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十市御県坐神社
奈良県橿原市十市町
祭神--豊受大神
                                                                 2013.08.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国十市郡 十市御県坐神社 大 月次新嘗』とある式内社。社名は“トイチノミアガタニマス”と読む。

 近鉄橿原線・新ノ口駅(ニノクチ)の北東約1.4km、駅東を南北に走る国道24号線を北上、十市橋北詰交差点から東へ、県道152号線を約1kmほど進んだ北側の集落内に鎮座する。

※由緒
 社頭に掲げる由緒には、
  「御創建年次は不詳であるが、清和天皇貞観元年(859)正月27日に従五位上の神位を授けられたと記録にある。
 皇居が大和に在りし時、高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と当国六御県神社の一座として朝廷の尊崇が篤く、醍醐天皇延喜の制に大社に列せられ、祈年・月次・新嘗祭には案上に官弊を授かる。
 又古く、この地方に朝廷の御料地として、その供御の蔬菜の生育を祈願せられし如く、農業の守護神として広く崇敬をあつめ、社頭は殷賑をきわめた」
とある。

 当社は、大和国に設けられた6ヶ所の御県(ミアガタ)守護のために創祀された御県神社の一座。
 御県とは、延喜式の祈年祭祝詞(トシゴヒノマツリノリト)に、
 「御県においでになる皇神等の前に、『高市・葛木・十市・志貴・山辺・曾布と御名は申してお祭り申し上げますことは、この六つの御県に生育する甘菜辛菜の蔬菜類を持ち参り来たって、皇御孫命の長久の召し上がりものとして、召し上がられます故に、皇孫等のその恩賴に対する御礼として、皇御孫命の立派な幣帛を捧げ献ります』と申し上げます」(延喜式祝詞教本・1959)
とあるように、朝廷に蔬菜などを供給する朝廷直轄地(御料地)をいう。

 当社の創建年次は不明だが、書紀・孝徳天皇大化元年(645)8月5日条に、国司に対して
  「倭(大和)国の六つの県に遣わされる使者は、戸籍を造り同時に田畑を検地せよ」
と命じていることから、その当時、7世紀中頃にはあったかとも思われるが、確証はない。

 上記由緒は、正史上での記録として貞観元年(859)の神階授与を挙げるが、史料によれば、それ以前にも
 ・大和国正税帳(730)
   十市御県神戸 稲1052束 租20束 合1072束 用4束祭神 残1068束
 ・新抄格勅符抄が引く大同元年(806)(奈良時代以降、神社寺院に与えられた封戸の記録)
   十市御県神 二戸大和
との記録があり、8世紀にあったことは確かといえる。
 なお、由緒がいう神階授与記録とは、三代実録(901)・清和天皇貞観元年正月27日条にある、従五位下から従五位上への昇格記録を指す。

 また、後世の資料として、
 ・和州五郡神社神名帳大略注解(略称:五郡神社記・1446・室町初期)
   「帳に云う 十市御県坐神社 河辺郷十市村に在り。愚僕考案 草神野雷命(クサカミ ノツチノミコト)、大和国六郡御県神社の内也 県府に在り。又考、県府に県主神社有り、即ち鴨主命事代主命長男也、亦曰天日方命 是中原連等の祖也」
 ・大和志(1734・江戸中期)
   「十市御県坐神社  十市村東に在り、今十三社と称す」
があるが、十三社がどのような神社かは不明。

※祭神
 祭神・豊受大神について、由緒には、
  「御神徳  豊受大神さまは、伊勢神宮・外宮に御鎮座の豊受毘売神(トヨウケヒメ)・保食神(ウケモチ)・食稻魂神(ウカノミタマ)とも申し上げ、五穀(稲・麦・豆・粟・稗)を生育せられ、日本書紀には、この神がアマテラス大神に五穀の種子を奉られ、大神は、更にその稲穂を神勅とともに皇孫に授け給うたと伝えられる」
とある。

 トヨウケヒメとは、古事記によれば、火の神・カグツチを産んで病臥したイザナミの尿から生成したワクムスヒ(若々しい生成力をもつ神)の子(娘)(書紀--ワクムスヒはカグツチの子として登場するが、トヨウケヒメの名はみえない)、“ウケ”が食物を意味することから、食物を掌る女神とされ(トヨは美称)、天孫・ニニギ尊に従って降臨したといわれ、一般には、伊勢外宮の祭神とされている。

 トヨウケヒメの別名とするウケモチとは、書紀・一書11に登場する神だが(古事記には見えない)、その出自は不明。ウケモチ神とは“体内にウケ(食物)を持つ神”であり、“食物を司る神”を意味するという。

 また、ウカノミタマとは、古事記ではスサノヲがオオヤマツミの娘・オオイチヒメを娶って生んだ子とされ、書紀(一書6)ではイザナギ・イザナミの神生みによって生まれた神という。“ウカ”が“ウケ”と同じく食物を意味することから、食物の神・特に稲の神とされる。

 このように、 トヨウケヒメとウケモチ・ウカノミタマとは出自が異なり、本来は別神とみるべきだろうが、一般には、同じ食物神・穀神であることから同神とみなされている。

 上記由緒では、書紀に“トヨウケヒメがアマテラスに五穀の種を奉ったとある”というが、書紀にそのような事績はない。
 食物(作物)の起源を語る神話は、ハイヌヴェレ神話()をはじめとして世界中に数多く残されているが、記紀には、オオゲツヒメを主人公にするもの(古事記)、ウケモチ及びワクムスヒを主人公とするもの(書紀)の三つの神話が残されている。
 そのうち、日本書紀・神代紀一書11には、
  「アマテラスが月夜見尊(ツクヨミ)に、『葦原中国に居るウケモチ神がどんな神か行って見てこい』と命じた。ツクヨミが訪れると、ウケモチは、口から米飯や魚・獣肉などを吐き出して料理し、食べさせようとした。
 それを見たツクヨミは、『口からはき出したものを食べさせようとするのか』と怒って、剣を抜いてウケモチを斬り殺してしまった。そのことをアマテラスに報告したら、アマテラスは怒ってツクヨミを夜の世界に追放した。
 その後、アマテラスは天熊人(アマノクマヒト)を遣わしてウケモチの様子を見にやられた。すると、死んだウケモチの頭から牛馬が生まれ、額には粟が、眉には蚕が、眼には稗が、腹には稲が、陰部には麦・大豆・小豆が生えていた。
 アマノクマヒトがそれらを持ち帰ったところ、アマテラスは『これらは人民が生きていくのに必要な食べ物だ』として、粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とされた」(大意)
との説話が記されており、殺されたウケモチの死体から食物が生まれたという。

 このように、食物を生まれたのはウケモチの死体からであって、そこにトヨウケヒメは登場しない、というより、トヨウケヒメに食物生成に関する神話はない。由緒は、トヨウケヒメとウケモチとを異名同神とすることからの記述だろうが、それにしても正確さを欠く。

 なお、書紀には、天孫降臨に際してアマテラスが、天孫ニニギに扈従するアメノコヤネ・フトタマにむかって、「高天原にある斎庭(ユニワ)の穂(神聖な稲穂)を、わが子に与えよ」と勅したとあるが、ここでもトヨウケヒメは出てこない。

 当社が朝廷への食物供給に係わる御県に坐す神社であることから、食物神のなかで最も格が高い(伊勢外宮の祭神)トヨウケヒメを祀るのは理にかなっているともいえる。
 しかし、これが当初からの祭神かとなると疑問もある。

 当社祭神について、トヨウケヒメ以外に次の異説がある。
 ・草神野雷命(クサカミ ノツチノミコト)
   五郡神社記にいう異説(上記)で、大和志料に、
  「古語に大野原に生える物は甘菜辛菜と称すれば、野雷命(ノツチ)を御祭神として祭れるものなるべし」
とあるが、ノツチ命の出自・神格など不詳。
 また、野原に生えるものを甘菜辛菜というから、祭神はノツチ命というのも短絡すぎて、この異説を採りあげる要はあるまい。
 ・大目命(オオメ)
   社伝にいう説のようだが、特選神名牒(1876・明治初年)
  「今按ずるに、社伝に祭神大目命とあれど、古書に此の神名みあたらず。尾張国山田郷佐渡羽茂郡に大目神社はあれど別神なり。且つ、御県神はトヨウケヒメ神なるべく思はるれば、今社伝に従わず」
として、採用していない。また今、ここでいう社伝なるものはないという(式内社調査報告)
 なお神名牒がいう尾張国の大目神社は、現愛知県瀬戸市にある大目神社と想われ、その祭神はアメノオシホミミ以下で、社名・大目は、地名から来たものらしい。

◎祭祀氏族
 当社祭祀氏族は“十市県主”というが、その実像はよくわからない。

 五郡神社記が引用する系図によれば、事代主命を始祖とする氏族で、
  事代主命--鴨主命(亦曰天日方命)--大日諸命(春日県主大社祝部)--大麻(大間)宿禰(春日県主)--春日日子(春日県主)
    --豊秋狭太彦--五十坂彦(孝昭天皇御世春日県を改め十市県と云う、五十坂彦を県主と為す)--大日彦(十市県主)
    --倭絙彦(中原連・山代石辺君等祖、十市県主)
とあり、これによれば大神氏(ミワ)と同祖となるが、その信憑性は低く偽書ともいう。

 日本書紀(岩波文庫版)に記す磯城県主・春日県主・十市県主にかかわる補注によれば、大略
 ・磯城県主など3県主一族は綏靖天皇以下6代の皇妃となったという伝承をもち、古くからこれらの県主の祖が朝廷と密接な関係をもっていたことが窺われる。
 ・磯城県主は、奈良県磯城郡にある式内・志貴御県坐神社の鎮座地付近を中心として、後の城上郡・城下郡に勢力を持った古代豪族で、十市県主とは同族とも考えられている。
 ・十市県主は、十市郡の十市御県坐神社の鎮座地付近を中心に勢力を持っていた豪族で、磯城県主から分かれたものといわれている。
 ・五郡神社記所引の十市県主系図によると、十市県主・五十坂彦の譜に、孝昭天皇の時代、春日県が十市県に改められたとあり、十市県主系図では春日県主につなげて十市県主と記している
 ・普通、春日県主の本拠は大和国添上郡と考えられているが、春日県が大和の六御県に加わっていないことから、十市県主系図に記されているように、春日県が十市県に改められたか、あるいは春日県主氏が磯城県主又は十市県主に併合されたかいずれかによって、かなり早く消滅したことは事実であろう。
 ・十市県主系図などの記録をそのまま信ずるわけにはいかないが、何らかの古い伝承が系図に残されていると思われる。
 ・これら県主氏と天皇家と間に婚姻関係があるのは、5世紀以前の大和朝廷が、磯城県主などの祖である周辺地域の小国家の首長を制圧し、彼らと密接な関係を樹立させていたことを示すものか、
 ・あるいは、大和朝廷がこれらの小国家を充分制圧しきれなかったことが、磯城県主などとの独自の婚姻関係として現れているのか、そのいずれであるかはわからないが、
 ・いずれにしても、これらの豪族はかつては大和の地で大和朝廷とならぶ勢力を保っていた小国家の首長たちであったということができる。
という。

 これによれば、当社祭神はトヨウケヒメというより、在地の古代豪族で十市御県を管理した十市県主一族が、その祖(遠祖・事代主又は鴨主命あるいは十市県主の祖・五十坂彦など)を祀ったとみることもできる。

 なお、書紀・綏靖から孝霊天皇までの皇妃記録の中に、一書に曰くとして、磯城・春日・十市県主出身の皇妃10名の名があり、その中に春日県主・十市県主の女として
 ・綏靖天皇--春日県主大日諸の女・糸織媛
 ・安寧天皇--春日県主大間宿禰の女・糸井媛
 ・孝安天皇--十市県主五十坂彦の女・五十坂媛
 ・孝霊天皇--十市県主倭絙彦の女・真舌媛
の名がある。
 ただ、これらの天皇の実在が疑問視されていることから、これを史実とみるのは疑問で、伝承とみるべきであろう。

※社殿
 住宅地のなか東西に長い境内の西橋に入口があり、「式内大社十市御県座神社」との石標が立つ。
 参道を入り左に折れたところに鳥居が立ち、境内に入る。鳥居の神額には“豊受大神”とある。
 参道左に“鏡池”と称する小さな池があり、500年以前からのもので、旱魃の際、水を替えると雨が降ったとの伝承があるという。
 境内東部・玉垣に囲まれたなかに拝殿(切妻造・千鳥破風付き向拝あり、瓦葺)が、その奥、少し離れてた石垣の上が本殿域で、朱塗りの鳥居・塀の奥に朱塗りの本殿(春日造・銅板葺)が鎮座するが、廻りの白壁が高くよく見えない。

 
十市御県坐神社・社標
 
同・鳥居
 
同・拝殿
 
同・本殿域正面
   
同・本殿

◎末社 
 境内左手に末社が並ぶ。奥から
 ・五社神社--菊理日女命・熊野大神・広幡八幡神・春日四柱神・大日靈女貴命--春日造・朱塗
 ・八幡神社--品陀和気命--春日造小祠
 ・八坂神社--素盞鳴命--同上
 ・玉津島神社--衣通郎女--同上
 ・金刀比羅神社--大物主命--磐座2個(昔は木造社殿があったという)
 これ以外として、境内右手に稲荷社がある。


末社・
左から玉津島社・八坂社・八幡社 
 
末社・五社神社
 
金刀比羅社

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