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龍田坐天御柱国御柱神社
現社名--龍田大社
奈良県生駒郡三郷町立野南1丁目
祭神--天御柱命・国御柱命
付--神奈備神社(境外摂社)
                                                         2015.03.04参詣

 延喜式神名帳に、『大和国平群郡 龍田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗』とある式内社で、今は龍田大社と称している。

 JR関西本線・三郷駅の北約400m、駅北側の道を右(東)へ、小川(実盛川)手前の角を左折したすぐの右手に斜めに架かる橋を渡って直進、二股に別れた道を左にとって進んだ左側に朱塗りの鳥居が立つ。鳥居の前はちょっとした広場になっている。

※由緒
 境内に由緒等を記した案内はないが、社務所で戴いた由緒略記(以下、略記という)によれば、
  「今から約2100年前、第10代崇神天皇の時代、国内に凶作・疫病が流行し騒然としている中で、天皇の御夢に『吾が宮を朝日の日向う処、夕日の日隠る処の龍田の立野に定めまつりて云々』という御神託があり、その通りに御宮を造営すると疫病は退散し、豊作に成ったとあり、当社の創建と考えられます(延喜式・龍田風神祭祝詞より)
とある。

 略紀が注記する延喜式祝詞・『竜田風神祭』(タツタノカゼノカミノマツリ)には、概略
 ・志貴嶋宮で天下を統治されました天皇の御世、天皇が召し上がる穀物をはじめとして、天下の公民が耕作するものを、草の片葉に至るまであますところなく成育させず、しかも単に一二年のみでなく幾年にも亘って痛め損じたので、
 ・皇孫命は物知り人を集めて、これがどの神の御心によるものかを占わさせたが、占いによって神の名を知ることはできなかった
 ・そこで天皇が「吾は天社国社を問わず残らずお祀りしているのに、こういうことをなさる神は何方でしょうか」と祈願されると
 ・天皇の夢のなかに神が顕れ、「天下の公民の耕作するものすべてを、暴風洪水にあわせて成育を妨げ痛め損じた吾が名は、天御柱神・国御柱神である」と告げ
 ・「吾が前に種々の幣帛を整えて、吾が宮を朝日夕日の照り輝く場所である竜田の立野に定め営み、吾が前を祭るならば、天下の公民の耕作する五穀をはじめとして草の片葉に至るまで成育させ幸いならしめよう」と教え示された
・そこで天皇は、神の教えの場所に宮柱を定め立て神殿を造営してお祀りになった
とある(延喜式祝詞教本・1959)

 また、近年の資料・奈良県史(1989)には、
 「延喜式神名帳の平群郡20座中の筆頭に掲げられる当社は、今の龍田大社にあてられ、大和川北岸に近く、信貴山の南に連なる竜田山麓の東に鎮座する。
 祭神の天御柱神・国御柱神は伊邪那岐・伊邪那美二神の子神の風神志那津比古神・志那津比売神の別名で、二神とも天地自然を支える風の霊・風を司る神として、日本書紀・天武天皇4年4月10日「小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風の神を竜田の立野に祠らしむ」とあるが、延喜式の祝詞竜田風神祭の条には、志貴嶋に大八島知らしし皇御孫(崇神天皇)が、数年続きの五穀不作に竜田の立野にわが宮を祀るなら五雨十雨から守って公民の五穀を豊かにしようとの神託があり、風塵の社を創建したとある」
とある。

 これらは、いずれも数年に亘る凶作に悩んだ崇神天皇が、夢告によって禍をもたらす神の名を知り、その神託により神を祀ったのが当社の始まりとするが、これは、崇神紀に
 ・5年--国内に疫病多く、民の死亡するもの半ば以上におよんだ
 ・7年--天皇が八十万の神々を招いて占うと、夢に三輪山の大物主神が顕れて「わが子・太田田根子をして吾を祀らせたら天下は平らぐだろう」と告げたので、太田田根子を見いだして祀らせ
 ・別に八十万の群神を祀り、天社・国社・神地を定めた
 ・これによって疫病が収まり五穀は稔り天下は平穏になった(概略)
とあるのを承けた伝承としての創建由緒とみるべきであろう。

 この凶作・災禍が起こった時期について、略記は崇神朝というが、祝詞には“志貴嶋の宮で天下を治められた天皇の御代”とある。
 古く、志貴(磯城)の地に置かれた宮としては、10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(シキノミズガキノミヤ)と29代欽明天皇(539--71)の磯城嶋金刺宮(シキシマノカナサシノミヤ)とがある。

 略記が、当社の創建を崇神朝とするのは、この志貴嶋の宮を崇神天皇・磯城瑞垣宮とみたもので、大和志料(1914・大正3)は、
  「崇神帝の即位5年風雨相乗き五穀稔らず、加うるに疫病流行し人民多く夭亡す、帝以て神祇の所為となし、7年大いに諸神を祭り天社国社を定め、神地封戸を寄せること国史に見ゆ。
 今此祝詞に年月を言はざるも、其7年の創祀に係るものなること、復た疑を容れるべからす」
という。
 ここでいう崇神7年の創祀云々とは、上記したように、書紀・崇神7年11月13日条にいう天つ社・国つ社の中に、当社が含まれるとしたものであろう。

 これらは、記紀の記載が絶対とされていた時代の風潮を承けたもので、現在の知見からみれば、4世記(古墳時代前期)とされる崇神朝に、常設の神社があったとは考えられず(必要の都度、神籬などを設けての神マツリはあったかもしれない)

 祝詞に、“志貴宮”ではなく“志貴嶋宮”と明記することから、この天皇は磯城嶋(志貴嶋)金刺宮で天下を治められた欽明天皇とみるのが妥当で、祝詞教本は、この天災・災禍は欽明朝に起こったことという(但し、欽明紀にそのような記述はない)

 ただ、これらは当社創建に係わる伝承であって、これを以て創建年代を云々することはナンセンスだが、祝詞が志貴嶋宮と明記することは、延喜式が編纂された10世記初頭には、欽明朝創建と認識されていたことを示すともいえるが確証はない(神社の造営は、欽明朝の仏教伝来に影響されて6世紀後半以降に始まるというから、当社の創建を欽明朝あるいはそれ以降とするのが蓋然性は高い)

 一方、当社の正史上での初見は書紀・天武4年(676)条で、そこには
  「4月10日、小紫美濃王・小錦下佐伯連広足を遣わして、風神を竜田の立野(生駒郡三郷町立野)に祭らせた。小錦中間人連大蓋・大山中曽祢連韓犬を遣わして、大忌神(オオイミノカミ)を広瀬(生駒郡河合町川合)の河原に祭らせた」
とある。
 これは、龍田風神祭・広瀬大忌祭のはじまりを示すとともに、7世記中葉には当社が立野の地にあったことを示唆するもので、この天武4年を以て当社の創建とみる説(神社覈録・1876)もあり、天武朝の頃(7世紀中頃)の創建とするのも一考に値する。

 龍田・広瀬の両社に対する国家的な祭祀(風神祭・大忌祭)は、この後もほぼ毎年の夏(4月)・秋(7月)におこなわれ、
 ・神祇令(701・大宝元年)
   孟夏(4月)・孟秋(7月)に常例の祭として、大忌祭(広瀬大社-山谷の水が甘水となって水田を潤し五穀を稔らせることを祈る祭)・風神祭(龍田大社-風水の害がないことを祈る祭)を行う
 ・延喜式(927)
   四時祭  四月祭--大忌祭(オオイミノマツリ、広瀬社 七月之に準ず) 風神祭二座(龍田社 七月之に準ず)
   太政官  凡大忌・風神二座は四月七月四日之を祭る
   式部省  凡大忌・風神二座への遣使は王臣五位二人臣一人
とあるように、毎年、孟夏(夏の初め・四月・田植え前)と孟秋(秋の初め・七月・収穫前)の4日(4日が基本だが、年によって変動あり)に、五位以上の王臣各一人、六位以下の神祇官一人を遣わして奉幣したという。

 この風神祭・大忌祭について、書紀には、天武朝以降略毎年のようにその祭祀記録が記されているが(天武5年から持統11年までの21年間で27回を数える)、続く続日本紀(697--791の記録)にはその記録はみえない。
 しかし、上記のように10世記に成立した延喜式に風神祭についての詳細な記述があることは、文武朝(697--707)以降も恒常的に行われていたことを示唆している。

 このように、当社は広瀬大社とともに国家祭祀の場として重要視されていたが、古代朝廷があった飛鳥・藤原の都から遠い当地に、風神が祀られたことについて、久野昭氏は、その著・異界の記憶(2004)のなかで、
 ・わが国に吹く風に主要なものが二つある。ひとつは冬季、北ないし北西から吹く風で、もうひとつは夏期、南ないし南東から吹く風である。
 ・前者の呼称には地域差があるが、大和・出雲・伯耆などでは「アナシ」又は「アナジ」と呼ばれ、“シ”・“ジ”は風の意で、“アナ”は驚きや恐怖を示す(東北ではタマカゼと呼んだ)
 ・アナシは並の風ではなく、戌亥(西北)の方角に口をすぼめて思いっきり強く風を吹き出す神がいて、その口のなかで一旦密かに凝縮した気息を一気に吹き出して、草木を薙ぎ倒し舟を転覆させるような風である。
 ・柳田国男は、『西北から吹くアナシは悪風で、これを大和・和泉などで祀るのは風害を防ぐことが目的であったであろう。龍田広瀬の両社なども、その方角は都から西北に当たる処であり、大和で風神を祀った理由が、西北から吹く悪風を防ぐ為であったことは、ほぼ疑いない』といっている(大意)
として、当地に風神が祀られたのは、西北から吹く悪風・アナシから農作物等を守り豊穣を祈るためではないかというが、それは、当社由緒が“多年にわたって凶作が続いた云々”ということにも連なっている。

 当社にかかわる正史上の記録としては(持統朝以降のみ)
 ・聖武天皇天平2年(730)--龍田神神戸 稲430束8把 租10束 合440束8把(大倭国正税帳)
 ・光仁天皇宝亀9年(778)6月--参議正四位上左大弁藤原朝臣是公等をして広瀬・竜田二社に幣帛を奉り、
                       雨風調和して秋の稔り豊かならむことを祈らしむ(続日本紀)
 ・平城天皇大同元年(806)--龍田神神封三戸並大和国(新抄格勅符抄)
 ・文徳天皇嘉祥3年(850)7月--大和国龍田天御柱神・国御柱神・若宇加乃売神(広瀬神)に従五位上を加う(文徳実録)
 ・  同   仁寿2年(852)7月--大和国天御柱神・国御柱神・若宇加乃売神に従四位下を加う、
                       散位従五位下安宗王等を遣わして弊馬を奉る。祈年の為也(同上)
 ・  同    同      10月--大和国天御柱神・国御柱神・若宇加乃売神に従三位を加う(同上)
 ・清和天皇貞観元年(859)正月--大和国従三位広瀬神・龍田神に正三位を奉綬(三代実録)
 ・  同    同       9月--大和国広瀬・龍田神に使いを遣りて弊を奉る、風雨の為に祈りしなり(同上)
 ・  同   貞観12年(870)7月--大和国広瀬・竜田神に弊を奉りて、河内堤を築くに雨澇の患なからむ事を祈る(同上)
 ・陽成天皇元慶2年(878)7月--大和国広瀬・竜田の両社に、倉各一宇を造立、神宝を納めむが為なり(同上)
 ・  同   元慶3年(879)6月--使いを大和国広瀬・竜田に遣りて、神財(カムタカラ)を奉る(同上)
などの記録があり、当社が風雨の神として重要視されていたことを示している。

※祭神
 略記には
  主祭神名  天御柱神(アメノミハシラ)・国御柱神(クニノミハシラ)
   (別名)   志那都比古神(シナツヒコ)・志那都比売神(シナツヒメ)
  御神徳  天と地の間即ち大気・正気・風力を司る神様で風神と申し上げます。御神名の御柱とは《真の柱》の意味で「天地万物の中心の柱」と解釈され、別名の志那とは《息長》の意味で文字通り「気息の長く遠く吹き亘る」と解釈、つまり天地宇宙の万物生成の中心となる《気》を御守護くださる幅広い御神徳のある神様です
とある。

 しかし、記紀にアメノミハシラ・クニノミハシラ2神(以下、竜田神という)の名はみえず、その出自・神格は不詳。
 ただ、竜田の神を風神とするのは古くからのことで、式内社調査報告(1982)は、
 「記紀にいうシナツヒコは天御柱国御柱命の別名であり、二座とあるは比古神・比女神を指すものであろうか。
 乾坤を男女に例ふることもある故、天御柱命はシナツヒコ、国御柱命はシナツヒメとみるべきであろうか。
 ただ天御柱命・国御柱命の御名は、単なる風神としての御神徳だけにとどまらす、国家鎮護の神としての御神格を示すものと思はれる」
として、記紀にいう風神シナツヒコ・シナツヒメをこれに充てている。

 シナツヒコ命とは、イザナギ・イザナミが国生みを終えた時、
 古事記
  「既に国を生み終えて、更に神を生みき。・・・次に風の神・志那津比古神を生み、・・・」
 書紀
  「イザナギが『我が生める国、唯朝霧のみ有りて、薫り満てるかな』とのたまひて、乃ち吹き払ふ気(イキ)、神と成る。号(ナ)を級長戸辺命(シナトベ)と申す。亦は級長津彦命と申す。是、風神なり」(神代段一書6)
とある神で、いずれも風神という。

 記紀にシナツヒメとの名はみえないが、竜田風神祭祝詞に“比古神”・“比売神”とあることから、天御柱国御柱の2神は男女一対の神であって、比古神であるシナツヒコ(天御柱神)に対応する比売神をシナツヒメと名付け、これを国御柱神に充てたものと思われる。
 なお、書紀でシナツヒコの別名・シナトベ命が女神と思われることから(トベは女性を表すトメの転訛とするもの)、シナツヒメはシナトベ命のことともいえる。

 これに対して風神祭祝詞の注記には
 「天御柱・国御柱の神は並びます神で、風神であるが、とりわけ荒天の神、暴風雨的な神性がある。シナツヒコ・シナツヒメとは別の神であろう。柱は走るの意で暴風の疾駆する勢いを形容したものであろう」
とあり、シナツヒコ・ヒメとすることに疑問を呈している。

※社殿等
 朱塗りの大鳥居を入った広い境内の中央奥に拝殿(入母屋造・銅板葺)が東面して建ち、その奥、瑞垣に囲まれた一段高い区画が本殿域。
 本殿域は前後二つに区画され、後区画に本殿2宇(春日造・桧皮葺)が建ち、左に天御柱命(シナツヒコ命)、右に国御柱命(シナツヒメ命)を祀る。
 ただ、瑞垣が高く拝殿側から本殿の詳細は実見不能で、本殿域を左に回り込んだ瑞垣の連子窓からかろうじて屋根の部分が見えるだけ。

 
龍田大社・鳥居
 
同・拝殿

同・社殿配置図(栞より転写) 

同・本殿域正面
(中央の切妻は祝詞殿正面
その奥に本殿2宇が並ぶ)
 
 
同・本殿

 
同・本殿(栞より転写)
左--天御柱社
右--国御柱社

◎攝末社
 本殿域の前の区画の左(南側)に摂社2宇が北面して、右に末社3宇が南面して建つ(いずれも春日造・銅板葺)
 ・摂社祭神--左(東側):龍田比古命、右(西側):龍田比売命
   この2神が当地本来の地主神と思われることからの奉祀だろうが、当摂社を斑鳩町龍田にある龍田比古龍田比売神社(龍田神社)の元社とする説、逆に龍田神社から当社内に勧請したとする説がある(別稿・龍田比古龍田比売神社参照)
 ・末社祭神--西側:天照大御神・住吉大神合祀、中央:枚岡大神・春日大神合祀(藤原氏の氏神)、東側:高望王(桓武平家の祖)の妃
   この3社の勧請由緒・時期等は不明。

 
摂社2宇(向かって左側)
 
末社3宇(向かって右側)

 なお、社殿域の左(南側)に末社3社が鎮座する。
 社頭に掲げる案内には
 ・白龍神社
   「江戸末期に当社ご神域に白蛇として出現し、明治後期一夜にしてそのお姿が見えず当時騒然たりしも、明治41年春突如(葛城郡)“にごり池”に白龍として出現されし吉報により、当時藪宮司らが辛櫃を奉持しお迎えしてこの地に祭祀されたのが当社創建と伝わる」
 ・龍田恵美須神社
   「当社は寛元元年(1243)摂津国恵美須神総本社である西宮戎神社から御分霊を勧請し祭事を続けていたが、何時しか社殿も荒廃した。しかし恵美須信仰者の篤志により昭和62年11月、再び西宮恵美須神社より御分霊をお迎えした云々」
 ・三室稲荷神社
   「当社の創建鎮座は定かではないが、往古から三室稲荷さんとして商売を営む人々の信仰厚く云々」
とある。

 また境内の外、参道南側、朱塗りの柵に囲まれた中に小祠1宇がある。社名等の表示はないが、水はないものの池の中の島に鎮座することから、水神を祀る小祠で厳島社あるいは弁天社かと思われる。

 
白龍神社

龍田恵美須神社 
 
三室稲荷神社

社名不明社
(厳島社又は弁天社か) 

◎万葉歌碑
 拝殿前の右手、芝生の中に、当社を歌い込んだ万葉歌碑がある。

*難波に一泊して翌日帰って来た時の歌一首  高橋連虫麻呂(伝不詳)9-1751
 島山を い行き巡(メグ)れる 河沿いの 岡辺(オカヘ)の道ゆ 昨日こそ 我が越え来しが 
     一夜のみ 寝たりしからに 峰の上の 桜の花は 滝の瀬ゆ 散らひて流る
 君が見む その日までには 山おろしの 風な吹きそと うち越えて 
     名に負(オ)へる杜(モリ)に 風祭(カゼマツ)りせな

 

 (歌意)  島山(大和川に沿う山地)を行き巡っている 河沿いの岡辺の道を ほんの昨日 越えてきたのに
           たった一晩 寝ただけなのに 山の上の桜の花は 激流の瀬を 散って流れている
        あなたがご覧になる その日までは 山おろしの風が吹かないでくれと 龍田道を越えていって 
           風の神として名高い社(当社)に 風祭りをしよう  (万葉集-小学館鈑より)


【神奈備神社】(カンナビ)
 三郷駅から龍田大社への道の途中、実盛川を渡ってすぐの左側にあるこんもりとした小山の山頂近くに鎮座する。

 当社に関する資料はなく、鎮座由緒・時期等は不明だが、社頭に掲げる案内(三郷町教育委員会)には、
 「神奈備神社は龍田大社の末社で、神奈備とは神様が住む森という意味である。
 神南備・神名備・甘南備・神名火などの文字が使われているが、どれもカンナビと読む。山が平地に接する端山にある。
 各地にある神奈備で詠まれた万葉歌は22種あり、当地立野の神奈備も、三輪・飛鳥と共に有名で数首の歌が詠まれている」
として、万葉集から次の3首が引用されている。
 「神奈備の 伊波瀬の杜の喚子鳥 いたくな鳴きそ 吾が恋まさる」(鏡王女・2巻1419)
  (神奈備のイハセのモリのヨブコドリよ ひどくは鳴いてくれるな 恋しさが増すから)
 「神奈備の 磐瀬の杜の ほととぎす 毛無の岡に いつか来鳴かむ」(志貴皇子・2巻1466)
  (神奈備のイハセのモリの ホトトギスは ケナシの岡に いつ来て鳴くのだろうか)
 「神奈備に ひもろぎ立てて 斎へども 人の心は 守りあへぬもの」(読人知らず・3巻2657)
  (神奈備に ヒモロギを立てて慎み祈るが 人の心は 守りきれないものだ)
 なお、磐瀬の杜とは三郷駅の西50mほどにあるというが、今、ネット地図で見るかぎり、それらしき森はない。

 なだらかな坂道に接して小高い丘があり、これを神奈備山と称しているのだろうが、周囲は住宅地でその面影はない。
 道路横からの石段を登った上に朱塗りの鳥居が立ち、その奥、狭い境内中央に社殿が建つ。
 祭神等についての案内はなく不明だが、社殿内に鎮座する小祠の前に3本の幣帛が立っていることから祭神3座と思われるが詳細は不明。

 
神奈備山
   
神奈備神社・参道石段
 
同・鳥居

同・社殿 
 
同・内陣

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