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天河大辨財天社
奈良県吉野郡天川村坪内
祭神--市杵島姫命
                                                     2018.08.19参詣

 近鉄吉野線・下市口駅の南約18km、山上(大峰山・1719m)の西に位置する天川村の小丘上に鎮座する。
 下市口駅前から天河神社前への奈良交通バスがあるが本数少なく、利便性は悪い。

※由緒
 当社参詣の栞には
 「多聞院日記に
   『天川開山ハ役行者(エンノギョウジャ)  マエ立チノ天女ハ高野大清層都(弘法大師を指す)コレヲ作ラシメ給フ』
というのがあります。これは室町時代の傑僧・多門院英俊(1518--96)の天河詣での記録です。

 天河大辨財天社の草創は、この日記のような飛鳥時代の昔にさかのぼります。
 龍・水分(ミクマリ)の信仰で代表され、古代民俗信仰の発祥地とされる霊山大峰の開山が役行者によってなされたことは周知のことです。その折大峯蔵王権現に先立って勧請され、最高峰・弥山に大峯の鎮守として祀られたのが天河大辨財天の始まりです。

 その後、うまし国吉野をこよなく愛でられた天武天皇の御英断によって、壺中天の故事にしたがい、現在地・坪の内に社宇が建立され、ついで吉野総社としての社格も確立しました。

 更に弘仁年中、弘法大師の参籠も伝えられます。高野山の開山に先立って大師が大峯で修行された話はすでに明らかですが、修行中最大の行場が天河社であったのです。(以下略)
とある。

 また、当社南西約8kmに位置する弥山(ミセン)山頂(H=1895m)にあって、当社の奥宮とされる弥山神社の案内には、
 「大峯弥山は吉野熊野連峰の中央に君臨し、峯中75靡(ナビキ・行場)の54番目に評される全山原生林に覆われた荘厳なだらかな山として、神代から水の精・木の精・土の精などの神々が鎮まる神奈備として信仰され、2004年に世界遺産に登録された。

 弥山とは、宇宙の中心・万物の根源をなす須弥山(シュミセン)の略称であって、役行者が修験行場を開山、護国国家の神に祈ったところ天降る天女を弁財天感得せられ山頂に祀り、これが日本弁財天の初めとされ、弥山大神と崇められた。

 弁財天の神格は南北不二、胎蔵界金剛界不二の蘇悉地で、内証は不動、外用は天女を示し長寿福徳の利を与えるとされ、大峯修験者達は、見え隠れする険しい大峯奥駆道を歩き弥山を仰ぎ見たとき、人間が達しうる水平的な奥の極点ともいえる場として捉え、また水神信仰根源地として祈りを捧げた。

 近世には聖護院御殿や三宝院御殿を有し、大峯修験の宗教的権威の源泉として吉野熊野の奥院と称され、大峯本宮と位置づけられたが、明治の修験道廃止により、周辺一帯の御殿などは損なわれ、現在は昭和55年に造営された弥山神社・役行者堂が祀られている」
とある。

 これらによれば、当社は
 ・古代の弥山に対する素朴な山の神・水の神信仰に発し、
 ・飛鳥時代末頃(7世紀前半)に修験道が入り、役行者によって弥山山頂に修験道行場が開かれ、
 ・天武天皇の頃(7世紀後半)、弥山北西約8kmの壺の内(現在地)に勧請造営された里宮が、天河大弁財天社(弥山の奥宮に対して“口の宮”と呼ばれたという)の始まり、
 ・今は神社と称しているが、これは明治初年の神仏分離以降のことで、それまでの当社は琵琶山白飯寺(ビワサン ハクハンジ)と称する修験道行場であった、
となるが、
 天川村史(1981)は、
 「その創始は役行者が大峯開設の節に霊験を祈り、空海が千日参籠して弁財天が出現したことに由来するとも、また古代に弥山の山上にあった祠堂を現在地に遷したとも、種々の所伝があるが、何れも史実に遠いものであろう」
として、当社創建由緒には諸説があって確たるものはないという。

 江戸時代の白飯寺について、大和名所図会(1791)には
 「琵琶山白飯寺
 天川坪内村にあり。役行者大峯の険路をひらき給はんとして、先ず此山にして霊験を祈り給ひしに、岩窟に清泉わきながれ、神霊円光をかがやかす。廟には琵琶の響きありて、人心の迷雲をはらひしより琵琶山と号せり。
 其後 弘法大師ここに来たって千日の行法には弁財天女現じ給ひしかば、其尊像を彫刻し神霊を鎮め奉る。天川弁財天是なり。又宗像神祠とも崇む。天川荘二十一村氏神とす。
 正殿拝殿・御厨所・十二の小祠・四箇の怪石・三所の清泉あり。寺を妙音院とも号す。観音堂・地蔵堂・薬師堂・行者堂・護摩堂・二重宝塔・僧舎三宇あり。(以下略)
とある。

 右に示す大峯天河社の絵図には、小高い丘の頂に鎮座する本社の周りに懸造りの堂社数棟と、境内へ至る屋根付きの階段が描かれ、当社が険阻な山中にあることが強調されている。

大和名所図会・大峯天河社
(右上の山が「弥山」)

 当社の始まりとなる修験道行場を弥山に開いたという役行者(伝634--701)とは、続日本紀・文武天皇3年(699)年5月24日条に、
 「役行者小角(オヅヌ)を伊豆島に配流した。はじめ小角は葛城山に住み、呪術をよく使うので有名であった。韓国連広足の師匠であった。のちに小角の能力が悪事に使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流の罪に処せられた。
 世間の噂では『小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり薪を採らせたりし、もし従わないと、呪術で縛って動けないようにした』といわれる」
とあることから実在したことは確かと思われる。

 修験道は、古来からの山岳信仰に仏教(特に密教)・道教・儒教・陰陽道などが習合した神仏混淆の宗教で、その行者は深山渓谷に分け入って厳しい修行をおこなうことで除災招福・加持祈祷の験力を得て、それを以て衆生を救済することを目指すという。

 修験道は飛鳥時代あるいは奈良時代初期にはその萌芽があったといわれ、平安時代になると幾つかの修験者集団が形成され、それをひとつにまとめるために、鎌倉時代初期になって、役行者を開祖と仰ぐようになったもので、それは
 「本来開祖をもたない自然宗教が成立宗教化していくにあたって、その統合の象徴として作られた理念上の開祖が役行者ではないか」(役行者と修験道の歴史)
という。
 この点からみて、世に伝わる役行者の事蹟とは、その殆どが創作された伝承の域を出ず、当社が役行者開山とするのもそのひとつであろう。

 その修験道が修行の場として重視するのが、熊野と吉野間を駆け抜ける奥駆け修行で(抖擻トソウともいう。熊野から吉野へ至る峯入修行を順峰、逆に吉野から熊野へ至るそれを逆峰という)、その間に設けられた75ヶ所の行場(靡・ナビキ)は、今もって大峯奥駆道途上での修行の場とされている。
 この75ヶ所の行場のなかで熊野から数えて54番目に当たる行場(靡)が当社奥宮の弥山で、その里宮として開かれたのが当社とも考えられる。

 なお、鎌倉後期に筆写されたという“役優婆塞事”との縁起に
 「役優婆塞は、19歳から64歳になるまでの45年間にわたって、胎蔵界・金剛界の両部になぞらえた大峰山で法華経を読誦し、順逆33度の峰入りを行った」
とあり(役行者と修験道の歴史・2000)
 また、16世紀(室町後期)と推測される“役行者本紀”との開祖伝に、
  「役行者は、50歳のときに、熊野から吉野への順峰峰入り修行を行った」
とあり、そのとき修行した行場9ヶ所のひとつに『弥山』があり(同上)、これらが当社を役行者開山とする由縁かもしれない。
 しかし、両書共に役行者死後数百年経った後に成った文書であり、その内容は伝承の域を越えず信憑性はない。


 またHPは、弘仁年中(810--24)・弘法大師空海が当社に参籠したというが(3年間参籠したとする資料もある)、空海には『紀伊国伊都郡高野の峯にして入定の処を請け乞はせらるる表』との高野山下賜を願い出た上奏文があり(弘仁7年-816、6月19日付)、その中に
 「空海少年の日、好むで山水を渉覧せしに、吉野より南に行くこと一日にして、更に西に向かって去ること両日程、平原の幽地あり、名づけて高野と曰ふ。計るに紀伊国伊都郡の南に当る」
との一節があり、若い頃に大峯山中で修行したという。

 しかし、弘仁年間の空海は、唐からの帰朝(大同元年・806)後、一時期筑紫に留まったのち京へ帰り(大同4年・809)、真言宗開宗・高野山開山(・弘仁7-816)に奔走していた頃で、長期間京を離れる余裕はなかったと思われ、長期にわたって当社に参籠したというのは疑問がある。
 ただ、空海著とされる三教指帰(伝797)に、山岳修行時代の話として
 「あるときは大和金峰山で雪に降られて立ち往生し、・・・」
とあることから、空海が若い頃に大峯で修行したのは確かなようだが、その修行の地が当社であっとの確証はない。

 ここにいう「吉野から南行一日云々」との行路について、資料・天河(改訂版・1995)は、
 ・この当時、吉野・熊野を結ぶ奥駆け道はなかったが、吉野から大峯山上への峰伝いの修行路は開けていたかもしれない
 ・空海がいう吉野より南行一日云々というのが、この修行路を指すとすれば、
 ・彼は吉野から一日かけて山上岳から天川村の洞川の辺りに向かい、そこから天川の谷を西行し、大塔村の阪本、野迫村の柞原・陣ケ峯を経て二日がかりで高野山へ行ったとも思われるが
 ・他にも、金峯山・青根ケ峯から黒滝村の鳥住に出て、中戸から小南を超えて洞川に出るルート
 ・あるいは、扇形山・深川の旧道を通って天川村の川合に出て、坪内から天ノ川の谷を通るルート
など、幾つかのルートが想定されるという。
 いずれにしろ、空海は吉野から南行して現天川村(洞川の辺りか)に出て、天ノ川沿いに西行し、阪本の辺りから十津川沿いに南行して高野山へ入ったルートが想定されるものの確証はなく、まして、空海が天ノ川沿いにある坪内の地に琵琶山白飯寺を開いたというのも伝承の域を越えない。


 上記のように、大峯奥駆け道の開山あるいは琵琶山白飯寺の創建を役行者あるいは弘法大師空海に付託しているが、その裏付けとなる資料はない。
 これらについて、資料・天河には
 ・伝説によれば、大峯奥駆け道は修験道開祖の役行者が開き、一時中絶したあと理源大師・聖宝(832--909)が再興したというが、確証はない
 ・聖宝が吉野川に渡船を設けたことは伝記に明らかで、彼が生きていたころ、9世紀末から10世紀初頭に奥駆けが始まったと推定される
とある。

 理源大師・聖宝(832--909)とは空海の法統を継ぐ真言僧で、宇多天皇の帰依をうけ、東寺長者・僧正などの重職を歴任した高僧で、役行者に私淑して吉野の金峯山で山岳修行をおこなうとともに、参詣道の整備や仏像造立などで金峰山の発展に尽力した、といわれ(Wikipedia)、聖宝が開いた京都・醍醐寺(875)が後に当山派修験道の拠点となったことから、同派修験道の開祖とされる。

 理源大師聖宝の事蹟・伝承からみて、確証はないものの、修験道行場・弥山を実質的に開山したのは聖宝であって、それは早くとも9世紀末から10世紀初頭の頃で、その後に琵琶山白飯寺が創建されたとみても大過はないかもしれない。


 なお、案内がいう多聞院日記とは、奈良興福寺の塔頭・多聞院の院主が数代にわたって記した日記(1478~1618)で、戦国時代における貴重な資料というが、ネットで検索できた3巻・4巻には上記記録はみえず確認はできない(5巻に記載か)
 ただ、資料・天河によれば、多聞院英俊(1534--96の院主)は、当社について
 「天川開山は役行者 山号琵琶山 寺号白飯寺 マエ立ちの天女は高野僧都(弘法大師)之を造らしむ 仏士は弘法入定以後仮に化して之を作り給ふ 十五童子は彼所の竜王の作と申し伝ふと云々 
 七種の利生 一には舎利感得 二には御殿内の鈴の音 三には琵琶の音 四には異香をきく 五には御塩指す 六には白狐を見 七には白蛇を見る」
と記しているといわれ、
 「これは天河辨財天の功徳を示したもので、秘境天河は神仙天女の遊ぶ浄土であり、ここに参ずる善根勤修の信者らはこの他界に入るを許され かくて六根は清浄され 精気を授かって再び人間世界に還り 福利を得るというものである
 つまり大峯・高野登拝もここで兼ねられ、弁天神・竜王の祭祀に参ずるというものである」
という。

 また、案内がいう“壺中天の故事”とは、中国の史書・後漢書(5世紀中頃)にみえる
 ・後漢の時代、市場見回りの役人が、薬を商う老翁が店を閉めた後、傍らの壺の中にヒョイと入っていくのを見た。
 ・不思議に思った役人が、翌日、老翁を問い詰め、ついに壺の中に連れて行ってもらった。
 ・そこには荘厳を極めた玉殿があり、美酒と佳肴にあふれた、この世のものとは思えぬ別天地で、役人は暫し俗世を忘れて酒を酌み交わし、別世界に遊んだ。
との話で(大意)
 壺中天とは俗世を離れた別世界・仙人幽居の地を意味し、当社鎮座地が四方を山に囲まれ、西から南にかけて天ノ川が蛇行していることから、その天ノ川の蛇行に囲い込まれた地を“壺の内”と見立て、後漢書にいう別天地・壺中天の地に仮託したものであろう。
 ただ、当社が天武朝に創建されたことを証する史料はみあたらず、天武・持統の両帝が何度にもわたって吉野の地に行幸されたことに仮託した伝承であろう。


※祭神
 当社HPには
 ・市杵島姫命(イチキシマヒメ)
 ・熊野坐大神(クマノニイマス)
 ・吉野坐大神(ヨシノニイマス)
 ・南朝四代天皇の御霊(後醍醐天皇・後村上天皇・長慶天皇・後亀山天皇)
 ・神代天御中主神(アメノミナカヌシ)より百柱の神
とあるが、江戸時代までは社名にみるように弁才天を主祭神として奉祀していたと思われる。

◎市杵島姫命
 市杵島姫とは、記紀にいうアマテラスとスサノオによる誓約(ウケヒ)によって成りでた五男神・三女神(所謂・宗像三女神)の一柱で、福岡・宗像神社辺津宮の主祭神だが、その神格が水神・航海の守護神であることから、明治初年、当社が修験道行場から神社へと変わった時点で、それまでの祭神・弁才天に代えて同じ水神である市杵島姫を祭神としたものであろう。

 ただ古くから、弁才天と市杵島姫とは同じ水神ということからか同一神とする俗信があり、当社についても
 ・和州名所図(江戸中期)--宗像神祠と崇む 天川荘二十一村氏神とす
 ・大和志(江戸中期の地誌)--宗像神祠 坪内村にあり 天川荘二十一村共に祭祀・・・
                 域内に寺あり 琵琶山白飯寺妙音院と云う・・・
と宗像神祠とあることから、江戸中期には、弁才天・市杵島姫同一神説が広がっていたことが窺われる。

◎弁才天
 弁才天とは仏教の守護神である天部の一尊だが、元々はインドのサラスヴァティ-川を神格化した女神であることから、一義的には水の女神とされる。
 更に、水の奏でる“せせらぎの音”が、爽やかな音楽あるいは巧みな弁舌に通じることから音楽・芸能・弁舌才智の神(妙音弁才天)とされたが、水が豊穣をもたらすことから、室町時代に入ると、財宝を弁ずる(もたらす)神すなわち弁財天へと変貌し、その課程で、豊穣の神である食稲魂神(ウカノミタマ)・保食神(ウケモチ)などと習合して宇賀弁財天へと変貌するなど、人々に福財をあたえる神としての信仰が弘まったという(資料・天河)

 当社が弁才天を祀ったのは、その原姿が古代弥山の水神信仰に発することから、素朴な水の神の具体神名として水神としての妙音弁才天を充てたことによるもので、その時期について資料・天河には
 「この天河弁天社の成立年代を比定することは難しいが、江州・竹生島弁天の鎮座には遅れ、平清盛の安芸・厳島弁天の崇信により弁財天信仰が勃興した時潮に乗ったものであり、これら以降、則ち おおよそ源平合戦時代(12世紀後半)といえるかもしれない」
とあり、それの傍証として、笠置山之解脱上人・貞慶(1154--1213)の天河社参詣、嘉禎3年(1237)西大寺・叡尊上人の参詣といった伝承記録をあげ、鎌倉初期には天河に弁財天社ありと知られていたという。

 ここにいう竹生島弁天・厳島弁天とは、当社とともに日本三大弁天と呼ばれる社寺だが、これについて、渓嵐拾葉集所載の弁才天縁起(1318)には、
 「吉野天川は地蔵弁天で日本第一の弁財天、第二の厳島は妙音弁才天、第三の竹生島は観音弁財天」
と記され、
 これに江ノ島弁財天を加えた四大弁天について、金峰山秘密伝(伝1337・南北朝初頭)との古文書に
 「一には天河弁才天 法弁財を宗と為す、二には竹生島弁才天 義弁才を本と為す、三には江ノ島弁才天 訶弁才を宗と為す、四には厳島弁才天 弁弁才を本と為す。此我が国無雙勝地速成悉地霊所也
 此の中 今 天河弁才天則ち最初の本源にて 金峰熊野不二の妙体にして難思の勝地也」
とあり、鎌倉末期から南北朝初期(14世紀初頭)の頃には、我が国で著名な弁才天社の筆頭社とされていたことが窺われる。
 (ただ、三大弁天とは竹生島弁才天・厳島弁才天・江ノ島弁才天であって、四大弁天という場合に当社が含まれることが多い)

 弁才天の出現について、弥山神社案内は「役行者は大峯蔵王権現に先立って弁才天を勧請され云々」というが、一般には、役行者が金峰山山上で守護神を求めて祈願したところ、釈迦・観音・弥勒が相継いで現れたが、行者はその柔和な姿に満足せず更に祈り続け、最後に忿怒の姿いかめしい蔵王権現が出現したされ、そこに弁才天の名はない。

 ただ、役公徴業録(1758)との役行者伝に
 「68歳(700) 大峯で守護仏を求めると弁才天があらわれ、排すると天河にいき、・・・」
(役行者と修験道の歴史)、最初に弁才天が現れたが、女体であることから却けられて天河に退いたとあり、案内の記述はこれによるものであろう。

 修験道における当社について、金峰山秘密伝との古文書には、
 ・天河弁才天社は、吉野と熊野の中間に位置する金胎不二の勝地にして、吉野熊野宮と呼ばれ、
 ・高祖大師(弘法大師) 聖筆にて当社の額に吉野熊野宮と題す。
 ・大弁才功徳天女は、両部冥界の秘尊・蘇悉地(ソシッチ・祈願成就)の妙体であって、
 ・此れを信ずる者は寿命万歳に保ち、此れに帰する者は七福百世をもって、祈誓願望すみやかに成就す。
 ・本邦弁才天四処(竹生島・江ノ島・厳島・当社)のうち、当社・天河弁才天は最初の本源にして、金峰熊野不二妙体の勝地也
とある(原漢文・要点意訳)

 ここでいう金胎不二(両界は二つであって且つ一つであるとの教義)とは、吉野熊野一帯を大日如来の曼荼羅に見立て、吉野側を金剛界、熊野側を胎蔵界とする修験道教義によるもので、その両界の真ん中に鎮座する天河弁才天を以て両界を結ぶ尊仏とするものだろうが、修験道教義は理解困難で、金剛界・胎蔵界・金胎不二などといわれてもよく分からない。

 なお、当社に弁才天が祀られることについて、鎌田東二氏は
 ・当地の地形が壺の内であることはを換言すれば、壺=女陰の内にあることであり、水の聖地であるこの地に神仏習合した弁才天信仰が隆盛したのは当然の理といえ、
 ・また、本殿下に巨大な磐座があり、その磐座に自然の穴が開いており、その穴が地下水に通じていることからみて、風水的にいえば、此処は完全に龍穴・明堂の地である。
 ・本殿下に隠れた穴をもつ磐座は女陰の陰核にあたり、周囲の山と川は外隠唇にあたるといえ、とすれば、この地に弁才天を祀られたのは自然の理であるというほかはない。
というが(神と仏のトポロジー・日本の神々1995所収)、洞窟を万物を生み出す女陰とみるのは世界的なもので、鎌田氏の見解もそれを受けたものであろう。

*弁才天像
 弁才天の尊像には大きく3種がある。
 ・妙音弁才天--二臂で、磐上に座し左膝を立てて琵琶を弾いているもの(立像もある)
    金光明最勝王経(大弁才天女品)にみえる弁才天で、智恵・弁説・音楽などを掌るという(胎蔵曼荼羅図にも妙音菩薩として描かれている)
 ・八臂弁財天--八臂で、8本の手に弓・箭・刀・矟・斧・長杵・鉄輪・羂索を持ち(持ち物には諸説あり)、眷族である十五童子を侍らしている
 ・宇賀弁財天--八臂で、頭上に人頭蛇身の神像(宇賀神)を乗せたもの、人頭は通常は老翁を以てあらわされる
    中世の頃に生まれた尊像で、弁天と記すように財物・福徳を掌るという(宇賀弁財天に関する経典は、わが国で作られた偽経という)
 なお、これ以外の特殊な尊像として、稲荷信仰、特に吒呪尼天信仰(ダキニテン・茶枳尼院・茶吉尼天・吒天など異表示多し)と習合したものがある。

 宇賀弁財天の尊像にについて、経典には、
 「其の形天女の如し、頂上に宝冠有り、冠中に白蛇有り、其の蛇の面老人の如くして老人の眉白し、此れ即ち諸仏出世の毎に逢ひ奉り、衆生を利益すること年久しき瑞相也」
とあり、八臂には、弁財天とは異なって、鉾・宝輪・宝弓・宝珠・剣・棒・鑰(カギ)・宝箭を持ち、頂きに如意宝珠の円光があるという(異神・2003)

 当社蔵の弁才天像は、資料・天河所載の写真によれば、
 ・秘仏辨財天女像(下写真・左)
   裏弁天とも呼ばれ、60年ごとに開扉される八臂の秘仏弁財天像
   鳥居を象った宝冠をいただき、中に人頭をもつ白蛇が塒(トグロ)を巻き、弁財天の左右に毘沙門天神・大黒天神が、下部に宝珠をもつ十五童子が配されている。
 ・天河曼荼羅・大辨財天女像(下写真・中)
   出開帳などで一般に公開されたことから“御開帳仏”とも呼ばれ、頭上の鳥居の中にトグロを巻いた人頭白蛇が首をもたげている
   八臂それぞれの持ち物などは秘仏辨財天とほぼ同じだが、左右に毘沙門天と大黒天が、前に十五童子の小像が配され、上部には日月が輝き、2頭の白狐が疾駆している(下写真:中)
   (当社は天正14年-1586・慶安3年-1650・延享4年-1747など度重なる火災によって被害をうけており、その都度、社殿の復興浄財を集めるために、京都・大阪などで出開帳をおこなったという)
 ・大峯天川大辨財天(下写真:右)
   刷り物としての弁財天像で、頭上に鳥居がないことを除けば、御開帳仏とほぼ同じものをややコンパクトにまとめたもので(下写真:右)、今も社務所で一般に頒布されている(有料)
があり、いずれも頭上に人頭蛇身の宇賀神を載せ、傍らに十五童子を従えた宇賀弁財天像である(天川系弁財天ともいう)


秘仏・弁財天女像 
 
天河曼荼羅(御開帳仏)
 
大峯天川大辨財天(版画)
 
同上・頭部拡大
 
同上・頭部拡大
 
同上・頭部拡大
(宇賀神部分はつぶれているが
上部に人頭らしきものがみえる)

 これらは頭上に人頭蛇神の宇賀神を戴く弁財天像だが、天河系弁財天像の変種として
 ・天河秘曼荼羅-1(長谷寺能満院蔵)--琳賢法師筆(1546・室町後期)
   宇賀弁財天と稲荷吒呪尼天とが習合した特殊な曼荼羅で、頭上に三匹の白蛇頭を戴く十臂の蛇頭人身(宇賀弁財天の人頭が蛇頭に変わっている)の弁財天で、下から二人の女神に支えられ、左右に蛇頭人身神および十六体の童子を従え、上部に宝珠を戴く三つの山、下方に上半身裸の男女神二組と白狐2匹などが描かれている
 ・天河秘曼荼羅-2(長谷寺能満院蔵)--琢磨法師筆(室町後期と推測)
   基本的には天河秘曼荼羅-1と同じだが、頭上真ん中の蛇頭が狐頭(吒呪尼天)に変わっており、これも稲荷吒呪尼天と習合した弁財天像と思われる
などがある(資料・天河より)

 
天河秘曼荼羅-1
(長谷寺能満院蔵)
 
天河秘曼荼羅-2
(長谷寺能満院蔵)

同上・頭部拡大 
   
同上・頭部拡大

 なお、当社の弁才天像について、天川村史(1981)には

 「天川社の現本尊として、社殿の中間と脇間に各一組の弁才天像および十五童子像がある」
として右写真を載せ、
 その尊容について
 ・中間の弁才天像は像高106cmで、像内に「天正15年(1587・室町後期)11月作」との墨書がある
 ・その像は、玉顔嵌入りの寄木造りで、頭上に人頭蛇身の宇賀神および鳥居を乗せ、八臂の左手には宝珠・弓・槍・長杵、右手には剣・箭・鍵・輪宝を執っている
 ・彩色は拙劣な後補であるが、腹部には透けて当初の輪宝文様が認められる
 ・彫法もおおまかで、極度な簡略化と形式化による素朴な印象は否定できず、室町彫刻の素朴な面がめだっている
 ・天正15年という弁才天信仰の盛行した時期の、しかも本社の違像として無視できない作例といわねばならない
とある。  

 これらによれば、当社の御神体である弁才天は、頭上に人頭蛇身の宇賀神を戴く宇賀弁財天であろう(当社頒布の資料には『天河弁財天・宇賀神弁財天とも八臂弁財天とも言う』とある。)


◎その他の祭神
 熊野坐大神・吉野坐大神の具体神名は不明。
 古くは熊野権現(本地:阿弥陀如来)・吉野権現(本地:蔵王権現)と呼ばれていたというが、詳細不明。

 次の南朝四代天皇の御霊とは、南北朝争乱の時代、南朝方天皇4代の行宮が吉野に置かれていたことから(1336--92、途中一時的な京都還幸あり)、その天皇霊を祀ったものであろう(それに殉じた皇族・武将等の霊 を含むか)

 最後の天御中主神とは、天地開闢に際して最初に成りでた神(古事記)であることから、同神とそれに続く全ての神々を祀ったものらしいが、これらの神々が当社に祀られる由縁ははっきりしない。


※社殿等
 道路から少し入った処に朱塗りの一の鳥居が立ち、その先、朱塗りの橋を渡って境内に入る。
 狭い境内の正面に二の鳥居が立ち、すく後ろにある石段(途中に踊り場あり)を登った石垣上が社殿域。


天河大弁財天社・一の鳥居 
 
同・朱塗りの橋
 
同・二の鳥居

 石段を登りつめた上に接して拝殿が建ち、導線はそのまま拝殿内に導かれる。
 拝殿内は、本殿側正面に菊の紋章をつけた幔幕が張られ、その前に鈴が垂れただけの簡素な造りで、相対した土間には参拝者用の椅子が並んでいるだけで、余分な装飾等はない。


同・社殿域への石段
(石段上の社殿が拝殿) 
 
同・内陣(奥が本殿)

 社殿域は狭く且つ樹木が生い茂っていて、社殿全景の実見は不能だが、拝殿を出た裏手の瑞垣に囲まれた中に拝殿側面が、その奥に本殿の大屋根が見え、拝殿は入母屋造、本殿は流造の建物らしいが、詳細不明。


同・拝殿(側面) 
 
同・本殿
(見えるのは屋根だけ)
 
社殿-中央:拝殿、右:本殿

◎五社殿
 正面石段の踊り場左の細長い区画に鎮座する小祠・5宇。 
 傍らの案内には、
 「石段側から
  ・龍神大神    弁財天の化身なる龍神の神
  ・大将軍大神  八つの社の内、森本神社の祭神
  ・大日靈貴神(オオヒルメムチ)  天照大御神の御別名
  ・天神大神    菅原道真公
  ・大地主大神  琵琶山の地主守神」
とあるだけで、その勧請由緒・時期等は不明。


五社殿
(同じ造りの小祠が5宇並ぶ) 
 
大日靈貴社

 大将軍大神を祀る森本社とは、当社の境外にある関係8社の一らしいが詳細不明。
 境外8社とは、上記案内に、「この地は、四石・三水・八の社と言われ・・・」とある八つの社(下記)を指すが、当社の方の言では、いずれも境内にはなく、周囲の山野に点在するという。
 なお、大将軍神とは、陰陽道において方位の吉凶を司る八将神の一神で、この神が坐す方角(3年ごとに移動する)は凶とされるなと生活におおきな影響を与えたことから、嘗ての森本社には、この神に祈ることで凶を福に変える“方違え”の信仰(方角によって移動の吉凶を云々する信仰)があったのかもしれない。

◎行者堂

 祭神--役行者か

 本殿裏に始まる裏参道(石段)下にある小祠(右写真)で、狭い広場の反対側には鳥居が立ち一般道に接している。(参詣者が多くて全景写真は撮影できなかった)

 周囲に案内板等なく社格・鎮座由緒などは不明だが、堂中に役行者座像が安置されていることから、当社奥の院・弥山を開山したという伝承に基づいて役行者を祀る小祠であろう。




 

◎斎灯殿
 二の鳥居の左手の石垣下にあり、傍らの立札には
  斎灯殿  千年の灯
   中殿  大弁財天尊  市杵島姫命
   右殿  不動明王尊  火之迦具土命
   左殿  神変大菩薩尊
とある。

 内陣には、祭神3座に合わせて扉3間が付いた小祠が安置されており、中央扉の前に3本の幣帛が立ち、右の扉前には“大日大聖不動明王”との札をつけた祭具が立てかけてあった。

 案内なく鎮座由緒等の詳細は不明。千年の灯ということからみて、当社祭神に捧げる燈火を祀ったかと思われるが、斎灯殿祭神3座と燈火とのかかわりは不詳(火に関係するのはカグツチのみ)
 なお、神変大菩薩とは役行者を指し、寛政2年(1799・江戸中期)に光格天皇から贈られた諡号という。


斎灯殿 
 
同・内陣

◎天石
 五社殿前他二ヶ所にある磐座で、五社殿傍らの案内には
 「天石の云われ
  大峯弥山を源流とする清流は天の川にそそがれ、坪内(壺中天)で蛇行し、その形は龍をしのばせる。
  鎮座の神 琵琶山の磐座に弁財天が鎮まり、古より多くの歴史を存す。
  この地は『四石・三水・八の社』と言われ、
   四つの天から降った石
   三ッの湧き出た清水
   八ッの社
  に囲まれた処とされ、神域をあらわす。
  その内、三ッの天石を境内に祀る」
とある。

 天石4基の内、境内には
 ・五社殿前--簡単な瑞垣の中に鎮座
 ・正面石段の右--同上
 ・行者堂の右--白い紙垂(シデ)を下げた縄の下に小さな磐座がある。
          案内なく上記2基のような瑞垣もないが、上に紙垂が下がっているから、これが天石と思われるが確証はない
の磐座3基があるが、残る一基の所在地は不明。
 資料には社前を流れる天の川の中にも天石があるというが、県道から当社に入る橋の上から見たかぎりでは(バスより)、上流側に幾つかの転石がみえるものの、どれが天石なのかはわからない。

 
五社殿前 天石
 
同 左 
 
石段右の天石
 
同 左
 
行者堂右の天石?

 湧水三ヶ所--ネット資料によれば、大井・中井・上井の3基というが、社務所の方の言では「昔はあったが、今はない」という。
 八つの社--当社周囲の山野に点在する8社をいう。
   ネット資料によれば、舟丘社・谷口社・森本社・韋駄天社・聖天社・橋立社・大鳥居社・花折社の8社というが、これらの所在地等を記した資料はなく、神職の方に尋ねても「境内にはなく、周囲の山の各処に点在する」というだけで、詳細不明。

 なお上記以外に、一の鳥居の右、灌木を隔てて小さな稲荷社があるが、当社との関係は不明。


[付記]
◎天河大弁財天社と能
 当社が芸能の神として崇敬されたことに関係して、能面31面が所蔵されているという(他にも能装束等があるという)
 参詣の栞には、
 「弁財天が芸能の神様として早くから尊崇され、ずっと昔 悪霊を鎮めたり、祖霊を祀ったりするのに田楽がおこなわれていました。特に天河社には、弁財天八楽又は弥山八面とも申して、利生あらたかな楽舞が伝わっておりました。
 夙に平和の神・芸道の神として知られていた天河社には、後南朝初期、観世三代の嫡男・十郎元雅が心中に期することを願って能・唐船(トウセン)を奉納し、尉面(ジョウのメン・老人の面)を寄進しました。(以下略)
とある。

 十郎元雅が寄進した能面は『阿古父尉』(アコブジョウ)といわれる能面で、裏面には「唐船 奉寄進 弁才天女御宝前仁為 冗之面一面 心中祈願成就圓遊也 永享二年 観世十郎 敬白」との墨書があるという。
 永享2年(1430)頃の十郎元雅は、父・世阿弥とともに将軍義教から疎んじられた苦難の時代であったことから、再起を期して芸能の神である当社に能を奉納祈願し、その時使用した尉面を寄進したものであろう(2年後の永享4年に急死、暗殺されたともいう)


元雅寄進の阿古父尉面
(当社資料より転写) 
 
阿古父尉面
(能面集より転写)


◎南朝黒木御所跡
 境内の左、駐車場横の細い道を隔てて『南朝黒木御所跡』との一画がある。
 ゆるい石段を登った上、芝生を敷き詰めた小広場の一画に、「南朝北朝和解供養塔」との宝篋印塔が立っている(昭和55年建立)
 南北朝時代、後醍醐天皇以下4帝(南朝)は北朝側(足利幕府)に追われて吉野に逃れ、山中を点々としながら抗争を続けたといわれ、その仮御所(仮宮)が当地にあったとする伝承から設けられたものだろうが、黒木御所跡との伝承地は当地を含めて幾つかあり、当地に御所があった時期・沿革等詳細は不詳。
 なお黒木御所とは、製材していない生の木材(黒木)を用いて建てた“仮の御所”をいう(急造の御所の意)


南朝黒木御所跡・入口 
 
黒木御所跡
 
宝篋印塔

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