ以前のものは、すべて天火明命を祭神としていることから(大和志料は、天火明命(天香久山命)と括弧書きしている)、①天火明命とみるのが順当であろう。

◎火明命(ホアカリ)
 記紀において、ホアカリ命の名は二つの場面に出てくる。
 一つは、アマテラスの御子・忍穂耳命(オシホミミ)とタカミムスヒの娘・タクハタチヂヒメ(古事記ではトヨアキツシヒメ)との間に生まれた長子を天火明命(アメノホアカリ)とする系譜で(古事記・書紀一書6及び8、いずれも次男が天孫・ニニギ尊とする)
 ・書紀一書6には「天火明命の子・天香山は尾張連らの遠祖」と、
 ・同一書8には「天照国照彦火明命は尾張連等の遠祖」とある
  (古事記には「その生みし子・アメノホアカリ命、次にホノニニギ命」とあるのみで、後継氏族の記述はない)


 も一つは、天降った天孫・ホノニニギ尊が吾田国・笠狭崎(アタノクニ カササノミサキ-薩摩半島西岸・野間岬に比定)でオオヤマツミ神の娘・コノハナサクヤヒメ(別名:カシツヒメ・カムアタツヒメ)を娶って生まれた3人の御子の一人(山幸彦海幸彦の兄弟)とするもので(書紀本文・一書2・一書3・一書5・一書7一伝、古事記にはホアカリの名はない)
 ・本文のみに、「火明命、これが尾張連等の氏祖」とある。

 これによれば、両神とも尾張連等の遠祖とあり、当社に祀られるのがどちらなのか不詳だが、尾張氏の本貫が尾張(あるいは大和)であって、九州に尾張氏系氏族が見えないことから、九州で生まれたホノニニギの御子とみるより、オシホミミの御子とするのが順当であろう。

 一方、物部氏系史書とされる先代旧事本紀(天孫本紀)では、
  「(太子・オシホミミの御子の名は)“天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊”(アマテルクニテル ヒコ アメノホアカリ クシタマ ニギハヤヒ)で、又の名を天火明命、又の名は天照国照彦天火明命、又はニギハヤヒ命という」
として、記紀にいうアメノホアカリ命の名はアマテルクニテル・・・尊(所謂・ニギハヤヒ)の別名で、そのニギハヤヒが高天原から葦原中国に天降ったという(記紀にいう天孫・ホノニニギは出てこない)

 しかし、旧事本紀には、
 ・ニギハヤヒが天上にいたときの妃・天道日女命との御子・天香語山命に始まる系譜
 ・ニギハヤヒが天降って娶った長髄彦の妹・御炊屋姫との御子・宇摩志麻治命に始まる系譜
と2系譜が並記されており、前者は尾張氏の系譜(始祖の名・アメノホアカリをニギハヤヒに代えたもので、13世・尾綱根命が応神朝に尾張連の姓を賜ったとあり、以下尾張○○を名乗っている)で、後者が物部氏本来の系譜だろうという。

 アメノホアカリ・ニギハヤヒ同体説の根拠と思われる天照国照彦天火明櫛玉饒速日との名は、一書8にいう天照国照彦火明命と饒速日命とを接合して作られたもので、同体説は本居宣長以下の諸学者によって否定されているというが(尾張氏の系譜)、諸資料のなかで同体説を採るものは多い。


※社殿等

 鳥居を入った右手が境内で、その左(西側)に当社社殿が、右(北側)に旧神宮寺といわれる大日堂が建つ。

 拝殿は切妻造瓦葺でさしたる特徴はない。
 その奥、高いコンクリート塀の中に社殿2宇が東面して鎮座する。
 左が本殿(春日造朱塗り・銅板葺)で、右にある小ぶりの社殿は摂社・厳島神社(祭神:市杵島姫・春日造朱塗り銅板葺)だが、塀が高く見えるのは屋根のみ。


竹田神社・鳥居 
 
同・拝殿

同・境内全景(左:拝殿、右:大日堂) 
 
同・本殿(左より)
 
左:本殿、右:摂社
 
 境内の左手に、自然石に“青面金剛”(ショウメンコンゴウ)と刻した小さな石碑がある(右写真)
 青面金剛とは、通常、江戸時代に流行した庚申信仰(コウシンシンコウ)の本尊とされるもので、嘗ての当地に庚申信仰が広まっていたことを示唆するものであろう。

 庚申信仰とは、長生きを願って、60日ごとに回ってくる庚申の日に、一晩中雑談しながら夜を過ごした風習(世俗信仰)をいう(別稿・「庚申信仰とは」参照)
 
 また、鳥居の右脇に万葉歌碑があるが、刻文が浅く読み取りづらい(右写真)
 傍らの案内によれば、歌は
  大伴坂上郎女(オオトモノサカノウヘノイラツメ)  竹田の庄より女子(ムスメ)大嬢(オオオトメ)に贈る歌
    「うち渡す 竹田の原に 鳴く鶴(タヅ)の 間なく時なし 我が恋ふらくは」 (760番)
     (眺めやる 竹田の原に 絶えず鳴いている鶴のように 絶える間もなく 私は貴女を恋しく想っています)

 当地・竹田の地名が歌い込まれていることからのもので、当社との直接的な関係はないであろう。

 

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