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等彌神社
奈良県桜井市谷
 祭神--天照皇大神
                                                                    2014.07.28参詣

 延喜式神名帳に、『大和国城上郡 等彌神社』とある式内社。
 延喜式には城上郡とあるが、明治以前は十市郡に属していたという。これについて、大和志(1734・江戸中期)
  「等彌・若桜・安倍は式に城上郡に在りと載す。蓋し十市城上二郡犬牙相雑す。故に界明らかならず。・・・」(漢文意訳)
と記し、桜井町史(1954)は、
  「安部山以東から鳥見山西麓にかけての地域が十市郡に編入された時期を平安末期と推定」という。
 社名は“登美”とも記し、いずれも“トミ”と読む。

 JR桜井線・桜井駅(近鉄大阪線・桜井駅)の東南約1km、駅南を東西に走る国道165号線を東へ、薬師町交差点を右折し県道37号線(桜井吉野線)を南下、西側にある市立図書館の向かい側(東側)、鳥見山(H=245m)西麓の深い森の中に鎮座する。

※由緒
 社務所で頂いた参詣の栞によれば、
  「鳥見山の西麓に鎮座する当社の歴史は古く、10世記前半に制定せられた延喜式の神名帳にすでに記載があります。千数百年の悠久の歴史と伝統を有するとともに、昭和15年の紀元2600年当時には、旧村社から県社に列せられ、爾来、地元桜井は元より、全国的な崇敬に預かる県下有数の古社にして名社です」
とあるが、当社に対する神階綬叙・神戸等の記録等は見えず、創建時期等は不明。

 当社は、古く鳥見山(H=244m)への登頂口にあたる当社背後の斎場山にあったようで、社蔵の社記・蒐覧東光寺記写に
  「天永三年(1112・平安後期)五月、雨水害甚だしく斎場山崩壊、其の害を蒙り堂宇と谷埋まる。此歳悪疫流行極めて甚だし。之に拠り同年九月五日神社を山の尾に奉遷」(漢文意訳)
とあり、また同じく遷宮文書(1875・明治8)
  「天永三年九月五日再建社記、後天文度再建、宝暦天保享和嘉永度修繕、又明治八年(1875)再建、同十月一日陰暦九月五日良辰を選定」
とあるように、平安後期の天永3年に鳥見山西麓の現在地に遷座、その後も再建修理をかさね、明治8年に新たな社殿が再建されたという(式内社調査報告・1982)

 当社は今、式内・登彌神社(登美神社とも記す)に比定されているが、嘗ては、
 ・大和志(1782・江戸中期)--等彌神社 桜井谷邑に在り。今能登宮と称す
 ・桜井村役人から公儀に提出された屋根葺替書類入袋の上書き(1850・江戸後期)
    --旧名登美之神社 安永9年(1780)も壱袋あり。当時能登社拝殿屋根葺替猶又同村薬師堂(式内社調査報告)
とあるように、能登宮(社)と呼ばれており、
 ・下ツ尾社の北側境内地に能登寺(勧進検断目録記載)と称する神宮寺があったといわれ、その地から出土した鎌倉~室町時代の軒瓦に当社神紋と同じ巴紋があり、当社が能登社と呼ばれていたことを示唆する(桜井市史・1979))という。

 式内・等彌神社は、境内の奥まった処に鎮座する上ツ尾社と、入口に近い下ツ尾社を以て構成されていたようで、今は上ツ尾社を以て等彌神社本社とするが、明治8年までは下ツ尾社が信仰の中心だったという。

 今、上ツ尾・下ツ尾両社の関係は本社と境内社らしいが、大和国郷村社取調帳(明治7年・1874、奈良図書館蔵)に、
  当国第四大区十五小区十市郡桜井駅
   鎮座  字能登山
   式内  等彌神社
   祭神  大日孁貴命--上ツ尾社祭神
    同   誉田大明神(八幡神社)
        春日大明神(春日神社)--この2座は下ツ尾社の祭神
とあるように(式内社調査報告)、明治初年頃までは上ツ尾・下ツ尾両社を合わせて式内・等彌神社としていたが、その後、
 ・明治25年(1892)の明細帳では下ツ尾の八幡・春日両社は境内社とあり、
 ・明治7年から同25年の間(明治8年の再建時か)に現在の姿(下ツ尾社は境内社)になったと思われる。

※祭神

 参詣の栞には、
  上社(上津尾社)--天照皇大神(大日孁貴尊)
  下社(下津尾社)--右殿:八幡社--磐余明神(神武天皇)・品陀和気命(応神天皇)
               左殿:春日社--高皇産霊神・天児屋根命
とあるが、諸資料には、
  上ツ尾神社--大日孁貴命(オオヒルメムチ)
  下ツ尾神社--誉田別命(ホムタワケ・八幡大神)・春日神
とある。

 これによれば、当社本来の祭神は大日孁貴命で、それが後になってアマテラスへと呼称が変わったと思われ(古く、アマテラスは私祭禁止であったことから、変わったのは戦後であろう)、他は後に勧請された神々だろうが、その勧請由緒・時期等は不明。下ツ尾社の祭神は、中近世に流行した八幡神・春日神信仰をうけての勧請であろう。

 大日孁貴命とは、書紀によれば(5段本文)、国生みを終えたイザナギ・イザナミが「天下の主者(キミタルモノ)を生もう」と語り合って、最初に生んだ日の神の名が大日孁貴で、「一書に天照大神といふ」との注記があるようにアマテラスの別名であるから(古事記は全てアマテラスで統一され、オオヒルメムチの名はない)、今の当社が天照皇大神とするのは間違いではないが、天照大神と大日孁貴命では若干の相違がある。

 日孁(ヒルメ)は日女(ヒルメ)と同じともいわれ、ヒルメが日の女(ヒノメ)・日の神に仕える巫女(日神の妻)を指すことから、大日孁貴命とは大王家が奉齋する日の神に仕えた最高位な巫女であり、それが神格化して日の神と一体化し(祀る側から祀られる側へ転身)、高天原に君臨する皇祖神・アマテラスへと昇華したともいう。

 ただ、当社が大日孁貴命を祀った由緒は不明で、あるいは、当社の祭祀氏族(氏族名は不明だが、等彌・登美との社名からすれば登美連かもしれない)が奉祀していた日の神に仕えた日女(ヒルメ)が神格化し、これに大日孁貴命を充てたのかもしれないが(古くは、各氏族それそれが日の神信仰をもっていたという)、推測に過ぎない。

 異論として、祭神を物部氏の遠祖・饒速日命(ニギハヤヒ)とする説があり、特選神名牒(1876)は、
  「新撰姓氏録に、登美連(トミノムラジ)は饒速日命(ニギハヤヒ)六世孫・伊香色乎命(イカガシコオ)之後也とみえ(左京神別)、古事記に饒速日命は登美毘古(トミビコ)の妹・登美夜毘売(トミビメ)を娶るとあるときは、登美連の祖・饒速日命なることは著ければ、今決めて記せり」
という(皇学叢書所収の神名帳享保本-1723-にも「饒速日命を祀る」との注記がある)

 これは、社名の等彌が登美とも記されることから(いずれもトミと読む)、当社を登美連関連の神社とみて、その遠祖・饒速日命を祭神とするものとおもわれ、一考に値するとはいえ、それを証する史料等はない(参詣の栞に登美連は出ていない)

※社殿等

  道路から鳥見山麓までの広い境内に、本社・上ツ尾社と下ツ尾社以下の境内社9社が散在し、他に万葉歌碑・文化人の歌碑・句碑等13基が立っているという(参詣の栞)

◎上ツ尾社(本社)
 鳥居を入って長い参道を進み、二股に分かれた左参道を進んだ先、両側に朱塗りの手摺りがある石段を登った上が上ツ尾社の境内。広い社域の東北隅に当たる。

 境内の東側に堂々たる拝殿(入母屋造・千鳥破風向拝付・銅板葺)が、その奥、石垣の上・瑞垣に囲まれた中が本殿域で、中央に本殿(一間社流造・銅板葺)が、いずれも西面して鎮座する。


等彌神社・境内図(栞から転写)
 
上ツ尾社へ至る石段
 
上ツ尾社・拝殿
 
同・本殿

◎下ツ尾社
 鳥居を入り参道を進み、参道が二股に分かれる分岐点の右側疎林の中、石垣上の境内に下ツ尾社が北北西面して鎮座する(鳥居は北面)

 境内中央に拝殿(切妻造・瓦葺・壁:吹き抜け)が、
 その奥、石垣上の透塀に囲まれた本殿域の
 右側--八幡神社(祭神:品陀別命)--元は磐余明神(神武天皇)と称したという
 左側--春日神社(祭神:天児屋根命)--元は“結びの宮”と称し、高皇産霊神を祀っていたという
が鎮座する。
 社殿は両社とも春日造銅板葺。

 
下ツ尾社・鳥居
 
同・拝殿
 
同・社殿全景(西側より)
 
同・春日社
 

同・八幡社 

◎境内社
 上ツ尾社の左、鳥見山への登頂路を左に入った所に
  ・桜井弓張神社--桜井弓張皇女(敏達天皇第7皇女)・春日造銅板葺
  ・国龍社--祭神不明(水神か)・流造銅板葺
  ・桜井稲荷神社--宇賀之御魂神・切妻造銅板葺
 下ツ尾社社殿の左
  ・恵比寿社--事代主神・流造銅板葺
 同じく参道脇
  ・愛宕社--祭神不明(火の神か)・流造銅板葺
  ・金比羅社--祭神不明・立石2基
 同鳥居前
  ・猿田彦神社--猿田彦神・石碑-前に朱塗りの鳥居が立つ
 参道左手
  ・桃神舎--祭神不明(気がつかず参詣せず)
かある。


桜井弓張社 
 
国龍社
 
桜井稲荷社
 
恵比寿社
 
愛宕社
 
金比羅社
 
猿田彦社・鳥居

同・石碑 

◎鳥見山霊畤(レイジ)
 鳥居右の植え込みのなかに「鳥見山霊畤」との石柱が立ち、境内・上ツ尾社の左にも同様の石柱が立っている。
 なお、当社の少し南に「神武天皇聖蹟 鳥見山中霊畤顕彰碑」(昭和11年建立)との石柱があるという。

 霊畤・レイジとは“マツリの庭”を意味し、書紀・神武天皇4年春2月条に、
  「詔して『わが皇祖の霊が天から降り眺められて、我が身を助けて下さった。今、多くの敵はすべて平らげて天下は何事もない。こそこで天神を祀って大孝を申し上げたい』と。
 神々の祀りの場(霊畤)を鳥見山の中に設けて、そこを上小野の榛原(ハリハラ)・下小野の榛原という。そして皇祖天神(高皇産霊尊)を祀った」
とあり、神武天皇が鳥見山山中に設けて天神を祀ったマツリの庭(霊畤)を当地でのこととしたもので、幕末頃から顕彰運動が盛り上がり、昭和15年(1940・皇紀2600年)7月の官報で、旧城島村から桜井町にまたがる鳥見山付近に決定したという。

 これは昭和初期に興った皇国史観の盛り上がりのなか、皇紀2600年奉賛事業の一環として決定されたものだが、鳥見山霊畤候補地は当所以外にも宇陀郡榛原など数カ所があるという。
 鳥見山を神武天皇の霊畤とするのは、天皇の実在が疑問視されている今ではナンセンスなことだが、当時の世情を知る手がかりともいえる。

 今、鳥見山へは上ツ尾社拝殿左手の朱塗りの鳥居を入り、少し進んで右に折れた山道を(直進すれば・弓張社・稲荷社)国龍社前を通りすぎて、案内表示に従って山道を進み頂上へ至る。頂上まで約1000m。
 途中の霊畤拝所(約110m・石碑あり、この辺りが斎場山らしい)・庭殿・白庭山(石碑あり)を経た頂上には“霊畤”と刻した石碑があるという。暑さのため拝所まで行って撤退。

 
鳥見山霊畤・石柱

鳥見山登頂口
(拝殿左手にあり) 
 
鳥見山案内表示
(山道の各所にある)
 
霊畤拝所・石碑

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