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玉 置 神 社
奈良県吉野郡十津川村玉置川
祭神--国常立神・伊弉諾尊・伊弉冉尊
配祀--天照大神・神日本磐余彦命
                                                            2018・08・19参詣

 JR紀勢本線・熊野市駅の西約25km、奈良県南部に広がる紀伊山地の南部に位置する十津川村の南端、和歌山県境(新宮市)に近い玉置山(H=1,076m)の山腹に鎮座する。
 公共交通機関は皆無に近く、車使用以外に手段はない(今回はバスによる参拝ツアー利用)

※由緒 
 当社公式HPによれば、
 ・玉置神社は大峰山の南麓に位置する標高1,076mの玉置山の山頂近くに鎮座する。
 ・当社の草創について、玉置山縁起によれば、神武天皇ご東征の折、熊野の浜辺に上陸され、八咫烏の案内を得て大和の地を目指し、その道すがら、玉置山に至りて 身の安全を祈願され、十種の神宝を奉じたと伝えられています。
 ・創立は紀元前37年、第10代・崇神天皇の御宇に王城火防鎮護と悪魔退散のために、速玉神を奉祀したことに始まると伝えられています。
 ・古くより、熊野から吉野に至る熊野大峰修験の行場の一つとされ、平安時代には神仏混淆となり、玉置三所権現または熊野三山の奥の院と称せられ、霊場として栄えました。
 ・江戸時代には別当寺・髙牟婁院が置かれていました。
 ・その後、慶応4年の神仏分離により神仏混淆を廃し、以後玉置三所大神、更に玉置神社となり現在にいたっています。
 ・平成16年には、『紀伊山地の霊場と参詣道』として世界遺産に登録されました。
という(当社参詣の栞には、簡略化したものが載っている)

 HPには、神武天皇が東征の折当地に立ちより祭祀を執りおこなったとあり、資料・玉置山(地方史研究所編・熊野-1987所載)は、
 「天皇の熊野から大和へ至るコースには諸説があるが、十津川を経由したとすれば、玉置山で祭祀されたことが想像される」
というが、津田左右吉は「神武東征は天皇が神代から続く日の御子であるという思想から、神代と人代を繋ぐものとして形つくられた説話であって歴史的事実ではない」という(古事記及び日本書紀の研究・1940)。

 また、神武天皇が当社に十種の神宝を奉じたというが、この神宝が、先代旧事本紀(9世紀前半頃、物部氏系史書)にいう、物部氏の遠祖・饒速日命(ニギハヤヒ)が天神から授かったという天璽神宝(十種の瑞宝)であれば、それは神武が天皇として即位した時に、饒速日の子・宇摩志麻治(ウマシマジ)から献上されたもので(神武紀)、東征途上の神武は未だ所持していなかったはずで、その点からみても神武天皇云々との由緒は後世になっての創作であろう。

 またHPには、崇神天皇による速玉神(イザナギが吐いた唾から成りでた神)勧請を以て当社の創始とあり、資料・玉置山によれば
 ・玉置山縁起(伝1682)--崇神天皇の御宇、始めて神殿を建てた
 ・暦年御幸記(成立時期不明)--崇神天皇は治世61年(紀元前37年)にこの地に行幸し、後4年詔して神社を造営した
との資料があるという。
 ただ、書紀には崇神61年条そのものがなく、65年条にも当社関連の記事はなく、おそらく、崇神7年条の“天つ社・国つ社・神戸を定めて八十万の群神を祀った”との記事にいう群神のなかに当社が含まれるとして作られた伝承であって、信憑性はない。
 また、4世紀前半とされる崇神朝において速玉という神が認識されていたとは思えない。
 (なお、崇神61年を西暦・紀元前37年にあてているが、これは神武即位年である前660年から、書紀記載の各天皇の在位年などから求められた皇紀年次を西暦に当てはめたものでて、実在の蓋然性が高いとされる崇神天皇の在位は4世紀前半頃というのが有力)


 今の当社は玉置神社と称する神社だが、古くは修験道行場(霊場)として知られ(明治5年-1872-の修験道禁止令によって神社に衣替えした)、吉野と熊野とを結ぶ大峰連山を縦走する修行の道・大峯奥駆道(約170km)を構成する行場・75靡(ナビキ)の第10番靡(熊野から数えて10番目)・『玉置山』として栄えたといわれ、今もって奥駆修行をおこなう修行者が往来するという。

 その玉置山靡に関する最古の史料である「玉置山権現縁起」(奥付に観応元年-1350-書写とあり、南北朝以前の成立か。以下「権現縁起」という)によれば、
 「玉置三所の玉砌(修験行場)は金山(金峰山)第一の金場なり。・・・白霧の峯の前に神社を建て、丹霞の洞の裏に堂舎を構ふ。・・・無漏の嶽と号し大日宿(オオヒノト)と称す。役行者の草創也。之に厄難を祈りて参れば必ず災禍を遁れ、寿福を願って詣でば必ず福貴を保つ・・・」
として(一部省略)、玉置山は役行者開山の行場とされ、
 室町後期(16世紀)とされる「役行者本紀」との開祖伝にも
  「(役行者は)50歳の時(684)、熊野から吉野への峰入り(順峰)を行った」
とあり、そのとき修行したという9ヶ所の行場の一つに『大和 玉置山』とあり、役行者開山というのは、これらの伝承によるものであろう。

 役行者とは、続日本紀・文武天皇3年(699)条に、「役行者小角(オヅヌ)を伊豆島に配流した・・・」とある実在したとおぼしき人物で、後世になって修験道の開祖とされている。

 修験道は、古来からの山岳信仰に仏教(特に密教)・道教・儒教・陰陽道などが習合した神仏混淆の宗教で、その行者は深山渓谷に分け入って厳しい修行をおこなうことで除災招福・加持祈祷の験力を得、それらを以ての衆生救済を目指したという。

 修験道の萌芽は飛鳥時代とも奈良初期ともいわれ、平安時代後期になると幾つかの修験者集団が形成され、鎌倉時代はじめのころ、その開祖を役行者に仮託したもので、それは
 「本来開祖をもたない自然宗教が成立宗教化していくにあたって、その統合の象徴として理念上の開祖としての役行者を作りあげた」(役行者と修験道の歴史・2000)
ものであり、その点からみて、世に伝わる役行者の事蹟とはその殆どが創作された伝承の域を出ず、当社が役行者開山とするのもそのひとつであろう。

 なお玉置山には、“智証大師・円珍(814--91、第5代延暦寺座主)が那智より来て此の山を開いた”という伝承があるという。
 これは、円珍が15歳の頃から12年間籠山修行を行ったという伝承、あるいは承和12年(845)役行者の後を慕い大峰山・葛城山・熊野三山を巡礼し、修験道の発展に寄与したとの伝承(WIkipedia)によるものであろうという(資料・玉置山)


 このように当社の創建由緒・時期は不詳だが、権現縁起が、その奥付からみて観応元年(1350・北朝年号)以前の成立と思われることから、鎌倉時代から南北朝初期の頃(13世紀末~14世紀初頭)には修験道行場としての玉置山があったことは確かなようで、資料・玉置山は
 「玉置山は鎌倉時代には既に修験の霊所として知られたものらしく、熊野信仰を背景として、大峯熊野に出入りする修験者の足を留むる所となったものであろう。そして室町時代には入峰の宿に載せられ、有名になったものであろう」
という。
 なお、奥駆道の靡は一義的には修験道行場だが、修験者たちの宿坊でもあり、当社は後者の性質が強かったともいう。


※祭神
 今の当社には本殿以外に攝末社として三柱社以下9社がまつられているが、時代によって
 ・玉置山縁起(1682)--本殿・三狐社・玉石社・若宮社・白山社・六所宮
 ・大和志(1734)--本殿・稲荷社(三狐社)・若宮・白山宮
 ・玉置神社本紀(?)--本殿・三狐社・玉石社・若宮社・白山社・神武社・勝手社・住吉社・胸形社
 ・神社取調伺書(1868・神仏分離時)--本殿・三狐社・玉石社・若宮社・神武社・六所宮
との変遷があり、資料・玉置山は「玉置山の諸社は修験の影響を受けて複雑な変遷を来している」という。

◎本殿
 祭神--国常立神(クニノトコタチ)・伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)
       ・天照大神(アマテラス)・神日本磐余彦命(カムヤマトイワレヒコ=神武天皇)

 祭神について、資料・玉置山には、
  ・当社は十津川郷の総鎮守とされ、玉置三所皇大神或は玉置三所大神と崇められている。
  ・この三所は国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊の三柱で諸縁起の記載一致するところで、鎌倉時代末には既に称えられていたものであろう。
  ・玉置山縁起には、草創由来の中にこの三柱の神を述べ、右三社は一殿にこれを祀ると記してある
  ・明治6年(1873)、天照大神・神日本磐余彦命が、それぞれ末社より(天照大神は若宮社から、神日本磐余彦命は神武社かららしい)本社に合祀された
として(大略)、当社祭神は中世の頃から国常立尊以下の三座だったであろうという。

*主祭神・国常立尊とは
  ・書紀(本文)--天地が開け始めたとき、国土が浮き漂っていた中に、ある物が生じた。
            形は葦のようだったが、間もなく神となった。国常立尊と申し上げる。
            この神は、陽気だけをうけて、ひとりで生じられた。故に純粋な男神であった。
  ・古事記--(天地が初めて開けたとき、高天原に成り出た天之御中主神以下の別天つ神5柱に続いて
          次に成りし神の名は国之常立神、この神も独神と成りまして、身を隠したまひき(神代7代の第一代)
とある神で、書紀では最初に、古事記では6番目に成りでたという。

 記紀には“独神”(ヒトリガミ)というだけで特段の事蹟はみえず、その神格ははっきりしないが、中世(鎌倉)以降の記紀神話見直し(記紀を元にするものの、それに本地垂迹説などを加味して解釈・再編成した歴史観で、中世神話ともいう)という風潮のなかで“国土形成の根源神”との神格が付与され、特に伊勢神道・吉田神道などでは重要視されたという。

 本殿祭神3座は、天地開闢のとき成り出た神代七代の神々11柱のなかで(書紀)、最初(国常立)と最後(伊弉諾・伊弉冉)の神を祀ったものだが、中世神話にいう遠い神代の頃に出現した始原の神として、この3神を充てたとも思われるが、本殿3座をこの神々とする由緒は不明。

 なお、配祀されている神日本磐余彦(神武天皇)は、元々は神武社に奉祀されていたと思われ、その奉祀について、資料・玉置山には、
 ・神武天皇の熊野より大和に入られたコースは諸所に伝えられているが、十津川を経由したとすれば、玉置山で神マツリをなされたことが想像される。
 ・天皇が天神より十種神宝を授与されたので、これをこの地に祀り玉置の峯と名づけたと伝えている。
 ・かかる伝承に因んだものか、玉置神社には神日本磐余彦尊が配祀されている。
 ・神武社は、玉置山権現縁起(1350)・玉置山縁起(1682)には見えないが、玉置山三所権現社両部習合之巻(1763)には神武社が記され、金剛界の大日如来を本地としているから、神仏習合時代(江戸中期)には既に祀られてしたものと見られる。
とあるが、神武天皇が当地に於いて神マツリをおこなったという伝承にもとずいて祀られたものであろう。

 なお異説として、江戸中期の地誌・大和志(1734)には
 「玉置神祠  旧事記に謂う 紀伊国忌部始祖・手帆置負神(タホキオヒ)即ち此 元慶5年10月従五位下を授かる。祝家玉置氏」
とあり、当社は紀伊忌部氏の祖・手帆置負神(手置帆負命-タオキホオヒともいう)を祀るという。

 手置帆負命とは、記紀には見えない神だが、古語拾遺(802)の天照大神・天の岩屋隠れの段に
 「手置帆負(タオキホオヒ)・彦狭知(ヒコサシリ)の二柱の神をして、大峡・小峡(大小の峡谷)の材を伐りて瑞殿(神・天皇の住まい)を造り、亦御笠及矛・盾を作らしむ。
  手置帆負命は讃岐国の忌部が祖なり、彦狭知命は紀伊国の忌部の祖なり」
とあり、先代旧事本紀(神祇本紀)
 「紀伊の忌部の祖 手置帆負神を作笠(カサヌイ)とした」
とある神で、一般には建築・工匠の神という。
 但し、三代実録・元慶5年10月条に手帆置負命に対する神階授与の記録はない。

 大和志には紀伊忌部氏の祖・手置帆負命とあるが、その忌部氏が編纂したという古語拾遺には“紀伊忌部氏祖彦狭知命”とあり、混乱している。
 当社が紀伊忌部氏の祖を祀るのであれば、祭神は、その子孫である忌部氏がいう彦狭知命とみるのが順当であって、大和志は旧事本記によったものであろう。(古語拾遺と旧事本記とで紀伊忌部氏の祖神名が異なるが、古語拾遺が忌部氏系史書、旧事本紀が物部氏系史書であることからみて、前者の方を採用すべきであろう)

 この手置帆負命祭神説について、資料・玉置山は
 「手置帆負命を当社に関係せしめるのは、神名の手置を玉置に関係せしることが重要なのであろう」
として、手置・玉置の類似によるものではないかという。

 なお、当社祝家(神主)という玉置氏とは、確かな系図はないが、
 “平重盛の次男・資盛が源氏との戦いに敗れて熊野へ逃れ、その子が吉野へ移って十津川村玉置神社の神官となった”
との伝承があるという。
 とすれば、玉置氏は十津川村に入って玉置神社の祭祀権を握り神主として奉祀したのだろうが、確かなことは不詳。


*神仏習合時代の本殿祭神
 江戸時代までの神仏習合期の本殿祭神について、玉置山権現縁起(奥付に、観応元年-1350・9月8日旧本書写とある。以下「権現縁起」という)には、『子守三所』とあり、
 ・子守三所は蔵王・子守・勝手也
 ・蔵王権現は金輪聖王七代孫子波羅奈国大王也。神と成り人と成り衆生利益の為に 王舎城の砌檀特山の麓に蔵王三所と顕れ給ふ。・・・大日本国和州吉野郡涌出之峯(玉置山)に跡を垂れ給ふ 六十余州の一切衆生の現世安穏後世善処の為也・・・
  垂迹の始めは神武天皇58歳戊午歳12月夜半なり。雅顕長者(マサタケ)の請に依る。
  (雅顕長者--高倉下命の後裔、熊野神主・千与定の子で新宮・高倉山に始めて社殿を開いたといい、また那智山青岸渡寺の開祖・裸形上人のことともいう伝説上の人物)
 ・子守・勝手は地蔵菩薩・毘沙門天王の垂迹也 或云 子守は地蔵菩薩 勝手は勢至菩薩云々 ・・・
 ・凡そ子守三所は法俗女の三躰也。正躰女躰は一切衆生に悲母一子の慈悲を垂れ、次の俗躰法躰は降伏諸魔の躰を現し、或は衆生成仏の相を示す。是則ち盧遮那仏の同躰済生利物の分身なるか。(以下、垂迹因縁を長々と記すが省略)
 ・子守御前は女躰如意宝珠を持つ 額に三辨宝珠を銘す。勝手大明神は一鳥居発心門に住む左手で腰を押し右手に太刀を抜きて甲冑を着す
とある。

 玉置山権現縁起は、玉置山信仰に関して記す最古の文書だが、その内容は神と仏が混淆した修験道独特の記述に終始し、荒唐無稽・牽強付会の感が強く理解するのは難しい。

 なお、子守神が本社祭神とされた由来は不詳だが、一般には、子守神は水の配分を掌る水分神(ミクマリ)が本来の姿とされ、ミクマリ→ミコマリ→ミコモリ→コモリと転訛したという。
 水分神が子守神へと変わり、その神名から子供の守護神へと転訛した神だが、権現縁起には「子守 母勝手明神 父金精大明神(蔵王権現)」とはあるものの、水分神の面影はない。

 当社本来の祭神が水神(水分神→子守神)であったとすれば、玉置山一帯の里人が、玉置山の水神(山の神でもある)に対して、麓の田畑に必要な水の適時適量の安定供給を祈ったのが当社の始まりかと思われる。


※社殿等

 

 駐車場の脇に立つ鳥居を入り、少し進んだ先に二股に分かれた分岐点があり、
 右の坂道が当社正面へ至る表参道で、入口に木造の明神鳥居2基が立ち、傍らに
  「奉献  参道表口(旧牛廻道) 明神鳥居一基 鳥居は神々の神域を顕現する一種の門で云々
と記した立て札が立つ。
 表参道とはいうものの、アップ・ダウンの激しい山道で、歩くには苦労する(正面まで約15~20分)
 左の道が裏参道で、これを進むと社殿の上を通って社務所横に出る。多少の階段はあるものの平坦な道が続く。

 
玉置神社・駐車場脇の鳥居
 
参道分岐点
(鳥居の立つ右の道が表参道) 

 社殿正面の石垣下に一の鳥居が立ち、石段を登った上に二の鳥居が立ち、更に2段目の石段を登った上が社殿域。

 
玉置神社・一の鳥居
 
同・二の鳥居
(石段上に社殿がみえる)

◎社殿
 当社社殿は拝殿・本殿を一体として覆った大きな建物で(以下「本殿」という)、正面に唐破風付き向拝・千鳥破風付き大屋根を有する入母屋造・銅板葺き。

 内陣には、中央に正面3間の本殿が、その左右に正面1間の配祀神社殿2宇が並んでいる。
 中央の社殿に主祭神である国常立尊・伊弉諾尊・伊弉冉尊を祀り、左右に配祀神・天照大御神と神日本磐余彦命(神武天皇)を祀ると思われるが、表示等なく、どちらがどの神かはわからない。


玉置神社・社殿(正面) 
 
同・社殿(側面)

社殿(左) 

本殿(中央) 
 
社殿(右)


[攝末社]
◎三柱社(摂社)
 祭神--倉御魂神(ウカノミタマ)・天御柱神(アメノミハシラ)・国御柱神(クニノミハシラ)

 本殿から右へ、社務所前をすぎた処に鎮座する小祠で、玉石社から玉置山へ至る登坂路が境内を通っている。
 社頭には朱塗りの鳥居2基が立ち、赤地に三柱稲荷大明神と染め抜いた幟が立っている。

 今は三柱社と称しているが、江戸時代までは“三狐社”(ミケツシャ)と呼ばれていた。
 旧称三狐社・ミケツシャの“ミケ”が御饌(食物)を意味することから、食べ物の神である倉御魂神(ウカノミタマ・所謂稲荷神)を主祭神として祀るのてあろう。

 社殿脇の案内に、
 「この神社は稲荷社とも呼ばれ、玉置山の地主明神でもあります。
  古誌によれば、神使は白狐といはれ、極秘の霊験があり、厄除け・開運・狂気・ノイローゼ・息災延命・その他諸願成就・特に州浜の紋を持つ当社としては、海上安全にその信仰を広く集めている」
とあるように、一般には稲荷社として信仰されている社で、
 資料・玉置山には、
 「稲荷の俗信仰が篤くなると本社に次いで重んじられた」
とあり、今 摂社となっているのは、これによるものであろう。

 現社名の三柱とは、御饌の“ミケ”を食べ物ではなく数字の“三っ”と解して、稲荷神がもつ仏教色を排した三柱の神に変えたのだろうが、社頭の朱塗り鳥居・幟などからみると、今もって稲荷神として信仰されているのであろう。

 
摂社・三柱社鳥居
 
同・社殿

 この三狐神について、権現縁起には、
 「所謂天狐・地狐・人狐也 新宮は飛鳥(現新宮市阿須賀)に住す。則ち漢司符将軍の妻室、三大明神の母也。
  権現の氏人・千与定の子。嫡子・雅顕長者、次男・長寛長者は此れ今飛鳥大行事なり、其の子・平符将軍。其の子・漢司符将軍、鎮西彦山に於いて上津河原大明神と号す、新宮に於いては牛鼻明神と号す、本地毘沙門。其の子・三大明神は榎本直俊・本地不動、宇井基成・本地大日、鈴木基行・本地毘沙門天也」
と系譜めいたものが記されている。

 これを見るかぎり、三狐社の狐とは所謂・稲荷信仰で神使とされる狐ではなく、そこに遠祖として、熊野本宮・大湯原の一位(イチイ)の木に三昧の月形となって顕現した熊野三所権現を顕かにした猟師・千与定の名(熊野権現御垂迹縁起)かみえることから、熊野大社との関係が伺われるが、熊野信仰と狐との関係は不詳で、権現縁起にいう記述は理解しがたい(熊野本宮大社の主祭神・家津御子大神-ケツミコ-が食物の神でもあることが関係するのかもしれない)

 なお、三狐神の形躰について、権現縁起に
 ・天狐王の形躰は本地聖歓喜天吒天。三面六臂六足 正面観音面・右面天狐面・左面地狐面・・・
 ・三狐神の本地の事 極秘口伝有り 外見に及ぶべからず
とあるが、それが如何なるものかは不詳。

 合祀されている天御柱神・国三柱神とは、記紀等にはみえない神で、一般には風の神とされ(イザナギ・イザナミの息吹から成り出た風の神・志那都比古命・志那都比売命と同体ともいうが、異論もある)、竜田風神祭祝詞に
 「我が名は天御柱命・国御柱命である。・・・皇孫命の夢に『竜田の立野という野に、我が宮をば定め営み申し上げて、我が前をお祀り申し上げますならば、天下の公民が耕作する五穀を始めとして、草の片葉に至るまで生育させ幸いならしめましょう』と教え示された」(大意)
とあり、悪風を鎮め五穀豊穣をもたらす神すなわち食物の神ということから当社に合祀されたのかもしれないが、三柱という数にあわせるために持ちこまれた感が強い。


◎玉石社(末社)
 祭神--大己貴命(オオナムチ)
   当社が磐座(玉石)を御神体とすることから、オオナムチは出雲の大神(オオクニヌシ)というより、“大いなる大地の霊”(地主神)という神格で祀られたものであろう。

 三柱社から玉置山山頂へ至る登坂路の中程に鎮座する。
 横木を無規則に並べた階段がつづく山道で、登坂するに苦労した(片道15~20分)

 当社は玉置社の奥の院というが社殿はなく、瑞垣の中、大樹に囲まれ白い小石を敷き詰めた先にみえる、頂部のみが地上に露出している“黒っぽい玉石”が御神体で、当社HPには
  「社殿がなく、ご神体の玉石を礼拝する古代の信仰様式を残しています。
  玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を鎮めて祈願したと伝わっています」
とある。

 この玉石は磐座の頂部とも思われるが、地下部分の形態は不明。
 ただ、玉石の周囲に白石を敷き詰めてあることからみると、当社は磐座を神の降臨地として祀る古代の祭祀場・神籬(ヒモロギ)の跡ではないかと思われる。


玉石社を囲う瑞垣正面
 
 
瑞垣内
(白石の奥に玉石が見える)
 
玉石・拡大

 この玉石社について、資料・玉置山は
 ・玉置の信仰は古く山の崇拝、玉や石の崇拝に発したものであろう
 ・この玉石社について、玉置山縁起等の諸記によれば、地主神・地主権現・山護神あるいは玉置社の奥院と称せられ、ここに大己貴命を祀り、玉置の称号はこの石から始まるという
 ・この玉石の神体・地主神の性格・祭神大己貴命の3項は玉置神社の根源であって
 ・玉置は“タマイ”とも訓じ、これは玉石から転訛したものであろう
として、玉置神社の源はこの玉石社ではなかったかという。

 これらからみると、今は末社となっているが、古くは背後の玉置山を神の坐す神奈備山とし、その山中にある磐座を神が降臨する聖地として崇った古代信仰が当社の始まりであって、その里宮として造営されたのが玉置神社かと推測される。

*如意宝珠(ニョイホウジュ)
 玉石社傍らの案内には
  「平安の昔、吉野より熊野に至る修験道を開いた山岳修行の祖・役行者が、後世のために財宝を埋納し福徳を祈念したと伝えている」
とあり、資料・玉置山には
  「玉置山が密教の霊場になった関係からして、玉に因んで、玉置神社には“如意宝珠(ニョイホウジュ)埋納”の信仰がある」
とある。

 如意宝珠とは、竜王の脳中から採れた、あらゆる願いを叶えてくれる不思議な宝珠で、これを得れば如何なる願望も達成され、欲するままに財宝を得、一切の病苦・災いを防ぐといわれ、衆生を利益して限りないことから仏の教えの象徴ともいう(岩波仏教辞典・1989)

 この如意宝珠について、権現縁起には
 ・玉置子守の上に役行者如意宝珠を埋む、或云 役行者如意宝珠を金剛童子の後ろに之を埋む云々。又云 弘法大師如意宝珠を埋む云々
 ・役行者の如意宝珠は子守と蔵王御在所の中門に埋められ、弘法大師の如意宝珠は金剛童子の御後ろに埋めらる
 ・此事 最秘口伝にして聊かも外聞に及ぶべからず。
とあり、資料・玉置山は、
 「役行者の宝珠を埋めた場所は子守社(現本殿)の上方、或は金剛童子堂の後方で、つまり子守社と蔵王堂との中間にあるという」
とあるが、金剛童子堂あるいは蔵王堂の位置は不明で、この埋蔵位置を推測することはできない。

 ただ、資料・玉置山は、
 ・玉置山縁起--玉石社 旧記に云 役行者・弘法等当山に於いて如意宝珠を埋む 一山の秘口決所也
 ・玉置三所権現社両部習合之巻--玉石社 古昔役行者幷空海 如意宝珠埋し所也
との資料があることから、如意宝珠埋納の伝承地としては玉石社が相応しいという。

 なお、如意宝珠は大日堂に納められたともいわれ、権現縁起には峯中修行記(成立年次不明)に曰くとして
 「玉置は役優婆塞が末代の人の為に龍宮城の如意宝珠を伝へ安置せし処也。
 大日堂の大日は、宝珠のために行者が造り奉ったもの也、宿縁の輩に非ずば此大日を奉拝すべからず。堂には焔魔法王北野天神等常に参詣せしむ也。
 宝珠は大日の所変にして 行者は釈迦の垂迹也 互に悪世末代の行人を利益せんが為に祈る所也」
とあり、宝珠は大日堂に奉安されているという。

 玉石社・大日堂いずれにしろ、如意宝珠の存在・埋納というのは伝承の域を超えない。

[追記]
 如意宝珠に関して、南方熊楠の十二支考(大正5・1916)に次の話が載っている。少し長いが全文を記す。
 「昔震旦の猟師 海辺の山指し出た所に隠れて鹿を待つと、海に青赤二つの龍現れ食い合って一時ばかりして青龍負けて逃ぐ。明くる日も又同じ。面白うてそこに宿って、三日目にまた戦うて青龍例の通りというところを、猟師箭を放って赤龍に射当てると海中に入って、青龍も海に入ったが玉を銜えて出て猟師に近づき吐き置いて海に入った。
 その玉を取りて家に帰りしより諸財心に任せ出で、富に飽き満ちたというのだ。
 如意宝珠とて持つ人の思いのままに富を得 繁昌する珠を龍が持つとはインドに古くから行われた迷信で、珠は龍の頭の上にありという」


◎三石社(末社)
 祭神--磐裂神(イワサク)・石析根神(イワサクネ)・迦具土神(カグツチ)

 玉石社すぐ背後の斜面に立地するが、社殿はなく瑞垣の中に大中小の磐座3基が鎮座するのみ。
 当社の鎮座由緒等は不明だが、玉石(磐座)を御神体とする玉石社に隣接することから、この辺りは古代の磐座信仰の聖地であったかと思われる。

 ・磐裂神
   イザナギがイザナミ逝去の原因となったカグツチを斬ったとき、その剣先から滴る血が岩にそそいで成りでた三神の一柱(古事記では石拆神)
 ・石析根神
   記紀等にみえない神で、出自・神格等不明。イワサクネと読むことから古事記にいう石拆神(イワサク)を指すのかもしれない。
 ・迦具土神
   火の神のカグツチが当社に祀られる由来は不明。
   イザナギがイザナミ逝去の因となったカグツチを斬ったとき、その血が神聖な岩に注ぎ、そこから磐裂く神などの神々が生まれたとあることから(古事記)、磐座に関係ありとして祀られたか、あるいは当社の磐座3基という数に合わせて、磐裂神出現の基となったカグツチを祀ったのかもしれない。


三石社全景 
 
磐座3基


◎水神社(末社)

 祭神--西真王水神

 三柱社・出雲大社教会先の山裾に鎮座する小祠(右写真)

 社殿に“西真王水神”との扁額がかかっているだけで、案内なく神格・鎮座由緒等は不明。

 この西真王水神が如何なる神かは不明だが、あるいは太古の昔、玉置山に鎮まっていた水の神(山の神でもある)で、玉置神社本来の祭神だったものが、国常立尊など記紀の神々を祀るに際して追われ、その後、本来の由緒などが忘れられた中で今の地に末社として祀られたのかもしれない。 


◎若宮社(末社)
 祭神--住吉大神・八幡大神・春日大神
 本殿の左に鎮座する小祠。

 今の祭神は住吉・八幡・春日の3太神となっているが、嘗ては天照大神も併せ祀っていたらしい(明治6年本殿に合祀)
 通常、若宮とは主祭神の御子神あるいは主祭神の荒魂(若く荒々しい神霊)を指すが、権現縁起には
  ・若宮  童子形 本地文殊 一鳥居に住す
  ・若宮は父相具足する子(子守神垂迹因縁に中に、父勝手明神が出雲国から子一人を相具足したとある)
とあり、勝手明神の御子神かと思われるがはっきりしない。
 社名・若宮と住吉以下の現祭神との係わりは不詳で、これら3神を祀る由縁は不明。

◎神武社(末社)
 祭神--速玉神(ハヤタマ)・高倉下神(タカクラジ)・迦具土神(カグツチ)
 若宮社の左に鎮座する小祠。

 今は速玉神・高倉下神・迦具土神とあるが、江戸時代までは神武天皇を祀っていたらしい(明治6年本殿に合祀)
 神武天皇が東征の途上、当地で祭祀を行ったという伝承に基づくもので、社名・神武社もこれによると思われるが、その神武社に速玉神以下の三柱を祀る由緒は不明。

 ・速玉神
   黄泉の国から逃げ帰ったイザナギが、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ・この世とあの世の境)で追ってきたイザナミに事戸(コトド)を渡したとき(縁切りを宣言したとき)、吐かれた唾から成りでた神で(書紀5段一書10)、熊野速玉大社(新宮)の主祭神。
 ・高倉下神
   神武天皇が熊野の地で難渋していたとき、夢告をうけてこれを救ったという地主神(在地の豪族)で、新宮の元宮とされる神倉神社の祭神。

 書紀・神武即位前記に、河内から熊野に迂回した神武が「佐野を越えて熊野の神邑(ミワノムラ)に至り、天磐盾(アメノイワタテ)に登った」とある天磐盾は、神倉神社の御神体である巨岩 俗称・ゴトビキ岩とされる。
 このように、熊野新宮の地は神武東征に関係が深いことから、新宮関連の神2座を祀ったものと思われる。
 ・迦具土神(カグツチ)
   イザナミ逝去の原因となった火の神だが、これが神武社に祀られる由縁は不明。

 
左:神武社 右:若宮社
 
若宮社

神武社 


◎大日堂社(末社)
 祭神(本尊)--大日如来(ダイニチニョライ)
 神武社の左前に鎮座する小祠だが、社頭に「金剛界 胎蔵界 大日堂社」との扁額がかかり、16弁菊花を浮き彫りにした扉があるだけで、鎮座由緒等の案内はない。扉は閉まっていて中の様子は見えない。

 権現縁起には「大日堂の事」として、
  「曩祖(始祖)役行者の草創也。則一躰は行者の自作、一躰は弘法大師の聖造也。
   行者記云 我大日如来の像を造らしめて、後世に及ぼす。再来重ねて之を造る云々
   已に弘法大師は再誕の聖者也(弘法大師は大日如来の生まれ変わりの聖者)
とあり、役行者が創建した堂社で、役行者および弘法大師が造った金剛・胎蔵両界それぞれの主尊・大日如来像2尊を奉安するといわれ、神仏習合時代の大日堂は、修験道行場である当寺の中心となる堂舎だったという。
 ただ、密教の主尊である大日如来を祀る当社が、神仏分離以降も境内に残った理由は不明。


◎神輿殿
 大日堂社の右にある堂舎。


大日堂社 
 
神輿殿


◎白山社(末社)
 祭神--菊理媛命(ククリヒメ)
 本殿背後の裏参道沿いにある小祠だが、社殿はなく巨大な磐座を御神体とする祠で、素木の鳥居の下に小さな祭壇が設けられ、「白石社」との表示があるのみ。
 祭壇背後の磐肌に縦に細長い窪みがあり、熊野・花の窟のご神体に似ている。これを女陰とみて菊理媛を祀ったのかもしれない。

 ・菊理媛
   イザナギとイザナミが黄泉比良坂で口論していたときに現れて仲介したとされる女神で、その後のイザナギの動きから禊ぎの神ともいわれ、白山比咩神社(石川・白山市)の主祭神・白山比咩の別名ともいう。
 この神が当社に祀られる由来、磐座を御神体とする由縁などは不明だが、白山信仰が全国に展開する中での勧請かもしれない。


御神体である巨大磐座 

磐座下の祭壇 
 
祭壇背後の窪み


◎山之神社(末社)
 祭神--大山祇神(オオヤマツミ)
 駐車場から参道分岐点の途中にある小祠だが、これも社殿はなく、切り立った岩山の下に小さな鳥居が立ち、小さな岩の上に山之神との表示があるのみで、鎮座由緒等は不明。


山之神社 
   
同・祭壇

 当社祭神の大山祇神とは
  ・古事記--イザナギ・イザナミの神生みによって生まれた山の神
  ・書紀--イザナミがカグツチを五つに切ったとき、その頭から成りでた山祇の神(5段一書8)
とある神で、天孫降臨神話では、天孫ニニギ命の后・コノハナサクヤヒメの父神という。

 ただ、この大山祇が当初からの祭神かどうかは不詳で、本来は玉置山に鎮まる山の神だったものに、何時の頃かに記紀の神である大山祇神を充てたのかもしれない。

 ・山の神
   一義的には山に坐す神だが、柳田国男が、
 「山の神は、春に田に降って田の神、冬には山に還って山の神になるという言い伝えが、ほとんど全国というほどにも弘く分布している。 
 山の神は、その働きからいって、耕種の営みを助けたまうのが主なる神徳で、山にはむしろ休息のために、冬期、用のない3・4ヶ月だけをお過ごしなされるように思われていた。
 本拠が山にあり、その働きがもっぱら家の稲作の成功を期するにあるということは、先祖がなった神・祖霊以外にはないと想像される」(山宮考・1947)
というように、生命・農耕に必要な水を司る水神の神格をも併せもつ神であり、それは子孫の幸せを見守る先祖の霊即ち祖霊とされる。
 (わが国には、死者の霊は子孫の供養をうけて浄化され、祖霊となって近くの山に鎮まり、子孫を見守るという考えがあった)

 これに対して、猟師・木樵など山を生活の場とする人々にとっての山の神は、文字通り、常に山に坐して樹木・獣などを含めた山全体を支配守護する神だが、一年に12人の子供を産むなど非常に生産力の高い女神とされる一方、山の禁忌を守る人には幸(獲物)を与え、これを侵す人には災いを与える信賞必罰の厳しい神でもあるという。

 当社の山の神は前者であろう。

◎出雲大社教玉置教会
 祭神--大国主命

 三柱社の右に隣接する教派神道系の教会で、当社HPには
 「明治維新の際、十津川郷中はすべて廃寺され、全村民が大社教に属したことから、その総元締めとして設立された」
とある。

 明治初年の神仏分離に際して、十津川村では廃仏毀釈が徹底し、それまで50余りあった寺は全て壊されたといわれ(神社に衣替えして残ったのが玉置神社)、寺に代わって葬儀等(神道形式)をおこなうために設立されたのが当教会であろう(今、村には明治以降に再興した一寺があるのみという)
 なお十津川村は、尊皇攘夷の旗を掲げて文久3年(1863・幕末)に蜂起して破れた天誅組に村民の多くが参加したように、尊皇思想の盛んな土地であったことも、廃仏毀釈が徹底した理由の一つかもしれない。

 出雲大社教(イズモオオヤシロキョウ、通称:大社教)とは、明治6年(1873)、出雲大社の大宮司・千家尊福(センゲタカトミ)が創設した教派神道(幕末から明治にかけて成立した神道系の新興宗教)の一つだが(祭神:大国主神以下7座)、上記案内からみて、当社との直接的な関係はないと思われる。

 
出雲大社教玉置教会(側面)
 
同・内陣 

◎社務所

 本殿の右、玉石山への登坂路沿いにある大きな建物で、社務所・台所が一体となった建物という。
 当社HPには
 「社務所・台所は昭和63年(1988)に国指定有形重要文化財となりました。
 江戸末期、神仏混淆であった玉置神社の別当寺であった萬年婁院の主殿及び庫裏として建立されたもので、神仏分離後は社務所・台所および参籠所として使用されました。棟札から文化元年(1804・江戸後期)の建立と判明。

 社務所は入母屋造銅板葺きで、桁行22m梁行15m、北面に玄関を設け、南面は懸造とし、地階には参籠所を備えています。
 台所は桁行9m梁行8.9m、屋根は銅板葺き、東面は入母屋造、西側は社務所に接続されています。

 上質な書院建築と参籠所を上下に複合された構造は、近世における修験道教団が作り出したものであり、社務所・台所ともに、わずかな改造を受けたのみで、古い様式を今に残しています」
とある。

社務所(西側より)

 境内には、上記以外に神楽殿・絵馬堂・鐘楼・和泉式部(1010参籠)後白河院(1157参籠)参籠記念塔などがある(時間に追われて写真なし)

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